2018/09/09
2018/09/02
2018/08/26
2018年08月 19日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>創世記3章1~15節
3:1 さて、神である【主】が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」
3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
3:9 神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
3:11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
3:12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
3:13 そこで、神である【主】は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」
3:14 神である【主】は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。
3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
<要約>
罪の本質:
サタンは堕天使とも言います。堕落した天使です。神は、二種類のいのちを造られました。目に見えるものと見えないものです。いのちを持つもので、目に見えない存在が天使です。天使は、神をほめたたえ、神のみ心をなし、神の創造されたものに仕える存在です。元天使であった霊が、高慢と不従順のゆえに天から落とされたのが、サタンをかしらとするもろもろの悪霊たちです。彼らは、神に逆らい、み心を拒み続けます。聖書にはサタンは人殺しで嘘つきであると書いています。天使も悪霊も無数にいるといわれています。サタンが蛇の姿をとって人を誘惑しました。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」と。神のことばをまげて伝えています。神は、食べてはいけないのは善悪の知識の木だけ、と言われたのです。サタンはそれを「どんな木も」と言って、すべての木を禁止の対象としました。ここに誇張があります。サタンはこれにより、エバの心に神へのマイナスの思いを増大させています。同様に人がするうわさ話も必ず誇張があります。実際以上に悪く言うのです。ですから、うわさ話に対しては、サタンが背後でその人への信頼を落とそうと巧みに働いていることを知らなければなりません。蛇は、「触れただけで死ぬわけがないでしょう」と言わんばかりに、「あなたは決して死にません」と断言します。巧妙な手口です。これは神のことばの完全な否定です。逆なことを断言しています。そして、「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と言って、彼女を誘惑に落とすのです。この「神のようになり」というのは、罪の本質をついています。罪とは、人間が神になろうとするところから始まるからです。これは、人間が持つ強い誘惑です。神のようになって、何でもできる。決まりは自分で作る。誰にも命じられない、思うままに人を動かす、ほしいものは何でも手に入れる。最高権力ですべてを従えたい、というものです。 アダムがどのように罪を犯したか、もう一度まとめてみましょう。罪の本質は、みことばに対する不従順です。つぎに、悪魔のことばの採用です。神は食べれば死ぬといわれましたが、悪魔は食べても死なないといいました。人は悪魔を選んだのです。そして、人間の究極の欲望は、神のようになりたいということです。神のようになり、周囲の人々を自分の思うままにコントロールしたいというのです。
罪がもたらすもの:
その木の実は「食べるのによく、目に慕わしい、いかにも好ましかった」とあります。誘惑は華美で、素晴らしく映るのです。そして、食べたのです。誘惑に対しての敗北です。一線を越えてしまいました。ボーダーを超えてしまったのです。とって食べるという行為はとても簡単で容易な行為です。しかし、その重大さは計り知れません。「ちょっとくらい」という思いが雪だるまのように大きくなり、嘘に嘘を重ねるようになり、取り返しのつかないところまで来るのです。入り口は、簡単で容易に見えますが、その重大さは測り知れないのが、それが罪の性質です。私たちは、サタンと私たち自身が持つ罪の性質には注意しなければなりません。彼らが食べた後には、彼らが見えたものは、自分たちが裸である事実です。自分たちが恥ずべき存在であることの自覚です。罪は恥をもたらすということです。神の戒めを破った瞬間から良心にひびが入り、ごめんなさいといって、神に帰ることもせずに逃げ隠れしたのです。神は「あなたは、どこにいるのか」と問うています。これは、神が人を見失ったのではなく、人が神との交わりを絶ったからです。アダムもエバも神から問われたとき、他に罪を転嫁しています。これが人間の姿です。最終的には、神が悪いとするのです。こんな世界にしたのは神が悪い、もし神ならば、もっと良い世界を造れと言わんばかりです。堕落前は、神を主としていましたので、人は神の支配下にありましたが、堕落後は、人は罪に縛られて悪魔の支配下に移ったのです。ですから、現在、人類は悪魔の支配下で苦しんでいます。個人レベルでも国家レベルでもそうです。国は、戦争はいけないとわかっていても戦争をやめられないのです。個人レベルでは、健康に悪いとわかっていても悪い習慣をやめることができません。赦さなければならないとわかっていてもなかなか心で赦すことができない。これらは、悪魔の支配下で苦しんでいる人間の姿なのです。新約聖書は、このアダムの罪をどのように解釈しているでしょうか。ひとりのアダムの違反によって罪が入り、罪によって死が入り、こうして、全人類に死が入ったと書いています。アダムが全人類の代表となっています。これを聖書の代表性といえます。アダムの罪を全人類が引き継いだということです。私たちの代表の行動は私たち自身の行動と受け止められるのです。聖書はさらに、アダムだけの罪ではなく、その罪の性質が遺伝してすべての人は生まれながら罪びとであると宣言しているのです。ですから、堕落以降、生まれながらの人間は、本当の意味で神を知ることがなく、また、神がなさることを理解することができません。また、神を愛することも喜ばせることもできないししません。皆、悪魔の支配下にあるからです。でも、ご安心ください。イエス様は私たちを、悪魔の支配からキリストの支配に移してくださいました。イエス様の救いは、移動、引っ越しであるといいました。クリスチャンは、キリストの支配下にありますので、もう悪魔に支配されることはありません。では、どのように神は、悪魔の支配下から人を神の支配下、キリストの支配下に移してくださったのでしょうか。
