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立派な信仰とは?

2023年4月23日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書15章21~28節
【新改訳2017】
15:21 イエスはそこを去ってツロとシドンの地方に退かれた。
15:22 すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。
15:23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。」
15:24 イエスは答えられた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」
15:25 しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ、私をお助けください。」
15:26 すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」
15:27 しかし、彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」
15:28 そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。

<要約>

信仰の試練と勝利:

イエス様を見た彼女は、「わたしを憐れんでください。娘が悪霊に着かれて苦しんでいます。救ってください」と叫び続けました。イエス様は沈黙を守られ、女性を無視されたということです。彼女には願いがくじかれ、信仰の試練の時と言えます。このひれ伏して懇願する女性に対して、イエス様はどう答えられたのでしょうか。「子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのはよくないことです」と。しかし、この女性は、冷静で機知に富んだ返答をしております。「主よ。その通りです。ただ子犬でも主人の食卓から落ちたパンくずは頂きます」と。イエス様のとの対話の中で、直観的にこの方こそ真の救い主、この方に信頼する者は失望されることがない、と確信に至ったのです。神の癒しと救いは、試練を通して与えられるということがあります。現実、多くの方々は、病を通して、また、様々な試練を通して、自分の限界を知らされ、真の神に立ち返って、信じて洗礼を受けます。この女性は信仰の戦いに勝利しました。

愛と恵の主キリスト:

この女性に対して、「あなたの信仰は立派です」と、信仰を褒めてくださいました。神は高慢な心ではなく、悔いた低い心を喜ばれます。イエス様は、あなたの命を大切に思っておられる愛の神です。そして、受けるに値しない私たち罪人に無条件の愛を注がれる恵の神です。キリストの十字架、それは苦しみと悲しみと絶望を意味します。神が人となって世に来られた。わざわざ、人の罪を担い、その代価を払うために身代わりとなって、裁かれ、死んでくださいました。これこそが人類史上、最大の不条理です。神が、天のみ位を捨てる意味がどこにあるのでしょうか。天のみ位に座しておられるからこそ神と言えるのではないでしょうか。でも、神は人を愛し、人が自らの罪のために滅びることを惜しまれて、死の滅びから救うために神の独り子を世に与え、十字架におかけになったのです。そして神は、死に至るまで従い通したキリストを死者のうちから蘇らせたのです。それがキリストの復活です。最後の敵である死を完全に打ち破ったのです。そのことにより、信じる者は罪赦されて復活のいのち、永遠のいのちを頂くのです。決して失望に終わらない希望を神は約束しておられます。

悲しみは喜びに変えられる

2023年4月2日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書28章1~10、16~20節
【新改訳2017】
28:1 さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。
28:2 すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。
28:3 その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。
28:4 その恐ろしさに番兵たちは震え上がり、死人のようになった。
28:5 御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。
28:6 ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。
28:7 そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。」
28:8 彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。
28:9 すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。
28:10 イエスは言われた。「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」
28:11 彼女たちが行き着かないうちに、番兵たちが何人か都に戻って、起こったことをすべて祭司長たちに報告した。
28:12 そこで祭司長たちは長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、
28:13 こう言った。「『弟子たちが夜やって来て、われわれが眠っている間にイエスを盗んで行った』と言いなさい。
28:14 もしこのことが総督の耳に入っても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」
28:15 そこで、彼らは金をもらって、言われたとおりにした。それで、この話は今日までユダヤ人の間に広まっている。
28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。
28:17 そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。
28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。
28:19 ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
28:20 わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

<要約>
世の権威は自由を奪い不安と恐れを与える:

一般に、人間が権威を持つと、それが権力となって、さらに決定権を握ります。国の最高権威を握った人は、行政や司法の決定権を握り独裁者となり、人のいのちを殺めたり人のいのちを救ったり、人々を思うままに動かし、自分に栄光を帰そうとします。そして、人民は自由を奪われています。独裁者に逆らうものであれば、命の危険もあります。聖書は何と言っているでしょうか。私たちは人を恐れるより、神を恐れなさいと言っています。真の権威、すべての権威を持っておられる方はただ一人、神です。そして、人は偏った裁きを与えますが、正しくさばかれるのは主です。イエス様に再びお会いするまでは、弟子たちは悲しみ、恐れ、不安、失望を味わっていたことでしょう。しかし、どんでん返しが起きました。イエス様は復活したのです。悲しみは喜びに恐れ不安は平安に、失望は希望に代えられたのです。心の目でイエス様を見て心の耳で聞くならば、あなたにご自身を現してくださいます。信じて一歩を踏み出していただきたいと思います。

キリストの権威は罪を赦し自由を与える:

人の生き死にもキリストの手の中にあります、世界がいつ終わるかも彼の手にあります。一国の盛衰も彼の手の中にあるのです。また、あなたや私の一個人が何をするべきか、あるいは何をするべきでないかについても権威をもっています。ではどのようにして、イエス様にそのようなすべての権威が与えられたのでしょうか。それは、 神であられるのにイエス様は、最もへりくだられてこの世に来られ、ご自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。それゆえ、神は、この方を高くあげてすべての名にまさる名を与えになりました。神の御子イエス様は愛とあわれみに富んでおられるかたです。イエス様は あなたを生かしあなたに何物にも奪われることのない本当の自由をお与えくださるのです。なぜ、人は自由になれないのでしょうか。人が真の自由を得ることができないのは、生まれながら持っている罪のためです。すべての人はこの罪と死と滅びの法則に縛られて、自由になれないのです。しかし、イエス様は十字架と復活により、すべての人の罪を取り除き、罪と死の原理から解放してくださいました。イエス様は あなたを生かしあなたに何物にも奪われることのない本当の自由をお与えくださるのです。

十字架の最後のことば

2023年3月26日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨハネの福音書19章17~30節
【新改訳2017】
19:17 イエスは自分で十字架を負って、「どくろの場所」と呼ばれるところに出て行かれた。そこは、ヘブル語ではゴルゴタと呼ばれている。
19:18 彼らはその場所でイエスを十字架につけた。また、イエスを真ん中にして、こちら側とあちら側に、ほかの二人の者を一緒に十字架につけた。
19:19 ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と書かれていた。
19:20 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。それはヘブル語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。
19:21 そこで、ユダヤ人の祭司長たちはピラトに、「ユダヤ人の王と書かないで、この者はユダヤ人の王と自称したと書いてください」と言った。
19:22 ピラトは答えた。「私が書いたものは、書いたままにしておけ。」
19:23 さて、兵士たちはイエスを十字架につけると、その衣を取って四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。また下着も取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目のないものであった。
19:24 そのため、彼らは互いに言った。「これは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」これは、「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします」とある聖書が成就するためであった。それで、兵士たちはそのように行った。
19:25 イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。
19:26 イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
19:27 それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。
19:28 それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。
19:29 酸いぶどう酒がいっぱい入った器がそこに置いてあったので、兵士たちは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝に付けて、イエスの口もとに差し出した。
19:30 イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。

<要約>

キリストが十字架で死んだ意味:

イエス様は、十字架の上でいくつかのことばを残されました。最後のことばは「完了した」です。これは「イエス様の生涯はこの十字架にかかるためにあった」ということの証言です。イエス様は、全人類の罪を背負ってくださった。人間を罪と死と滅びの原理から解放しました。人類に救いの道を切り開いてくださったのです。そして、神は、最後まで従い通し死んで葬られたキリストを死者の中からよみがえらせてくださったのです。復活したキリストは振り返ってそこにやり遂げた喜びと満足を見たのです。実に、キリストの十字架の意味はそこにあったのです。イエス様は十字架で人の罪を取り除くために人となって、私たちのところに来てくださったのです。

キリストの十字架がもたらしたこと:

キリストの十字架は何をもたらしたのでしょうか。第一に救いです。ある高松市の女性のことを紹介します。一人息子が自殺しました。その後を追うために、高松のホテルで服薬自殺しようと宿泊するのでした。しかし、備え付けのギデオン聖書を開いて読んでいるうちに、自分のうちにも光が見えてきたのです。彼女はクリスチャンとなりました。第二に聖霊です。聖霊は三位一体の神です。聖霊にはご人格があります。ご意思を持っておられますので神の御心を推し進めようとなさっております。神は全地をごらんになり御心と一致しているものをお用いになります。第三は癒しです。約15年前、月が丘教会のある姉妹のことを思い出します。肺の病気で酸素を吸っても息苦しい状況にありました。いつも癒しのために祈っていましたが、私たちが願ったかたちではなかったですが、最終的にはこの肉体を脱ぎ捨てて苦しみから解放され、今は死も苦しみも悲しみもない天国におります。ここに完全な癒しがあるといえるのではないでしょうか。第四に永遠のいのちです。地上の命が終わった後、天国ですごすいのちです。第五は祝福です。最大は、キリストが共にいてくださると言う祝福です。私たちの生活領域には三つあります。家庭、教会、職場あるいは学校です。共にいてくださるキリストが与えてくださる能力を用いて最善を尽くすことです。神がキリストを通してお与えくださる祝福は、天の窓を開いて秤をよくして私達のポケットにゆすりいれてくださる祝福、余りある祝福です。そのようなものを体験していきたいものです。

ポンテオ・ピラトの裁判

2023年3月19日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書27章11~26節
【新改訳2017】
27:11 さて、イエスは総督の前に立たれた。総督はイエスに尋ねた。「あなたはユダヤ人の王なのか。」イエスは言われた。「あなたがそう言っています。」
27:12 しかし、祭司長たちや長老たちが訴えている間は、何もお答えにならなかった。
27:13 そのとき、ピラトはイエスに言った。「あんなにも、あなたに不利な証言をしているのが聞こえないのか。」
27:14 それでもイエスは、どのような訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。
27:15 ところで、総督は祭りのたびに、群衆のため彼らが望む囚人を一人釈放することにしていた。
27:16 そのころ、バラバ・イエスという、名の知れた囚人が捕らえられていた。
27:17 それで、人々が集まったとき、ピラトは言った。「おまえたちはだれを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」
27:18 ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことを知っていたのである。
27:19 ピラトが裁判の席に着いているときに、彼の妻が彼のもとに人を遣わして言った。「あの正しい人と関わらないでください。あの人のことで、私は今日、夢でたいへん苦しい目にあいましたから。」
27:20 しかし祭司長たちと長老たちは、バラバの釈放を要求してイエスは殺すよう、群衆を説得した。
27:21 総督は彼らに言った。「おまえたちは二人のうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」
27:22 ピラトは彼らに言った。「では、キリストと呼ばれているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはみな言った。「十字架につけろ。」
27:23 ピラトは言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」
27:24 ピラトは、語ることが何の役にも立たず、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の目の前で手を洗って言った。「この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するがよい。」
27:25 すると、民はみな答えた。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」
27:26 そこでピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。

<要約>

空の手でイエスを救い主として受け止める:

キリストを前にしたピラトは、その受け答えからして、謙遜な求道者でありました。キリストが神の子であり、救い主であり、真理であることを直観的に察していました。ピラトは、イエス様が死刑に値するようなことは何もしていない事を知っていました。ピラトは真理を求めていました。イエス様を神の国の王、救い主と信じたいという思いが彼の心にありました。この裁判の後、十字架、死、復活、聖霊降臨、エルサレム教会の誕生など、一連の事件の成り行きを見て、ピラトは福音の真理を理解したと想像します。彼は、キリストを十字架に引き渡したことを後悔し、自責の念を持ったことでしょう。しかし、「私の愚かな取り返しのつかない誤った決断を神は赦してくださった。そして、その悪い仕打ちを逆に用いて、全人類の救いの道を開いてくださったのだ」という信仰に至ったのです。彼は、罪を悔い改めて、空の手でイエス様の救いを受け止めたのです。あなたは、イエス様をどのように受け止めておりますか。どうすればよいのでしょうか。私たちに必要なことは何でしょうか?何も持たない空の手です。それを神に差し出して、神の下さる救いをただ受け取ればよいのです。信仰は、神がイエス様を通してくださるもの、それは、信じて受け取る祝福と救いなのです。 

