最後の晩餐

2018年03月 11日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書26:17~29
26:17 さて、種なしパンの祝いの第一日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越の食事をなさるのに、私たちはどこで用意をしましょうか。」
26:18 イエスは言われた。「都に入って、これこれの人のところに行って、『先生が「わたしの時が近づいた。わたしの弟子たちといっしょに、あなたのところで過越を守ろう」と言っておられる』と言いなさい。」
26:19 そこで、弟子たちはイエスに言いつけられたとおりにして、過越の食事の用意をした。
26:20 さて、夕方になって、イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた。
26:21 みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」
26:22 すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう」とかわるがわるイエスに言った。
26:23 イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。
26:24 確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」
26:25 すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ」と言われた。
26:26 また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
26:27 また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
26:28 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。
26:29 ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

<要約>

傷のない神の子としてくださる:

ここの記事にあるイエス様と弟子たちによる過越しの食事は、キリストによる独自の過越しの食事と言えます。これは新しいパンとぶどう酒による聖餐式の制定であると言えます。エジプト脱出の最後の夜に神はエジプト全土を裁かれました。エジプトにいるパロの家から奴隷の家に至るすべての家の初子、長男を人から家畜までも打たれたのです。しかし、イスラエルの家では、その夜、子羊の血を家の門の鴨居に塗っておくことによって、死の天使がその血を見てその家の初子を打つことなく過ぎ越していったのです。その過越しの時から1500年を経て、今度は全人類の過越しとなってイエス様が「神の子羊」として来てくださったのです。過ぎ越しの子羊となったイエス様を信じる者が罪の裁きを受けることのないようにされました。イエス様の「わたしの時」はイエス様があなたの身代わりとなって十字架で血を流された時を示します。過越しの夜は、イスラエルの各家庭では、家族が全員集まり、その血を流した子羊を焼いて苦菜と種入れないパンと一緒に食べました。種入れないパンというのはイーストを入れないパンです。それは後に、律法にも記されて、純潔の象徴となりました。新約でパウロが言う種の入らないパンは、信者を指します。過ぎ越しの子羊となったキリストによって罪が取り除かれた信者を指します。また、一緒に食べた苦菜は、エジプトでの400年間の奴隷生活の苦痛を象徴しています。それは、エジプトの奴隷であった過去、罪に縛られ自由を失っていた過去を清算して新しい人生を始めることを意味します。罪の奴隷であった過去の時代を捨てて、傷のない神の子どもとして生きること、それがクリスチャンライフです。

砕かれたときが信仰と救いのとき:

過越しの食事をとっているときにイエス様は言われました。「あなた方の内一人が、わたしを裏切ります」弟子たちは非常に悲しんで「主よ。まさか、わたしのことではないでしょう」とかわるがわるにイエスに言いました。どんな人でも、「自分だけは大丈夫。そんなことはしない。」と言いうることはできません。人は自分に過信して失敗するものです。ペテロはイエス様の一番弟子と言える人物でした。「ご一緒に死ななくてはならなくなっても、あなたのことを知らない」などと決して言わないと言った人物です。この後、イエス様がとらえられた時、ペテロは主イエスを裏切ってしまいました。しかし、自分の力に頼り高慢になっていたことに気づき、悔い改めて、まことにキリストに従う者と変えられました。一方ユダは、イエス様を裏切り、敵の手に銀貨30枚で売ってしまったという大罪を犯しました。そして、イエス様が裁判にかけられて、有罪になったことを知って、自分のしたことを後悔して、自害してしまいました。著者マタイは、悔い改めてキリストに従う者と変えられたペテロと後悔して自害したユダとを対照的に描いています。ペテロもユダも同じイエスの弟子として、同じ釜の飯を食べた人々です。同じようにイエス様から愛された人たちです。しかし、悔いただけの人と悔い改めた人とは天地の差があります。どちらも自分の失敗や罪のために心に痛みと悲しみをもちました。しかし、その次に来る心の態度が大切です。痛み悲しんで上を向くか下を向くかです。ペテロは上を向きました。ユダは下を向きました。ユダは悲しんだまま自暴自棄になって自害してしまいました。ペテロは痛み悲しんで、高慢になっていた自我が砕かれました。砕かれる経験によって、ペテロは謙遜にされて、自分に頼らずますます神に御頼りするものと変えられました。自我が砕かれ信仰に生きる者とされたのです。すべてを主の主権と神の栄光に置くことができたのです。

アダム、サウロ、ユダのように自分の罪や失敗を悔いて心の痛みを経験します。そして、下を向いてそれだけで終わってしまうのでしょうか。それとも、ダビデやペテロのように悔いて心の痛みや悲しみを覚えても、それから豊かに赦してくださる神を仰いで救われるのでしょうか。前者と後者との違いは信仰があるかないかです。失敗や罪は誰にでも来ます。しかし、そのあとに神を見上げて信仰に進むかどうかが問われます。ユダを特別な人と見るべきではありません。どの信者の中にもユダの心はあります。私たちは時に、切り捨てられたと感じてしまうような厳しい言葉を神から直接的にあるいは人から間接的に受けるかもしれません。そして、悲しむかもしれません。知ってください。その時こそ神は御顔をあなたに向けているのです。自分の前にある影が深いほど、太陽はあなたの後ろを強く照らしています。失敗や挫折、罪の責めが深いほどに神はあなたに御顔を向けあなたを照らしているのです。ダビデやペテロのように主を見上げて罪赦されたことを日々確認しましょう。

キリストのいのちをいただく聖餐式:

イエス様は、聖餐式を弟子たちに世の終わりまで、イエス様が再び来られる時まで守り行うように命じられました。聖餐は主の晩餐とも言われています。これも、過越しと深く関係しています。イエス様はイスラエルの民の罪を贖った過ぎ越しの子羊となって、今度は信じるすべての人の罪の贖いの代価として十字架でご自身をささげられました。聖餐式にあずかることにより、私たちは、イエス様がわたしのために十字架で肉を割き、血を流してくださったことを覚えるのです。また、過越しで、屠られ血を鴨居に塗られた子羊は焼いて食されました。それと同様に、ご自身のいのちのすべてを与えつくされたイエス様をクリスチャンはパンとぶどう酒という形でいただくのです。イエス様が最後の晩餐で、弟子たちに、「これはわたしの体です。これはわたしの血です」と言われた通り、パンとぶどう酒にイエス様は実在なさっています。イエス様を信じて心にお迎えしたクリスチャンの皆さんは、最も愛する主イエスを思い、再び来られることを待ち望んでいますか?愛する人に会うこと、愛する人が来られるのを待つこと、それは心喜ぶことではないでしょうか。イエス様を思う時、心に喜びと何かしら熱いものを感じるのです。ですから、聖餐式を単なる儀式としてはいけません。心よりキリストを覚えて、目に見えないが生きて働かれているキリストが今見えるパンとぶどう酒として実在してくださるのです。聖餐式は、キリストに触れ、キリストを味わい、キリストのいのちをいただくことと言えます。

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