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目が開かれ神の栄光を見る

2023年8月20日(日)礼拝ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨハネの福音書9章1~12、35~38節
【新改訳2017】
9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
9:2 弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
9:4 わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。
9:5 わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」
9:6 イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、
9:7 「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。
9:8 近所の人たちや、彼が物乞いであったのを前に見ていた人たちが言った。「これは座って物乞いをしていた人ではないか。」
9:9 ある者たちは、「そうだ」と言い、ほかの者たちは「違う。似ているだけだ」と言った。当人は、「私がその人です」と言った。
9:10 そこで、彼らは言った。「では、おまえの目はどのようにして開いたのか。」
9:11 彼は答えた。「イエスという方が泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」
9:12 彼らが「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と答えた。

9:35 イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
9:36 その人は答えた。「主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。」
9:37 イエスは彼に言われた。「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」
9:38 彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。

<要約>

夜が来る前に神のわざを受けとる:

心の目の盲目というのは、罪が分からない、救いが分からない、真の神を認めることができない、真理が見えない、という状態を指しています。この盲目の人の肉体の目を開くという神のわざを通して、神は、私たちの心の目を開いてくださいます。具体的には、私たちが心の目を開いて、主イエス・キリストを信じることです。信じて救いを得ることです。救いとは、罪と死と悪魔からの救いです。それは一方的に提供される神のわざです。そして、神のわざがあなたや私に届けられるのに期限があるのです。誰も働くことができない夜が来る、それはこの身体のいのちが終わる時までです。すべての人は、死後神の前に立たされて、裁きを受けることになります。罪の報酬は死ですと書いてある通り、罪のしみが少しでもある人は、裁かれ永遠の滅びに落とされるのです。神は一人の御子を世に送り、罪のない神の御子にすべての人の罪をその方に背負わせて、あなたの罪の身代わりに御子を裁き死に至らせたのです。まだ信じていない方々は、今あなたに届けられているこの救いの福音を今受け取ることです。まだ、先があると思ってはいけません。

神を信じ従うとき主の栄光を見る:

この男は信仰で応答し、イエス様の言われた、そのおことばとおりに行動し、目が見えるようになり帰って行きました。みことばを信じるという事は人間的には愚かに見え、さらに、侮辱を受けるような体験であるかもしれません。しかし、神の業が現れる時なのです。彼は、当時のコミュニティから追放されたのです。そこでイエス様は彼を見つけ出して、イエス様の面前で信仰告白へと導きました。イエス様は、時には私たちには、心地よいことではなく試練と思われるようなことをなさり、それでも、従いますか、信じますか、と迫っておられます。ここでの大原則は、信じて従ったときに想像も絶する神の御業、神のご栄光を見ることができるということです。クリスチャンの皆さん、また、まだ信仰を持っておられない方々も気づいていただきたいと思います。今皆さんが抱えている、困難や苦難、あるいは労苦は神が、必要があってあなたに与えられているということです。信じて従う者には、やがて、神はその後に栄光を見せてくださいます。必要なのは信じて忍耐してキリストに従っていくことです。

偶像礼拝の罪

2023年8月6日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>出エジプト記32:1~14
【新改訳2017】
32:1 民はモーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」
32:2 それでアロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪を外して、私のところに持って来なさい。」
32:3 民はみな、その耳にある金の耳輪を外して、アロンのところに持って来た。
32:4 彼はそれを彼らの手から受け取ると、のみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にした。彼らは言った。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」
32:5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼びかけて言った。「明日は【主】への祭りである。」
32:6 彼らは翌朝早く全焼のささげ物を献げ、交わりのいけにえを供えた。そして民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた。
32:7 【主】はモーセに言われた。「さあ、下りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。
32:8 彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道から外れてしまった。彼らは自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえを献げ、『イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ』と言っている。」
32:9 【主】はまた、モーセに言われた。「わたしはこの民を見た。これは実に、うなじを固くする民だ。
32:10 今は、わたしに任せよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がり、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とする。」
32:11 しかしモーセは、自分の神、【主】に嘆願して言った。「【主】よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。
32:12 どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。
32:13 あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。」
32:14 すると【主】は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。

<要約>

見える神(偶像)を持ちたがる人間:

