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最高の奉仕とは

2017年3月12日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネ12章1~11節
12:1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
12:2 人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。
12:3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。
12:4 ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。
12:5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
12:6 しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。
12:7 イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。
12:8 あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」
12:9 大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。
12:10 祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。
12:11 それは、彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。

<要約>

香油は愛が動機:

マリヤは非常に高価で純粋なナルドの香油を持ってきて、イエス様の足に塗り彼女の髪の毛でそれをぬぐったのです。マルコの福音書の記事によると香油の入った石膏の壺を割ってイエス様の頭に注いだと書いています。売れば300デナリ、今でいえば、300万円です。

ヨハネはマリヤが足に注いだと書いて、マリヤの謙虚さを強調したのでしょう。家は香油の香りでいっぱいになったとあります。その行為は全く贅沢な行為でした。しかし、見栄や高慢のかけらもない純粋できよい美しい行為でした。なぜ、彼女は突然のようにそのような行動に出たのでしょう。それは、一番にはイエス様がご自身で語っておられたことによるのです。十字架の苦難が間地かに迫っていること、そして地上でご一緒する時間が限られていることを感じ取っていたのです。彼女はありったけのイエス様に対する愛と感謝、そして、訣別の思いをこのナルドの香油に託したのです。かくして、マリヤは自分の全財産に匹敵する大切な高価な香油をイエス様に捧げたのです。それは、マリヤの献身です。イエス様を愛するということはどういうことなのでしょうか。私たちが本当に人を愛するなら損得勘定は無くなります。逆に、損得のために、何かの見返りを期待して、その人に良い事をしていたとしましょう。そしてそのことがその人に知れたら、それは、そのよいこと以上にその人を傷つけます。愛は見返りを期待しません。愛は一方的です。感謝をされなくても腹をたてません。イエス様を愛するというのも、同じです。イエス様の喜ばれることをします、損得はありません。また、見返りも期待しません。具体的には、イエス様が愛してやまない、あなたの隣人を愛することです。感謝をされなくてもよいのです。なぜなら、あなたの愛の奉仕はイエス様に届いているからです。イエス様はあなたの心の動機を見逃すことなくあなたを喜んでおられるからです。

主にあって無駄はない:

ところが、マリヤのその行為に対してイエス様を裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが猛反対します。ヨハネは、彼のことばの中に不誠実とどん欲を読んでいます。ユダは言いました、「300デナリで売って、貧しい人に施さなかったのか」と。しかし、真相は貧しい人々に心をかけていたのではなく、ユダは不誠実な盗人であって、金入れを預かっていたので、お金を盗んでいたというのです。ですから、ユダが怒ったのは、実は自分が損をしたためなのです。ここに、自己中心なのに大義を盾に、マリヤを激しく非難して、イエス様のお心を傷つけたユダがいます。それに反して、マリヤはイエス様の十字架の死を気遣っていました。マリヤの無駄と思える行為の中にマリヤのイエス様を大切に思うその思いがにじみ出ています。この世界は功利的です。国々は、自国の利益を第一として、隣国と摩擦を起こしています。中国の海洋進出、ロシアのウクライナ進出、アメリカ第一主義もそうかもしれません。自分の利益を追求して飽くことのない、人間の罪の仕業です。また、私たちの社会は、無駄を省いて効率を求めて邁進していると言えます。この社会の歯車に乗って振り回されているので、疲れます。無駄をしない社会、生産性のないものを受け付けない社会、が私たちの社会ではないでしょうか。しかし、わたしたち信者は、そういう功利的な価値観に振り回されてはいけません。何をするにも、マリヤのようにイエス様を愛する愛が動機でなければなりません。「何をするにも主に対してするように」とあります。仕事をするのも、奉仕をするにも、家事をするにも、です。福音宣教もその通りです。イエス様は、宣教を私たち信者に委ねておられます。イエス様は強制しません。マリヤのような自発的な奉仕を喜ばれるのです。また、福音宣教を考える時、伝道は無駄が多いと言われています。パンを水の上に投げるようなものだとも言われます。これは大変無駄ではないかという声もあります。しかし、伝道者の書にあるように、「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。」神は約束しておられます。蒔かれた種は、やがて植え付けられて芽が出て、実を結ぶ時が来るのだということです。ですから、種まきであきらめてはいけないと、聖書は勧めています。

献身から出る奉仕:

イエス様の応えは何でしょうか。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のためにそれを取って置こうとしたのです。」と。ここで、イエス様は、マリヤが香油を塗ったのは、もうすぐイエス様は十字架で死んで、埋葬されるので、そのためにしたことであると言われました。イエス様がすべての人の身代わりとなって十字架にかかる時が迫っていたからです。でもこの時点で、イエス様が十字架にかかるとわかっていた人はいなかったようです。マリヤもそこまでは分からなかったのです。しかし、いつもイエス様のそばでイエス様のお話を聞いていたマリヤは直感的に埋葬の備えをしなければと突き動かされていたのかもしれません。イエス様の死は私たちの罪を負っての死であり、その死によって私たちには罪の赦しという祝福が与えられました。イエス様がご自身のいのちを差し出すのであれば、私も自分の最上のものをもってお応えしたい。マリヤの行為の背後にはそういう思いがあったのです。神は何を大切にしておられるか。人はうわべを見るが神は心を見て評価されます。ユダは自分の損得で動いた人間ですが、マリヤは神のために心を注いだ人物でした。イエス様は人間を救うためにご自身を捧げました。マリヤはそのイエス様に自分を捧げました。イエス様は数日後に控えている十字架のみ苦しみを思い、心は騒ぎ緊張の中にあったのです。マリヤはそのことを直感していました。イエス様の気持ちに寄り添って、イエス様を少しでも慰めたい。そのために、マリヤは惜しみなく捧げたのです。香油の香りが部屋中に満ちたのです。イエス様の身体も香油の香りを放っていました。おそらく十字架につけられて死んで墓に入れられる時まで香っていたでしょう。それが、埋葬の備えをした、という意味です。神は心からの献身を喜ばれます。神は心からの愛の奉仕を喜ばれます。人の評価ではありません。神が喜ばれるのは愛と献身です。わたしたちもイエス様への献身の思いを行動で表すことができます。それが奉仕です。また、隣人愛の実践です。そして福音宣教です。周りの人を教会に誘ってきてください。また、教会の伝道会やその他のプログラムに家族友人知人を誘って連れてきてください。

十字架と復活の道

2017年3月5日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書2章13~25節

2:13 ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
2:14 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、
2:15 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、
2:16 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
2:17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。
2:18 そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」
2:19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」
2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」
2:21 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。
2:22 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。
2:23 イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。
2:24 しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、
2:25 また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。

<要約>

怒られるイエス様:

イエス様は弟子たちを連れて、神殿にはいられました。エルサレム神殿では、巡礼者に便利なように、捧げものを売るところがありました。礼拝者は必ず、捧げものをもって神の前に出なければならなかったようです。また、その動物は傷や欠陥があってはいけないところから、商売人はレビ人や祭司などの宗教指導者と結託して、捧げものになる動物に厳しい基準を作って、高値を付けて、金もうけをしていました。また、外国の通貨は神殿に納めるためにはユダヤの貨幣に両替しなければなりませんでした。それらのゆえに、神殿は莫大な収入を得ていたようです。神が当時の宗教指導者やユダヤ人にお求めになっていることから大きく離れていました。祈りの家と呼ばれる神殿が、強盗の巣となっていたのです。神は「いけにえを捧げる前に心を捧げて従っていくことを求めておられます。すなわち砕かれた悔いた心」を求めておられます。私たちは毎週の礼拝で、この砕かれた悔いた心をもって見前に出ているでしょうか。もう一度、心を探っていただきましょう。イエス様は、細縄で鞭を作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちを追い出した、と書いています。イエス様は、律法学者やパリサイ人たちの偽善に対しては、その反発をものともせずにはっきりとその悪を指摘しました。「わざわいだ、律法学者、パリサイ人」と何度も言われました。結果的にそのイエス様の言動への反発のために、十字架につけられたのです。当時のユダヤ人は律法の表面的なことを守って、自分の義を立て高慢になっていました。イエス様は、隣人を自分と同様に愛しなさいと言われました。彼らにとって隣人とは、仲間のユダヤ人たちを指しました。しかし、イエス様は隣人とは、彼らが口を利くこともはばかっていた敵のサマリヤ人であると教えました。人を殺してはならない、と言われるが、殺人は心から発していると教えられました。すなわち、もし、私たちが正しく律法と向き合うならば、律法によっては自らを誇ることにはなりません。むしろ律法を全うできない自分に気付くことです。そして、罪を認めてへりくだって神を見上げ、信仰によって赦しを求め、神に近づくのです。イエス様は当時のパリサイ人や律法学者の律法解釈を批判しました。ですから、彼らから反発されたのです。イエス様は律法と人間の関係を正しました。律法は人々を神から離れさせるためのものではありません。律法により私たちは神を見上げ、信仰によって神に近づくのです。パウロはガラテヤ書で律法は養育係であると言いました。すなわち、律法は私たちをキリストに連れて行くのです。イエス様は、堕落したユダヤ人の宗教指導者たちに怒りをぶつけました。彼らが、神のみ心に反した律法の行使により民を苦しめて、自分たちの権力の座にあぐらをかいていたからです。

十字架と復活の予告:

「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」と、しるしを求めます。ユダヤ人指導者は、神殿を粛清するイエス様の態度を見て、怒りました。そして、何の権威によってこのようなことをするのか示せ、ということです。また、その権威があるならば、そのしるしを見せろ、と問いただしました。不信仰はしるしを求めます。信仰は目に見えないことを確信することです。「あなたが神ならば、しるしを見せろ」と人々は言いました。しかし、主は、不信仰な者にはしるしを見せませんでした。あくまでも、主は、あなたに信仰を求めておられるからです。神は、あなたが信仰によって近づく時、ご自身を表されるのです。ユダヤ人たちの問いに対して、イエス様は、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは三日でそれを建てよう」と言われました。この時は聞いていた者たちは誰も、その意味を解せなかったのです。が、弟子たちは、後で、イエス様の復活を見て、イエス様は、ご自身の身体の神殿のことを言われたことに気付いたのです。エルサレムの神殿は、イエス・キリストのひな型であると言えます。それまでは、人々は神殿に来て、神と会見できました。傷のない動物を携えてきた人は、祭司がその動物の血を流し、神にとりなすことによりその人は神と会見できたのです。今は、イエス・キリストを通してどこにいても神とお会いすることができます。イエス・キリストが永遠の大祭司となり、神に来る者をご自身の血をもって神にとりなしてくださるのです。「神殿をこわしてみなさい、わたしは三日でそれを建てよう。」の「建てよう」は、原語では「よみがえる、復活」と同じ言葉です。すなわち、これは、「わたしを殺してみなさい、私は三日目によみがえるでしょう」ということを予言したのです。すなわち、十字架と復活のことを暗示されたのです。イエス様は宣教の始めから、ご自身がこの世に来られた目的をよく知っておられました。ユダヤ人たちの反発により十字架で殺されました。しかし、神は三日目にイエス様を復活させて、悪魔と罪にとらわれている人類そして、あなたを救う道を用意なさったのです。神の動機は、何でしょうか。それは愛です。神の愛の極みが、あなたのいのちのために、ご自身のいのちを捨ててくださったことです。

人を知って人のために:

このエルサレムで多くの人々が癒され、悪霊から解放されて、奇跡を見て、イエス様を信じたとあります。しかし、イエス様はご自分を彼らにお任せにならなかったのです。これは、イエス様は全能の神ですから、すべての人の心にあるものを知っておられたということです。主は十字架と復活の道筋を心に決めておられました。イエス様はご自身のご計画を遂行するために人間に心を赦さなかったのです。イエス様は人間の心にある罪の深い闇を知っていました。それゆえに来てくださったのです。闇は光に打ち勝たなかった、と。イエス様は、ご自身の主導で十字架の道を目指しておられました。人を知って、人のためにご自身を人の罪の贖いの代価として提供なさったのです。私たちも、知らなければなりません。人間というものはいかなるものであるかを。人間を知ると言っても、人は自分がわからないものです。他人のことは見えるのですが、自分が見えないのが人間の罪の性質です。私たち人間を死と滅びに誘うものが三つあると小教理で教えています。それは、サタンとこの世と私たちの罪の性質の三つです。サタンやこの世は自分の外のものですから、警戒しやすいのです。が、自分の罪の性質については聖霊による照らしによるしかわかりません。当時のユダヤ人指導者ばかりでなく、人の心は悪に傾きやすいのです。さらに、千五百年降って、中性の暗黒時代、教会は免罪符など発行して、金で罪の赦しを売ることをしました。それで莫大な富を得たようです。聖ペテロ寺院など歴史に残る大聖堂はその収益でできたと聞いています。現代社会を見ても、世の中には悪いことが多すぎます。森友学園の事件、毒物を使った殺人事件、高校生の殺人事件、これらの原因は人間の内側にある罪の性質から発しています。それは、神から離れた人間の腐敗した私の中にある罪の性質です。神は人の深い闇、そして悪に傾く腐敗した心、それを救いきよめるために来られたのです。何の見返りも期待せずに、イエス様は、私たちの罪を担い代わりに裁かれ、反対に私たちは天にある神の子の特権をいただきました。これを喜びの交換と言います。神が私たちに備えてくださったものがいかに素晴らしいことであるかを覚えたいと思います。

聞かれる祈りとは

2017年2月26日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>Ⅱ列王記19章1~19節
19:1 ヒゼキヤ王は、これを聞いて、自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、【主】の宮に入った。
19:2 彼は、宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、年長の祭司たちに、荒布をまとわせて、アモツの子、預言者イザヤのところに遣わした。
19:3 彼らはイザヤに言った。「ヒゼキヤはこう言っておられます。『きょうは、苦難と、懲らしめと、侮辱の日です。子どもが生まれようとするのに、それを産み出す力がないのです。
19:4 おそらく、あなたの神、【主】は、ラブ・シャケのすべてのことばを聞かれたことでしょう。彼の主君、アッシリヤの王が、生ける神をそしるために彼を遣わしたのです。あなたの神、【主】は、その聞かれたことばを責められますが、あなたはまだいる残りの者のため、祈りをささげてください。』」
19:5 ヒゼキヤ王の家来たちがイザヤのもとに来たとき、
19:6 イザヤは彼らに言った。「あなたがたの主君にこう言いなさい。【主】はこう仰せられる。『あなたが聞いたあのことば、アッシリヤの王の若い者たちがわたしを冒涜したあのことばを恐れるな。
19:7 今、わたしは彼のうちに一つの霊を入れる。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしは、その国で彼を剣で倒す。』」
19:8 ラブ・シャケは退いて、リブナを攻めていたアッシリヤの王と落ち合った。王がラキシュから移動したことを聞いたからである。
19:9 王は、クシュの王ティルハカについて、「今、彼はあなたと戦うために出て来ている」ということを聞いたとき、再び使者たちをヒゼキヤに送って言った。
19:10 「ユダの王ヒゼキヤにこう伝えよ。『おまえの信頼するおまえの神にごまかされるな。おまえは、エルサレムはアッシリヤの王の手に渡されないと言っている。
19:11 おまえは、アッシリヤの王たちがすべての国々にしたこと、それらを絶滅させたことを聞いている。それでも、おまえは救い出されるというのか。
19:12 私の先祖たちはゴザン、ハラン、レツェフ、および、テラサルにいたエデンの人々を滅ぼしたが、その国々の神々は彼らを救い出したのか。
19:13 ハマテの王、アルパデの王、セファルワイムの町の王、また、ヘナやイワの王は、どこにいるか。』」
19:14 ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、【主】の宮に上って行って、それを【主】の前に広げた。
19:15 ヒゼキヤは【主】の前で祈って言った。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、【主】よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。
19:16 【主】よ。御耳を傾けて聞いてください。【主】よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセナケリブのことばを聞いてください。
19:17 【主】よ。アッシリヤの王たちが、国々と、その国土とを廃墟としたのは事実です。
19:18 彼らはその神々を火に投げ込みました。それらは神ではなく、人の手の細工、木や石にすぎなかったので、滅ぼすことができたのです。
19:19 私たちの神、【主】よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、【主】よ、あなただけが神であることを知りましょう。」

<要約>

呪いは祝福に変えられる:

「神にすがり離れず聞き従うものには祝福があり、逆に、神から離れて聞き従わない者には呪いが来る」という考え方を、申命記史観と言います。列王記の著者も、申命記史観に立って、記述しています。イスラエル民族の歴史を振り返ると、この祝福と呪いの原理がはっきり見えます。モーセの律法の中心である十戒もその通りです。守るものは祝福され、守らない者には呪いが来るのです。世の法律、決まりを見ても、守ればよし、守らなければ罰則があります。神の掟もその通りです。十戒は努力目標ではありません。守らなければならないものです。それは、神は侮られることのできない方だからです。ですから、神を第一として、また、主日を守ることを優先しましょう。この祝福と呪いの原理は、現代も真理です。神を無視する者に対しての呪いは弁解の余地はないと、ロマ書に書いています。神がおられるということは、世界を見ればわかるでしょう。それでも無視するならば、神のことは知らなかったなどと、弁解はできませんよ、というのです。でも神はあわれみと忍耐の神です。待っておられます。思いを変えて、あなたが、神に立ち返るのを待っておられるのです。いつまででしょうか。それは、あなたがこの地上のいのちを終える時までです。呪いにあるあなたを救うためにキリストは十字架であなたを贖ってくださったのです。罪と死と呪いの代価を支払ってくださったのです。だから、聖書のメッセージは、「キリストを信じて罪と死から救われなさい」というのです。「神を無視する生き方から、神を恐れ、愛し、信頼する生き方に変更しなさい。」かくして、キリストを信じる信仰により、呪いは祝福に変えられるのです。

ヒゼキヤの祈り:

ラブ・シャケはエルサレムの人々に向けて言います。「ヒゼキヤにごまかされるな。」ヒゼキヤが、「主は必ず我々を救い出してくださる。この町は決してアッシリヤの王の手に渡されることはない。」というのを聞いてはいけない。アッシリヤ王にかなう神はいない。このままでは、自分の糞を食べ、尿を飲むようになるぞ。降参すれば、別の国へ連れて行ってそこで飢えることはないようにしてやる、というのでした。ヒゼキヤは国家の危機にあって、心を注ぎ出して祈るために、主の宮に入っていったのです。また、イザヤに使いを出して、祈りを要請しました。ヒゼキヤは何を怒ったのでしょうか。それは、アッシリヤの王が生ける神をそしったからです。極度の危機状態で、主のことばが、イザヤにありました。神は、アッシリヤ王があるうわさを聞いて自分の国に引き上げるようにさせます。そこで剣に倒れる、という預言を与えたのです。ラブ・シャケは一旦退いて、リブナでアッシリヤ王と合流します。その後、再び、アッシリヤ王は、使者をヒゼキヤに送ったのです。今度は、ヒゼキヤに対して語りました。「お前の神にごまかされるな」と言っています。ヒゼキヤ王は、その手紙を読んですぐに、主の宮に行き、主の前にその手紙を広げて、祈りました。アッシリヤの王は、諸外国の神々はみなアッシリヤ王に勝つことはできなかった、だから、イスラエルの神も同じだというのです。信仰の対象を否定されたのです。世の人々はどの宗教も信仰は皆同じだと言います。みなそれぞれが、信じているではないか。どうして、キリスト教の神だけが神なのか、とよく言われます。それに対して、皆さんは何と答えますか。確かに、人間には真理を求め、理想を求める心があります。また、人間を超えた霊的な存在を神として崇めるのです。それが宗教心と言えます。宗教心は神へのあこがれです。しかし、その神が誰だかわからないのです。そこで、人間は自分勝手に太陽や山を神と決めたり、木や石で作ったりしているのです。これらは私たち人間が信じる対象にはならないものたちです。なぜならそれらは真の神によって造られたもの、被造物だからです。私たちが信じ、祈る神は、人間が考え出した、あるいは人間の都合で作った神とは違います。私たち人間を造り、全宇宙万物をおつくりになり、治めておられる恐るべき神です。ヒゼキヤは祈ります。神が自分たちを救ってくださいと、そうすれば、あなたこそ真の神であることがすべての王国は知るでしょうと。この後、預言者イザヤは、ヒゼキヤの祈りが聞かれたことを告げます。アッシリヤの王セナケリブは高慢のゆえに、自分の子どもの謀反により剣に倒れるのです。そして、主の使いにより、アッシリヤの兵隊18万5千人が一夜のうちに殺されたのです。日本人は、信仰する心、信仰心を大切にするようです。しかし、何を信じるかが大切です。頼りにならない者を信じても何もなりません。人間が作ったものに命をかけることはできません。それらはあなたを救うことはできません。 聖書があらわす神は、生きて働かれています。祈りを聞かれる神です。人類の歴史の中心におられて歴史を導いてこられた神です。

信仰告白の祈り:

ヒゼキヤの祈りは、信仰告白の祈りです。主よ、あなただけがすべての王国の神、と言っています。王の王、主の主、世界には多くの国々がありますが、そのすべてを治めておられる神であるというのです。人類の歴史においてその通りです。そして、ただ一人の神であり、天と地の創造者であると告白します。ヒゼキヤは、自分が信じている神がどのような方であるか、ことばで言い表しています。神は信者の祈りを聞かれます。信者には信仰告白があります。聖書に表わされている神はどういうお方か、イエス様はどういうお方か、そして自分が信じている神はどういうお方かを思い描きながら祈ることです。そのことを神に告白するのです。ヒゼキヤの祈りは大きな力となり、南ユダ王国を救ったのです。今週も、私たちは毎日祈ることです。祈らなければ、何も起こらないし、神について何もわからないでしょう。家族の救いのために、友人、知人の救いのために祈らなければなりません。

素直に信じたナアマン

2017年2月19日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>Ⅱ列王記5章1~17節
5:1 アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。【主】がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士で、ツァラアトに冒されていた。
5:2 アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から、ひとりの若い娘を捕らえて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていたが、
5:3 その女主人に言った。「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのツァラアトを直してくださるでしょうに。」
5:4 それで、ナアマンはその主君のところに行き、イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。
5:5 アラムの王は言った。「行って来なさい。私がイスラエルの王にあてて手紙を送ろう。」そこで、ナアマンは銀十タラントと、金六千シェケルと、晴れ着十着とを持って出かけた。
5:6 彼はイスラエルの王あての次のような手紙を持って行った。「さて、この手紙があなたに届きましたら、実は家臣ナアマンをあなたのところに送りましたので、彼のツァラアトを直してくださいますように。」
5:7 イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の服を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、ツァラアトを直せと言う。しかし、考えてみなさい。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」
5:8 神の人エリシャは、イスラエルの王が服を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人をやって言った。「あなたはどうして服を引き裂いたりなさるのですか。彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」
5:9 こうして、ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った。
5:10 エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」
5:11 しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、【主】の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。
5:12 ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。」こうして、彼は怒って帰途についた。
5:13 そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」
5:14 そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。
5:15 そこで、彼はその一行の者を全部連れて神の人のところに引き返し、彼の前に来て、立って言った。「私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました。それで、どうか今、あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。」
5:16 神の人は言った。「私が仕えている【主】は生きておられる。私は決して受け取りません。」それでも、ナアマンは、受け取らせようとしきりに彼に勧めたが、彼は断った。
5:17 そこでナアマンは言った。「だめでしたら、どうか二頭の騾馬に載せるだけの土をしもべに与えてください。しもべはこれからはもう、ほかの神々に全焼のいけにえや、その他のいけにえをささげず、ただ【主】にのみささげますから。

<要約>

悩みがもたらすもの:

ナアマンの悩みは、病気の悩みでした。病気はすべての人に襲い来るものです。ある意味ではありふれた悩みであります。ナアマンは悩みを通して、イスラエルの真の神に近づきました。いや、これは、神の方で彼を摂理の中に招いたのです。主が捕虜の若い娘に働いて進言させたのです。神は和平というこの状況を作り、ナアマンにあわれみをおかけになったのです。私たちも、自分の病、そして、家族の病を通して神は私たちに悩みを与え、「わたしに来なさい」と招いておられるのです。私もかつて、病気をきっかけとして、神を求め救われました。大学3年生の時、吐血で入院しました。私の出血は点滴ですぐに止まったのですが、私の隣のベッドの方は若くしてある夜出血して吐血して最後まで止まらずに亡くなりました。間近にそれを見た私は、死を恐れ、また、死後どこへ行くのかわからず不安に悩まされたのです。その悩みを通して、KGKの夏季キャンプに導かれて、イエス・キリストを救い主として信じました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」イエス・キリストを信じる者に与えられる永遠の命です。死は絶望ではなく永遠に至る門であることがわかったのです。死は恐怖ではなくなったのです。さらに死後にある神とともにあるいのちの希望、復活の希望が与えられています。悩みは、人の心を暗くして、憂鬱にします。しかし、悩んでいる時、神はその人の近くにおられるのです。そして、その人を招いておられます。悩んで、祈りに導かれることは幸いです。悩んで祈り、神を求めるとき、神を体験し、神を崇めるようになるのです。これは約束です。悩みは、神と出会うチャンスであると言えます。

従順により神を見る:

ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立ちました。しかし、エリシャは、ナアマンを出迎えずに使いをやって、指示だけを与えるのでした。それは、ヨルダン川へ行って七たび体を洗いなさい、そうすれば、身体は元通りになるというのです。しかし、ナアマンは、エリシャが顔も見せないで、指示だけを与えたことに怒りを燃やしました。彼は、エリシャが出てきて、主を呼び求めて、ナアマンの身体の悪いところに手を差し伸べて癒してくれると考えていました。このように、ナアマンは「何か大いなること」を期待していました。しかし、あまりにも単純な指示であったのです。ヨルダン川で身を浸して洗うというのは、あまりにも簡単で、愚かに見えたのです。それだったら、ヨルダン川よりももっと良い川がアラムにはある。それらの川で身を洗ってきよくなれないだろうかと、言い、怒って帰途に就いたとあります。その時、彼のしもべたちが彼の所に来ていいました。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」神の指示は、決して難しいものではありません。一言です。今日もあなたに「悔い改めて、神を信じなさい」と語っています。あるいは、「み言葉を信じて従いなさい」と聖書を通して語っておられます。あまり、単純なことなので聞き流すのでしょうか。神のことばを真摯に受け止める者は幸いです。エリシャは、ナアマンがエリシャの力で癒されたと思わないようにしたのです。だから、神からの指示だけを与えたのです。癒し主は真の神、主であることを彼に示したのです。信仰を持って行動した時に癒されるのです。ナアマンは、無礼に扱われたように感じ、怒りました。しかし、しもべたちの進言に謙虚に耳を傾けました。そして、へりくだって、愚かにも見えるエリシャの指示に従ったのです。ナアマンは謙遜にされたのです。ナアマンは神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に降りて行って、七回身を浸したのです。そうしたら、幼子の身体のようになりきよくなりました。ナアマンは神のことばに従順に従いました。ここに、神のわざが起こる原則が示されています。私たちも日々、みことばをいただきます。神からの指示があるでしょう。それに対する自分の思いもあるでしょう。ナアマンは、反抗して怒りました。私たちも素直に従えないような思いになるかもしれません。しかし、ナアマンは神のことばに従って、大いなる奇跡を見て、そして癒されました。さらに信仰が与えられました。ポイントは、従うということ、従順ということです。従順はクリスチャンライフのキーワードです。もしあなたが、神のことば、あるいは神に従順であれば、あなたは神の御業を見ます。あなたの日常生活の中で神が働きみわざを起こしていてくださるのが見えてきます。その神の御業を見て、あなたの信仰は強められて感謝にあふれるでしょう。そして、あなたはまた神に従順であろうとするのです。そして、次に来るみことばに従う時、神のご介入、みわざ、奇跡を見ます。信仰が強められて、感謝にあふれます。そして、また、みことばを慕い求めるのです。これを信仰の正の循環と言います。

