イエスのバプテスマ

2018年01月 14日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明音声プレーヤー00:0000:00ボリューム調節には上下矢印キーを使ってください。

<聖書>マタイの福音書3章1~6,13~17節
3:1 そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。
3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
3:3 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われたその人である。
3:4 このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
3:5 さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、
3:6 自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。

3:13 さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。
3:14 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
3:15 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
3:16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
3:17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

<要約>

神との正しい関係に生きるとは:

「荒野で叫ぶ者の声」としてバプテスマのヨハネは聖書に紹介されています。彼は荒野で、悔い改めを説いていました。そして、当時、大勢の人々がユダヤ全土からヨルダン川の彼のところに来て、悔い改めのバプテスマを受けていました。悔い改めというのは、神との正しい関係を取り戻すことです。イスラエル中が、罪を悔い改めて救い主イエスを迎えようと準備を整えていたともいえます。聖書は言います。人は生まれながら罪の性質を持って生まれ、現に罪を犯すものだと。聖書は、すべての人は罪を犯したから、神の栄誉を受けることができない、と書いています。人の罪が、神との関係を断絶させています。そもそも人が創り主である神を認めないことが最大の罪であり、様々な罪の根元です。さて、イエス様は本来神の子で、生まれながら罪のないお方です。そして、一度も罪を犯したことがありません。ですから、悔い改める必要はないはずです。しかし、主イエスは「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」とお答えになりました。この「すべて正しい」の「正しい」は、原語で「義」という言葉が使われています。義人は信仰によって生きるの「義」です。すなわち、「神との関係で正しい」ということを表しています。悔い改めのバプテスマを受けることは、道徳的に、あるいは法的に正しい行いというのではなく、神との関係において正しいことだからです。悔い改めは、思いを変えて、神を見上げるという心の姿勢から出てきます。イエス様が、「すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」というのは、御心に従う行為であり、信仰から出た行為だからです。まだ、神との正しい関係に入っていない人は信じて洗礼を受けること、聖餐式を守ることです。それは、神との正しい関係に入ることを意味します。同様に私たちもいつも悔い改めて神との関係を正して生きることです。そして、イエス様のようにみことばと神の立てた秩序に従順であることです。みことばに従うこと、神に遣わされたところで最善を尽くすこと、教会とその秩序に従うことです。それが、神との正しい関係に生きることです。

キリストの任命の背後にある神の愛:

天が開けて聖霊が鳩のように下ってきました。これは、主イエスがメシヤとして任命されたことを意味します。神が長い間準備をしてこられたことが実行に移されるのです。神はイエス様がヨハネのバプテスマを受けて、これから救いのわざ、人類の贖いのわざに立ち上がったことを喜ばれました。そして、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と声をかけられました。30歳になるまで、イエス様は父なる神との親しい交わりの中にありました。これまでの期間をかけて、イエス・キリストの使命を確認し、心と体と思いを人類救済の大事業に向けて整えてきたと言えます。いよいよその時が来たのです。それでも、イエス様ご自身は、人々の罪の贖いの代価として、十字架で苦しみ命を捨てなければならないと決意しておられたでしょう。また、イエス様は神に愛されて喜ばれている子です。それゆえこの大きな使命を与えられ、神の御心を成し遂げるのです。このあと約3年後に十字架が待っていました。父なる神の絶大なる信任を受けていました。しかし、愛と喜びの子どもとされていたイエス様の人としての苦しみはどんなだったでしょうか。また、父なる神の苦しみはどんなであったでしょうか。十字架以外の他の選択肢はなかったのでしょうか。神は人の救いのためにそれが最善の道であることをご存じで用意されたのです。その動機は、神の愛です。一言神の愛です。神は惜しんで世の人々を愛されたのです。御子と神ご自身の苦しみをも凌駕してしまうほどに、神の愛は大きなものであるということです。私たちはもっとそのことに感動して、感謝と喜びで満たされてもいいのではないでしょうか。

主イエスとともに来た神の国:

この後、イエス様は40日間の荒野での悪魔の誘惑に勝利されて、ガリラヤで宣教活動を始められました。イエス様は、イスラエルの民の救い主であるばかりでなく、万民の救い主であります。イザヤの預言は、罪と死と悪魔にとらえられていた人間に解放を告げるときが来たことを知らせています。イエス様は、その時から、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と宣言されました。それは、神の国がイエス様と一緒に降りてきてくださるということです。悔い改めれば誰でも神の国に入ることができます。イエス様はこの後、約3年間、ガリラヤ、ユダヤ地方を回り、宣教しました。そして、多くの奇跡をなし、悪魔にとらわれている人々を解放しました。また、病気の人をいやしました。また、神との関係を正すように当時の宗教指導者たちにも恐れることなく語りました。そして、ついに、宗教指導者たちの妬みにより十字架刑に処せられたのです。結果、イエス様が、一度死なれることにより、私たち人類の罪の贖いをなしてくださいました。無罪の神がすべての人の罪を背負って身代わりとなって十字架で裁かれいのちを落としてくださったのです。信じる者は誰一人罪によって裁かれることなく、神のいのちにあずかり、復活の希望に生きるのです。同時にイエス様は、この地上に神の国をもたらしてくださいました。キリストが支配する国を打ち立ててくださいました。そして、キリストを信じる者は、神の国に属するのです。神の国とは、地上で神が信じる者の心と生活を支配されることです。そこは愛と赦しの世界です。救われた者たちはキリストとともに永遠に完全な幸いの中にいます。キリストが私の人生の主となり、わたしにかかわる一切を統治してくださいます。国のトップが変わると国が変わります。キリストが主となると人生が変わります。そして、悔い改めて信じれば、神の国はあなたのものになるのです。