原始福音:
そこで神は、15節をお与えになりました。これは原始福音と呼ばれるものです。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」おまえはサタンですから、サタンとエバの間に、そして、サタンの子孫と女の子孫との間に神が敵意を置く、というのです。この女の子孫は、単数であることからキリストを表しています。この「彼は」は、キリストで、サタンの頭を踏み砕くというのです。これはサタンとその力に対する完全な勝利を意味します。蛇を殺す一番の方法は頭を踏み潰すことだからです。「お前は彼のかかとにかみつく」これは、相手に激しい苦痛を与えるが、致命的なものにはならないというのです。神は、人の罪に対して、すぐに救いの道を計画なさりました。サタンは救い主を亡き者にしようとしました。最初は荒野で四十日四十夜、サタンはイエス様を誘惑しました。アダムはサタンの誘惑に落ちましたが、イエス様はみことばによってサタンの誘惑を退けました。落とすことができなかったサタンは、イエス様を抹殺しようともくろみます。そして、当時の宗教指導者たちや民衆を用いて、さらに弟子たちの裏切りを使って、ついに十字架で殺すに至るのです。これはサタンがキリストのかかとにかみついた瞬間です。一瞬、サタンは勝って、神は負けたかのように見えます。しかし、これは何という不思議でしょうか。また、神の知恵でしょうか。この負けと見える十字架刑により、キリストはすべての人の罪を、そしてあなたの罪をその身に負われました。すべての人の代わりに罪に対する神の怒りをキリストご自身がうけて、十字架で苦しみ死んでくださったのです。すなわち、人が受けるべき罪の裁きを代わりに受けて、あなたを無罪にしてくださったのです。「キリストの打ち傷によってあなたはいやされた。」とイザヤ書にある通りです。そればかりではなく、神はキリストの従順のゆえに、キリストを復活させて、それにあずかるものに永遠のいのちをお与えくださいます。これは、サタンの頭を踏み潰した瞬間です。サタンはもう、神の子キリストに勝利することはできないのです。このようにして、私たち信じる者はサタンの支配から、キリストの支配と移されました。アダムの違反によりすべての人に罪が入りました。しかし、イエス・キリストの従順と義の行為、それはとりもなおさず十字架であります。これにより、すべての人が義、すなわち神の前で正しいものとみなされて、永遠のいのちが与えられるということです。神が提供してくださるのは、罪と死と滅びからの救いです。どうすればそれをいただくことができるでしょうか。それは、ただいただくというだけです。なんの行いもいりません。信仰によって、いただくのです。自らの罪を認めて十字架を仰ぐことです。あなたは神のいのちといつながっているので、たとえ、地上のいのちが終わっても神のみ手の中で永遠を祝福と恵みの中で生きるのです。
人の創造と罪
2018年08月 12日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>創世記2章7~25節
2:7 神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。
2:8 神である【主】は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。
2:9 神である【主】は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。
2:10 一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。
2:11 第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れる。そこには金があった。
2:12 その地の金は、良質で、また、そこにはベドラハとしまめのうもあった。
2:13 第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れる。
2:14 第三の川の名はティグリス。それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。
2:15 神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
2:16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
2:18 神である【主】は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」
2:19 神である【主】は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。
2:20 人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。しかし人には、ふさわしい助け手が見つからなかった。
2:21 神である【主】は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。
2:22 神である【主】は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。
2:23 人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」
2:24 それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。
2:25 人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。
<要約>
人は神の似姿であり代理者:
神は、いのちの息を吹き込むことによって人をご自身のかたちに似せてつくられました。神のかたちに似せてつくられたということは、神のご性質や人格に似せて人をつくられたということです。それは、神は人を他の被造物と区別されたということです。神がいのちの息を吹き込まれた、それは神の霊です。ですから、人間は霊的な存在といえます。動物は霊がないので、神を求めることもありません。ですから、動物には宗教はありません。霊によって私たちは神のいのちとつながり、永遠に生きるものとされていました。しかし、人間は自分が神のようになれるという誘惑を受けて、自分を神の上に置こうとしました。そして戒めを破り、罪を犯してしまいました。そこで、人間は、堕落して、神から離れて真のいのちを失いました。神は人をおつくりになった後、人に使命をお与えになりました。それは、地を従え、すべての生き物を支配することです。つまり、管理することです。神は人をエデンの園に置き、そこを耕させ、そこを守らせたとあります。神は、世界を人の幸せのために用意され、さらに彼らにすべての被造物を管理させたのです。すべての被造物の長として支配させたのです。すなわち、人に仕事と使命を与えたのです。それはまた、人を神の代理者として地上を治めさせるということです。堕落前の人は、神からの知恵を用いて、地上のすべての物を正しく管理できました。ですから、人には素晴らしい労働と豊かな生活があったのです。現代も、人間は地上のあらゆる動植物を管理するものとしての使命を持っています。しかし、アダムの堕落以来、人は正しく管理することができずにいます。乱獲により絶滅寸前の動植物もあります。また、化石燃料の使い過ぎにより、地球温暖化が起こり、南極の氷は溶けだして海の水位が上昇して、水没しようとしている島国もあります。人が神中心の生き方から、人間中心の生き方を選んだ結果、正しく治めることができなくなったのです。それが現代に及んでいることです。神の代理人であったのに、自分が主人となった人間の姿です。それ以来人と神とは敵対関係にあるといえます。神の似姿であり代理者であるというのが、人の本来の姿です。今は、私たちはキリストにより神と和解して、親しい関係に入っています。神は再び私たちを神の代理者として立たせてくださっています。そして、神は私たちに使命と労働を与えておられます。また、今度は、神は私たちをキリストの代理者として、もう一度遣わしておられるのです。あなたは小さなキリストであることを忘れないでください。小さなキリストとしてあなたの隣人に仕えていくことです。また、隣人が神との和解を受けて幸せになるためにみことばを伝えるのです。
神のご支配にある自由:
神はすべての被造物を見て、そして、人がそれらを正しく管理している姿を見て、「非常に良かった」と思われました。そして、人は神のご支配のもとで祝福の中にいたということです。地上で考えうるあらゆる最善、幸せ、愛、喜び、感謝、平安を持っていました。神は、エデンの園に人を置き、そこで動物たちを管理させました。そこは理想郷という場所でした。神の清さと義が支配していました。神は人に自由意思を与えておられます。人は、それをもって神に完全に従う幸いを味わっていました。神は人にどのようにして自由を与えられたのでしょうか。それは、園の中央に善悪の知識の木を生えさせることによってです。人に自由を与えるために、善悪の知識の木を植えられたのです。神は人に命じて仰せられたとあります。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と。ボーダーを与えたのです。これ以上踏み込んではいけないという境界線を与えたのです。禁止命令です。どうして、自由を与えるために禁止命令を出したのでしょうか。境界線があって初めて人は自由になれるからです。幼稚園の園児も柵で囲まれた園庭にいることによって、安全に自由に遊べるのです。柵がなければ、道路から自動車が入ってきて、自由な空間ではなくなってしまいます。規則があって、範囲が決められて、人は初めて自由を味わえるのです。範囲も決まりを与えないのは放縦であって、自由ではありません。神は、善悪の知識の木を植えることにより、人が自らの自由意思をもって神に従うことを良しとしたのです。そこに愛と信頼の関係ができるからです。人はロボットや奴隷のようにではなく、自らの自由意思で強制されることもなく神に信頼を寄せることができます。これが、神と人、人格を持った者同士の愛と信頼と喜びの交わりなのです。善悪の知識の木の実を食べることは、人が神になりあがって、善悪の判断基準を自分のものとすることです。すなわち、神の上に自分を置くことになるのです。神は人間との関係に、秩序をお与えになったともいえます。神が上で人が下です。人が神の上に立とうとするとき、ボーダーを超えるということが起きるのです。原罪は、神が定めたボーダーを超えることから生じた罪です。神のご支配に入るということは、神を信じて、神のルールの中で自由を得ることです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」と、イエス様は招いています。
断絶の架け橋となった十字架:
人には、隣人が必要です。家族、友人、知人が必要です。人は自分のためだけに生きていくことにさみしさや虚しさを感じることが多いのです。人は、家族のために、隣人のために、他の人々のために生きる時にこそ喜びや意欲、生きる力が出てくるのです。ここで、最初の人アダムにとって初めての隣人であるエバが与えられました。そして、家族ができました。神の「生めよ増えよ、地を満たせ」という祝福の約束のように、この後、人類が形成されていきました。神は、人の関係を通して私たち一人ひとりに祝福を届けておられます。人は誰でも、父と母からこの世に生まれます。人にとって最初の隣人は、父母です。子どもとして父母のもとにいる間は親子、兄弟の関係の中で成長します。社会性を身につけます。そして、大人になって、独立します。独り立ちするのです。そして、また、新しい家庭を築くのです。彼らは裸であったが、恥ずかしいと思わなかったとあります。それは、彼らはまだ、罪を犯す前であったからです。彼らには罪がなく、心とことばと行いにおいて不一致がなかったのです。外側と内側に不一致はありません。私たちのように外側は正しく見えても内側には罪のけがれを隠しているというようなことはありません。透明性に富んでいました。悪魔の誘惑に乗って神に反逆して、堕落してしまうまでは恥ずかしさ、不面目、不名誉など罪に起因する感情はなかったのです。しかし、罪を犯した後、彼らは自分が裸であったことを恥ずかしく思うようになりました。そして、木の葉で身体を隠したとあります。そのアダムの罪の性質を受け継いだ私たちすべての人は不面目、羞恥心を持っています。外側は清く正しく見せても、内側は罪と汚れでいっぱいであるということがあります。聖書には、罪は人の内側から出ていると書いています。「悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです」と書いています。神は心を見られます。人は自分の内側を偽って表面上は正しく美しく見せているのです。また、人は神の上に自分を置いて、神から遠く離れ、神を認めず、自分を優先して生きています。そこに人間の根本的な罪があります。そのような罪を神は悲しんでおられるばかりでなく、人の罪を受け入れることはできません。なぜなら、人の罪は、神の清いご性質、つまり神の正しさとは相いれないものだからです。私たちは自ら罪によって聖い神に近づくことも神の前に立つこともできないのです。神は清く正しい神ですから、人のいかなる罪も赦すことができません。人は自らの罪のために滅びへと向かっていると言えます。それゆえ、神と人は断絶状態にあると言えます。そのような人間を神は惜しんで、「わたしに来なさい」と、招いておられます。そのために、神はイエス・キリストによって救いの道を用意してくださいました。キリストの十字架は、神と人の間の断絶に橋を架けて、あなたのところに来て、あなたを招いておられるのです。
