シメオンの預言

2017年12月 31日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書2章21~38節
2:21 八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。
2:22 さて、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。
2:23 ──それは、主の律法に「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない」と書いてあるとおりであった──
2:24 また、主の律法に「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」と定められたところに従って犠牲をささげるためであった。
2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。
2:26 また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。
2:27 彼が御霊に感じて宮に入ると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、入って来た。
2:28 すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
2:29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。
2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。
2:31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、
2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」
2:33 父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。
2:34 また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
2:35 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」
2:36 また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代のあと七年間、夫とともに住み、
2:37 その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。
2:38 ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。
<要約>

救うために人となったイエス:

マリヤもヨセフもイエス様を特別な方法で生まれた特別な人として扱うことをせず、一般の貧しい家庭に生まれた長男として育てました。イエス様は神の御子で罪のないお方なのに、ユダヤ人の普通の長男として律法の定めに従いました。律法をお定めになった神が律法の下にあるものと自らなられたのです。イエス様は、私たちの代わりに、その律法の要求をすべて満たしてくださいました。その生涯において一度も罪を犯したことが無かったのです。あるお父さんが、朝、息子に自分は出かけて夕方に帰ってくるので、それまでに、薪を割っておくように、と命じて出かけていきました。腕が細く、力のない息子は「困ったな。まきを割るための斧を振り上げることもできない。どうしよう。」そうしているうちにお昼が過ぎ、日が傾いてきました。「もう時間がない。お父さんに叱られる。」そうしたら、お兄さんがやってきました。困っている弟を見て、その手から斧を取ってまきを割り始めました。そして、あっという間に薪を割って整えてくれたのです。お父さんは帰って来て、仕事が終わっているのを見て満足しました。同様に、イエス様は私たちが満たすことのできない律法の要求を私たちに代わって、また、人類の代表とし成し遂げてくださったのです。代わりに薪を割った兄ゆえに弟を叱ることがなかった父親のように、神はキリストのゆえに、信じるものを裁くことができないのです。罪に定める律法はその力を失ったとも言えます。そしてまた、イエス様は律法による罪の裁きをあなたの代わりに自ら進んで受けてくださいました。それが十字架刑です。イエス様の身代わりの十字架がなければ、誰一人、罪の裁きである永遠の滅びと死を免れることはできません。人を罪と死の滅びから救うために神が人となって来てくださった。それがイエス・キリストです。

心を刺し貫かれても救う神:

シメオンの預言の前半は、キリストの使命についての預言です。後半はキリストの生涯についての預言です。最初に、前半のキリストの使命についての預言を見ましょう。「御救いは、万民に備えられたもの」キリストはイスラエル民族ばかりでなくすべての人の救いであるということです。キリストは啓示の光、光栄というのです。救い主は暗闇の中に、光として来てくださいました。イエス様の使命は、罪にとらえられて死の陰に座っている人々に光となり、救いとなることです。次に、後半のキリストの使命についての預言です。シメオンは両親を祝福し、そして、マリヤへ言葉を向けます。彼は謎のような言葉を彼女に与えます。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」ローマ書には、イエス・キリストはつまずきの石となり、イスラエルの多くの人はつまずいて倒れるとあります。すなわち、民は主イエスを神の御子、救い主とは認めることができずに、反って、十字架にかけて殺してしまいました。主イエスを信じることができずに、倒れて砕かれてしまったということです。また、それとは逆に、キリストに信頼するものは失望させられないとあるように、立ち上がる人々も起こるのです。キリストが反対を受けるしるしとなることは、この後のローマ帝国による迫害の歴史においても起きました。しかし、そのような世の迫害にもかかわらず、立ち上がる人々は消えることがなかったのです。次に、「剣があなたの心さえも貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが表われるためです」についてみます。マリヤにとっては、剣で心臓を突き刺されるような思いであったでしょう。そこにキリストの受難の生涯があります。また、この「剣があなたの心さえも貫くでしょう」のことばには、もう一つの意味が隠されています。それは、イエス様は見せかけではない真の平和をもたらすために剣を持って来たとおっしゃられるからです。神から離れた人間が安住しているのは、実は偽の平和であることをイエス様は指摘しました。真の平和は神との和解からくると言えます。神との平和がなければ、個人的にも、民族的にも、国家的にも平和はありません。イエス様は、あなたが神と和解し、神との平和に生きるために来られました。「多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」多くの人々の思いが判別されることです。イエス様に対する態度によってその人の立場が明らかにされます。中立はないのです。キリストの十字架を見てどのように反応するかが求められています。神は、すべての人をイエス・キリストによって、二つに分けられるのです。歴史はイエス・キリストにより、紀元前と紀元後に分けられています。人間も分けられるのです。羊飼いが羊とヤギを分けるように、すべての国民を分けると書いています。「剣があなたの心を刺し貫く」というのは、やがて経験するマリヤの心の苦しみを言っています。かたや、イエス・キリストはやがて十字架上で文字通り兵士によって、槍で胸を刺し貫かれました。同時にこの「剣が心を刺し貫く」というのは、御子イエスに対する父なる神の御苦しみでもあります。人が、そしてあなたが、自らの罪のために滅んでしまうのを惜しまれて、御子を身代わりの死に追いやった父の痛みです。神は、ご自身のいのちをかけてあなたを救おうとされているのですから、あなたの応答を求めています。あなたが御救いをあなたのものにするのかしないのか、決断を求めています。