イエス様を十字架につけたのは誰?:

瞬きの詩人といわれた水野源蔵さんのことを思い出します。障害者である彼のコミュニケーション手段は唯一、瞬きです。彼の母親が、あいうえおの50音表を使って、目的の文字を瞬きで知らせます。そのようにしてたくさんの詩を作り残っています。その彼が、あるとき、一枚の版画を目にしました。それは、ピラトの裁判で法廷に立たされたイエスと、ピラトの前に、『十字架に付けろ。十字架に付けろ。』と叫ぶ群衆を描いていました。それを見て、源蔵さんは『十字架に付けろと叫ぶ群集の中に、自分がいる。』と言って、涙したということです。イエス・キリストを十字架につけたのは、自分であるという、その告白を水野源蔵さんは神の前にしたのです。「何の罪もないイエス・キリストを十字架につけたのはこのわたしである」と応えることは、聖書が読者のすべてに求めている応答です。あなたは、その事実を認め信じることです。


ゲッセマネでの祈り

2023年3月5日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書26章36~46節
【新改訳2017】
26:36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
26:37 そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」
26:39 それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」
26:40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。
26:41 誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
26:42 イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。
26:43 イエスが再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。
26:44 イエスは、彼らを残して再び離れて行き、もう一度同じことばで三度目の祈りをされた。
26:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。
26:46 立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」

<要約>

共に祈り悲しみは半減し喜びは二倍となる

イエス様は、弟子たちを苦しみも悲しみも分かち合える友であると思っておられました。イエス様はご自分が試練にあったときに彼らが一緒についてきてくれたことを喜んでいました。イエス様は、弟子たちに祈りを要請しましたが、弟子たちは眠ってしまい、イエス様の求めに応えることができませんでした。私たちはそういうように弱い者たちです。弱く迷いやすく失敗しやすいからこそ、イエス様は共に祈るように勧めています。イエス様はクリスチャンである皆さんを友とみなしてくださっています。ですから、皆さんと重荷を分かち合い祈ってほしいと願っておられるのです。私たちも様々な苦難にある時、信仰の友が祈り、苦しみを共有してくれるのは大きな慰めであり励ましであります。それは、「喜ぶものと喜び、悲しむものと悲しみなさい」と、みことばが語っているとおりです。

あなたを救うために立ち上がられた主

イエス様はこのゲッセマネの園で苦しみ悶えて祈られました。イエス様がこれからすすんで味わおうとなさったことは、人間が自らの罪によって滅んでしまう、その滅びの恐ろしさです。神なしで滅ぶ人間の苦しみ悲しみです。イエス様は滅びゆくすべての人の苦しみ悲しみを味わわれたのです。イエス様は、父なる神から完全に切り離されて見捨てられた苦しみを十字架の上で叫ばれました。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と。聖書に書いています。すべての人は、罪を犯したので神の栄光を受けられない。また、罪の報酬は死です、と。人は自らの罪のために滅びへと向かっていると述べています。しかし、一人の人も滅びることを臨まない神は、罪のない神のひとり子イエス・キリストを全人類の罪の身代わりとして十字架で断罪しました。イエス・キリストを信じるだけで、滅びないで永遠のいのちが与えられるのです。イエス様は、祈りぬかれて、最後に「立ちなさい。さあ、行くのです。」と堂々と足を踏み出し勇気をもって目前の十字架に向かいました。この後、捕えられて裁判にかけられ、十字架につけられて殺され葬られましたが、三日目によみがえりました。イエス様は、死は絶望ではなくその向こうにある復活と永遠のいのちを示してくださいました。そして、この復活と永遠のいのちは信じる者すべての人に与えられるプレゼントです。イエス様を信じて救われて戴きたいと思います。

あなたの足を洗われる主

2023年2月26日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨハネの福音書13章1~14節
【新改訳2017】
13:1 さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。
13:2 夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。
13:3 イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。
13:4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。
13:6 こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」
13:7 イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」
13:8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」
13:9 シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
13:10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」
13:11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「皆がきよいわけではない」と言われたのである。
13:12 イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。
13:13 あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。
13:14 主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。