四日までの創造
2018年08月 05日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>創世記1章1~19節
1:1 初めに、神が天と地を創造した。
1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
1:3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
1:4 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。
1:6 神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」
1:7 神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。
1:8 神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。
1:9 神は仰せられた。「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」そのようになった。
1:10 神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。
1:11 神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。
1:12 地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。
1:13 夕があり、朝があった。第三日。
1:14 神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。
1:15 また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。
1:16 神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。
1:17 神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、
1:18 また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた。
1:19 夕があり、朝があった。第四日。
<要約>
人は生きる意味を求めている:
創造の目的は二つあります。神はご自身の栄光のために世界をつくられたということです。ご自身が崇められるために万物は存在しているのです。天地創造のもう一つの目的は、人に栄光と誉の冠をお与えになるためにです。平たく言うと、人間をこの上もなく幸福にするためにです。詩篇8章には、「神は人を神よりいくらか劣るものとし、栄光の誉れの冠をかぶらせた」とあります。ここから、神が人をどのように見ておられるのかがわかります。神は、人を高価で貴い存在として、栄光と誉がふさわしい価値あるものと見て下さっています。それは、王にあっては王子の身分と言えます。聖書は、キリストを信じる者は神の子とされる身分が与えられると書いています。これはとりもなおさず、あなたがこの上もなく幸福となるために、あなたに神の子の身分を与え、世界を造られたということです。 神は、このように、目的と意図をもって全世界をおつくりになりました。それに対して、万物は偶然にできたという考え方があります。ある日突然、偶然に物ができた、さらに偶然と偶然が重なり、生命ができた。そして、環境に適応して生命は進化して、単細胞生物から複雑な生命体に代わり、類人猿が生まれて、最後に人間になった、という考え方です。偶然は意味を語りません。突き詰めて言えば、偶然にできたというのは、存在の意味はないということです。人は意味を持たなければ生きることはできません。私たちは、毎日の生活で何らかの意味を見出して生きています。生活のために仕事をします。それを通して家族が幸せになるため、愛する人々のためにつらい仕事もこなします。どろぼうも自分の家族や子供たちを養うためにそれを仕事として行っているのだということです。良きも悪しきもそれなりの意味を見出して生きています。その意味を失ったときに人間は生きていくことができなくなります。聖書は、人間の存在の意味を教えています。その価値を教えています。聖書はあなたの存在の意味と価値を教えています。神の栄光のために、神が崇められるためにあなたに命を与え、あなたに目的と使命、価値をお与えになったのです。 神が万物を創造した目的は、神がほめたたえられること。そして、神があなたを愛して、あなたが幸せになり、幸せなあなたによって神が崇められることなのです。神はあなたにいのちを与え、使命を与えておられます。自分のためだけに生きても、人は幸せになれません。あなたのいのちを神と人のために使う時にこそ、本当の幸いな生き方ができるのです。
人のために地は整えられた:
1節は、神は最初に天と地をつくられました。対照的な二つのことば、天と地、を用いて全体を表しています。すなわち、天と地は万物を意味します。天は、目に見えない神の臨在を表すところで、地は目に見える宇宙と地上を指しています。天は目には見えませんが、神のご支配と臨在です。神は、目に見えるいのちと、目に見えないいのちをおつくりになりました。目に見えるいのちは、人間と動物です。目に見えないいのちは天使です。天使は、性別もなく、死もなく、そして罪もない被造物です。神と人に仕える者たちです。神がこの天の領域で造られた者が天使です。それは、霊的存在です。しかし、神がおつくりになった天使の中のある者たちは、高慢になり、神に反抗して神のご支配である天から落とされました。それが、サタンと呼ばれる悪魔と無数の悪霊です。2節からは、地の領域に属するものの創造が書かれています。そして、19節までに、創造が完成する6日のうち4日までに整えられたものが書かれています。それは、地上と海と空と太陽、月、星、植物など、人間と動物がすむための環境となるものです。神は、光よあれ、と命じて光ができました。光がなければ、私たちは物が見えません。また、光がなければ光合成による植物の生育もありません。温熱も赤外線という目に見えない光です。次に神は、水をおつくりになりました。地球は水の惑星と言われているほど豊富な水によってできています。生命のためには水は欠かせません。宇宙探索でも生命の存在の条件として水のある惑星を探しました。火星など地球より外があにある惑星には水があります。しかし、すべて氷になっています。水であっても液体でなければ生命に役立ちません。次に神は大空をおつくりになりました。これは、地球の大気です。