祝福された高齢者の生き方:

もう一人の老人が登場します。アンナという女性です。彼女は7年間の結婚生活の後、やもめになり、その後独身生活を守り、84歳になっていました。この世的には、幸せな人生とは言えませんが、心は満たされていました。それは、救い主を待ち望んでいたからです。宮を離れず昼も夜も断食をして祈っていたというのです。

ここにも祝福された高齢者の生き方があると思います。それは、キリストを待ち望むということと、教会を離れない、祈りの生活を守るということです。


クリスマスの出来事

2017年12月 24日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書2章8~20節
2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
2:15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
2:17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
2:18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
2:19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

<要約>

心低く求める人々に届く救い:

救い主がお生まれになったクリスマスは、大きな喜びこの上もない喜びと言うのです。羊飼いたちは、天使のことばに促されて、救い主を見に行きました。救い主のしるしは、「布にくるまって飼い葉桶で寝ている赤ちゃん」です。それは「宿屋には彼らがいる場所がなかった」からです。これは何を意味しているのでしょうか。世の中の人々は救い主を喜ばず、拒絶したのです。神は敵対し拒絶する人間のところに訪れてくださったのです。そこに神の愛があります。そこに神のあわれみがあります。人間は罪により神がわからず、何をしているのかもわからないからです。一方、当時、羊飼いたちは最も貧しい人々でした。彼らは、社会的にも信用がなかったと言われています。また、彼らは、野で羊と共に生活していたので、安息日を守ることもできないので、低く見られていた人々でした。エルサレム近辺で飼われていた羊は、神殿でささげる犠牲になる羊であったようです。それには、傷のない子羊を用意しなければなりませんでした。なぜなら、神に供える生贄は傷のない最上のものでなければならなかったからです。この時点では、イエス様が、やがて十字架で自分たちも含むすべての人々の罪の贖いの代価としてささげられる神の子羊となるとは誰も思ってなかったでしょう。でも、イエス様は、すべての人の罪を贖うシミも傷もない神の子羊となったのです。神はあらかじめそのことをお示しになったのです。彼らは、律法を守ることのできないので、誰に言われなくても自分たちは罪人であると自覚していました。そして、心低くへりくだった人々であったと思います。羊飼いたちは、主であり救い主であるお方が、王宮に誕生するのではなく、最も貧しい家畜小屋でお生まれになった。そして、そのことを世の中では取るに足りないと見下されていた自分たちに一番先に知らせてくださったのはなぜでしょうか?まず、彼らが待ち望んでいたからと言えます。また、心の中でどうにもならない自分たちの罪を神が贖ってくださることを待ち望んでいたといえます。神は、心低くへりくだった人のところへ来てくださいます。もし、あなたが、心低くなり自らの罪に気付くなら、もう神はあなたのところに来てくださっているのです。

喜びの知らせは罪の赦し:

救い主の到来が素晴らしい喜びだと書いています。それでは、救い主は罪から救う方だからです。イエス様がこの世に来てくださった目的は「世の罪を取り除く」ことです。すなわち、イエス様は人々の罪を取り除くために生まれてきたのです。贖いの代価としてご自身を差し出すために来られたのです。端的に言えば、十字架にかかってあなたの罪を赦すために来られたのです。キリスト教の救いというのは、罪の赦しです。すべての人は神の目から見て罪びとです。人はうわべを見ますが、神は心を見られるからです。心のうちに浮かぶ悪いものはすべて罪です。そして、罪からくる報酬は死です、と書いているように、その罪のために人は亡ぶべきものとなったと聖書は言います。人は神から遠く離れ、神を感じることも、神を意識することもなくなってしましました。人は神と共に生きることをやめ、罪の中に生きるようになってしまいました。敵意、争い、ねたみ、貪欲、情欲、などが人を縛っているのです。現代社会を見ても個人的にも、国家的にもその通りです。その罪を取り除くためにイエス様はお生まれになったのです。無罪のキリストが全人類の罪を代わりにその身に受けて十字架で死んでくださったのです。キリストの十字架を信じる者はすべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられるのです。イスラエルでは、モーセの時代から、民の罪を贖うために、贖いの動物、子羊などがささげられてきました。それは、個人的にも民が自らの罪を赦していただくために、神にささげる犠牲でした。その律法が定めるところの犠牲による贖いは、イエス・キリストの十字架によって完了しました。キリストが全人類の罪の贖いの完全な犠牲となってくださったからです。キリストの十字架はすべての罪から私たちを清めるのです。聖書が示す救いの神というのは、あなたの罪を完全に赦す神であると言えます。天使が素晴らしい喜びを羊飼いたちに知らせたすぐ後に、天では、ファンファーレが鳴り響き、天でも大きな喜びが起こったのです。それは、神の国が地上に降りてきたことを意味しています。救い主の到来は、同時に、神の国の到来です。神の支配が地に及んでいるのです。そして、今日、ここに神の国は来ているのです。そして、ここに集っている皆さんはそこに招かれています。キリストの十字架の贖いにより、だれでも無条件に罪の赦しを受けることができます。その救いを今、いただいてもらいたいと思います。

救い主と出会い喜びの人生へ:

羊飼いたちはベツレヘムに着き、家畜小屋を見て回って、ついに、マリヤとヨセフとイエス様を探し当てました。キリストとお会いしたのです。羊飼いたちは天使のお告げの通りをそこで皆に知らせました。それを聞いた人たちは皆驚いた、とあります。彼らは、神を崇め、賛美しながら帰っていきました。彼らは、救い主に会い、神の約束された救いを信じたのです。キリストを礼拝し、賛美しながら帰っていきました。彼らは自分たちが見聞きしたことを周りの人々に伝えました。救いの喜びを自分のものだけにすることができなかったのです。彼らが世界で最初にイエス様を伝えた人たち、伝道者となったといえるのではないでしょうか。救い主との出会いは、人を変えるのです。羊飼いたちは喜びで満たされたでしょう。救いの喜びで神を賛美しました。救い主が自分たちに与えられたことを喜びました。幼子が成長し、やがて世を救う働きをなさるのです。イエス様はこのような真の人であり、そして、イエス様は人のかたちをとられた真の神でした。人類の最後の敵である死を打ち破り、三日目に復活なさいました。目には見えませんが、今も私たちとともにおられて、罪を赦し永遠のいのちの約束をお与えくださるのです。クリスマスは救い主イエス・キリストとの出会いです。神の羊飼いへのメッセージは、「イエス様こそ、あなた方のための救い主だよ。この上もない喜びだよ。この方によって、あなた方の人生は変わるのだよ」これは同時に私たち一人ひとりへの神のメッセージです。

ヨセフへの告知

2017年12月 17日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書1章18節~25節
1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
1:19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
1:24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、
1:25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。

<要約>

主から来る試練と訓練:

ヨセフはマリヤから天使のみ告げについて、説明を受けましたが、ヨセフにはそれをそのまま受け入れるのは難しい事でした。マリヤが妊娠したという事実を認めることができずに、心の中では否定していたのです。マリヤはマリヤで、やがて、妊娠という身体に現れる変化にいずれ周囲の人々は気づきます。「神にとって、不可能なことは一つもありません。」と信じていました。神にすべてをゆだねていたとしても、やはり不安になるものです。マリヤはエリサベツに会って、天使のお告げの通りエリサベツがみごもっていたことを確認しました。また、エリサベツの預言も聞くことができました。マリヤはさらに確信へと導かれました。しかし、ここで皆さんに注目していただきたいことがあります。それは、マリヤは神を信じ切っていたとはいえ、彼女の信仰も励まされ、その都度、確信を新たにさせる必要があったということです。目に見えないことを信じ続けていくためには、励ましと確認が必要であるということです。そのためには、私たち信仰者は、信仰の友の励ましが必要であるし、みことばを常に聞いて強められなければなりません。ですから、私は皆さんに教会に来ることを続けるようにと勧めているわけです。マリヤはナザレに帰る時が来ました。三カ月ぶりでマリヤと再会して、ヨセフはそのマリヤの身体の変化に気付いたことでしょう。今まで、そんなはずはないと自分の心で否定していたことは事実だったのです。彼の心に、マリヤに対する疑いと怒りが生じてきました。ヨセフは彼女の妊娠、それが自分の子でないということはわかっていました。マリヤは、お腹の子は聖霊によるということを説明したでしょう。ヨセフはマリヤに対する不信と怒りに燃えたと思います。きっと、ヨセフは辛かったと思います。眠れない日々が続いたと思います。なぜ、神はもっと早く、ヨセフに現われて、マリヤの聖霊による受胎を説明しなかったのでしょうか?ここで神はヨセフを試練に合わせたのです。それは、彼にとって必要な大切な試練でした。そうです、ヨセフの決断を見て、神は彼に現れたのです。ヨセフは悩みぬいて、御心を求めて祈ったでしょう。そして、この決断を心に決めました。マリヤを内密にさらせようというのは、ヨセフは悩み抜いた末の決断だったでしょう。しかし、主は、そのタイミングで、ヨセフに夢の中でお語りになりました。なぜかというと、神は、ヨセフがその決断に至るのを待っておられたのです。ヨセフは、正しい人でした。すなわち、律法を厳守する人でしたが、同時にあわれみ深い人でした。神は、ヨセフにテストを課したのです。同様に、神はわざと私たちに悩みと苦しみを通らせることがあるということです。それはテストのためです。また、神がこの時まで、ヨセフに黙っておられたことのもう一つは、ヨセフに訓練を課すためでした。それは、ヨセフが今後、救い主とその母を守り、救い主を亡き者にしようとする様々な攻撃の矢面に立つことができるための訓練でした。悩みと苦しみは訓練であったと言えます。神は私たちを、悩みと苦しみ通らせることがあります。それは、試練と言えます。またそれは、訓練でもあるのです。試練は同時に訓練です。それを通った先には、いのちの冠、いのちの実を結ぶものとされるということです。ヨセフはこれを通して、神への信仰とマリヤへの信頼を堅固にさせられたでしょう。また、それにより、ヨセフは神から、救い主イエス・キリストの父親としての使命と資質を与えられたのです。神は悩みと苦しみを通させることにより、私たちに使命を与え、さらに、私たちを信仰と愛に生きるものと変えてくださるのです。

神のくださる身分と使命に生きる:

「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と書いています。そうです。イエス・キリストこそご自身に来るものをその罪から完全にお救いになれるのです。現在、イエス・キリストにより、すべての人は救いと祝福を受けることができます。救いは、罪と死と悪魔からの救いです。すでにここにおられるすべての方々に無償で提供されています。この救いと祝福は、受け取るだけであなたのものになります。また同時に、キリストを受け取るあなたには、身分が与えられます。それは、神の子、御国の世継ぎです。ヨセフはダビデ王の子孫でした。しかし、この当時、ダビデ王の子孫と言っても落ちぶれていて、ヨセフには王家の地位も富みもありませんでした。ダビデの子孫と言っても世的にはとるに足らないものとされていました。ここに、世の与える身分と神のお与えになる身分は、全く違うということが示されています。イエス・キリストを信じた者は「神の子とされる特権を与えられた」とヨハネに書いています。今、あなたが自分自身はこの世では取るに足りない存在と思っておられるかもしれません。しかし、神はあなたを、ダビデの子、神の子、御国の世継ぎとして見ておられるということです。ヨセフはこの後、救い主神の子キリストの父親としての身分に生き、その役目を立派に果たしました。救い主の父親としての身分と使命に生きたのです。また、彼はマリヤと同様に謙遜と献身の生涯を送ったと思います。私たち信者も、神が下さった身分に生きるべきです。卑下することはありません。ヨセフやマリヤのように、私たちにも謙遜と献身の生涯があるのです。神から与えられた身分と使命に生きることです。

