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シメオンの預言

2017年12月 31日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書2章21~38節
2:21 八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。
2:22 さて、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。
2:23 ──それは、主の律法に「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない」と書いてあるとおりであった──
2:24 また、主の律法に「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」と定められたところに従って犠牲をささげるためであった。
2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。
2:26 また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。
2:27 彼が御霊に感じて宮に入ると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、入って来た。
2:28 すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
2:29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。
2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。
2:31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、
2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」
2:33 父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。
2:34 また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
2:35 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」
2:36 また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代のあと七年間、夫とともに住み、
2:37 その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。
2:38 ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。
<要約>

救うために人となったイエス:

マリヤもヨセフもイエス様を特別な方法で生まれた特別な人として扱うことをせず、一般の貧しい家庭に生まれた長男として育てました。イエス様は神の御子で罪のないお方なのに、ユダヤ人の普通の長男として律法の定めに従いました。律法をお定めになった神が律法の下にあるものと自らなられたのです。イエス様は、私たちの代わりに、その律法の要求をすべて満たしてくださいました。その生涯において一度も罪を犯したことが無かったのです。あるお父さんが、朝、息子に自分は出かけて夕方に帰ってくるので、それまでに、薪を割っておくように、と命じて出かけていきました。腕が細く、力のない息子は「困ったな。まきを割るための斧を振り上げることもできない。どうしよう。」そうしているうちにお昼が過ぎ、日が傾いてきました。「もう時間がない。お父さんに叱られる。」そうしたら、お兄さんがやってきました。困っている弟を見て、その手から斧を取ってまきを割り始めました。そして、あっという間に薪を割って整えてくれたのです。お父さんは帰って来て、仕事が終わっているのを見て満足しました。同様に、イエス様は私たちが満たすことのできない律法の要求を私たちに代わって、また、人類の代表とし成し遂げてくださったのです。代わりに薪を割った兄ゆえに弟を叱ることがなかった父親のように、神はキリストのゆえに、信じるものを裁くことができないのです。罪に定める律法はその力を失ったとも言えます。そしてまた、イエス様は律法による罪の裁きをあなたの代わりに自ら進んで受けてくださいました。それが十字架刑です。イエス様の身代わりの十字架がなければ、誰一人、罪の裁きである永遠の滅びと死を免れることはできません。人を罪と死の滅びから救うために神が人となって来てくださった。それがイエス・キリストです。

心を刺し貫かれても救う神:

シメオンの預言の前半は、キリストの使命についての預言です。後半はキリストの生涯についての預言です。最初に、前半のキリストの使命についての預言を見ましょう。「御救いは、万民に備えられたもの」キリストはイスラエル民族ばかりでなくすべての人の救いであるということです。キリストは啓示の光、光栄というのです。救い主は暗闇の中に、光として来てくださいました。イエス様の使命は、罪にとらえられて死の陰に座っている人々に光となり、救いとなることです。次に、後半のキリストの使命についての預言です。シメオンは両親を祝福し、そして、マリヤへ言葉を向けます。彼は謎のような言葉を彼女に与えます。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」ローマ書には、イエス・キリストはつまずきの石となり、イスラエルの多くの人はつまずいて倒れるとあります。すなわち、民は主イエスを神の御子、救い主とは認めることができずに、反って、十字架にかけて殺してしまいました。主イエスを信じることができずに、倒れて砕かれてしまったということです。また、それとは逆に、キリストに信頼するものは失望させられないとあるように、立ち上がる人々も起こるのです。キリストが反対を受けるしるしとなることは、この後のローマ帝国による迫害の歴史においても起きました。しかし、そのような世の迫害にもかかわらず、立ち上がる人々は消えることがなかったのです。次に、「剣があなたの心さえも貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが表われるためです」についてみます。マリヤにとっては、剣で心臓を突き刺されるような思いであったでしょう。そこにキリストの受難の生涯があります。また、この「剣があなたの心さえも貫くでしょう」のことばには、もう一つの意味が隠されています。それは、イエス様は見せかけではない真の平和をもたらすために剣を持って来たとおっしゃられるからです。神から離れた人間が安住しているのは、実は偽の平和であることをイエス様は指摘しました。真の平和は神との和解からくると言えます。神との平和がなければ、個人的にも、民族的にも、国家的にも平和はありません。イエス様は、あなたが神と和解し、神との平和に生きるために来られました。「多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」多くの人々の思いが判別されることです。イエス様に対する態度によってその人の立場が明らかにされます。中立はないのです。キリストの十字架を見てどのように反応するかが求められています。神は、すべての人をイエス・キリストによって、二つに分けられるのです。歴史はイエス・キリストにより、紀元前と紀元後に分けられています。人間も分けられるのです。羊飼いが羊とヤギを分けるように、すべての国民を分けると書いています。「剣があなたの心を刺し貫く」というのは、やがて経験するマリヤの心の苦しみを言っています。かたや、イエス・キリストはやがて十字架上で文字通り兵士によって、槍で胸を刺し貫かれました。同時にこの「剣が心を刺し貫く」というのは、御子イエスに対する父なる神の御苦しみでもあります。人が、そしてあなたが、自らの罪のために滅んでしまうのを惜しまれて、御子を身代わりの死に追いやった父の痛みです。神は、ご自身のいのちをかけてあなたを救おうとされているのですから、あなたの応答を求めています。あなたが御救いをあなたのものにするのかしないのか、決断を求めています。

祝福された高齢者の生き方:

もう一人の老人が登場します。アンナという女性です。彼女は7年間の結婚生活の後、やもめになり、その後独身生活を守り、84歳になっていました。この世的には、幸せな人生とは言えませんが、心は満たされていました。それは、救い主を待ち望んでいたからです。宮を離れず昼も夜も断食をして祈っていたというのです。

ここにも祝福された高齢者の生き方があると思います。それは、キリストを待ち望むということと、教会を離れない、祈りの生活を守るということです。


クリスマスの出来事

2017年12月 24日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書2章8~20節
2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
2:15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
2:17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
2:18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
2:19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

<要約>

心低く求める人々に届く救い:

救い主がお生まれになったクリスマスは、大きな喜びこの上もない喜びと言うのです。羊飼いたちは、天使のことばに促されて、救い主を見に行きました。救い主のしるしは、「布にくるまって飼い葉桶で寝ている赤ちゃん」です。それは「宿屋には彼らがいる場所がなかった」からです。これは何を意味しているのでしょうか。世の中の人々は救い主を喜ばず、拒絶したのです。神は敵対し拒絶する人間のところに訪れてくださったのです。そこに神の愛があります。そこに神のあわれみがあります。人間は罪により神がわからず、何をしているのかもわからないからです。一方、当時、羊飼いたちは最も貧しい人々でした。彼らは、社会的にも信用がなかったと言われています。また、彼らは、野で羊と共に生活していたので、安息日を守ることもできないので、低く見られていた人々でした。エルサレム近辺で飼われていた羊は、神殿でささげる犠牲になる羊であったようです。それには、傷のない子羊を用意しなければなりませんでした。なぜなら、神に供える生贄は傷のない最上のものでなければならなかったからです。この時点では、イエス様が、やがて十字架で自分たちも含むすべての人々の罪の贖いの代価としてささげられる神の子羊となるとは誰も思ってなかったでしょう。でも、イエス様は、すべての人の罪を贖うシミも傷もない神の子羊となったのです。神はあらかじめそのことをお示しになったのです。彼らは、律法を守ることのできないので、誰に言われなくても自分たちは罪人であると自覚していました。そして、心低くへりくだった人々であったと思います。羊飼いたちは、主であり救い主であるお方が、王宮に誕生するのではなく、最も貧しい家畜小屋でお生まれになった。そして、そのことを世の中では取るに足りないと見下されていた自分たちに一番先に知らせてくださったのはなぜでしょうか?まず、彼らが待ち望んでいたからと言えます。また、心の中でどうにもならない自分たちの罪を神が贖ってくださることを待ち望んでいたといえます。神は、心低くへりくだった人のところへ来てくださいます。もし、あなたが、心低くなり自らの罪に気付くなら、もう神はあなたのところに来てくださっているのです。