大空の上の水とは水蒸気層であると思います。下の水とは海であります。海は、海流により地球の温度を保っています。地球の大気の層はわずか、地球の半径の1%程度だそうです。宇宙から見れば非常に薄い青色の層です。大気の役割は何でしょうか。大気は、宇宙からくる有害な放射線をブロックしています。また、空気の層には気流が発生して地上の温度を一定に保っています。大気には生命に必要な酸素、窒素、わずかな二酸化炭素が含まれております。これも絶妙なバランスです。酸素は動物のために、二酸化炭素は植物の光合成のために、重要です。三日目に、「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」と言われ、乾いたところ、陸ができました。陸も海も地球の地殻の上に載っています。陸は言うまでもなく、人間を含めて動植物が住むところです。地殻は動いています。地殻の中身は鉄を中心とした重い物質で、内部はドロドロに溶けています。そして、対流しており、その流れによって地磁気が発生しています。地磁気は太陽からくる有害な電磁波をブロックして、大気の層を守りひいては地上の生命を守っています。陸地には、植物が創造されました。それは、次につくられる動物たちの食べ物となりました。つぎに、四日目に、太陽、月、星々です。太陽の必要性については、言うまでもありません。しかし、地球の太陽からの距離は非常に重要で、狭い範囲を公転しています。もし、公転軌道が5%太陽に近づいたら高温のために今の地球環境は保たれません。また、地球には地球の直径の四分の一もある大きな衛星、月が公転しています。そして、地軸は23.5度傾いており、月の引力によって潮の満ち引き、そして地球の自転により海流が発生しています。また、地軸の傾きにより、春夏秋冬があり、生命にとって最適な環境を与えています。宇宙物理学者によると、人間のような高等生物が生きるための環境がこの宇宙で整えられる確率は一千兆分の一だそうです。宇宙には一千億の銀河があると言っても、地球はまことに稀有な惑星であると言えます。無数の星があり、無数の惑星があっても確率的には地球のような高等生命をはぐくむ星は無に等しいのです。宇宙観測が進めば進むほどに、被造物の存在は偶然ではないことに気付かされています。そして、先端の宇宙物理学者は、インテリジェントデザイナーの存在を認めつつあります。しかし、それを神とは言わないのです。人間の罪の性質が神を認めようとしないのです。これらのことを考えると、実にこの地球も太陽も、月も地上に生きる生命のためにあつらえられたと言えます。聖書によると、この地は特に人のために意図して造られたといえます。
みことばはあなたを生かす:
「神は仰せられる」という行為によって万物がつくられました。仰せられたという言葉は、命じたという意味もありますが、宣言したといえると思います。神はみことばという手段で、世界を創造なさいました。このように、世界は六日間でできたのです。現在の動植物の食物連鎖を考えると短い期間に一緒に創造される必要があります。たとえば、草木には受粉のために蜂が必要です。蜂のためにも蜜を与える花が必要です。ですから、本当に一週間で造られたというのは地上の動物や植物がともに生存するためにはリーズナブルな期間であるのです。創造は、神のことばによって始まりました。そして、神のことばは全宇宙を保っておられます。現在も神の創造の御業は行われ続けています。あなたも、神の目的とご計画によって、この地上に生まれてきたのです。それは創造の初めからのご計画です。そして、神のみことばを聞いて、自分が神から離れていたことを知りました。造り主である方を無視して生きていたことにあなたは気づきました。神のみことばによって罪がわかりました。そして、みことばで、イエス様とお会いしました。みことばによりイエス・キリストの十字架が自分のためであったことを知りました。みことばにより、イエス様が罪を代わりに受けて十字架で死んでくださったことがわかりました。そして、すべての罪が赦されていることを信じることができました。みことばにより永遠のいのちが与えられていることがわかりました。また、あなたは聖書のみことばによって、日々神のお取り扱いを受けているのです。また、礼拝に集い、聖礼典を通して、メッセージを通して、今週もイエス様は生けるパンとなってあなたに神のいのちを注いでくださっています。神には偶然という言葉はありません。神はあなたにご計画を持っておられます。また、あなたが今直面している様々な問題にみ言葉を通してお語りになっています。それは、あなたが、幸いを得て幸せになるためです。悩みの中にいる方、困難の中にいる方、心の願いを神に申し上げましょう。神は心配してくださるからです。信仰を働かせて、みことばを握ってゆきましょう。神は、あなたを幸せにしたいと願っておられるからです。忍耐がいるでしょう。しかし、主イエスを信頼し続けることが大切です。
神さまのビジョンは私のビジョン
2018年07月 29日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢執事 崔誠宰
<聖書>Ⅱペテロ3章8~13節
3:8 しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
3:10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
3:11 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。
3:12 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
3:13 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
関係回復への招き
2018年07月 22日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>使徒の働き15:1~17
15:1 さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。
15:2 そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。
15:3 彼らは教会の人々に見送られ、フェニキヤとサマリヤを通る道々で、異邦人の改宗のことを詳しく話したので、すべての兄弟たちに大きな喜びをもたらした。
15:4 エルサレムに着くと、彼らは教会と使徒たちと長老たちに迎えられ、神が彼らとともにいて行われたことを、みなに報告した。
15:5 しかし、パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである」と言った。
15:6 そこで使徒たちと長老たちは、この問題を検討するために集まった。