イエス様は光としてあなたのうちに住まわれる:

イエス様は30歳になられて、郷里のガリラヤ地方で宣教を始められました。その当時の社会状況について、マタイは「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」と書いています。ここに人々の霊的状況があります。これは、現代社会に生きるすべての人の霊的状況であると言えます。なぜなら、いのちの基となる造り主から断絶しているからです。そこに神が光として来てくださったのです。イエス様は光としてこられています。「インマヌエル、神が共におられる」というのは、あなた自身がその光をもって生きることができるということです。それは決して消えない光です。また、その光はあなたのうちに住んであなたを明るくします。このクリスマスに是非、その光をご自分の内にいただいてください。

受胎告知

2017年12月 10日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカによる福音書1章26~38節
1:26 ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。
1:27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。
1:28 御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
1:29 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
1:30 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。
1:31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
1:32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
1:33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
1:34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
1:35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
1:36 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。
1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。」
1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。

<要約>

窮地に陥った時:

御使いは、突然、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられます」「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。(イエスそれは、救い主という意味です。)」と。マリヤには自分ではどうすることもできないことが自分の身に降りかかってきたのです。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」とマリヤは反論します。それは、突然のことで、この御使いの言葉は、全く受け入れられないことだったと思います。結婚していないのにどうして?マリヤは何が何だかわからない。混乱の中に突き落とされたのです。御使いは、応えます。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」と。天使ガブリエルは半年前、不妊の女性エリザベツの夫ザカリヤに現われ、エリザベツが懐妊すること告げました。それが、その通りになって、今は6か月になっていました。天使はその例をとって、神には不可能はないと話したのです。これは、マリヤにとって大きな励ましとなりました。神は、窮地に陥ったマリヤのために、マリヤを励ます親類で妊婦のエリザベツを用意してくださったのです。マリヤには、受胎について、天使から長い説明はありませんでした。天使の「神にとって不可能なことは何一つありません」という言葉を聞いて、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と返事をしたのです。聖霊によって身ごもった。普通の妊娠のように男女の交わりもなく、突然、神の御使いがやってきて、「聖霊によって、聖なる者、神の子を身ごもり生む」というのです。このことによって、今後何が起こるかマリヤは分からなかったでしょう。予測もできなかったでしょう。ただ、マリヤはヨセフのことが気にかかり、マリヤの両親や家族、ナザレの人々のことが気になったでしょう。たくさんの不安があります。しかし、すべてのことは、「神にとって不可能なことは何一つありません」なのです。マリヤは折々に神の助けがあることを確信していたと思います。信仰にはたくさんの説明はいりません。「神にとって不可能なことは何一つない」ことを信じることです。マリヤは御使いの言葉で、すべてを神にゆだねる決心をしました。これは単純な真理です。信仰は難しいことではありません。「神にとって不可能なことは一つもありません。」というみことばの一言です。私たちクリスチャンは様々な試練やサタンの誘惑を受けます。しかし、この一言に立つか立たないかで、あなたの人生は変わります。

マリヤの信仰に倣う:

マリヤはどういう女性だったのでしょうか。ナザレの田舎の貧しい普通の女性でした。しかし、マリヤは旧約聖書を知っていたと思います。それは、マリヤの賛歌と呼ばれている詩からわかります。最後のところ、「私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫に語られた通りです」と結んでいます。すなわち、アブラハム契約を知っていました。マリヤは、神がアブラハムに与えた約束、つまり、イスラエル民族を星の数ほど増やし、アブラハムとその子孫を通して、全民族を祝福するという約束を知っていたのです。アブラハムとその子孫というのは、キリストであるとパウロはいっています。世界の全民族を祝福するというアブラハムへの約束はその子孫であるキリストによって成就したのです。マリヤは、このキリストの母となることを神の大きな恵としてとらえました。また、神の使いがヨセフに夢の中で語られました。マリヤの胎に宿っているのは、聖霊によるのだから、離縁してはいけない、マリヤを受け入れなさいと。では、マリヤは特別な人だったのでしょうか?特別な使命を与えられた選ばれた人といえます。しかし、後世の人が、マリヤは特別な人間として、神格化しようとするのは誤りです。マリヤは彼女の功績によって救い主の母となったのではありません。これは、全くの神の恵み、一方的な神の主権の中でなされたことです。イエス様を出産した後のマリヤについては、彼女は聖書の表舞台には姿を現さなかったようです。マリヤから私たちは何を学ぶのでしょうか。マリヤは特別な人間ではなかったということです。しかし、彼女の信仰は素晴らしいです。それは、ひとえに「神にとって不可能なことは一つもありません。」という信仰にしっかり立ったことです。そして、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と言ったのでした。何という信仰でしょうか。この中にマリヤの神に対する絶対服従という命がけの信仰を見ます。このような信仰を神は裏切るはずはありません。マリヤは、真の謙遜な生涯を送りました。そして、世界中の人々の尊敬を集め、神の光栄をあふれるばかり受けているのです。ここに信仰の模範としてのマリヤがあります。