金の子牛は、民が持っていた金の耳輪を元にできました。霊的な意味を当てはめると、金の耳輪は欲望です。欲望が神となった。偶像は人間の欲望から生まれるのです。偶像の背後にあるのが悪魔、サタンです。人間が神を造るという大きな過ちでした。さらにそれに祭壇を築いていけにえを捧げるという礼拝行為をしたのです。これを、聖書は淫行と言っています。すなわち夫や妻を裏切って結婚外の人と関係を持つことと同じだと言っています。私たち人間は、罪と弱さのために、目に見える神を求めてしまいます。目に見える神は偽りです。それは、人が造った神です。偶像礼拝の罪は恐ろしい結果をもたらします。イスラエルは、モレクと言う偶像に自分の子どもを火に入れてささげることもしました。偶像礼拝は、偶像の背後にいるサタンを礼拝していると言えます。私たちは目に見えない神を信じています。モーセ率いるイスラエルの民がしたように、荒野で不信の罪犯すことが無いようにしようではありませんか。偶像礼拝者になってはいけません。あなたの欲望を神にしてはいけません。不品行を避け、聖い生き方を追い求めましょう。不平を言ってキリストを試みてはいけません。神を畏れ、愛し、信頼しましょう。

神を動かすとりなしの祈り:

神の怒りとさばきに対して、モーセはとりなしの祈りをします。神の怒りの右の手が挙げられました。イスラエルの民の上に落とされようとしていました。モーセはとりなしの祈りを始めます。これは人類史上で、イスラエルを救った最大のとりなしの祈りです。謙遜なモーセですが、かなりはっきりと叱責するがごとく神に訴えております。モーセはみことばと約束に立って大胆に祈りました。とりなしの祈りのポイントは、みことばと約束に立って祈るということです。神は、聖霊と主キリストを私たちクリスチャンのためのとりなし手としてくださり、まどろむことも眠ることもなく祈っていてくださいます。イエス様と聖霊様が、一緒になってあなたや私のために個人的にとりなしてくださっています。ですから、自分のことは心配しなさんな、というのです。私たちクリスチャンは、モーセがとりなしたように、このままでは罪のため滅んでしまう家族や知人のために真剣に祈らなければなりません。神の約束を握って、神に訴えるのです。

歴史を通して明かされた救い主

2023年7月23日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>使徒の働き28章16~31節
【新改訳2017】
28:16 私たちがローマに入ったとき、パウロは、監視の兵士が付いてはいたが、一人で生活することを許された。
28:17 三日後、パウロはユダヤ人のおもだった人たちを呼び集めた。そして、彼らが集まったとき、こう言った。「兄弟たち。私は、民に対しても先祖の慣習に対しても、何一つ背くことはしていないにもかかわらず、エルサレムで囚人としてローマ人の手に渡されました。
28:18 彼らは私を取り調べましたが、私に死に値する罪が何もなかったので、釈放しようと思いました。
28:19 ところが、ユダヤ人たちが反対したため、私は仕方なくカエサルに上訴しました。自分の同胞を訴えようとしたわけではありません。
28:20 そういうわけで、私はあなたがたに会ってお話ししたいと願ったのです。私がこの鎖につながれているのは、イスラエルの望みのためです。」
28:21 すると、彼らはパウロに言った。「私たちは、あなたについて、ユダヤから何の通知も受け取っていません。また、ここに来た兄弟たちのだれかが、あなたについて何か悪いことを告げたり、話したりしたこともありません。
28:22 私たちは、あなたが考えておられることを、あなたから聞くのがよいと思っています。この宗派について、いたるところで反対があるということを、私たちは耳にしていますから。」
28:23 そこで彼らは日を定めて、さらに大勢でパウロの宿にやって来た。パウロは、神の国のことを証しし、モーセの律法と預言者たちの書からイエスについて彼らを説得しようと、朝から晩まで説明を続けた。
28:24 ある人たちは彼が語ることを受け入れたが、ほかの人たちは信じようとしなかった。
28:25 互いの意見が一致しないまま彼らが帰ろうとしたので、パウロは一言、次のように言った。「まさしく聖霊が、預言者イザヤを通して、あなたがたの先祖に語られたとおりです。
28:26 『この民のところに行って告げよ。あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。
28:27 この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように。そして、わたしが癒やすこともないように。』
28:28 ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らが聞き従うことになります。」
28:29 【本節欠如】
28:30 パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねて来る人たちをみな迎えて、
28:31 少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。

<要約>

聞いても見ても悟らない人間社会:

聞いてもわからない、見ても見えない、心が鈍い、というのは内向きであって外で起きていることが心に入っていかない、結局、耳は聞こえず、目も見えていない状況です。当時のイスラエルの民はそのような状況になっていたのです。その姿勢は、現代社会に住む人々の内にも見られます。神から遠く離れているので、みことばを聞いても心に入らないのです。人は生まれながら「律法主義者」であると言われます。すなわち、だれでも自分の成績、実績に自分自身の存在意義を置くのです。どこまでも、人間は自己の中にある何物かを誇ろうとするのです。それが人間の本質です。その延長線上にあるのが、自分を誇り他人を見下す生き方です。それが私たちの罪の姿です。それは現代の日本人にも見られることです。日本人は遵法精神に富んでいて、善い行いに励む人々です。 善い行いをたくさんする人は、行いのない人々に不満を持つようになります。「私はこんなにしているのにあの人たちは何もしない。ずるいのでは」と、心に思うからです。これが行いを誇る生き方です。これは信仰ではなく、律法主義の生き方です。行いは、信仰から出るべきです。謙遜と感謝から出てくるのです。

全世界へ広がるイスラエルの希望:

ユダヤ人は歴史を通して、「希望」を持ち続けようとしました。ユダヤ民族には選民思想というのがあります。彼らは、神に選ばれた民であり、神はユダヤ民族を祝福し救ってくださると信じています。それが、時至って、神がイスラエル、そしてすべての国民に救い主を送って下さいました。ベツレヘムの田舎に、最も弱い小さなものとして来られました。不潔な家畜小屋でお生まれになったのです。クリスマスです。「全世界に広がるイスラエルの希望」と題してお話ししています。それは、神が人となって来られたということです。ここに希望があります。救いがあります。私たちは誰も自分で自分を救うことはできません。なぜなら、私たち全ての人は自らの罪により死んでいるからです。私たちはそのままでは、罪により永遠の滅びに至らざるを得ないのですが、キリストは あなたを罪と死と悪魔から救うために世に来てくださいました。現在、キリストの救いは全世界に届けられようとしております。聖書の預言が成就するのです。ですから、私たちは今、希望の時代に生きています。

教会を産み育てる聖霊

2023年7月16日(日)ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>使徒の働き11章19~26節
【新改訳2017】
11:19 さて、ステパノのことから起こった迫害により散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで進んで行ったが、ユダヤ人以外の人には、だれにもみことばを語らなかった。
11:20 ところが、彼らの中にキプロス人とクレネ人が何人かいて、アンティオキアに来ると、ギリシア語を話す人たちにも語りかけ、主イエスの福音を宣べ伝えた。
11:21 そして、主の御手が彼らとともにあったので、大勢の人が信じて主に立ち返った。
11:22 この知らせがエルサレムにある教会の耳に入ったので、彼らはバルナバをアンティオキアに遣わした。
11:23 バルナバはそこに到着し、神の恵みを見て喜んだ。そして、心を堅く保っていつも主にとどまっているようにと、皆を励ました。
11:24 彼は立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大勢の人たちが主に導かれた。
11:25 それから、バルナバはサウロを捜しにタルソに行き、
11:26 彼を見つけて、アンティオキアに連れて来た。彼らは、まる一年の間教会に集い、大勢の人たちを教えた。弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。

<要約>

人、状況を用いて宣教する聖霊:

エルサレム教会の執事をしていたステパノは、ユダヤ人たちから石打の刑に処せられ、殺されました。そして、他のエルサレム教会の信者たちにも迫害の手が迫っていました。信者にとっては苦境であり、マイナスの状況でした。しかし、その状況を聖霊は逆用して、福音を異邦人にも広げたのです。聖霊はこのように人を用いて働かれるのです。現状では、人は罪に捕らわれているために、自分が救われなければならない存在であることにも気づきません。罪の報酬は死です。そして、「人間には一度死ぬことと死後裁きを受けることが定まっている」と書いてある通り、罪の結果は死後のさばきと永遠の滅びです。イエス・キリストは自らの罪のために死と滅びに閉じ込められている人を救うために来られました。そして、すべての人の罪を背負って、身代わりとなって、十字架で自らの命を捨ててくださいました。それは、あなたが信じて神に立ち返り、真の命に生きるようになるためです。私たちが先に救われたのは、私たちの周りの家族、友人、知人にイエス・キリストの救いを届けるためです。

聖霊は教会を通して働かれる:

聖霊は教会を産み育て、教会でイエス・キリストの救い、イエス・キリストによる罪の赦しと永遠のいのちを提供しています。バルナバは、生活習慣が違う、ユダヤ人と異邦人との問題を取り上げてうんぬんするのではなく、ポジティブなものの見方をしています。バルナバの視点は、「神の恵みを見て喜んだ」ことです。そして、みな心を固く保って、常に主にとどまるようにと励ましています。違いがあっても、そこに神の恵みを見ています。これは、聖霊のみ思いです。私たちは、教会においてもその他の社会生活においても様々な問題に直面しながら生活しています。反対、つまずき、困難、苦難はつきものです。しかし、神の恵は変わらずに注がれています。聖霊は教会を通して、またその一員であるあなたを通して働いておられます。あなたは教会の身体の一部です。愛し合い、仕え合い、キリストの身体を立ち上げていくのです。まだ信じていない方は、是非キリストの罪の赦しといのちを自分のものとしてください。空の手を差し出して、キリストの赦しといのちを受け取ってください。身体の死の向こうにある復活のいのち、永遠のいのちをいただくことができるのです。

罪と世と悪魔からの解放

2023年7月2日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>出エジプト記2:23~3:10
【新改訳2017】
2:23 それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた。
2:24 神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。
2:25 神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。

3:1 モーセは、ミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の奥まで導いて、神の山ホレブにやって来た。
3:2 すると【主】の使いが、柴の茂みのただ中の、燃える炎の中で彼に現れた。彼が見ると、なんと、燃えているのに柴は燃え尽きていなかった。
3:3 モーセは思った。「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう。」
3:4 【主】は、彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の茂みの中から彼に「モーセ、モーセ」と呼びかけられた。彼は「はい、ここにおります」と答えた。
3:5 神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」
3:6 さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。
3:7 【主】は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。
3:8 わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。
3:9 今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。
3:10 今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」

<要約>

苦しみ叫び痛みをみこころに留める神:

現代社会を見るときに、侵略戦争、災害、殺人、窃盗、自殺などが全世界のどこかで起こっています。大勢の人々がそのために悲惨を味わい、命を落としています。また、私たちは、平和をつくりたい、皆が仲良く暮らしたい、赦し合い愛し合う世界にしたいという願いを持っていながら、争いやいざこざをなくすことができません。そして、せっかく造った建造物も皆がれきにしています。罪と世と悪魔の力が働いているのです。それは、個人レベルでも民族レベルでも国家レベルでも同じです。神はイスラエルの叫びに耳を傾け、みこころに止められたと書いています。信者の叫びは届いています。すぐに答えが出ないから、聞いておられないというのではありません。神は最善の時を待っておられ、最善の方法で祈りを聞いてくださるのです。苦しみ叫び痛みをみこころを留める神と題してお話ししています。神は、あなたの苦しみ、叫び、悩み、痛みに向き合ってくださっているのです。イエス様は、十字架の上でこの「苦しみ、叫び、痛み」をあなたの救いのために担われました。ですから、向き合うことができるのです。

あなたを召し働きにつかせてくださる神:

信者はみな、神から呼び出された者たちです。ですから、すべての信者には多かれ少なかれモーセが体験したように、三つのステップで召命ないし使命を受けるといえます。第一番目が神の臨在に触れるということです。これは、現在の私たちに当てはめると、聖霊がみことばを用いてあなたの心に語りかけることです。第二番目は、聖別です。神は、神はモーセを聖別しました。イエス様を信じたとき、神が私達を聖め分かって、神の子どもとし、聖なる民に加えてくださったことです。それは、神はあなたに働きと使命を持っておられることです。第三は派遣です。神はモーセを呼び出して、使命を与えて、エジプトへ派遣しました。同様に、神はあなたを必要としている人々に派遣なさるのです。私たちすべての信者に与えられている使命は、福音を周りの人々に伝えることです。また、お一人お一人、それぞれに与えられている使命は、それぞれの力に応じて隣人にお仕えすることです。隣人愛の実践と言えます。人は自分のためにだけ生きていてもむなしくなるのです。隣人のために生きるときにこそ人は心に充足感を得るのです。人は、人のため神のために生きるときにこそ、豊かで充足した人生があるのです。