15:7 激しい論争があって後、ペテロが立ち上がって言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。
15:8 そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、
15:9 私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。
15:10 それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。
15:11 私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」
15:12 すると、全会衆は沈黙してしまった。そして、バルナバとパウロが、彼らを通して神が異邦人の間で行われたしるしと不思議なわざについて話すのに、耳を傾けた。
15:13 ふたりが話し終えると、ヤコブがこう言った。「兄弟たち。私の言うことを聞いてください。
15:14 神が初めに、どのように異邦人を顧みて、その中から御名をもって呼ばれる民をお召しになったかは、シメオンが説明したとおりです。
15:15 預言者たちのことばもこれと一致しており、それにはこう書いてあります。
15:16 『この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。
15:17 それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。
<要約>
行いによっては救われない:
ユダヤ教から信じてクリスチャンになったある人々が、エルサレムからアンテオキアに来て、教会の人々に「兄弟たち、モーセが命じた割礼を受けなければあなた方は救われない」と言い出したのです。そして、割礼を主張するユダヤ人クリスチャンと激しい対立となったのです。そこで、彼らはエルサレム教会で、議論してもらい、教会会議に諮ることにしました。二人はエルサレムに着いて、「教会と使徒と長老たちに迎えられ、神が彼らと共にいて行われたことを、皆に報告した」のです。そこで開かれたのは、AD50年に開催された、エルサレム教会会議です。果たして、救われるためには割礼が必要なのか、律法を守ることができなければ救われないのか、という議論です。パリサイ派出身のパウロも、キリストに救われる前までは、厳格に律法を遵守していました。パウロは「律法による義についてなら、非難されるところもない」と言っています。すなわち、以前のパウロは、律法を厳しく守って自分は義とされている、だから神の前で正しい人間だと思っていました。このように、パリサイ人たちにとって、律法は、自分の正しさを主張するためのものとなっていました。自分を立派で美しく見せるための道具としていたのです。それを自己義認と言います。そして、彼らは神に対しても自分を正しい人間であると主張していたのです。そこにはへりくだった悔いた心はありません。神の嫌われる高慢な心があります。彼らは神がお与えになった律法を誤用していました。律法は人が自らの正しさを証明するためのものではなく、むしろ、罪を示されて神の前に謙遜にさせられるためのものです。ペテロはそのことに気付いていました。そして、ペテロは言います。「律法は父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきであった」と。十戒にある、父と母を敬え、姦淫してはいけない、殺してはいけない、盗んではいけない、偽証してはいけない、など表面的には、守ることができることでしょう。しかし、心をご覧になる神の前では、誰一人守ることができないのです。そのことで反って責められるのです。つまり、自分の罪に気付かされるのです。人は行いによって神に近づくことはできません。神は心を見られるからです。いくら純粋に見える行為でも、人は神に栄光を帰すのでなければ、それを自分の栄誉にしてしまうからです。そこに、罪深い人間の姿があります。良い行い、善行を積んだら神はそれを評価して、天国へ導いてくださるでしょうか。誤りです。天国へ入るための条件は、罪が完全に赦されていることのみです。すなわち、その人には全く罪が認められないことです。聖書は、キリストの十字架以外にあなたの罪をきよめるものは何もないと主張しています。救いは外にあります。わたしの内にはありません。人間の内にはありません。いくら内側をきよめようと難行苦行を積んでも、人間は聖くなりません。行いは救いの条件ではないということです。では、行いはいらないのでしょうか。否、ヤコブ書には「行いのない信仰は死んだものだ」言っています。キリストを信じている人は、感謝と喜びから、主のために何かをしたい、自分にできることをしたいと思うのです。その行いを神は喜んで評価してくださるのです。
恵みによって救われる:
ユダヤ人たちには強い選民思想というのがあって、まず、一つの疑問は、異邦人は本当に救われるのか、というものでした。また、もし、異邦人が救われるのであれば、異邦人もまず、ユダヤ人のようになってから、ユダヤ人の習慣に習って、また、モーセの律法に沿った生活をしてからでないと、イエスの十字架の救いに預かれないと思っていたのかもしれません。よく、もう少しまじめな人間になってから、もう少し、良い人間になってから、教会に来ますという人がいます。それは間違いです。ありのままで神の前に来ればよいのです。悔いた低い心で来ればよいのです。ペテロは「私たちは主イエスの恵によって救われたのです。」と言いました。この後、パウロはローマ人への手紙や他のたくさんの手紙の中で、このただ信じるだけで、恵みにより救われるという、信仰義認の問題を、何度も説いております。人間の力や、よい行いによっては救われない、つまり、律法によっては救われない、ただ思いを変えて、自分の罪を悔い改め、イエスキリストの十字架のあがないを信じ、キリストに従っていくこと、によってのみ救われるのです。また、どんな過去に罪や過ちがあっても、もし、悔い改めて、キリストの十字架を仰ぎ見れば、すべての罪が赦される、ということです。私たちはそれぞれに過去の経験というものをもっています。それをよりどころとしているということがあります。それはとても大切ですし、当たり前のことでもあります。難しい手術をこなすベテランの外科医は、たくさんの手術の経験を持っていて、技術を磨いてきた人です。その経験に頼って困難な手術も成功させることができるのです。しかし、信仰義認、神様の前で罪赦されて救われるのには、過去の経験や実績も関係ありません。ただ、ただ信じて救われるのです。信じて神の前で正しいものとされるのです。人間的な力や努力や才能も全く無力にしたのがこの福音です。誰でも幼子のようにならなければ神の国を見ることができません。とあるとおりです。信仰による義は、イエス様の十字架の死が自分のためであった、あるいは自分がイエスを十字架につけたと認め、神の許しの約束を握るというところから来る平安と喜びです。