喜びの知らせは罪の赦し:

救い主の到来が素晴らしい喜びだと書いています。それでは、救い主は罪から救う方だからです。イエス様がこの世に来てくださった目的は「世の罪を取り除く」ことです。すなわち、イエス様は人々の罪を取り除くために生まれてきたのです。贖いの代価としてご自身を差し出すために来られたのです。端的に言えば、十字架にかかってあなたの罪を赦すために来られたのです。キリスト教の救いというのは、罪の赦しです。すべての人は神の目から見て罪びとです。人はうわべを見ますが、神は心を見られるからです。心のうちに浮かぶ悪いものはすべて罪です。そして、罪からくる報酬は死です、と書いているように、その罪のために人は亡ぶべきものとなったと聖書は言います。人は神から遠く離れ、神を感じることも、神を意識することもなくなってしましました。人は神と共に生きることをやめ、罪の中に生きるようになってしまいました。敵意、争い、ねたみ、貪欲、情欲、などが人を縛っているのです。現代社会を見ても個人的にも、国家的にもその通りです。その罪を取り除くためにイエス様はお生まれになったのです。無罪のキリストが全人類の罪を代わりにその身に受けて十字架で死んでくださったのです。キリストの十字架を信じる者はすべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられるのです。イスラエルでは、モーセの時代から、民の罪を贖うために、贖いの動物、子羊などがささげられてきました。それは、個人的にも民が自らの罪を赦していただくために、神にささげる犠牲でした。その律法が定めるところの犠牲による贖いは、イエス・キリストの十字架によって完了しました。キリストが全人類の罪の贖いの完全な犠牲となってくださったからです。キリストの十字架はすべての罪から私たちを清めるのです。聖書が示す救いの神というのは、あなたの罪を完全に赦す神であると言えます。天使が素晴らしい喜びを羊飼いたちに知らせたすぐ後に、天では、ファンファーレが鳴り響き、天でも大きな喜びが起こったのです。それは、神の国が地上に降りてきたことを意味しています。救い主の到来は、同時に、神の国の到来です。神の支配が地に及んでいるのです。そして、今日、ここに神の国は来ているのです。そして、ここに集っている皆さんはそこに招かれています。キリストの十字架の贖いにより、だれでも無条件に罪の赦しを受けることができます。その救いを今、いただいてもらいたいと思います。

救い主と出会い喜びの人生へ:

羊飼いたちはベツレヘムに着き、家畜小屋を見て回って、ついに、マリヤとヨセフとイエス様を探し当てました。キリストとお会いしたのです。羊飼いたちは天使のお告げの通りをそこで皆に知らせました。それを聞いた人たちは皆驚いた、とあります。彼らは、神を崇め、賛美しながら帰っていきました。彼らは、救い主に会い、神の約束された救いを信じたのです。キリストを礼拝し、賛美しながら帰っていきました。彼らは自分たちが見聞きしたことを周りの人々に伝えました。救いの喜びを自分のものだけにすることができなかったのです。彼らが世界で最初にイエス様を伝えた人たち、伝道者となったといえるのではないでしょうか。救い主との出会いは、人を変えるのです。羊飼いたちは喜びで満たされたでしょう。救いの喜びで神を賛美しました。救い主が自分たちに与えられたことを喜びました。幼子が成長し、やがて世を救う働きをなさるのです。イエス様はこのような真の人であり、そして、イエス様は人のかたちをとられた真の神でした。人類の最後の敵である死を打ち破り、三日目に復活なさいました。目には見えませんが、今も私たちとともにおられて、罪を赦し永遠のいのちの約束をお与えくださるのです。クリスマスは救い主イエス・キリストとの出会いです。神の羊飼いへのメッセージは、「イエス様こそ、あなた方のための救い主だよ。この上もない喜びだよ。この方によって、あなた方の人生は変わるのだよ」これは同時に私たち一人ひとりへの神のメッセージです。