ベン・オニからベニヤミンへ

2023年6月25日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>創世記35章1~19節
【新改訳2017】
35:1 神はヤコブに仰せられた。「立って、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウから逃れたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」
35:2 それで、ヤコブは自分の家族と、自分と一緒にいるすべての者に言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、衣を着替えなさい。
35:3 私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこに、苦難の日に私に答え、私が歩んだ道でともにいてくださった神に、祭壇を築こう。」
35:4 彼らは、手にしていたすべての異国の神々と、耳につけていた耳輪をヤコブに渡した。ヤコブはそれらを、シェケムの近くにある樫の木の下に埋めた。
35:5 彼らが旅立つと、神からの恐怖が周りの町々に下ったので、だれもヤコブの息子たちの後を追わなかった。
35:6 ヤコブは、カナンの地にあるルズ、すなわちベテルに来た。彼とともにいた人たちもみな一緒であった。
35:7 彼はそこに祭壇を築き、その場所をエル・ベテルと呼んだ。それは、彼が兄から逃れたとき、神がそこで彼に現れたからである。
35:8 リベカの乳母デボラが死に、ベテルの下手にある樫の木の下に葬られた。それで、その木の名はアロン・バクテと呼ばれた。
35:9 ヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再び彼に現れ、彼を祝福された。
35:10 神は彼に仰せられた。「あなたの名はヤコブである。しかし、あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルが、あなたの名となるからだ。」こうして神は彼の名をイスラエルと呼ばれた。
35:11 神はまた、彼に仰せられた。「わたしは全能の神である。生めよ。増えよ。一つの国民が、国民の群れが、あなたから出る。王たちがあなたの腰から生まれ出る。
35:12 わたしは、アブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与える。あなたの後の子孫にも、その地を与えよう。」
35:13 神は彼に語ったその場所で、彼を離れて上って行かれた。
35:14 ヤコブは、神が自分に語られた場所に、柱を、石の柱を立て、その上に注ぎのぶどう酒を注ぎ、さらにその上に油を注いだ。
35:15 ヤコブは、神が自分と語られたその場所をベテルと名づけた。
35:16 彼らはベテルから旅立った。エフラテに着くまでまだかなりの道のりがあるところで、ラケルは出産したが、難産であった。
35:17 彼女が大変な難産で苦しんでいたとき、助産婦は彼女に、「恐れることはありません。今度も男のお子さんです」と告げた。
35:18 彼女が死に臨み、たましいが離れ去ろうとしたとき、その子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた。
35:19 こうしてラケルは死んだ。彼女はエフラテ、すなわちベツレヘムへの道で葬られた。

<要約>

あなたに注がれる一方的な神の選びと祝福:

ヤコブは、品行方正で正しい人だから選ばれたのでしょうか。そうではありませんね。彼は、名前の通り、「押しのけるもの」として、エソウから長子の権利をだまし取り、エソウから恨みを買いました。また、ラバンのもとでは、ラバンからその財産を得るために上手に振る舞ったのです。そのことは、ラバンとラバンの息子達からは 恨みを買うほどでした。ヤコブは功利的な人物ということができるかもしれません。しかし、これらすべてのことにあっても神は一方的な憐れみと恵みによって、ヤコブを引き上げ、その名を神の王子と言う意味もあるイスラエルと命名されたのです。そこには私たちの如何にかかわらず、主は、「哀れものを憐れみ、祝福する者を祝福される」お方であることを見ることができます。神の選びについては、神の一方的な主権があります。皆さんは、この教会に集っています。ですから、皆さんは神に選ばれてここに集っておられるのです。そして、神はあなたを祝福しようと招いておられるのです。イエス様の十字架による罪の赦しは、すべての人に等しく注がれる神の恵みです。

マイナスをプラスに変えて前向きに生きる:

カナンの地ヘブロンへと向かう途中、ラケルが出産しいのち落としました。そして、ヤコブに12番目の男の子があたえられました。出産で「彼女が死に臨み、たましいが離れ去ろうとしたとき、その子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた」と書いています。ベン・オニと言うのは「苦しみの子」と言う意味です。しかし、ヤコブは、その子をベニヤミン「右手の子」と名付けたとあります。右手は、権威とか力を意味します。苦しみの子から右手の子に命名したのでした。ここに、ヤコブの前向きな人生観をうかがい知ることができます。キリストは、十字架を目指して、苦難の生涯でした。すなわち苦しみの子です。しかし、復活し天に挙げられて、神の右の座についておられます。右手の子です。キリストは、実に、罪に沈む私たちを、罪と死と悪魔から救うためにお生まれになり、十字架の上で苦しみを受けてくださいました。それは信じる者に死と滅びに代えて、永遠のいのちを与えるためでした。そして、今キリストはすべての権威と力をもって神の右についておられます。キリストは信じるあなたの困難や苦難をプラスに変えてくださるのです。


いと高き神の祭司メルキゼデク

2023年6月18日主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>創世記14章1~2,10~24節
【新改訳2017】
14:1 さて、シンアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアルの時代のことである。
14:2 これらの王たちは、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アデマの王シンアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラすなわちツォアルの王と戦った。


