エルサレム入城

2017年3月19日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書12章12~26節
12:12 その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、
12:13 しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
12:14 イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。
12:15 「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」
12:16 初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行ったことを、彼らは思い出した。
12:17 イエスがラザロを墓から呼び出し、死人の中からよみがえらせたときにイエスといっしょにいた大ぜいの人々は、そのことのあかしをした。
12:18 そのために群衆もイエスを出迎えた。イエスがこのしるしを行われたことを聞いたからである。
12:19 そこで、パリサイ人たちは互いに言った。「どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。」
12:20 さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。
12:21 この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。
12:22 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。
12:23 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。
12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。
12:26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。
<要約>

人の思いにあるもの:

過ぎ越しの祭りのために外国からも大勢の人々が集まっておりました。彼らはイエス様のうわさを聞いていました。イエス様が数々の癒しや奇跡をおこなっていたことを聞いていました。生まれつきの盲人の目をあけました。また、極め付けは死んだラザロを生き返らせたことです。そのことを見聞きした人々は、イエス様こそ、民族が待ちに待っていたメシヤ、救い主であると思ったのです。ところが、イエス様は華々しい軍隊を連れてではなく、また、王が乗るにふさわしい立派な馬ではなく、荷物を運ぶロバの子に乗ってエルサレムに入城するのです。熱狂した群衆の多くは、イエス様がイスラエルをローマの圧政から解放してくれる民族の救い主であると期待して、「ホサナ」と叫びました。「ホサナ」は、「今、お救いください」という意味です。神の民が異邦人に支配されて、苦役に伏していたと言えます。それゆえに、解放者の現われに期待していたのです。民族が待望していたのは民族の救い主です。ですから、彼らにとっては、救い主は同国人の政治的リーダーでした。それによって自分たちの生活が良くなり暮らしが楽になることでした。神のみ心をしたい求める思いより自分たちの暮らしを立てることに心が向いていました。ですから、基本的には彼らは救い主を自分に都合の良いようにしか考えていませんでした。私たち現代人も、自分に都合の良いように神を解釈しようとします。神が愛の方であれば、大震災など起こされることはない、とか。国家間、民族間の紛争など放っておくはずがない、とか。神が正義であれば、どうして悪がこんなに栄えるのか、とか。しかし、まず、神はこういう方であると断定する前に、へりくだって、神のみこころは何か、神に聞く、聖書に聞くということが必要です。すべての事に、私たちにはわからない神の深いご計画があるのです。そして、群衆は無責任です。この「主よ、お救いください」と叫んだ同じ群衆が、今度は数日後には、ピラトによるイエス様の裁判で「十字架につけろ」と叫ぶのです。聖書は、人間とはどういうものかを描いています。人間の罪の深さを描いています。同時に聖書は、真実の鏡です。あなたの心を映し出すのです。聖霊が聖書のみことばと共に働いて、あなたに罪を示します。そして、あなたは、このままではいけない、自分には救いが必要であると思うのです。それが聖霊の働きです。もし、あなたが聖霊に心を開くのなら、聖霊のお取り扱いを豊かに受けます。

神のみ思いと行為:

イエス様は、ロバの子を見つけてそれに乗られたと書いています。それは、ご自分は、ロバの子に乗る平和の王であることをお示しになったのです。イエス様はご自分が王であることを認めておられました。また、偉大な預言者であることも知っておられました。しかし、それだけではなく、大祭司としての職務を覚えておられました。永遠の大祭司として、ご自身を神の小羊として、すべての人の罪の代価として犠牲として捧げることでした。すなわち、無実の神の御子キリストが十字架の上で、すべての人の罪を背負い、身代わりとなって裁かれて、死んだのです。そればかりではなく、イエス様は一粒の麦となって、麦の実が死んで豊かな実を結ぶ、という真理をご自分のいのちに当てはめました。十字架で死んで三日目に復活しました。そして、信じる者に新しいいのちである永遠の命をお与えになったのです。イエス様の職務は王であり、預言者であり、さらに大祭司であります。イエス様が大祭司であるということは、ご自身の血によって、すべての人の罪の贖いをすることです。すなわち、イエス様は、すべての人の罪を赦すために、そして滅びからいのちへと至らしめるために来られたのです。この神のご計画の動機は、愛です。十字架は、キリストによって世の人が救われるための神の行為でした。神は、イスラエル民族の救おうとなさいましたが、彼らは神が送られた救い主イエス・キリストを受け入れませんでした。そこで、この救いは異邦人へと届けられるようになったのです。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてある通りです。かくして、イエス様は永遠の大祭司として今もここにおられます。イエス様に来て悔い改めるすべての者の罪を赦し、父なる神にとりなしてくださっています。あなたが、「イエス様、今日も私の罪を赦し、私をきよめてください。今日も私を神のみ前に立たせてください」と祈るなら、その通りになります。そして、イエス様が受けるべきすべての良いものをあなたは受けるのです。神の子の身分と永遠の命です。なぜなら、イエス様はあなたの代わりに十字架ですべての負い目を代りに受けてくださったからです。あなたはキリストにより神の子とされ、御国の世継ぎとされていることを心に刻むべきです。すなわち、天にあるあらゆる祝福を受け継いだものであると自覚しましょう。あなたが本当に信じて願うなら、それはあなたのものになるのです。

主に明け渡した者の報い:

礼拝に上ってきた人々の中にギリシヤ人がおり、その人たちがイエス様に会いたいと申し出たのです。それを受けて、イエス様は「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われました。福音は、イエス様の十字架の贖いによる罪の赦しです。この救いの福音が、ユダヤ人ばかりではなく、ここでは異邦人の代表であるギリシヤ人にも届いていることをイエス様は察知したのです。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」多くの人が永遠の命に至るためには一人の人が犠牲とならなければならない、ということです。それは、イエス様が十字架で死んでくださったという行為です。それゆえ、父なる神はキリストを高くあげて、すべての名にまさる名をお与えになったと書いています。それゆえ、今度は、イエス様はご自身に従うようにあなたに命じています。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」とあります。それは、もし、あなたが永遠のいのちを願うなら自己中心を捨てて、イエス様についてきなさいというのです。これは、あなたをイエス様に明け渡すということです。イエス様を信じている者は、この世のいのちが終わっても、永遠のいのちに与ります。私たちは、これ以上どのような報いを求めるでしょうか。私たちが欲しいのは、神からのこの一言です。「よくやったね。あなたが自慢だよ。わたしは、あなたを名誉に思うよ。」 神の、この一言でよいのではないでしょうか。この世であった苦労、苦しみ、悲しみはすべて過ぎ去って、神のことばが残るのです。そして、御国の宴に招かれているのです。