ヨセフへの告知

2017年12月 17日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書1章18節~25節
1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
1:19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
1:24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、
1:25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。

<要約>

主から来る試練と訓練:

ヨセフはマリヤから天使のみ告げについて、説明を受けましたが、ヨセフにはそれをそのまま受け入れるのは難しい事でした。マリヤが妊娠したという事実を認めることができずに、心の中では否定していたのです。マリヤはマリヤで、やがて、妊娠という身体に現れる変化にいずれ周囲の人々は気づきます。「神にとって、不可能なことは一つもありません。」と信じていました。神にすべてをゆだねていたとしても、やはり不安になるものです。マリヤはエリサベツに会って、天使のお告げの通りエリサベツがみごもっていたことを確認しました。また、エリサベツの預言も聞くことができました。マリヤはさらに確信へと導かれました。しかし、ここで皆さんに注目していただきたいことがあります。それは、マリヤは神を信じ切っていたとはいえ、彼女の信仰も励まされ、その都度、確信を新たにさせる必要があったということです。目に見えないことを信じ続けていくためには、励ましと確認が必要であるということです。そのためには、私たち信仰者は、信仰の友の励ましが必要であるし、みことばを常に聞いて強められなければなりません。ですから、私は皆さんに教会に来ることを続けるようにと勧めているわけです。マリヤはナザレに帰る時が来ました。三カ月ぶりでマリヤと再会して、ヨセフはそのマリヤの身体の変化に気付いたことでしょう。今まで、そんなはずはないと自分の心で否定していたことは事実だったのです。彼の心に、マリヤに対する疑いと怒りが生じてきました。ヨセフは彼女の妊娠、それが自分の子でないということはわかっていました。マリヤは、お腹の子は聖霊によるということを説明したでしょう。ヨセフはマリヤに対する不信と怒りに燃えたと思います。きっと、ヨセフは辛かったと思います。眠れない日々が続いたと思います。なぜ、神はもっと早く、ヨセフに現われて、マリヤの聖霊による受胎を説明しなかったのでしょうか?ここで神はヨセフを試練に合わせたのです。それは、彼にとって必要な大切な試練でした。そうです、ヨセフの決断を見て、神は彼に現れたのです。ヨセフは悩みぬいて、御心を求めて祈ったでしょう。そして、この決断を心に決めました。マリヤを内密にさらせようというのは、ヨセフは悩み抜いた末の決断だったでしょう。しかし、主は、そのタイミングで、ヨセフに夢の中でお語りになりました。なぜかというと、神は、ヨセフがその決断に至るのを待っておられたのです。ヨセフは、正しい人でした。すなわち、律法を厳守する人でしたが、同時にあわれみ深い人でした。神は、ヨセフにテストを課したのです。同様に、神はわざと私たちに悩みと苦しみを通らせることがあるということです。それはテストのためです。また、神がこの時まで、ヨセフに黙っておられたことのもう一つは、ヨセフに訓練を課すためでした。それは、ヨセフが今後、救い主とその母を守り、救い主を亡き者にしようとする様々な攻撃の矢面に立つことができるための訓練でした。悩みと苦しみは訓練であったと言えます。神は私たちを、悩みと苦しみ通らせることがあります。それは、試練と言えます。またそれは、訓練でもあるのです。試練は同時に訓練です。それを通った先には、いのちの冠、いのちの実を結ぶものとされるということです。ヨセフはこれを通して、神への信仰とマリヤへの信頼を堅固にさせられたでしょう。また、それにより、ヨセフは神から、救い主イエス・キリストの父親としての使命と資質を与えられたのです。神は悩みと苦しみを通させることにより、私たちに使命を与え、さらに、私たちを信仰と愛に生きるものと変えてくださるのです。