14:10 シディムの谷には瀝青の穴が多くあり、ソドムの王とゴモラの王は逃げたとき、その穴に落ちた。そして、残りの王たちは山の方に逃げた。
14:11 四人の王たちは、ソドムとゴモラのすべての財産とすべての食糧を奪って行った。
14:12 また彼らは、アブラムの甥のロトとその財産も奪って行った。ロトはソドムに住んでいた。
14:13 一人の逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムは、アモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。
14:14 アブラムは、自分の親類の者が捕虜になったことを聞き、彼の家で生まれて訓練された者三百十八人を引き連れて、ダンまで追跡した。
14:15 夜、アブラムとそのしもべたちは分かれて彼らを攻め、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで追跡した。
14:16 そして、アブラムはすべての財産を取り戻し、親類のロトとその財産、それに女たちやほかの人々も取り戻した。
14:17 アブラムが、ケドルラオメルと彼に味方する王たちを打ち破って戻って来たとき、ソドムの王は、シャベの谷すなわち王の谷まで、彼を迎えに出て来た。
14:18 また、サレムの王メルキゼデクは、パンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。
14:19 彼はアブラムを祝福して言った。「アブラムに祝福あれ。いと高き神、天と地を造られた方より。
14:20 いと高き神に誉れあれ。あなたの敵をあなたの手に渡された方に。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。
14:21 ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」
14:22 アブラムはソドムの王に言った。「私は、いと高き神、天と地を造られた方、【主】に誓う。
14:23 糸一本、履き物のひも一本さえ、私はあなたの所有物から何一つ取らない。それは、『アブラムを富ませたのは、この私だ』とあなたが言わないようにするためだ。
14:24 ただ、若い者たちが食べた物と、私と一緒に行動した人たちの取り分は別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの取り分を取らせるように。」

<要約>

成功に続く祝福と誘惑:

二人の全く違う王の訪問は何を意味しているのでしょうか。それは、何か一大事を成し遂げた後に来る神からの祝福と悪魔の誘惑です。私たちも一つの事業なり、計画なりを実行した後、それがうまくいったときに二通りのことがやってきます。それは、一つは神からの祝福です。そして私たちは、神に栄光と誉をお返しするのです。そして、神に献身するのです。アブラムはメルキゼデクを通して、十分に一を捧げました。もう一つは自分の手柄を覚えて高慢になり、自分に栄誉を帰そうとする誘惑です。ソドムの王の申し出は悪魔の誘いでした。ソドムの王の申し出をきっぱり断り戦争で戻したすべての者を彼に返しました。よく言われるのは、霊的に一番危ないときは、何かを成し遂げた時だと言います。悪魔はあなたの心にささやきます。よくやったじゃないか。もっと自慢してもいいよ。もっと評価されてもいいはずじゃないのか、と。その時、私たちは神に申し上げましょう。みことばにある通り、「私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです」と。

贖いの代価となられた王・祭司キリスト:

メルキゼデクは、系図もなく出生もわからないサレムすなわち平和の王であり、いと高き神の祭司であったのです。メルキゼデクは、キリストではありませんが、キリストのひな形であります。キリストは、罪のない神が人となって来られた歴史上ただ一人の人物です。処女マリヤが聖霊によって身籠り生まれた神の独り子です。ですから、全く罪を犯したことがなく罪のない人でした。普通の男女間で生まれた人は、罪をもって生まれてきたので、他の人間の罪の身代わりとなることはできません。無罪のキリストのみが身代わりとなることができたのです。「キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった」と書いている通りです。ですから、キリストはご自身をすべての人の罪の贖いの代価として、ご自身のいのちを提供することができたのです。十字架で死にましたが、復活して今も生きておられます。そして、今も、キリストに来るものを神に執り成し、罪の赦しをご自身の十字架の贖いにより宣言しているのです。クリスチャンは、周りの人々のために執り成し祈る人々です。わたしたちも家族友人知人が、真の神に立ち返れるようとりなし、祈りましょう。

キリストはすべてに勝る神

2023年6月4日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>へブル人への手紙1章1~14節
【新改訳2017】
1:1 神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、
1:2 この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。
1:3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。
1:4 御子が受け継いだ御名は、御使いたちの名よりもすばらしく、それだけ御使いよりもすぐれた方となられました。
1:5 神はいったい、どの御使いに向かって言われたでしょうか。「あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ」と。またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」と。
1:6 そのうえ、この長子をこの世界に送られたとき、神はこう言われました。「神のすべての御使いよ、彼にひれ伏せ。」
1:7 また、御使いについては、「神は御使いたちを風とし、仕える者たちを燃える炎とされる」と言われましたが、
1:8 御子については、こう言われました。「神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。
1:9 あなたは義を愛し、不法を憎む。それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油で、あなたに油を注がれた。あなたに並ぶだれよりも多く。」
1:10 またこう言われました。「主よ。あなたははじめに地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。
1:11 これらのものは滅びます。しかし、あなたはいつまでもながらえられます。すべてのものは、衣のようにすり切れます。
1:12 あなたがそれらを外套のように巻き上げると、それらは衣のように取り替えられてしまいます。しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。」
1:13 いったいどの御使いに向かって、神はこう言われたでしょうか。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」と。
1:14 御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされているのではありませんか。