備えられた神との関係回復の道:
ヤコブは、バルナバとパウロが会衆に語り終えるのを待って、立ち上がりました。ヤコブの説教は始まります。神が異邦人を顧みて、「御名をもって呼ばれる民」を起こしてくださった事は、先に、シメオンが説明した通りです。と口火を切りました。このシメオンというのは、シモンのヘブル語で、シモン・ペテロのことです。すなわち、今までは、ユダヤ人だけが神に選ばれた神の民という認識でしたが、コルネリオの回心という事件を通して、神は、異邦人もご自身の民となさることを明らかに示されました。そして、そのことは、今になって言われたことではなく、昔の預言者が語っていたことだと、説明します。「この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。」とあります。「わたしは帰ってきて」というのは、父と同格の御子イエス様が来られたことです。「倒れたダビデの幕屋」「廃墟と化した幕屋」は同じ意味です。幕屋は天国の模型でした。すなわち、サタンによって奪い取られたこの地に、神のご支配を回復するということです。イエス様は、宣教の初めに「神の国は近づいた」と言って、ガリラヤで立ち上がりました。サタンが支配しているこの世に、神の国の到来を告げたのです。ですから、もうここに神の国は来ています。このエルサレム会議以来、パウロを中心として、異邦人社会に福音が届けられるようになり、現在は全世界に及んでいます。そして、最後「それを元どおりにする」。これは壊れた幕屋を元どおりにする、ということです。この霊的意味は、アダムの罪以来、壊れてしまっていた人と神との関係を元どおりにするということです。最初の人アダムは、神に逆らい罪を犯してしまいました。それにより、神との関係は完全に壊れてしまいました。その神との断絶は、アダムの罪を受け継いだ全人類に及んでいます。しかし、そのすぐ後、救い主の到来の預言がなされたのです。女の子孫に救い主が表れ、彼は、サタンにかかとを噛まれるが、その足でサタンの頭を踏み砕くというのです。神のその預言はどのように成就したのでしょうか。紀元前二千年ころ、神はメソポタミアにいた一人の人アブラハムを選び、アブラハムに約束を与えられました。神はアブラハムを祝福し、地上のすべての民族は彼によって祝福されるということです。アブラハムの子孫であるイスラエル民族の中から全人類の救い主イエス・キリストが与えられました。全人類は、イエス・キリストにより祝福されています。また、神との関係回復を得ています。キリストを信じる者はすべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられ、神の国の世継ぎとされ、天国のあらゆる祝福と富をいただくことができるからです。このように神との関係回復の道が供えられました。そして、とき至って、今、その神との関係回復にあなたも招かれています。
みことばは必ず成る
2018年07月 15日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>使徒の働き12章1~17節
12:1 そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、
12:2 ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。
12:3 それがユダヤ人の気に入ったのを見て、次にはペテロをも捕らえにかかった。それは、種なしパンの祝いの時期であった。
12:4 ヘロデはペテロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。それは、過越の祭りの後に、民の前に引き出す考えであったからである。
12:5 こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。
12:6 ところでヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寝ており、戸口には番兵たちが牢を監視していた。
12:7 すると突然、主の御使いが現れ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。
12:8 そして御使いが、「帯を締めて、くつをはきなさい」と言うので、彼はそのとおりにした。すると、「上着を着て、私について来なさい」と言った。
12:9 そこで、外に出て、御使いについて行った。彼には御使いのしている事が現実の事だとはわからず、幻を見ているのだと思われた。
12:10 彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。そこで、彼らは外に出て、ある通りを進んで行くと、御使いは、たちまち彼を離れた。
12:11 そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私を救い出してくださったのだ。」
12:12 こうとわかったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。
12:13 彼が入口の戸をたたくと、ロダという女中が応対に出て来た。
12:14 ところが、ペテロの声だとわかると、喜びのあまり門をあけもしないで、奥へ駆け込み、ペテロが門の外に立っていることをみなに知らせた。
12:15 彼らは、「あなたは気が狂っているのだ」と言ったが、彼女はほんとうだと言い張った。そこで彼らは、「それは彼の御使いだ」と言っていた。
12:16 しかし、ペテロはたたき続けていた。彼らが門をあけると、そこにペテロがいたので、非常に驚いた。
12:17 しかし彼は、手ぶりで彼らを静かにさせ、主がどのようにして牢から救い出してくださったかを、彼らに話して聞かせた。それから、「このことをヤコブと兄弟たちに知らせてください」と言って、ほかの所へ出て行った。
<要約>
最悪の中に神のご計画がある:
国家の最高権力者によって、初代教会は最も重要な人物が捕えられて、殺されようとしています。エルサレムの教会は窮地に立たされていました。ペテロは牢の中で、決して逃げられない。絶体絶命、教会にとってもなすすべがない状態でした。イエス様の直弟子であり、教会のリーダーの一人ヤコブが殺されました。さらに、イエス様が、「あなたの上に私の教会を建てる」と言われたペテロが明日殺されようとしているのです。最悪の状況の中で、教会は祈りました。そこに神のご計画があらわされました。ペテロが救出されたのは、絶対起こりえないことが起こったということです。ペテロは二本の鎖に繋がれて二人の兵士の間で寝ていたというのです。翌朝殺されようとする前の晩のことです。すると突然、主の使いが現れ、光が牢屋を照らしました。御使いはペテロの脇腹を叩いて起こし、「急いで立ち上がりなさい」と言いました。すると鎖が彼の手から落ちたのです。立ち上がった。そうしたら鎖が落ちたのです。神は御使いを用いて、ペテロを牢獄から救出したのです。出口のないトンネルはない、開けない夜はない、同じように、試練や困難にも脱出の道はあるのです。日本では、ここ毎年のように、豪雨の被害を受けています。今年は西日本で、広範囲にわたり大雨による被害があり、大勢の人々が命を失いました。豪雨の災害は日本中、どこででも起こりうるそうです。災害にあった人、災害に会わなかった人、そこには何の違いもありません。今日の聖書のはなしを見ても、ペテロは救出されたのにヤコブは殺された、ということです。どうしてそのように片一方は救出されもう片一方は救出されることなく死んでしまったのでしょうか。しかし、その答えはありません。この世はそのような疑問で満ちています。しかし、神はすべてを知っておられるということです。人間は神のなさることを完全には理解できません。もし、人間の思考や理性の中に神様をすっぽりと入れることができるならばそれは神ではありません。それは、人間が考え出した神と言うことでしょう。それは真の神ではありません。はっきりしていることは、神は愛の方であるということです。神はご自身の独り子のいのちを与えてもよいと思われるくらい、人間を愛しておられるということです。キリストの十字架を見るとそれがわかります。十字架が語っているのは、私たち一人一人に対する神の愛です。言葉で言い尽くすことのできない愛です。十字架のメッセージは全世界の真の教会で毎週のように語られております。二千年間も語ってきたのに、語り尽くせないのです。私たちは、近視眼で、目先の事しか見えません。しかし、長いスパンで見ると、神の最善がなされています。聖書の預言は必ず成就しています。それは歴史が証明しています。もし、あなたが、今、試練や困難の中にいるのでしたら、あなたにいのちを与えて、あなたを愛しておられる神を信頼して見て下さい。必ず、神の最善が明らかにされる時が来ます。
祈りは状況を変える:
ペテロが捕えられて殺されることになったとき、教会は彼のために、神に熱心に祈り続けたと書かれています。窮地に陥れられたときすべきただ一つのことは祈りです。どんな所でもどんな状況でも私たちは祈りに向かうべきです。熱心な祈りは神を動かすのです。また祈りに期待しなければ、結果を見ることができません。彼らは、徹夜の祈り会をしていました。リーダーのペテロもヤコブを取りされる。これから教会はどうなるのだろうか。不安でいっぱいでした。しかし、最終的には、「みこころがなりますように」と祈ったでしょう。私たちも困難に会ったとき、御心が最善であると信じ「御心がなりますように」と祈りましょう。彼らは、ペテロが救出されるとは思っていなかったことがわかります。予期していない神のみわざに彼らは驚き、さらに神を恐れたのです。私たちが、なすすべがない、何にもできない、と言うときも、祈りはできるのです。人生には絶対起こりえないと思うことが起こるのです。神さまの奇跡を見るのです。最大の奇跡は救われるはずがない人が救われたということではないでしょうか。祈りは状況を変えます。たとえ、願ったように外的状況は開けなくても、祈るものの内的状況、心の状況は変わります。祈ることによって、神は全能であることを思い起こします。祈ることによって、神は愛の方であることを思い起こします。祈ることによって、神が最善をなしてくださることを確信するからです。ですから、皆さん、いつも祈りましょう。
神のみことば止められない:
ヘロデ・アグリッパはユダヤ全土を統括する王でした。彼の策略によっても、神の言葉を止める事はできませんでした。悪魔はキリスト教を撲滅させようとしました。歴史を通して働いています。紀元303年ローマ皇帝ディオクリティアヌスは世界中の聖書を集めて焼き払いました。ローマ帝国内に1冊も聖書がないと言う状態までしました。しかし、その約10年後にはキリスト教はローマ帝国の国教となったのです。近世になっても、聖書撲滅を試みた人々がいます。しかし、聖書は消失することはありません。逆に、聖書はあらゆる言語に翻訳されて、今も全世界に広がり続けています。ここに神の勝利があります。人間、そして、悪魔のいかなる策略に対しても聖書の言葉、神のみ言葉は決して止めることはできないのです。苦しみの中にもみ言葉は流れています。神のみことばは止めることのできません。その証をします。2014年2月に、クリスチャンの友人夫妻の次男が20歳の若さで突然亡くなりました。大学時代、教会で一緒の兄姉です。なぜ、どうしてそんなに若くして亡くなったのか、答えは出ないのです。4年半もなりますが、現在も、痛みと悲しみがあります。しかし、朝晩、夫婦で神の御前に出て、聖書を読み、祈っていると聞きました。神と交わる時間を持っています。それにより、神と親しい交わりの中に入れられています。今は次男の死の意味がわからない。しかし、いつかあるいは御国で知ることができるのです。みことばは止められることなく、彼らのうちに流れ続けています。永遠の希望に生きているのです。もう一つは、ハレルヤ保育園の園児の教育に係る証です。今から約20年前のことです。順兄が岡山の倉敷市にある川崎医科大学に入学した年のことです。5月の連休に関西方面へ家族旅行をしました。彼は最初のころ、西大寺キリスト教会に通っておりました。私たちは旅行中の主日に、そこで礼拝を守りました。その時教会の隣に大きな建物があり、そこには教会の幼稚園がありましたので、見学させてもらいました。そこで初めて、モンテッソーリ教育に出会ったのです。盛岡に帰って、その教育法について学び、これだと思いました。そして、ハレルヤ保育園にモンテッソーリ教育を導入することをきめたのです。私たちは西大寺キリスト教会の隣に教会の三倍くらい大きな立派な幼稚園を見た時は、なんでこんな大きな立派な建物があるのだろうかと思いました。その後で、耳にした話ですが、その時を遡る数年前に教会は大変な試練にあったのです。窮地に立たされたのです。教会のキャンプで連れて行った中学生が海に溺れて死亡したのです。教会全体が冷え込み、牧師は責任をとって辞任したのです。その後、新しい牧師が使わされてきました。祈りの中で、その牧師に与えられたことは、溺死した子どものことを覚えて、子どもに宣教していくというビジョンでした。そして、その大きな建物が与えられました。そこで、モンテッソーリ教育に取り組んだのです。苦しみを通して与えられた宣教のみ言葉は止まることがありません。そして、宣教のみことばはハレルヤ保育園にも流れています。そしてこのチャペルに流れているのです。最後に、イザヤ書のみことばを読んで終わります。「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」