王なるキリストの国:

「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。(イエスそれは、救い主という意味です。)その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」と。これは、マリヤに与えられたメシヤ預言です。このメシヤ預言には救い主は必ずダビデの王位を継ぐもの、あるいはダビデの子であると、ずっと信じられてきました。最初のメシヤ預言はダビデ王に与えられました。そのみことばを読んでみましょう。「あなた(ダビデ)の日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。―――あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」このように、ダビデの子としてのメシヤの到来はイスラエル人民の希望となっていました。この、アブラハムの子孫であり、ダビデの子である救い主イエス・キリストはイスラエル民族のためだけでなく、全人類の救い主となっています。それが神のご計画でした。イエス・キリストの救いは、罪と死と悪魔からの救いです。ダビデの子、キリストは王としてこられたといいました。それは、正義をもってあなたを悪魔から解放し守る王です。また、同時に、あなたの罪の代価をご自身のいのちで支払い贖ってくださった救い主です。また、ご自身の生き方を通して神の御心を教えてくださる完全なお方です。この全能であり、全知の神である完全なお方、イエス・キリストが今日もあなた提供されています。あなたが彼を心に受け取ること、それがクリスマスです。

救い主の預言

2017年12月 3日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>イザヤ書9章1~7節

9:1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。
9:2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。
9:3 あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。
9:4 あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。
9:5 戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。
9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。

<要約>

救いと祝福の約束:

創世記12章で、神はアブラハムに言われました。「あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福する。地上のすべての民族はあなたによって祝福される」と。また、神の約束は、アブラハムに「あなたの子孫たち」にと言わないで、「あなたの子孫に」と言って、単数形で語られてきました。それは、遠い将来において現れる、アブラハムの子孫、救い主キリストを指していたのです。神は、キリストによって、全世界に祝福をもたらしてくださいました。この祝福の根拠が、救い主イエス・キリストと呼ばれているように、キリストの救いです。イエス・キリストの救いが祝福をもたらしていると言えます。救いという言葉を使う時には、~からの救いと言います。例えば、貧困からの救い、病からの救い、悪政からの救い、災害からの救い、などです。しかし、神が与えてくださる救いは、もっと根元的な救いと言えます。それは、罪と死と悪魔からの救いです。罪は、原語では、「的外れ」という意味です。本来神から創造されたときのあるべき姿から外れているということです。では、本来人間のあるべき姿とは何かは、十戒に示されています。十戒の範囲は、心と言葉と行いに及びます。表面的には十戒を守って行動していても心を見られる神は満足しません。そして、すべての人は罪を犯していると聖書は指摘しています。さらに罪からくる報酬は死です、とある通り、罪によって全人類に死が入ったのです。すなわち、人は、本来あるべき人の姿から大いに外れてしまった、神から遠く離れてしまったと言えます。罪により神の支配である光の中から、悪魔の支配であるやみに入ってしまったのです。救い主イエスがもたらした救いは、罪の呪いからの救いです。つまり死と滅びからの救いです。同時に悪魔の支配からの解放です。すなわちやみから光の中へ移されることです。神は、人を救い、祝福にあずからせようと思われました。現代、イエス・キリストの救いと祝福は全世界に届けられています。神はあなたを悪魔の支配から取り戻し、罪と死の呪いから解放しようと招いておられます。

神から遠ざかる人間:

イザヤ書はBC700年ころの著書です。その著者はイザヤです。イザヤはBC742年ころに神から召命を受けて、約50年間預言活動をしました。ソロモンの死後、イスラエル王国は北と南に分裂しました。それからしばらくして、北王国は、北方の大国アッシリヤによって、BC721年に滅亡させられてしまいました。アッシリア帝国は非常に残忍で、捕虜の目をつぶして、国へ引いていったようです。それゆえ、当時はアッシリア帝国の侵略の手が、南王国にも忍び寄り、国中が恐怖と不安で押しつぶされそうになっていました。その中で、イザヤは南王国の王と人民に神のメッセージを伝えました。それは、罪からの悔い改めを迫りつつ、同時に恐怖や不安にいる人々に慰めを語り、神の約束を伝えました。北王国イスラエルが滅亡した理由については、偶像礼拝による背信の罪です。神から離れた民は悪魔の支配下に移り、当然呪いを受ける羽目になったのです。それに対して、神のみ思いはどうだったでしょうか。「わたしは誰が死ぬのも喜ばない。だから、イスラエルの家よ。悔い改めて生きよ」と神は命じているのです。しかし、神のその様な御思いに対しても彼らは、反省することなく主に反逆して、自らが自滅に向かったのです。ここから見えることは、神の約束は変わらない、しかし、人が、真の神から心が離れて、その約束を投げ捨てるために、自ら悪魔のとりこにされるということです。神は見捨てることをしません。人が神を見捨てて自ら離れていくのです。現代の私たちにも同じメッセージが届けられています。神がおられることは、被造物によって知られており、明らかです。しかし、造り主なる神を認めない人間の姿があります。その代わり、神でないものを神として祭ったり、拝んだり、礼拝したりしています。そこに、造り主なる神を認めようとしない、人間の深い罪があります。

救い主をお与えくださる神:

神はご自身の全存在をかけて、そのような人間に近づいてくださいました。救いの道を準備してくださったのです。それがクリスマスです。あなたが、神に帰るのを待っておられるのです。アッシリアの侵略によって、北王国は暗黒と苦悩の中に落とされました。その現実がある中で、イザヤは、神の救い、福音を語ります。「苦しみのあったところに、闇がなくなる。」と書いています。今は、依然苦しみとやみの中にいるが、それがなくなるときが来るとイザヤは預言します。「先に、ゼブルンの地とナフタリの地は、辱めを受けたが、」とあります。アッシリアはガリラヤ地方を征服したのちに、一部の人々を他国に連れ去り、逆に他国人をそこに移住させました。それは、神の民と自負していた彼らには屈辱でした。それが、「辱めを受けたが」という内容です。しかし、のちには「海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受けた」と完了形で書いています。もうすでに起こったかのように異邦人のガリラヤは栄光を受けたというのです。これは、このあと約700年後に救い主キリストの来臨によってガリラヤが神の栄光を受けたことの預言です。「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」と述べています。光として来てくださる救い主を示しています。死の影に住んでいる者、暗黒の死の影に座る者、これは、死と滅びに定められている人々への救いです。南王国ユダの人民は、襲い来るアッシリアを前になすすべもなく、恐怖におののきながらそこに住んでいる有様は、まさに、「死の影の地に住んでいた民」といえます。現代社会においても、世界を見ると、貧困や戦争で、死の陰の地に住んでいると言える人々が大勢います。主が、イスラエルの民を虐げる国々から解放する時、それは、人の力によらない、神のみわざであることを知らしめるためでした。行動されたのは主であることを示したのです。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」すなわち、この四つの身分はどれも神の身分であると言えます。これは、はっきりやがて来られるメシヤ、キリストを指していると言えます。これは、イスラエルの民にかかわる救いばかりではなく、約700年後、全人類に救い主が与えられることの預言です。ちょうど、私たちが外に出て、山々を見るときに、すぐ近くに見える山とさらに遠くに薄く見える山々があります。一つの景色の中に、近くのことと遠くのことが重なって見えるのと同じように、聖書の預言も、近々に起こることとはるか後に起こることが重なって語られているのです。この預言は、現代に生きる人々にも語られています。「死の陰に住んでいたものたち」それは、悪魔にとらえられて真の神を失っている人々への救いです。そして、やがて、救い主が再び来られて神の民は永遠の御国へと引き上げられる時にすべての預言は成就します。このことは万軍の主である神の熱心によって成し遂げられたのです。神が人を罪と死と悪魔から救おうとされているその熱心は、さめることもしぼむこともありません。神が無条件でお与えくださった救いを信仰によっていただくものとされた私たちは、神の熱心とご愛に感動して、これからは主のために人生を用いていただきたいと思います。