アブラハムのとりなし

2017年10月 29日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記18章16~33節
18:16 その人たちは、そこを立って、ソドムを見おろすほうへ上って行った。アブラハムも彼らを見送るために、彼らといっしょに歩いていた。
18:17 【主】はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。
18:18 アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。
18:19 わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて【主】の道を守らせ、正義と公正とを行わせるため、【主】が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」
18:20 そこで【主】は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。
18:21 わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行っているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」
18:22 その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、【主】の前に立っていた。
18:23 アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。
18:24 もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。
18:25 正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行うべきではありませんか。」
18:26 【主】は答えられた。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」
18:27 アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。
18:28 もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが四十五人を見つけたら。」
18:29 そこで、再び尋ねて申し上げた。「もしやそこに四十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その四十人のために。」
18:30 また彼は言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。もしやそこに三十人見つかるかもしれません。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが三十人を見つけたら。」
18:31 彼は言った。「私があえて、主に申し上げるのをお許しください。もしやそこに二十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その二十人のために。」
18:32 彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」
18:33 【主】はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは自分の家へ帰って行った。

<要約>

祝福を届ける器となるには:

アブラハム契約には三つの内容があります。一つ目は、アブラハムと子孫の祝福です。彼の子孫を増やし大いなる国民とすることです。二つ目は、アブラハムを祝福するものを祝福し、アブラハムを呪うものを呪うというものです。三つめは、地上のすべての民族はアブラハムによって祝福されるというものです。このアブラハム契約はキリストによって成就し、現代もクリスチャンによって全世界で更新されています。一つ目の約束はどう成就したでしょう。アブラハムの信仰による子孫であるクリスチャンは全世界に無数に広がって、御国の大いなる国民となっています。二つ目の「アブラハムを祝福するものを祝福し、アブラハムを呪うものを呪う」というのはどうでしょうか。イエス・キリストを信じ愛するものを神は祝福し永遠のいのちを与えてくださいます。しかし、イエス・キリストを呪うものには死と滅びが定められるということです。三つめは、アブラハムを通して、全国民を祝福するということです。今日の箇所は、その契約の実現のためにアブラハムが用いられたところです。アブラハムは滅びようとしているソドムとゴモラの町の人々のためにとりなしの祈りをしました。アブラハムは神の声を聴いて神に応答しています。心にある思いを神に申し上げています。祈りの奉仕は祝福の奉仕と言えます。ソドムの人々の救いのために、また、甥のロトの救いのためにとりなしています。アブラハム契約の三つ目は、クリスチャンは祝福の基となるというのです。さらに言えば、「クリスチャンは祝福を届ける器」といえます。クリスチャンの皆さんがいるところで、あなたの家族知人友人に祝福が届いていくというのです。神はあなたのいるところであなたの周りの人々を祝福しておられるのです。どのようにあなたは周りの人々に神の祝福を届けているのでしょうか。第一に祈りによってです。第二に、あなたの良い行いによってです。キリストがあなたを赦してくださったようにあなたも隣人を赦します。赦しは祝福です。第三に、あなたが周囲の人々に祝福を届けるのは、あなたの聖霊の実によってです。聖霊によってあなたのうちに形づくられたキリストがあなたを通して人々に表われていくことです。第四に、神の祝福を届ける器となるためには、イエス・キリストの贖いによる罪の赦しを受けることです。クリスチャンはイエス様の十字架の血潮にて罪赦された人です。私たちは悔い改めて罪赦された時、大胆に神の前に出ることができます。そして、神の祝福を届ける器とされるのです。

祈りは神を動かし世界を変える:

それでは、アブラハムのとりなしの祈りを見てみましょう。アブラハムはこの祈りで神の御心を探っています。私たちも日々、神の御心を求めています。祈りはキャッチボールです。思いを申し上げて、御声に霊の耳を傾けます。みことばを思いめぐらします。また、祈りつつ聖書を紐解きます。神は聖書の言葉を用いてあなたに語ります。また、この祈りによってアブラハムは神のあわれみを引き出しています。クリスチャンは祈りによって、神のあわれみを引き出すのです。神は裁きを遅らせています。罪人が悔い改めるのを、忍耐を持って待っておられるからです。結局、ソドムには10人も正しい人はいなかったのです。ついには燃える硫黄の火によって滅ぼされました。しかし、アブラハムの祈りによってロトと家族が救われました。このようにとりなしの祈りは神を動かすのです。神は、私たちのとりなしの祈りを求めておられます。神は「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」と言われました。そして、神はご自身のみ思いを話して、アブラハムがとりなしの祈りをするように仕向けたのです。同様に神はクリスチャンのとりなしの祈りを求めています。神はクリスチャンの祈りを聞いてみ心を表わそうとしておられます。神は哀れみの神です。人を愛しあわれみ、何とか救いたいのです。罪を赦し永遠のいのちを与えたいのです。その為に祈るクリスチャンを求めています。また、救われていない家族友人知人のために祈るあなたを求めています。

主イエスは罪を担いとりなしてくださる:

私たちが神の前に出てとりなすことができる根拠は何でしょうか。人間は、自らの罪により神の前に出ることはできません。旧約の民は、神を見たら死ぬと信じていました。預言者や祭司だけが、神と語らうことができました。しかし、一般の人々はその罪ゆえに神に近づくことができなかったのです。今は、イエス様が十字架により神と和解させてくださったので、信じる者は誰でも大胆に神と語らうことができます。すなわち、現代ではクリスチャンは万民祭司として、神に人々の罪をとりなすことができるのです。さらに、罪のないイエス様が、人の罪をあたかも自分の罪のようにして、代わりに担ってくださいました。そして、十字架で自ら苦しんでくださり、死んで三日目に復活し天に昇り、神の右の座についておられます。イエス様は昼夜問わず、私たちのためにとりなしていてくださるとあります。ですから、あなたは自分の罪や弱さを大胆にキリストに持っていくことです。

神は私たち信者の祈りによって動かされ、みわざをなしてくださいます。そして、信者はキリストの救いと祝福を届ける器として召されているのです。