2017年10月 1日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>創世記11章27~12章9節
11:27 これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。
11:28 ハランはその父テラの存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。
11:29 アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカといって、ハランの娘であった。ハランはミルカの父で、またイスカの父であった。
11:30 サライは不妊の女で、子どもがなかった。
11:31 テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはハランまで来て、そこに住みついた。
11:32 テラの一生は二百五年であった。テラはハランで死んだ。
12:1 【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
12:4 アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。
12:5 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。
12:6 アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。
12:7 そのころ、【主】がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。
12:8 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は【主】のため、そこに祭壇を築き、【主】の御名によって祈った。
12:9 それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。
<要約>
信仰によって歩み出すとは:
「主はアブラムに仰せられた」と書いています。これはアブらハム契約と呼ばれているものです。彼は、不妊の女サライと、甥のロトとハランで得た家畜などの財産をもって、神の示す地へ、出発しました。へブル書には、「どこへ行くのか知らないで、出かけた」と書いています。「生まれ故郷、父の家を出て」と。これは、信仰による旅たちでした。郷里も親類縁者も捨てて、行先もわからないまま出ていくのはどんなにか勇気のいることでしょう。アブラハムの信仰者としての歩みは、この神の仰せに素直に従ったということから始まります。ここに信仰の父と呼ばれる人の歩みが書かれています。まず、彼は神の約束を握って、偶像と偽の神々が支配する世界から出て行きました。これは決別です。御声にしたがったのです。信仰にはこの決別が要求されます。サタンが支配するこの世から決別するのです。罪の世からの決別です。この世の悪い習慣からの決別ということもあります。特別に悪い習慣がなくても、目に見える世の価値、お金、地位、名誉などへの執着から決別して、目に見えない神を信じる、神に従う決心をすることです。聖書が言う神は、天地万物をおつくりになって、全世界を治めておられる一人の神です。人は、太陽や月などの被造物を神としたり人間や動物を神としたりしてしまいます。人間は自らで神を見出すことはできません。神の方でご自身を現わしてくださったのです。神が人となってご自身を現わしてくださったのです。それが、イエス・キリストです。偶像は、いわゆる像ばかりではありません。あなたが、寄りかかっているものです。それがないと生きていけない、倒れてしまうものです。偶像は、世界にあふれています。あなたの心をひきつけて、けっして、真の神に心を向けさせないように働くものです。サタンはこの偶像を足掛かりとしあなたを真の神から引き離そうとするのです。アブラハムへの神の約束は、神から一方的な恵みと祝福であったといえます。その恵みと祝福にアブラハムは「主がお告げになった通りに出かけた」という行動をもって、従ったのです。みことばに対する信仰の応答は、従うということです。信仰によって歩み出すとは、罪の世から決別して神の約束を握ってどこまでも神を信じて従っていくことです。また、信仰によって歩み出すとは、「どこへ行くのか知らないで出ていきました」とある通り、チャレンジの人生です。
アブラハムに学ぶクリスチャンライフ:
アブラハムは家族とともに、ハランを出発して、カナンの地に着きました。そして、最初の場所は、シェケムです。モレの樫の木のところまできました。そこにも、カナン人の偶像礼拝があったようです。そこに、アブラハムは、真の神のために祭壇を築きました。神はアブラハムに具体的な約束を与えました。アブラハムに今のパレスチナ地方を約束の地として子孫に与えるといわれたのです。この時点では、アブラハムには約束のみでした。親類はいない、土地もない、子どももいない、無いないずくめでしたが、アブラハムは信仰によって生きていました。信仰とは、約束を信じ続けることです。彼は、この時、75歳でしたが、神はアブラハムの子孫を海辺の砂、空の星ほどに増やすといわれたのです。しかし、約束の子どもであるイサクが与えられたのは、100歳の時でした。アブラハムは、約束が与えられていながら成就を見ることができずに、時には、へこたれて、神のみ思いをうかがうことなく、当時の習慣や人間の考えで動きました。そして、何度も失敗をしました。信仰の父であるアブラハムでさえ失敗しました。信仰者は天のみ国に入るまで、失敗し倒れることもあります。それが現状です。しかし、失敗し罪を犯して倒れても、また、主を仰ぎ立ち返るなら救われるのです。約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐であるとあります。信仰には忍耐が必要ということです。しかし、それ以上に神は忍耐して神の民を赦してくださっているのです。アブラハムは「祭壇を築き」真の神を礼拝し、そして「天幕を張り」カナン人の中で寄留者の生活を始めました。この世にあって生活を始めたのです。これは、クリスチャンは世にあって世のものではない、この世にあっては寄留者であることを暗示しています。すなわち、この世にあっては旅人であり寄留者である、これが、天国を目指して旅しているのがクリスチャンライフです。カナン人たちは、アブラハムを神の司として認識していました。このことからアブラハムは彼らに宣教していたことがわかります。ここに、アブラハムの信仰の子孫であるクリスチャンの生き方が暗示されています。それは、礼拝、社会生活、宣教です。一つ一つ見て行きましょう。一番目に礼拝について、クリスチャンは礼拝の民と言われています。真の神を毎週礼拝します。それは、自分中心ではなく神中心にした生き方です。次に社会生活について、クリスチャンは神の民として社会生活を営みます。社会は隣人愛の実践の場ともいえます。最善を尽くすのです。三番目は、宣教です。クリスチャンには宣教の使命が与えられています。あなたの生きる姿勢を通して、あなたを透かして、人々は神を見るでしょう。
すべての国民を救う神の計画:
神は、アブラハムを大いなる国民としようと言われました。それはイスラエル国家です。そして、「アブラハムの名は大いなる名前となる」です。歴史を通してこれほど偉大な信仰者と呼ばれている人はいないと思います。「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。」これは、アブラハムに良いことを願い行動する人を神も良くしてくださる、また、アブラハムに悪をはかり敵対する者に神も敵対するというのです。もちろんこの約束はアブラハムの子孫であるイスラエル民族に及んでいます。また、この約束は、アブラハムの信仰の子孫でもあるクリスチャンひとりひとりへの約束でもあります。「すべての民族はアブラハムによって祝福される。」アブラハムは全民族の祝福の基となるのです。ここにすべての民族を救うための神のご計画が隠されています。神はアブラハムという一人の人を選び、そこから一つの民族を選び、その民族を通して神の祝福と救いを全民族に広げていこうとされました。このことは不思議なかたちで成就しました。アブラハムの子孫のユダヤ人、すなわちイスラエル民族の中からイエス・キリストはお生まれになりました。そして、イエス・キリストにより全世界のすべての民族に祝福と救いがもたらされたのです。イエス・キリストの救いとは何でしょうか。聖書は、言います。「造り主である神から離れた人は生きていても死んでいる」と。つまり、このままでは滅んでしまい、永遠の死を迎えるからです。それは、神から離れた人は真のいのちを失っているからです。しかし、もしあなたが、イエス・キリストを信じて神に立ち返るのなら、生きるのです。罪と死と悪魔から解放されるのです。あなたにいのちを与え、あなたを造ってくださった神がいるのに、これまでその方を認めることなく過ごしてきたことを悔い改めて、あなたの罪をすべて十字架で赦してくださったキリストをあなたがお迎えするなら、あなたは生きるのです。