<要約>

とことん愛し赦す神:

私たちは、汚れた足をイエスに差し出してはじめて清めていただけるのです。あなたの罪の身代わりとなって、神の独り子イエス様が十字架で裁かれ、死んでくださったのです。そのことを信じ受け止める者は救われます。罪と死と滅びから救われます。上着を脱ぐというのは「十字架で命を捨てる」ことを意味して、上着を着るというのは「いのちを再び得る」すなわち復活を意味しています。イエス様は、洗足にかかわる上着を脱ぐ、と、上着を着るという行為を通して十字架の死と復活を暗示されたとも解釈できます。洗足も十字架も、神の私たちへの愛の行為です。徹底的な愛、究極の愛、捧げ尽くす愛です。あなたに何の条件も求めない無条件の愛です。イエス様に足を差し出し洗っていただくというのは、悔い改めと言えます。日毎に私たちは罪を告白して、悔い改めて清めていただくのです。神は、キリストのゆえに、あなたをとことん愛し、あなたの罪を赦し続けてくださいます。私たちはへりくだり素直になって、罪を赦していただくと同時に、空の手を差し出して、救いを受け取ればよいのです。救いは、死後、自らの罪により滅びないで、キリストの復活のいのちを頂き、朽ちないいのちの希望に生きることです。

互いに赦しあい仕えあう:

イエス様は弟子たちの足を洗ってから、彼らに「互いに足を洗い合わなければなりません」と言われました。イエス様はご自身を無にして仕えるものとなられました。イエス様は、最も貧しく弱い存在として、この地上に来られました。そして謙遜の限りを尽くして、私たち罪人に仕えられたのです。これから弟子たちに福音宣教に遣わそうとしておられました。つまり、弟子として訓練し、その訓練を結ぶときが来ていたわけです。人間社会では、必ずと言っていいくらい誰がトップになるか、争いが起こります。しかし、イエス様が、昇天した後、弟子たちには誰がトップになるかという争いは全くありませんでした。使徒の働きの中で、彼らは、お互いに赦し合い、仕えあい、励まし合っていたことが分かります。同様に、キリストの弟子である私たちクリスチャンはお互いに赦しあい、仕えあうことによってその愛を全うするのです。

神が言われる幸いとは

2023年2月19日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書5章1~12節
【新改訳2017】
5:1 その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。
5:2 そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。
5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。

<要約>

苦難の中で神から幸いを受ける:

聖書は、困難、苦難と言うマイナスと思えることが、やがてプラスになる。最後には希望につながると言っています。心の貧しい人は傍におられる神に飢え渇きのために求め続けている人です。常に神におすがりしている状態です。心の内で、常に叫びを持っている人のことです。そのようにへりくだって絶えず神を求めている人は天国の所有者になるのです。また、一切の悲しみが慰められるというのです。この世で慰めを得なくても、やがて慰められる時が必ず来ると言うのです。ルターは、神からの祝福は、それは祝福とはとても思えないかたちで来る、と言っています。祝福は苦難や悲しみと言うベールに包まれて届けられるとも言えます。それは、何よりも神ご自身が人の罪の身代わりとなって苦難を味わい、十字架で死んで復活することを通して救いを届けてくださったことによります。それは何にも勝る祝福と言えます。死は何の力もなく、永遠のいのちが与えられます。すなわち、主ご自身が、祝福を苦難と悲しみと言うベールに包んで私たちに届けてくださいました。私たちは苦難の中にも神から幸い、祝福を受けているのです。

神からの幸いを隣人に届ける:

神があわれみ深いように、神から幸いを受けた人々は、隣人に対してあわれみ深くあるべきです。心のきよい者は罪赦されたクリスチャンであるといえます。彼らは、他の人の背後におられるキリストを見ています。私たちは、隣人を、神が命を捨てるほどに愛した大切な存在としてとらえるべきです。そうすると、この世の中で、どうでもいい人は、ひとりもいないことに気づきます。今日まで、世界中で、歴史を通して多くの人々が迫害を経験しました。そのようなときには喜び踊りなさいと、イエス様は勧めています。信仰者に与えられる幸いは、この世の与える幸いと違います。この世にあっては、うれしいことも悲しいことも、喜ばしいことも苦しいこともあります。しかし、信仰者は、常に上を向いて歩むことができます。それは、決して消し去ることができない希望、しぼむことがない希望があり、最後のゴールである天の御国の所有者とされているからです。そして、先に救われたクリスチャンは、あなたの隣人にこの神の幸いを届けていく責務が与えられていることを忘れてはいけません。

悪魔の試みへの勝利

2023年2月5日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書4章1~17節
【新改訳2017】
4:1 それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
4:2 そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。
4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」
4:4 イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」
4:5 すると悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、
4:6 こう言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」
4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
4:8 悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、
4:9 こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」
4:10 そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」
4:11 すると悪魔はイエスを離れた。そして、見よ、御使いたちが近づいて来てイエスに仕えた。
4:12 イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。
4:13 そしてナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある、湖のほとりの町カペナウムに来て住まわれた。
4:14 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。
4:15 「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。
4:16 闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」
4:17 この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。

<要約>

罪と死と悪魔からあなたを救うキリスト:

人は神のようになりたい、権力を持ち、自分の思うように周りの人を動かしたいという罪の性質を持っています。それは、最初の人アダムから受け継いでいる罪の性質です。アダムは悪魔の誘惑に負けて、罪を犯し、堕落し悪魔の支配下に入ってしまいました。人は、自らの罪によって神と断絶しています。人は自らの罪によって、死と永遠の滅びに定められていると言えます。その罪を取り除くために来られたのが、神の御子キリストです。キリストは処女マリヤより生まれました。神が人となって世に来てくださったのです。無実のキリストがすべての人の罪を背負って身代わりとなって十字架で死んでくださったのです。そして、すべての人の罪の代価を払ってくださったのです。私たちは、空の手で神からその救いを受け取るだけでいいのです。キリストがあなたの罪の代価をすべて支払ってくださったので、死は何の力も及ぼしません。死の代わりに永遠のいのちが与えられます。つまり、イエス様はあなたを罪と死と悪魔から完全に救ってくださったのです。

試練の後にはキリストの勝利と平安が来る:

神はイエス様が悪魔の試みに会うことを許されました。私たちは、病や不幸と思われる災い、様々な困難、に遭遇します。信者はそれを神からの試練として受け止めて、悔い改め、神により頼み、み言葉に耳を傾け、祈りに専心します。そのことは信仰者としてよいことです。自分の力の限界を感じ、ただ、神により頼み、神にすがるからです。神は信仰者のその姿勢を喜ばれます。その時、信仰の勝利を経験します。私と家内は2012年7月から、こんにちわアパートを建て、そこで高齢者の介護事業を始めました。しかし、事業は試練の連続でした。事業を始めて5か月目、12月29日の夜、凍結により、スプリンクラーが破裂して、アパートは水浸しになりました。入居者を他の施設にお願いして、運んだり、内部の修復工事を依頼したり、めちゃくちゃでした。その後、運営面で失敗し、経営が困難となりました。そして、2014年1月末で閉じる決断をしました。そして、最終的には、他の事業所に引き継いでもらうことができました。私たちは、苦しいことがあるたびに、みことばを開き、祈りました。試練が来ても、信仰を持ち続ければ、試練の後にはキリストの勝利と平安が来るのです。

キリストのみ

2023年1月29日(日)ハレルヤチャペル滝沢礼拝説教 銭谷幸器師

<聖書>ローマ人への手紙5章18節
【新改訳2017】
こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。

<要約>

ルーテル同胞神学校=プロテスタントの元祖であるルター派神学校

プロテスタント教会とカソリック教会との違いは何でしょう?

プロテスタント教会は、「救いの確信」を全員が持てる教会である。

救いの確信ありますか?――自分は半分くらいしか救われていないのではないか、と思っている人はいますか?