福音のことばを受け取る:

ナアマンは、早速エリシャの所に帰って来て、信仰告白をします。「私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました。」真の神はただ一人、天地万物をおつくりになり、私たちにいのちを与え、そして全宇宙を保っておられる方です。ナアマンはその信仰に至ったのです。その信仰によって、身体の病ばかりでなく魂のいのちも救われました。そして、ナアマンは、多額で高価な贈り物をエリシャに進めます。しかし、エリシャは受け取らなかったのです。エリシャは無欲で高潔な人物であったことがわかります。それは、エリシャは、ナアマンに神の恵みはどういうものかを教えようとしたのです。すなわち、神の救いの恵みは、金銭で買えないものであること、すなわち無代価な恵み、であることを示したのです。新約の時代に至り、この神の恵み、すなわち福音は神のひとり子のいのちの代価によって得られた無限に尊い恵みであることがわかります。ゆえに、どんな金銭でも得られるものではないのです。福音は簡単です。「人間はその罪により死後裁かれて、そのままでは永遠の滅びに行かなければならない。しかし、神はそのことを惜しんで、罪のない神のひとり子であるキリストに人間のすべての罪を負わせました。そして、むごたらしい十字架で人の身代わりとして裁き死に至らせました。だから、キリストがあなたのために代わって死んでくださった事を信じるなら、それだけで、あなたの罪は赦されて、神の怒りは去り、あなたの上に神の祝福が注がれるのです。」人は、知識としては分かるのですが、なかなか理解して信じることは難しいようです。なぜなら、まず、自分の罪がわからないし、死後裁かれる、などというのは非常に愚かしく聞こえます。パウロは「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」と言いました。「十字架のことば、福音は、人間の知恵では愚かに見えます。そして、神がお与えくださった福音を愚かだと思い、受け取ることのない人々は自らの罪のために滅びに至ります。しかし、これを素直に受け取り信じる者には、福音はことばで言えない恵みです。そして、あなたは神の無限の力に支えられるのです。」今日、是非この十字架のことば、福音を受け取っていただきたいと思います。何の条件もいりません。ただ、あなたの両手をあげて、心を天の神に向けて、そこから注がれる恵み、神の約束です。罪の赦しと永遠のいのちを受け取ればよいのです。

勝利に帰する戦い

2017年2月12日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>Ⅰ列王記18章20~40節
18:20 そこで、アハブはイスラエルのすべての人に使いをやり、預言者たちをカルメル山に集めた。
18:21 エリヤはみなの前に進み出て言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、【主】が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。
18:22 そこで、エリヤは民に向かって言った。「私ひとりが【主】の預言者として残っている。しかし、バアルの預言者は四百五十人だ。
18:23 彼らは、私たちのために、二頭の雄牛を用意せよ。彼らは自分たちで一頭の雄牛を選び、それを切り裂き、たきぎの上に載せよ。彼らは火をつけてはならない。私は、もう一頭の雄牛を同じようにして、たきぎの上に載せ、火をつけないでおく。
18:24 あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は【主】の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」民はみな答えて、「それがよい」と言った。
18:25 エリヤはバアルの預言者たちに言った。「あなたがたで一頭の雄牛を選び、あなたがたのほうからまず始めよ。人数が多いのだから。あなたがたの神の名を呼べ。ただし、火をつけてはならない。」
18:26 そこで、彼らは与えられた雄牛を取ってそれを整え、朝から真昼までバアルの名を呼んで言った。「バアルよ。私たちに答えてください。」しかし、何の声もなく、答える者もなかった。そこで彼らは、自分たちの造った祭壇のあたりを、踊り回った。
18:27 真昼になると、エリヤは彼らをあざけって言った。「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席をはずしているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう。」
18:28 彼らはますます大きな声で呼ばわり、彼らのならわしに従って、剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけた。
18:29 このようにして、昼も過ぎ、ささげ物をささげる時まで騒ぎ立てたが、何の声もなく、答える者もなく、注意を払う者もなかった。
18:30 エリヤが民全体に、「私のそばに近寄りなさい」と言ったので、民はみな彼に近寄った。それから、彼はこわれていた【主】の祭壇を建て直した。
18:31 エリヤは、【主】がかつて、「あなたの名はイスラエルとなる」と言われたヤコブの子らの部族の数にしたがって十二の石を取った。
18:32 その石で彼は【主】の名によって一つの祭壇を築き、その祭壇の回りに、二セアの種を入れるほどのみぞを掘った。
18:33 ついで彼は、たきぎを並べ、一頭の雄牛を切り裂き、それをたきぎの上に載せ、
18:34 「四つのかめに水を満たし、この全焼のいけにえと、このたきぎの上に注げ」と命じた。ついで「それを二度せよ」と言ったので、彼らは二度そうした。そのうえに、彼は、「三度せよ」と言ったので、彼らは三度そうした。
18:35 水は祭壇の回りに流れ出した。彼はみぞにも水を満たした。
18:36 ささげ物をささげるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、【主】よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行ったということが、きょう、明らかになりますように。
18:37 私に答えてください。【主】よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、【主】よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」
18:38 すると、【主】の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。
18:39 民はみな、これを見て、ひれ伏し、「【主】こそ神です。【主】こそ神です」と言った。
18:40 そこでエリヤは彼らに命じた。「バアルの預言者たちを捕らえよ。ひとりものがすな。」彼らがバアルの預言者たちを捕らえると、エリヤは彼らをキション川に連れて下り、そこで彼らを殺した。

<要約>

信仰者の戦い:

カルメル山に大勢の人が集まりました。エリヤはイスラエルの全家に向かって話します。「いつまで、どっちつかずでよろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従え。もし、バアルが神であるならそれに従え」と。「どっちつかずの信仰」。イスラエルの民は、真の神を全く捨ててしまったわけではないが、不徹底な信仰だったのです。私たちクリスチャンも不徹底な信仰ではいけません。時には偶像と対決しなければなりません。一番、試されるのは、冠婚葬祭です。偶像はいっぱいあります。お葬式に出席することは良いと思います。しかし、焼香は礼拝行為ですから、辞退します。神棚に手を合わせることも辞退します。なぜなら、聖書によるとこれは姦淫だからです。神は、このようにどっちつかずのイスラエルの民に対して、「あなた方は姦淫をしている」と言いました。つまりこれは、夫、あるいは妻がいるのに、他の女性や男性と床を共にすることと同じだというのです。現代のクリスチャンにとって、偶像とは、刻んだ像ばかりではないと言いました。神以上に私たちの心を占領しているものです。神をいつも選び取っていくことが戦いであると言えます。信仰者の戦いとは何でしょうか。それは、第一に、自分の罪の性質との戦いです。信仰は目に見えないものを目に見えるがごとく確信していくことです。また、どうしても神中心の生き方より、自分中心の生き方に傾きやすいのです。神の国と神の義を第一として選び取っていくのがクリスチャンライフです。信仰者の戦いの第二は、この世との戦いです。世の本質は不遜です。神がおられるのに神を認めません。この世の君はサタンです。福音は輝きでないように覆われています。信者も教会に足を運ばなくなり、聖書も読まなくなれば、確実にこの世に流されていきます。この世は流れの強い川のようです。しっかり信仰に立っていなければ足をすくわれ流されていくのです。信仰者の戦いの第三は何でしょうか。サタンです。目に見えない霊的存在です。人格を持っています。知恵があります。肉体を持っていませんので、疲れることがありません。聖書にサタンは人殺しであると書いています。殺人犯は人間の肉体のいのちを奪います。しかし、サタンは、肉体の死の後に来る永遠の死に誘うのです。福音の内容は非常に簡単です。「イエス・キリストはあなたの罪を負ってあなたの代わりに十字架で死んでくださった。そして、あなたのいのちのために復活してくださった。」「イエス様を救い主と信じる者は罪赦されて永遠のいのちが与えられるのです」。罪の赦しと永遠の命です。死は怖くないのです。神の一方的な恵みです。しかし、サタンは光の天使を装って、あなたにささやきます。「あなたには罪はない。これまでまじめに頑張ってきた。罪人などと呼ばれることはない。あなたには救いは必要ない。」「死後裁かれる、そんなことはない。今の生活を楽しむことだ」など。また、信者に対しては、「あなたはイエス様を信じたのに、罪赦されたと言いながら、また、同じ罪を犯しているではないか。神の赦しはもう適用されない。あなたは神の前に出る資格はない。」と言って、信者を責めて教会から離れさせます。では、サタンに勝利するためにどうすればよいでしょうか。そのためには、福音を繰り返し聞くことです。毎週説教で同じことを話しています。皆さんが福音を思い起こして、もう一度、救いの恵みを得ていただきたいからです。あなたの罪が赦されていることイエス様があなたの代わりに十字架で死んで復活されたこと、そして、あなたは神の子とされ、永遠の命に与っていることです。

御名による勝利の戦い:

最初はバアルの預言者たちから始めます。牛を祭壇でたきぎの上に切り刻んで載せます。火をつけないで置きます。バアルの預言者たちは祭壇の周りで朝から真昼まで、バアルを呼ばわっていました。が、火はつきませんでした。次に、エリヤは、民全体に声をかけて、「わたしのそばに近寄りなさい」と言って、民を自分の近くに集めました。それから、主の祭壇をイスラエルの十二部族を象徴する十二の石で祭壇を立て直しました。これは、私たちクリスチャンも主の前に出る時は必ず、祭壇を築きなおさなければなりません。エリヤが整えた祭壇とは、現代では何を指すのでしょうか。旧訳の時代は、民は祭壇にいけにえを携え持っていき、罪を贖うためにその動物を殺し血を流し、そして燃やして灰にしました。そのことによって、神に近づくことができたのです。いけにえの動物は、すべて人の罪の贖いとなって十字架で死んでくださったイエス・キリストの予表です。動物と祭壇は、現在では、十字架のイエス・キリストとその御名です。現代の私たちクリスチャンにとって、祭壇を築きなおすというのは、悔い改めと言えます。打ち砕かれた悔いた心を神はさげすまれません。そのような心で神に向かうのです。エリヤは、民がもう一度、真の神に心の目を向け、思いを変えることを期待していました。イスラエルの民が悔い改めて主に立ち返ることを願っていたのです。民の前で、エリヤは神に祈りをささげます。エリヤはこの戦いは主の戦いであると知っていました。エリヤは、主が戦いに勝利してくださると確信していました。なぜなら、真の神は全能の神、不可能を可能にしてくださる神で、このお方以外には神はいない、と確信していました。バアル神との戦いで、主が勝利することは当然のことでした。現在でも、イエス・キリストは勝利者です。聖書にある通りを信じましょう。私たちはイエス様にある限り負けないのです。圧倒的な勝利者です。イエス様にしがみついている限り、私たちクリスチャンはどんなことがあっても大丈夫なのです。

心を翻す回復の戦い:

エリヤは、自分の力を見せつけたのではありません。神をも動かす自分の信仰を見せびらかしたのではありません。ただ、神の栄光が表れることを願ったのです。そして、イスラエルがないがしろにしてきた神への恐れと信頼を回復させたかったのです。その時、「主の火が降ってきて、全焼のいけにえを焼き尽くしました。民は皆、これを見て、「主こそ神。主こそ神です。」と叫んだのです。そして、エリヤの命令で、バアルの預言者たちを残らずとらえて、殺したのです。民は、皆、主こそ神であることを目で見て信じました。そして、信仰を回復しました。現代、サタンはキリストのすばらしい福音に覆いをかけて、輝かないようにしています。しかし、エリヤのように、勇気をもって主の勝利を信じて立ち上がるものと一緒に働いてくださいます。福音の輝きを取り戻してくださいます。黙っていては、このエリヤの力を体験できないでしょう。身近な人に福音を伝えましょう。

願いと神の応答

2017年2月5日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>Ⅰ列王記3章1~15節
3:1 ソロモンはエジプトの王パロと互いに縁を結び、パロの娘をめとって、彼女をダビデの町に連れて来、自分の家と【主】の宮、および、エルサレムの回りの城壁を建て終わるまで、そこにおらせた。
3:2 当時はまだ、【主】の名のための宮が建てられていなかったので、民はただ、高き所でいけにえをささげていた。
3:3 ソロモンは【主】を愛し、父ダビデのおきてに歩んでいたが、ただし、彼は高き所でいけにえをささげ、香をたいていた。
3:4 王はいけにえをささげるためにギブオンへ行った。そこは最も重要な高き所であったからである。ソロモンはそこの祭壇の上に一千頭の全焼のいけにえをささげた。
3:5 その夜、ギブオンで【主】は夢のうちにソロモンに現れた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」
3:6 ソロモンは言った。「あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。それは、彼が誠実と正義と真心とをもって、あなたの御前を歩んだからです。あなたは、この大いなる恵みを彼のために取っておき、きょう、その王座に着く子を彼にお与えになりました。
3:7 わが神、【主】よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。
3:8 そのうえ、しもべは、あなたの選んだあなたの民の中におります。しかも、彼らはあまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど、おびただしい民です。
3:9 善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」
3:10 この願い事は主の御心にかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。
3:11 神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、
3:12 今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。
3:13 そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者はひとりもないであろう。
3:14 また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしのおきてと命令を守って、わたしの道を歩むなら、あなたの日を長くしよう。」
3:15 ソロモンが目をさますと、なんと、それは夢であった。そこで、彼はエルサレムに行き、主の契約の箱の前に立って、全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえをささげ、すべての家来たちを招いて祝宴を開いた。

<要約>

ソロモン王の献身:

「ソロモンは主を愛し」と書かれています。ソロモンは、ギブオンでは一千頭の全焼のいけにえをささげています。この後、神殿奉献では牛、二万二千頭、羊十二万頭と桁外れの数のいけにえをささげています。ソロモンの惜しみなく捧げる所から、ソロモンが神を愛し第一とする人であったことがわかります。そして、「父ダビデのおきてに歩んでいた」とあります。ソロモンはダビデの信仰を見て育ったのです。ダビデのように神を愛し、ダビデのように神に従い、ダビデのように神を恐れ、ダビデのように神に信頼していたのです。また、ダビデも惜しみなく捧げる人でした。しかし、気になるのは、「父ダビデのおきてに歩んでいた」というのは、父ダビデに倣ったということです。このことから、ソロモンはダビデと同じ失敗をしました。それは、女性の問題です。私たちの信仰は人に倣ってはいけません。キリストに倣って、聖書に生きるのです。ソロモンが神の祭壇があるところで一千頭の全焼のいけにえをささげたその夜、主が夢の中に現れて仰せられました。

ソロモン王の願い:

神は、ソロモンに「あなたに何を与えようか。願え。」と言われました。神はクリスチャンに、「大胆に神に願いなさい」と奨めておられます。イエス様は主の祈りを教えられました。また、求めなさい、たたきなさい、捜しなさい、と奨めています。イエス様を信じて洗礼を受けた者の身分は何でしょうか。神の子、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有の民です。クリスチャンは王の王である神の王子、王女なのです。プリンス、プリンセスなのです。だから、父であり王である神に大胆に願っていいのです。さて、ソロモンは、何を願ったのでしょうか。まず、最初にソロモンは過去の神の恵みを感謝しています。父ダビデを選び大いなる恵みを与えられたことです。そして、ダビデは全き心を持って主に仕えました。彼は、誠実と正義と真心をもって、御前を歩んだとあります。そこには、神の選びと、ダビデの子孫に人類の救い主を誕生させるという神のご計画があったのです。次にソロモンは神の継続する恵みに感謝しています。ダビデへの恵みをその子ソロモンに与えてくださった事を感謝しています。神の恵みは、継続する恵みです。自分たち一代に終わるものではありません。信仰が子どもたち、孫たちに継承されていくように祈らなければなりません。ソロモンは、神の民であるイスラエル民族を正しく治めることができるように、善悪を判断して民を治め、正しく裁く知恵を求めたのです。神はイスラエルの先祖アブラハムを選んで、その子孫を祝福し空の星、海辺の砂のようにその数を増やすと約束しました。それがイスラエル民族です。そして、イスラエル民族を通して恵みと祝福を全民族に届けようとなさいました。選ばれた種族、聖なく国民、王なる祭司の身分が与えられました。しかし、彼らは神を愛し恐れることをせず、また、神を信頼することがなく、周辺諸国の神々に心惹かれて神から離れてしまいました。そこで、神はダビデを、民を救う王としてお立てになりました。そして、王国の世継ぎのソロモンはエルサレムに神殿を建て、その神殿を中心とした国家を打ち立てようとしました。しかし、ソロモンの堕落以後、国家は分裂し周辺の大国に支配されるのです。イスラエル民族は心が神から離れてしまい、ついには、救い主である神の子イエス・キリストを十字架で殺してしまいました。この選びの民が、捨てた石が礎となって、恵みと祝福が全民族に及んでいるのです。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。』見捨てた石、それはイエス・キリストのことです。不思議なことですが、このような形で聖書の預言は成就しました。すなわち、イスラエル民族を通して全人類を祝福するという約束です。アブラハムの子孫にキリストが出て、全人類の救い主となったのです。キリストを通してすべての人は罪赦されて永遠の祝福に与ることができるのです。神の祝福、それはいのちの祝福です。イエス・キリストが十字架であなたの罪の呪いである死を味わってくださいました。それゆえ、信じる者は罪の呪いが取り除かれて、神のいのちにつながるのです。それは永遠の命です。永遠の滅びから永遠の命に移されるのです。ソロモンはキリストのタイプ、ひな型です。預言者ナタンが神のことばをダビデに語りました。「あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」「あなたの身から出る世継ぎの子」というのは直接的にはソロモンを指しますが、とこしえの王座というのはキリストを指しています。ソロモンは王国の世継ぎでした、キリストは御国の世継ぎです。ソロモンは神殿を完成させました。この神殿は、キリストの身体のひな型です。かつては、民はエルサレムの神殿に詣でて神を礼拝しましたが、今は、キリストを通して神を礼拝します。それはまた、私たちクリスチャンを恵みの王国の王としてキリストが治めてくださっているということです。

神の応答:

この願い事は主の御心にかなったとあります。ソロモンは、自分のために長寿や富や敵のいのちを求めないで、正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、神はソロモンに知恵の心と判断力をお与えになりました。さらに願わなかった富と誉もお与えになったのです。そして、王たちの中でソロモンに並ぶものはないと彼を高く引き上げたのです。ソロモンはエルサレムで神の箱の前で感謝と和解のいけにえをささげました。この和解のいけにえは、キリストが神と人類の間に立って和解のいけにえとなったことをあらかじめ示しているのです。このように、旧約聖書はいたるところでキリストを映しています。今日は読まなかったのですが、ソロモンに与えられた知恵によって解決した事件が紹介されています。二人の遊女が王の所にやってきました。二人にはそれぞれ乳児がいましたが、一人の女は夜の間に自分の子の上に伏したためにその子は亡くなりました。そこで、その女は死んだ自分の子ともう一人の女の子どもと夜の間に取り換えたのです。双方が、これは自分の子だと主張しています。この種の問題は、通常役人や長老たちにより裁かれるが、この場合は、判決が難しく、王の所に持ってきたのだろうと思われます。ソロモンは神から与えられた知恵を早速用いました。二人の話が食い違っているのを聞いて、ソロモンは剣で子どもを二つに切り、二人で分けるように命じます。この命令を聞いて、一人の女性は子どもを哀れに思って胸が熱くなり、「あの女にあげるから、子どもを殺さないで」と言いました。しかし、もう一人の女性は王の命令に賛成したのです。ソロモンは二人のことばを聞いて最初の女性が本当の母であると判断しました。王の下した裁きに対して、人々は驚嘆し王を恐れたのです。今日はソロモンの願いと神の応答について学びました。クリスチャンはイエス・キリストを信じ、罪赦され、神の子とされ、御国の世継ぎとされた者たちです。神は世継ぎとされたソロモンに対してと同じようにクリスチャンに声をかけてくださっています。「何をしてあげよう。願え」と。私たちは日々、神に願い求めていますか?み心にかなう願いをするとき、神は、私たちが願った以上のことをしてくださいます。

結果オーライの人生

2017年1月29日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>士師記16章15~31節
16:15 そこで、彼女はサムソンに言った。「あなたの心は私を離れているのに、どうして、あなたは『おまえを愛する』と言えるのでしょう。あなたはこれで三回も私をだまして、あなたの強い力がどこにあるのかを教えてくださいませんでした。」
16:16 こうして、毎日彼女が同じことを言って、しきりにせがみ、責め立てたので、彼は死ぬほどつらかった。
16:17 それで、ついにサムソンは、自分の心をみな彼女に明かして言った。「私の頭には、かみそりが当てられたことがない。私は母の胎内にいるときから、神へのナジル人だからだ。もし私の髪の毛がそり落とされたら、私の力は私から去り、私は弱くなり、普通の人のようになろう。」
16:18 デリラは、サムソンが自分の心をみな明かしたことがわかったので、人をやって、ペリシテ人の領主たちを呼んで言った。「今度は上って来てください。サムソンは彼の心をみな私に明かしました。」ペリシテ人の領主たちは、彼女のところに上って来た。そのとき、彼らはその手に銀を持って上って来た。
16:19 彼女は自分のひざの上でサムソンを眠らせ、ひとりの人を呼んで、彼の髪の毛七ふさをそり落とさせ、彼を苦しめ始めた。彼の力は彼を去っていた。
16:20 彼女が、「サムソン。ペリシテ人があなたを襲ってきます」と言ったとき、サムソンは眠りからさめて、「今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう」と言った。彼は【主】が自分から去られたことを知らなかった。
16:21 そこで、ペリシテ人は彼をつかまえて、その目をえぐり出し、彼をガザに引き立てて行って、青銅の足かせをかけて、彼をつないだ。こうしてサムソンは牢の中で臼をひいていた。
16:22 しかし、サムソンの頭の毛はそり落とされてから、また伸び始めた。
16:23 さて、ペリシテ人の領主たちは、自分たちの神ダゴンに盛大ないけにえをささげて楽しもうと集まり、そして言った。「私たちの神は、私たちの敵サムソンを、私たちの手に渡してくださった。」
16:24 民はサムソンを見たとき、自分たちの神をほめたたえて言った。「私たちの神は、私たちの敵を、この国を荒らし、私たち大ぜいを殺した者を、私たちの手に渡してくださった。」
16:25 彼らは、心が陽気になったとき、「サムソンを呼んで来い。私たちのために見せものにしよう」と言って、サムソンを牢から呼び出した。彼は彼らの前で戯れた。彼らがサムソンを柱の間に立たせたとき、
16:26 サムソンは自分の手を堅く握っている若者に言った。「私の手を放して、この宮をささえている柱にさわらせ、それに寄りかからせてくれ。」
16:27 宮は、男や女でいっぱいであった。ペリシテ人の領主たちもみなそこにいた。屋上にも約三千人の男女がいて、サムソンが演技するのを見ていた。
16:28 サムソンは【主】に呼ばわって言った。「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。」
16:29 そして、サムソンは、宮をささえている二本の中柱を、一本は右の手に、一本は左の手にかかえ、それに寄りかかった。
16:30 そしてサムソンは、「ペリシテ人といっしょに死のう」と言って、力をこめて、それを引いた。すると、宮は、その中にいた領主たちと民全体との上に落ちた。こうしてサムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。
16:31 そこで、彼の身内の者や父の家族の者たちがみな下って来て、彼を引き取り、ツォルアとエシュタオルとの間にある父マノアの墓に彼を運んで行って葬った。サムソンは二十年間、イスラエルをさばいた。

<要約>

神の意に反した人生:

神から離れていたイスラエルの民はペリシテ人に支配されて苦しんでいました。そのような時に、神が送られたのがサムソンです。彼は、生まれる前から、神のナジル人の請願を立てていました。つまり、神に仕える者として選び分かたれた人物でした。サムソンは本来、主の霊に満たされてとてつもない力を発揮する男でした。選ばれた者の道をまっすぐに歩めば、いのちの祝福をもたらす太陽となれたのです。ところが、ナジル人の請願と、神が共にいてくださるという約束を無視して、サムソンは異国人の女に心惹かれて、不品行、好色に走りました。最後には、デリラという女性に騙されて、自分の力の秘密を漏らすのです。サムソンはデリラの魅力に引き込まれて、とりこになるのです。性愛の奴隷となったのです。ペリシテ人の領主たちが彼女の所に来て、サムソンを口説いてサムソンの秘密の力がどこにあるかを探るように言われました。デリラはサムソンに酒を飲ませて、「どうしたらあなたを縛って苦しめることができるか、私に教えて」と迫りました。最初は、新しい七本の弓の弦で自分を縛れば、自分は並の人と同じになると言って、うそをつきました。まだ、サムソンの力の秘密がばれることはありませんでした。デリラはサムソンの力の秘密を聞き出そうと必死です。「あなたの強い力がどこにあるかを教えてくださいませんでした」と毎日、繰り返しせがみ責め立てるので、サムソンは死ぬほどつらかったと書いています。ついにサムソンは、自分の心を皆彼女に明かしてしまったのです。デリラは強い酒を与えて、膝枕の上にサムソンを深い眠りにつかせて、一人の人を呼んで彼の髪の毛七房をそりおとしました。そして、サムソンの力は失せ、主が彼から去られました。サムソンは、縛られ、目をえぐられて失明し、青銅の足かせをかけられて牢の中で、臼を引いていたと書いています。悲惨の中に落とし入れられて、絶望の中にいたのです。彼は、過去を振り返り悔い改めの祈りをしていました。神を忘れ、神の賜物をないがしろにしていた自分を示されていたのでしょう。

サムソンの最後の選択・悔い改め:

「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。」彼は自分の欲望を抑えられずに酒と女におぼれて落ちて行ったのです。神を忘れ、自分のうちにある罪の性質に身をゆだねて、罪の奴隷となり、高いところから低いところへ下降していったのです。しかし、彼には虐げられていた民を救う使命が与えられていました。このサムソンから、何を学ぶのでしょうか。反面教師と言いました。また、旧約聖書はキリストを証ししていると言われます。サムソンの人生もキリストを映していると考えます。サムソンは、自らの罪によって、士師という身分、つまり裁き司、救い手の地位から敵の囚人にまで落ちていきました。それに対して、イエス・キリストは、私たち人間の罪のために、神である身分を捨てて、低くなられて、極悪非道の囚人として数えられて、十字架につけられました。サムソンは、自分の罪のために神の高い地位から低いところに下降しました。キリストは罪のないのに私たちに代わって神の高い地位から低いところに下降してくださったのです。キリストは、あなたをその罪の呪いから救うために来てくださりあなたの代わりに十字架で死んでくださいました。それは、キリストを信じる者が誰も滅びないで永遠の命を持つためです。かたや、神を認めず、神から離れた人間は、自らの罪によって死に下ります。最後は裁かれ永遠の滅びに落とされるとみことばは教えます。サムソンは最後に悔い改めて、神に祈ります。彼は神殿を支えている二本の柱によりかかり最後の力を振り絞って両手で柱を引き倒したのです。宮の二階にいた領主たちや集まっていた民全体と書いてあるように大勢のペリシテ人がそれにより死んだのです。そして、イスラエルの民をペリシテ人から救ったのです。サムソンは罪から信仰によって救われる者を映し出すモデルでもあります。自分の心の思うままに生きてきて、ついに死の床で、真の神に出会い、悔い改めて、信仰によって救われる人々がいます。十字架でイエス様と一緒につけられた囚人は極悪の犯罪人だったでしょう。しかし、その一人は、悔い改めて御国に入りました。すなわち、最後のところで悔い改める者は救われるのです。

共に戦ってくださる神:

サムソンのことについては、士師記のこの箇所以外には、新約聖書のへブル人への手紙11章に書いています。旧約聖書の聖徒たちの信仰がたたえられています。サムソンもその一人です。「彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。」と書かれている通りです。クリスチャンライフは、結果オーライの歩みです。私たちは失敗と苦しみの人生であったと思えても、主はそこから栄光をおとりになるのです。サムソンは失敗の人生でした。悲惨な最期とも言えます。しかし、そのような中で信仰の火を燃やし尽くしたのです。これは主が共に戦っておられたことの証です。あなたが、悔い改めて、十字架を仰ぐなら、神はあなたのどんな過去の罪も拭い去り、まったく新しくしてくださいます。そして、サムソンと同じように、天では信仰者の一人として数え上げられるのです。

無力の中に働く神の力

2017年1月22日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>士師記7章1~15節
7:1 それで、エルバアル、すなわちギデオンと、彼といっしょにいた民はみな、朝早くハロデの泉のそばに陣を敷いた。ミデヤン人の陣営は、彼の北に当たり、モレの山沿いの谷にあった。
7:2 そのとき、【主】はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。
7:3 今、民に聞こえるように告げ、『恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい』と言え。」すると、民のうちから二万二千人が帰って行き、一万人が残った。
7:4 すると、【主】はギデオンに仰せられた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水のところに下って行け。わたしはそこで、あなたのために彼らをためそう。わたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行かなければならない』と言うなら、その者は、あなたといっしょに行かなければならない。またわたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行ってはならない』と言う者はだれも、行ってはならない。」
7:5 そこでギデオンは民を連れて、水のところに下って行った。すると、【主】はギデオンに仰せられた。「犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にしておき、また、ひざをついて飲む者も残らずそうせよ。」
7:6 そのとき、口に手を当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみな、ひざをついて水を飲んだ。
7:7 そこで【主】はギデオンに仰せられた。「手で水をなめた三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡す。残りの民はみな、それぞれ自分の家に帰らせよ。」
7:8 そこで彼らは民の糧食と角笛を手に取った。こうして、ギデオンはイスラエル人をみな、それぞれ自分の天幕に送り返し、三百人の者だけを引き止めた。ミデヤン人の陣営は、彼から見て下の谷にあった。
7:9 その夜、【主】はギデオンに仰せられた。「立って、あの陣営に攻め下れ。それをあなたの手に渡したから。
7:10 しかし、もし下って行くことを恐れるなら、あなたに仕える若い者プラといっしょに陣営に下って行き、
7:11 彼らが何と言っているかを聞け。そのあとで、あなたは、勇気を出して、陣営に攻め下らなければならない。」そこで、ギデオンと若い者プラとは、陣営の中の編隊の端に下って行った。
7:12 そこには、ミデヤン人や、アマレク人や、東の人々がみな、いなごのように大ぜい、谷に伏していた。そのらくだは、海辺の砂のように多くて数えきれなかった。
7:13 ギデオンがそこに行ってみると、ひとりの者が仲間に夢の話をしていた。ひとりが言うには、「私は今、夢を見た。見ると、大麦のパンのかたまりが一つ、ミデヤン人の陣営にころがって来て、天幕の中にまで入り、それを打ったので、それは倒れた。ひっくり返って、天幕は倒れてしまった。」
7:14 すると、その仲間は答えて言った。「それはイスラエル人ヨアシュの子ギデオンの剣にほかならない。神が彼の手にミデヤンと、陣営全部を渡されたのだ。」
7:15 ギデオンはこの夢の話とその解釈を聞いたとき、主を礼拝した。そして、イスラエルの陣営に戻って言った。「立て。【主】はミデヤン人の陣営をあなたがたの手に下さった。」

<要約>

人間の力を無に帰する神:

イスラエル人は真の神である主を忘れ、他民族の偶像を神として不道徳に走りました。主は、彼らをミデヤン人に渡しました。ミデヤン人はイスラエル人の土地に侵入して、産物を荒らし、イスラエル人を襲いました。民は主に助けを叫び求めました。そこで、主は、民にお語りになりました。それは、彼らが、神の声に聞き従わず、不信仰になって、神から離れてしまったことです。そのために非常に弱くなり、周辺民族ここではミデヤン人から多大な圧迫を受けるようになったのです。主は、民をあわれみ、ギデオンを立てて彼らに遣わしました。いよいよ、ミデヤン人の陣営にギデオンが率いるイスラエル軍が戦闘を開始する時が来ました。ミデヤン人の軍隊は十三万五千人でありました。しかし、イスラエル軍は、三万二千人でした。圧倒的な劣勢です。しかし、主は「あなたと一緒にいる民は多すぎるからミデヤン人を渡さないと言われました。」それは、イスラエルが「自分の手で自分を救った」と言って神に向かって高慢にならないためでした。これは、人間の罪の性質を神はよく知っているからです。私たちは少しの手柄を誇り、自分の力に頼りやすいのです。そして、神はいらないと不信仰になるのです。さらに主は、主が選ぶ者だけが戦闘に加われるようギデオンに話します。そこでギデオンは泉の所へ民を連れて行き、精鋭三百人を残します。神は徹底的に、人間の力を打ち崩し、人間は誇ることはできない状況にギデオンを追い込まれました。私たちは自分の弱さ、無力さを知り、反対に神の力を知ることを学ばなければなりません。修道院ではラテン語で「メメントモリ」という言葉を挨拶に交わしていると聞いたことがあります。それは、「私たちは死ぬべきものであることを心に銘記せよ」という意味です。私たちのこの世のいのちはかないものです。明日もわかりません。どうせ死ぬのだからあきらめなさい、というのではなく、死があるからこそ永遠を与える神を恐れ信頼しなさい、というのが、「メメントモリ」です。私たちにいのちを与え、今、支えてくださっているのは造り主の神なのです。罪によって死が入ったと書いているように、私たちが死ぬべきものになったのは神を無視し、神から遠く離れた人間の罪のためです。あなたは、自分で生きているように錯覚しています。そして、神は必要ないと言います。神から心が遠く離れていることです。それは、神のいのちから断絶されている状況です。その罪を取り除き、人が神と和解し、本来のいのちである永遠のいのちを与えるために神のイエス・キリストが人となって来てくださったのです。

御力を現す神:

人間の力を無に帰した神は、そこで御力を現わされるのです。徹底的に力をそがれたギデオンは、人間の力が及ばないことを覚えました。ギデオンは、心の奥は不安と恐れで満ちていたと思います。恐れがあってもよいのです。神に申しあげればよいのです。神は、ギデオンが臆病なのをよくご存じで配慮なさったのです。私たちも恐れ不安の時は主に申しあげることです。主は恐れ不安を確信に変えてくださいます。ギデオンが、陣営に下って行って、そこで、耳にしたのが、敵の陣営で二人の歩哨たちの会話です。これによって、ギデオンは勝利を確信しました。そして、主を礼拝しました。また、具体的な作戦を立てることができました。それは、角笛とからの壺、そして松明です。その三つを用いて、300人が三つに分かれて周囲から攻め入る方法です。そして「主のためだ。ギデオンのためだ」と宣言するのです。真夜中の夜番が始まるころ、三体に分かれた男たちはまず、角笛を吹き鳴らしました。そして、手に持っていた壺を打ち壊しました。そして、「主のためだ。ギデオンのためだ。」と叫ぶのです。番兵が交代したばかりで、体制が緩んだ時でした、騒音で、びっくりした兵士は敵がすでに陣営に侵入したと思い、恐怖で包まれます。壺の割れる音や大きな叫び声で多くのラクダが暴走し始めたと思います。そして、三百の松明がうねるように山の上から降りてくる情景を見て大群の襲来と思い、恐怖に包まれて、パニックになりました。「陣営のものは走り出し、おお声を上げて逃げた」のです。混乱した兵士は、闇の中に浮かぶ影が味方なのか敵なのか判断できずに、同士討ちが始まります。ギデオンは大勝利をおさめて民を救ったのです。この戦いは徹底的に神の御力のあらわれでした。

勝利の秘訣:

ギデオンの勝利は、新約の民であるクリスチャンに勝利の秘訣を教えます。クリスチャンには三つの敵があると言いました。サタン、この世、私の不信仰な罪の性質。旧約の神の民は、不信仰のために世と妥協し世の誘惑に負けて失敗しました。サタンと世の力、人間の不信仰は強いのです。私たちは徹底的に無力を知って、神の力に頼るのです。私たちクリスチャンは、「世にあって世のものではない者たち」とイエス様が言いました。世と分離した存在です。しかし、同時に世の中で生きています。そして、世の光、世の塩として世に遣わされていると言えます。世の本質は不遜です。世は神に敵対しています。また、サタンは人々を神から引き離そうと一生懸命です。そして、私たちには神に頼りたくない不信仰があります。しかし、私たちは自分の力に頼らず神の力に頼るとき勝利するのです。なぜなら、キリストがすでにそれらに勝利してくださっているからです。死は勝利の飲まれたと聖書は宣言しています。キリストの十字架の贖いにより、信じる者は死からいのちに移されています。この肉体は死を迎えても神のいのちにつながっていますので、信じる者は永遠に生きるものとされました。それが福音です。この世にあっては艱難がある。しかし、勇敢でありなさい。わたしは世に勝ったのです。と言われた主イエスを心にお迎えして神により頼む人生こそ勝利です。

へりくだる者を高くする神

2017年1月15日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書18章9~14節
18:9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

<要約>

パリサイ人の祈り:

「自分は義人だと自任している」というのは、自己義認と言います。自己義認の典型が当時のパリサイ人や律法学者と言われる人たちです。彼らの祈りは、自らを誇り心の中で、他の人を見下げて、差別する祈りです。そして、自分は正しいものであると宣言しています。さらに、彼らは週に二回の断食と、十分の一をささげていると主張します。モーセの律法には、断食は年に一度、贖罪の日に行うことになっていました。彼らは、自分たちは、律法の要求以上のことをしていると誇っているのです。パリサイ人はおこないで神の前に自分の義を立てる人たちでした。外面的には、決まりを守り、正しい生活をしていたと言えるでしょう。しかし、神はその祈りを少しも聞かれませんでした。彼は、神に感謝しているようですが、その実、自分の功績を誇っています。彼は自分はこれでいいと思っているので、神に何も求めていません。彼は自分の罪に気付いていないので、悲しむことがありません。彼はプライドがあるので、神に助けを求めません。彼は神を愛していませんので、神より自分の事を考えています。彼は神を信頼していないので、神に心を開きません。イエス様は他のところでも、パリサイ人の真似をしてはいけないと注意しています。しかし、パリサイ人は特殊な人々ではありません。私たち自身の中にもパリサイ人はいるのです。どうしたら、パリサイ人になることから守られるでしょうか。それは、イエス様の十字架から目を離さないことです。「わたしのためにイエス様は十字架におかかりになった。私が無実のイエス様を十字架につけたのだ」と繰り返し心に銘記することです。

取税人の祈り:

それに対して、この取税人はどうだったでしょうか。彼は強い罪の自覚にありました。ユダヤ人は祈るとき、目を天に向けることが普通です。しかし、彼は、下を向いていました。自分が全く神の前に出るに値しないと思っていたからです。砕かれたへりくだった心です。また、胸をたたく、たたき続けたと訳すのが良いでしょう。それは、深い悲しみの表現です。そして、彼には取税人という仕事についての悩みや苦しみもあったでしょう。それらの内容は分かりません。しかし、彼は神のあわれみにすがるという一点でした。注解書によると、「神様。こんな罪人をあわれんでください。」の「あわれんでください」は原語では、「罪を贖う」「和解する」という意味です。ですから、ここは、「神様、わたしの罪を赦し、私への怒りを和解に変えてください。」と訳せます。彼は、深く自分の罪を覚えて、悲しみ、同時に罪の裁きを恐れています。彼は神の赦しを求めつつ、それに値しない自分を感じていました。ですから、彼の祈りは単純でした。彼の求めたものは、ただ、神のあわれみ、神の下さる賜物、キリストの贖いによる罪の赦しです。この取税人は、罪に悲しんでいました。そして、ひたすら罪を贖い赦すことのできる神に心を向けていました。それは、神ご自身が最も求めておられる「砕かれた、悔いた心」「全焼のいけにえに勝る砕かれた霊」です。

最もへりくだられた主イエス:

神はこの取税人を神の前で正しいものと宣言しました。この人には何の償いも功績もありません。しかし、罪赦され平安をいただいたと思います。行いではなく、信仰によって罪赦されて義と認められたのです。神の前に低くされ、心を注ぎ出した取税人は罪赦され同時に御国に受け入れられました。へりくだりの模範を示されたのはイエス様です。万物を支配し治めている神が、人となって、さらに最も貧しいものとなって家畜小屋でお生まれになりました。そして、無実なのに極悪人の一人として数えられて、十字架刑に処せられて、殺されました。これ以上のヘリくだりはどこにもありません。イエス様は子として父なる神の前で極みまでへりくだられたのです。それゆえ父なる神は、彼を復活させて、天に昇らせ、神の右に着座させられました。神がキリストを高く引き上げてくださったのです。キリストは私たちの罪のために十字架で死んで、私たちのいのちのために復活してくださいました。それにより、私たち信じる者は決して滅びることなく、キリストと同じ復活のいのちに与り、永遠に生きるのです。このような祝福を受けた私たちは、今後キリストを模範として歩むのです。キリストの御足の後に従うのです。具体的には、私たちは神を恐れ、愛し、信頼しなければなりません。神は侮れないお方です。罪に対しては容赦のない裁きを下されます。ですから、罪から離れなければなりません。また、神を愛するというのは、神のみことばを守ることです。キリストに従うということです。そして、神に信頼しなければなりません。どんな状況の中でも神に信頼して歩むとき、つぶやきはありません。神がすべてのことを働かせて益としてくださることを信じているからです。このようにへりくだり、キリストに従い、神を恐れ、愛し、信頼するものを、神は高く引き上げて、主の御用のために用いてくださいます。今年も、キリストに倣い、キリストに従っていきたいと思います。

主の祈りとは

2017年1月1日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書6章5~15節
6:5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
6:6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
6:7 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
6:8 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
6:9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
6:14 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
6:15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。
<要約>

なぜ、クリスチャンは祈るのか:

第一にそれは主の命令だからです。十戒の第二戒は教えます。「みだりに主のみ名を唱えてはいけない。」これは、神の名前で他の人を呪ったり、神の名の権威で自分を正当化したりしてはいけない、正しく神のお名前を用いなさいという命令です。正しい用い方とは、あらゆる苦難の時に「助けてください」と神を呼び求めることです。また、必要を願うことです。また、感謝することです。そして、神をほめたたえることです。これが正しい用い方です。クリスチャンが祈る理由の第二は、祈りは聞かれるという約束だからです。祈りが聞かれるというのは、願ったことがその通りになるというのではありません。しかし、神が最善のことをしてくださるということです。クリスチャンが祈る理由の第三は、主の祈りが与えられたからです。主の祈りが与えられたこと自体が、祈る理由です。私たちは主の祈りを唱えるたびに、自分の悩みに神が関心を持っていてくださることを知るのです。神の前にその悩みを出すようにとの招きなのです。神は私たちに祈らせることにより、神の偉大さに気付かせ、その愛の深さに気付かせるのです。

神に関する祈り:

最初に、「天にいます私たちの父よ」と呼びかけます。イエス様が最初に天の神を父と呼びました。そして、私たちにも父と呼びなさいと言われます。万物を造られた全能者が遠い関係でなく身近な父となったのです。次に「御名があがめられますように」です。クリスチャンがみことばに従って聖い生活を送る時、御名が崇められます。すなわち、「御名があがめられますように」は、わたしを神の栄光を表すものと変えてくださいという祈りです。次に「御国が来ますように」です。天の御国とは「キリストによる支配」です。キリストが私の人生の主となり、私の一切を統治してくださることです。私たちは、神の御国が、すべての人々に来るよう願います。それは、宣教を通して、人々がキリストを信じて救われ御国の一員となることを意味します。すなわち、「御国が来ますように」は宣教の祈りです。次に、「御心が天で行われるよう地でもおこなわれますように」です。御心が私たちの人間社会でも行われるようにと願って祈ります。そうすると、霊的な戦いが起こります。敵であるサタン、この世、人間の罪の性質は地上で御心が行われることに抵抗します。その時、それは戦いの祈りとなります。私たちは、神がサタンとこの世と人間の罪の性質を打ち壊し無に帰してくださいと祈ります。

人間に関する祈り:

最初に、「私たちの日ごとの糧を、今日も与えてください。」です。この祈りで、日ごとの糧は神からの贈り物であることに気づくのです。また私たちが感謝をもってこれを受け取るようになるのです。日ごとの糧とは、私たちの肉体的な必要を満たすための全てを意味します。例えば、食べ物や衣服、住居、家庭、お金や財産、敬虔な両親や子供たち、信頼できる会社の同僚、誠実な上司、良い政府、季節に合った天候、平和と健康、秩序と名誉、真の友、良き隣人などです。神が私たちの日々の必要についてどんなに心を配ってくださっているかを知るのです。私たちは神が哀れみ深く神なくしては生きていけないことを知るのです。次に、「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。」です。私たちが毎日罪を犯し、その罰を受けるしかない人間です。しかし、神がその恵みによって罪を赦してくださるように祈ります。そして、私たちも、私たちに対して罪を犯す人々を喜んで赦し、心から良いことをするようにします。神は私たちの幸福を願っておられます。幸福を考えるときに決して避けて通れないのが赦しです。ただ大事なのは、個々の罪について私たちがそれを自覚し、その個々の罪が神に赦されたということを確認することなのです。次に、「私たちをこころみにあわせないで」です。神は誰をも罪へ誘うことがありません。しかし、私たちはこの祈りで、悪魔やこの世や私たち自身の罪の性質によっても、私たちが誘惑されないように願います。サタンは私たちが神を信じないように誘惑します。聖書を読まないように、礼拝に行かないように、祈らないように誘惑します。私たちクリスチャンの内側にも罪の性質が残っています。この罪の性質は、神を神とせず自分を神とし、自分の欲望を果たそうとする傾向です。最後が、「悪からお救いください。」です。まとめとしてこの願いで、たとえサタンが、からだや魂、または財産や名誉を侵すとしても、天の父なる神が私たちをサタンから救出してくださるように祈ります。そして、ついには死の時に神が、祝福された終わりを与えてくださいます。そして、悲しみのこの世から、天国のご自身のもとへ、私たちを引き上げてくださるように祈ります。国と力と栄えとは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。私たちの祈りが決して無駄に終わらないことを信じます。終わりに、あなたはアーメンといって、決して疑ってはなりません。神は確かに恵みをもってあなたに耳を傾けています。祈ることをやめてはいけません。毎日の生活は神に対する祈りで始まり、祈りで終わるべきです。