<要約>

罪の世を相続する人間社会:

キリストはすべてのすべて、最初からおられて、天地万物の創造に関わっておられました。神はキリストを万物の相続者と定められました。そして、神は人を、世界を治める管理者とされました。しかし、最初の人アダムは神に反駁して、高慢になり、自分を神の上に置こうとしました。戒めを破り、罪を犯したのです。そのために、罪によって人間の人格はゆがみ、死ぬべきものとなりました。自然界も虚無に服させられました。罪を犯し、エデンの園から追い出されたアダムとエバは、悪魔の支配下で、罪の世を相続するものとされました。人間は住みやすい世界、平和な世界を求めています。しかし、その一方で、人間中心、自分中心のために争い、戦争でせっかく作り上げた住処を破壊して、がれきにしています。罪の性質により妬み、争い、貪欲、悪い考え、ののしり、高慢、愚かさなどが国家のレベルでも個人のレベルでも、人間を支配していると言えます。私たちは自ら罪によって聖い神に近づくことも神の前に立つこともできません。私たちはそのままでは、自分の罪のために永遠の滅びに向かわざるを得ないのです。

罪をきよめ御国を相続させてくださる神:

重い病気である癌があっても、自らの病に気づくことなく手遅れとなり死に至ることが多くあります。同じように、アダム以来、罪の病におかされた人類は、自らの罪に気づきません。そのため、真の医者であるキリストのもとへ行かず、罪と言う病のため、死と滅びに至ります。人間の罪を取り除くために神が卑しい人間の子どもとして生まれ、卑しめられ辱められ、十字架刑という最も残虐な方法で苦しみを受け、死にて葬られました。それは、ひとえに、私たち人間の罪の身代わりとなって裁かれ、私たちを救うためでした。そして、死人の内から復活し、天に昇られて神の右の座に着かれました。私たち人間は罪に縛られ、自らそこから抜け出ることもできず、自らの罪のために神の容赦ない裁きに定められています。その人間に対して神は歴史をかけて準備しキリストによって救いの道を完成されました。クリスチャン生活は「キリストは私の代わりに死んでくださった。そして、私の命のために復活なさった。」という単純な真実の上に立っています。神は私たちの罪を十字架の血潮で一方的に清めてくださいました。そして、御国を相続させてくださいます。私たちは、ただ神を信頼して御顔を仰ぐだけです。

聖霊降臨、終わりの時代の始まり

2023年5月28日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>使徒の働き2章1~21節
【新改訳2017】
2:1 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
2:2 すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
2:4 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。
2:5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、
2:6 この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。
2:7 彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。
2:8 それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。
2:9 私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、
2:10 フリュギアとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などに住む者、また滞在中のローマ人で、
2:11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレタ人とアラビア人もいる。それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」
2:12 人々はみな驚き当惑して、「いったい、これはどうしたことか」と言い合った。
2:13 だが、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者たちもいた。
2:14 ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々に語りかけた。「ユダヤの皆さん、ならびにエルサレムに住むすべての皆さん、あなたがたにこのことを知っていただきたい。私のことばに耳を傾けていただきたい。
2:15 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが思っているように酔っているのではありません。
2:16 これは、預言者ヨエルによって語られたことです。
2:17 『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
2:18 その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。
2:19 また、わたしは上は天に不思議を、下は地にしるしを現れさせる。それは血と火と立ち上る煙。
2:20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。
2:21 しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる。』

<要約>

神のいのちを失い途方にくれる人間:

イエス様は、神を信ぜず、神のいのちを失っている人を指して、失われた人、さらに死人と呼んでいます。イエス様はそういう人を捜して、いのちを得させるために来られたのです。世界は人間中心に動いています。そのような中で、国際社会は、混迷を深め、途方に暮れているという状態であると思います。国の内部を見ても、分断、対立は深刻になっています。日本はもう超高齢化社会に入っています。もっと高齢化が進めば、日本人は、介護される人と介護する人ばかりとなってしまうのではと考えます。私たちは現状を見ると、途方に暮れてしまいます。神から離れているので神のご計画が分からない、考えたこともない、人生のゴールが分からない、死んで終わりの人生なのか。人生には様々な困難や苦難があり、私たちは有限な存在者として、先のことがわからず、途方に暮れる状況の中に生きています。しかし、神のいのちにつながり、神の救いのご計画の一部を担わせていただいているとすれば、私たちの人生には、明確な使命があり、死んで終わらない永遠のいのちがあるのです。

キリストの御名を呼ぶものを救う神:

聖霊はあなたを無条件で受容し、あなたを生かします。それが神の愛です。そして、神との関係回復、隣人との関係回復、そして親子関係の回復をもたらしてくださいます。あなたの内側に働き、キリストによる罪の赦しを提供して、あなたを癒し救います。何にも勝るプレゼント、聖霊。それは、この世のどんなものも決して消すことのできない、喜びといつまでも続く希望を与えてくれるからです。聖霊はご人格を持った神であります。聖霊は、信じる人を復活のいのちであるキリストに結び付けてくださいます。聖霊は聖書の言葉で私たちに語り、御心を教えてくださいます。そして、最後に至るまで、あなたを希望と喜びの人生に導いてくださいます。先ほど述べたように、ペンテコステの時に教会が始まりました。それ以来教会時代が続いています。やがてイエス様の再臨により終わりが来ます。ですからペンテコステ、聖霊降臨は終わりの時代の始まりであるといえます。再臨、それは悔い改めない人々にとっては、裁きのときであり、悲しみのときでしょう。しかし、信者にとっては、称賛と喜びの時、神の栄光を拝するときとなるのです。「主の御名を呼び求める者はみな救われるのです。

天の父の約束・聖霊と再臨

2023年5月21日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>使徒の働き1章3~14節
【新改訳2017】
1:3 イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。
1:4 使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」
1:6 そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」
1:7 イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
1:9 こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。
1:10 イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。
1:11 そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」
1:12 そこで、使徒たちはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムに近く、安息日に歩くことが許される道のりのところにあった。
1:13 彼らは町に入ると、泊まっている屋上の部屋に上がった。この人たちは、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。
1:14 彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。

<要約>

ゴールの先が見えない人間社会:

人は、有限の存在者で、時間に縛られています。今の人間社会を見ても、先が見えない、ゴールが見えないことがたくさんあります。ロシア、ウクライナの戦争は、どうなるのだろうか。世界各地、日本の国内でも立て続けに起きている地震。経済不況。感染症の流行。など。人間社会の営みはいつまで続くのだろうか。人間社会のゴールは破綻と滅亡と言えるかもしれません。個人としてはどうでしょうか。年を取って、やがて歩くことも、食べることも、話すこともできなくなり、ついには誰でもが迎える死に至るのです。個人の人生においても、その先、肉体の死後はどうなるのでしょうか?人が死を恐れるのはなぜでしょうか?その先が分からないからです。すべてが無に帰するのでしょうか。否です。死後、すべての人は神の前に立たされるのです。肉体のいのちが死んだ後、すべての人は、自らの罪により裁きを受けることになるのです。罪とは、根源的には、真の神を信じず、認めず、真の神から遠く離れていることです。多くの人はゴールの先の見えない人生を生きているのではないでしょうか。思いを変えて、あなたにいのちを与え、永遠の祝福をお与えくださる真の神を信じていただきたいと思います。

救いの完成という神のゴール:

イエス様の十字架と復活、それに続く昇天によって、全ての人が救われる道が完成しました。罪と死と滅び、そして、この世の流れを司る悪魔から救ってくださいました。すべての国民にこの救いの福音が伝えられて、約束の民イスラエルに救いが届けられて、イエス様は再び来られます。その時、地上における救いの御業が完成するのです。そこに神のご意志とご計画のゴールがあります。そこにすべての人が招かれています。現在は聖霊による教会の時代です。福音は全世界に届けられようとしております。永遠のいのちをいただき、この肉体が終わったあと、永遠の祝福の中に生きることができます。私たちは、聖霊の賜物を用いて神と人に仕えていくのです。また証人としてはどうでしょうか。あなたに聖霊が働いて今の信仰に導かれました。イエス様が救い主であることを信じることができました。また、祈りが聞かれたこと癒されたこと困難を神が共にいて乗り越えることができたこと、など様々な体験を積んでいます。それらをあなたの周りの方々に分かち合うこと、それがイエス様の証人として生きることです。