救いの確信が持てなくなる理由;信仰と愛を混同しているから

神への信仰、隣人への愛、この二つを区別して持っていることが大切

ローマ5:18 「こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。」

アダムとエバが神に背いて自分の思い通りに世界をつくろうとした。その罪によって、すべての人が罪に定められた。が、後半、キリストが人間の罪を背負って身代わりとなって十字架で死んでくださったがゆえにすべての人は罪赦され義と認められる。

神が人の罪を背負うために人間として生まれなければならなかった。すべてキリストの行為によって成し遂げられたことである。

救いのために必要なこと;すべてをイエス様が成し遂げてくださったので、私たちは空っぽの手で救いを受け取ればよい。

中世のカソリック教会では、人が救われるためには行為が要求された。

イエスを信じれば、洗礼前の罪はすべて赦されるが、洗礼後の罪は自分で償わなければならないと教えていた。 悔悛と言う制度;司祭に罪を告白すると償いの行為を要求された。すなわち死ぬ前までに償いを終えなければ、煉獄へ落されて、浄化されるために何万年もそこで過ごさなければならないというのである。しかし、聖人たちは自分の罪の償いを終えて、さらに善行を余らして、それはカソリック教会に蓄積されている。すなわち、信徒は聖人がストックした償いを譲ってもらうことで煉獄から出れる、と言うのである。お金を払って、それを得る仕組み。免罪符。私たちが立っているところは、聖書のみ、信仰のみ、恵のみ、キリストのみ、神にのみ栄光であれ。

天の御国は近づいた

2023年1月22日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書3章1~17節

【新改訳2017】
3:1 そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて、
3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。
3:3 この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。
3:4 このヨハネはらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
3:5 そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、
3:6 自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
3:7 ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。
3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
3:9 あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。
3:10 斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。
3:11 私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。
3:12 また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめられます。麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」
3:13 そのころ、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに来られた。彼からバプテスマを受けるためであった。
3:14 しかし、ヨハネはそうさせまいとして言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」
3:15 しかし、イエスは答えられた。「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」そこでヨハネは言われたとおりにした。
3:16 イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。
3:17 そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」

<要約>

悔い改めて神と向き合う:

罪の根源は、神を無視し、信ぜず、そればかりでなく、神の存在さえ認めないこと。あるいは、あなたの中から神を追い出して生活していることです。神がおられるなんて、考えたこともない、心に浮かんだこともない、これこそが、本来あるべき神との関係を失っている状態です。その様な状態では「神の栄光を受けることができない」と聖書にあります。それは、神はあなたを心配して祝福しようとなさっているのに、あなたは知らん顔して、そっぽを向いているという状態です。悔い改めは、思いを変えて、神を見上げ、神を心にお迎えすることです。イエス様が、「すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」というのは、御心に従う行為であり、信仰から出た行為です。心が正されると、行いも正されます。まだ、神との正しい関係に入っていない人は、悔い改めて、イエス・キリストを信じて洗礼を受けること、聖餐式を守ることです。それは、神との正しい関係に入ることを意味します。あなたと神の関係は大丈夫でしょうか。もう一度、悔い改めて神と向き合いましょう。

天の御国を持ってきたイエス様:

神が長い間準備をしてこられたことが実行に移されました。イエス様がヨハネからバプテスマを受けて、いよいよイエス様がすべての人の救いのわざに立ち上がったことを神は喜ばれました。そして、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と声をかけられました。しかしその時、イエス様は、人々の罪の贖いの代価として、十字架で苦しみ命を捨てなければならないと決意したのではないでしょうか。イエス様は十字架で人の罪の贖いをすることにより、神と人との正しい関係を取り戻してくださいました。それは、イエス様が天の御国を私たちのところに持ってこられたと言えます。キリストが支配する国を打ち立ててくださいました。キリストを信じる者は、神の国に属するのです。キリストがあなたの人生の主となり、あなたにかかわる一切を統治してくださいます。国のトップが変わると国が変わります。キリストが主となると人生が変わります。