神のくださる身分と使命に生きる:

「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と書いています。そうです。イエス・キリストこそご自身に来るものをその罪から完全にお救いになれるのです。現在、イエス・キリストにより、すべての人は救いと祝福を受けることができます。救いは、罪と死と悪魔からの救いです。すでにここにおられるすべての方々に無償で提供されています。この救いと祝福は、受け取るだけであなたのものになります。また同時に、キリストを受け取るあなたには、身分が与えられます。それは、神の子、御国の世継ぎです。ヨセフはダビデ王の子孫でした。しかし、この当時、ダビデ王の子孫と言っても落ちぶれていて、ヨセフには王家の地位も富みもありませんでした。ダビデの子孫と言っても世的にはとるに足らないものとされていました。ここに、世の与える身分と神のお与えになる身分は、全く違うということが示されています。イエス・キリストを信じた者は「神の子とされる特権を与えられた」とヨハネに書いています。今、あなたが自分自身はこの世では取るに足りない存在と思っておられるかもしれません。しかし、神はあなたを、ダビデの子、神の子、御国の世継ぎとして見ておられるということです。ヨセフはこの後、救い主神の子キリストの父親としての身分に生き、その役目を立派に果たしました。救い主の父親としての身分と使命に生きたのです。また、彼はマリヤと同様に謙遜と献身の生涯を送ったと思います。私たち信者も、神が下さった身分に生きるべきです。卑下することはありません。ヨセフやマリヤのように、私たちにも謙遜と献身の生涯があるのです。神から与えられた身分と使命に生きることです。

イエス様は光としてあなたのうちに住まわれる:

イエス様は30歳になられて、郷里のガリラヤ地方で宣教を始められました。その当時の社会状況について、マタイは「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」と書いています。ここに人々の霊的状況があります。これは、現代社会に生きるすべての人の霊的状況であると言えます。なぜなら、いのちの基となる造り主から断絶しているからです。そこに神が光として来てくださったのです。イエス様は光としてこられています。「インマヌエル、神が共におられる」というのは、あなた自身がその光をもって生きることができるということです。それは決して消えない光です。また、その光はあなたのうちに住んであなたを明るくします。このクリスマスに是非、その光をご自分の内にいただいてください。

受胎告知

2017年12月 10日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカによる福音書1章26~38節
1:26 ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。
1:27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。
1:28 御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
1:29 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
1:30 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。
1:31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
1:32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
1:33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
1:34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
1:35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
1:36 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。
1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。」
1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。

<要約>

窮地に陥った時:

御使いは、突然、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられます」「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。(イエスそれは、救い主という意味です。)」と。マリヤには自分ではどうすることもできないことが自分の身に降りかかってきたのです。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」とマリヤは反論します。それは、突然のことで、この御使いの言葉は、全く受け入れられないことだったと思います。結婚していないのにどうして?マリヤは何が何だかわからない。混乱の中に突き落とされたのです。御使いは、応えます。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」と。天使ガブリエルは半年前、不妊の女性エリザベツの夫ザカリヤに現われ、エリザベツが懐妊すること告げました。それが、その通りになって、今は6か月になっていました。天使はその例をとって、神には不可能はないと話したのです。これは、マリヤにとって大きな励ましとなりました。神は、窮地に陥ったマリヤのために、マリヤを励ます親類で妊婦のエリザベツを用意してくださったのです。マリヤには、受胎について、天使から長い説明はありませんでした。天使の「神にとって不可能なことは何一つありません」という言葉を聞いて、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と返事をしたのです。聖霊によって身ごもった。普通の妊娠のように男女の交わりもなく、突然、神の御使いがやってきて、「聖霊によって、聖なる者、神の子を身ごもり生む」というのです。このことによって、今後何が起こるかマリヤは分からなかったでしょう。予測もできなかったでしょう。ただ、マリヤはヨセフのことが気にかかり、マリヤの両親や家族、ナザレの人々のことが気になったでしょう。たくさんの不安があります。しかし、すべてのことは、「神にとって不可能なことは何一つありません」なのです。マリヤは折々に神の助けがあることを確信していたと思います。信仰にはたくさんの説明はいりません。「神にとって不可能なことは何一つない」ことを信じることです。マリヤは御使いの言葉で、すべてを神にゆだねる決心をしました。これは単純な真理です。信仰は難しいことではありません。「神にとって不可能なことは一つもありません。」というみことばの一言です。私たちクリスチャンは様々な試練やサタンの誘惑を受けます。しかし、この一言に立つか立たないかで、あなたの人生は変わります。

マリヤの信仰に倣う:

マリヤはどういう女性だったのでしょうか。ナザレの田舎の貧しい普通の女性でした。しかし、マリヤは旧約聖書を知っていたと思います。それは、マリヤの賛歌と呼ばれている詩からわかります。最後のところ、「私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫に語られた通りです」と結んでいます。すなわち、アブラハム契約を知っていました。マリヤは、神がアブラハムに与えた約束、つまり、イスラエル民族を星の数ほど増やし、アブラハムとその子孫を通して、全民族を祝福するという約束を知っていたのです。アブラハムとその子孫というのは、キリストであるとパウロはいっています。世界の全民族を祝福するというアブラハムへの約束はその子孫であるキリストによって成就したのです。マリヤは、このキリストの母となることを神の大きな恵としてとらえました。また、神の使いがヨセフに夢の中で語られました。マリヤの胎に宿っているのは、聖霊によるのだから、離縁してはいけない、マリヤを受け入れなさいと。では、マリヤは特別な人だったのでしょうか?特別な使命を与えられた選ばれた人といえます。しかし、後世の人が、マリヤは特別な人間として、神格化しようとするのは誤りです。マリヤは彼女の功績によって救い主の母となったのではありません。これは、全くの神の恵み、一方的な神の主権の中でなされたことです。イエス様を出産した後のマリヤについては、彼女は聖書の表舞台には姿を現さなかったようです。マリヤから私たちは何を学ぶのでしょうか。マリヤは特別な人間ではなかったということです。しかし、彼女の信仰は素晴らしいです。それは、ひとえに「神にとって不可能なことは一つもありません。」という信仰にしっかり立ったことです。そして、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と言ったのでした。何という信仰でしょうか。この中にマリヤの神に対する絶対服従という命がけの信仰を見ます。このような信仰を神は裏切るはずはありません。マリヤは、真の謙遜な生涯を送りました。そして、世界中の人々の尊敬を集め、神の光栄をあふれるばかり受けているのです。ここに信仰の模範としてのマリヤがあります。

王なるキリストの国:

「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。(イエスそれは、救い主という意味です。)その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」と。これは、マリヤに与えられたメシヤ預言です。このメシヤ預言には救い主は必ずダビデの王位を継ぐもの、あるいはダビデの子であると、ずっと信じられてきました。最初のメシヤ預言はダビデ王に与えられました。そのみことばを読んでみましょう。「あなた(ダビデ)の日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。―――あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」このように、ダビデの子としてのメシヤの到来はイスラエル人民の希望となっていました。この、アブラハムの子孫であり、ダビデの子である救い主イエス・キリストはイスラエル民族のためだけでなく、全人類の救い主となっています。それが神のご計画でした。イエス・キリストの救いは、罪と死と悪魔からの救いです。ダビデの子、キリストは王としてこられたといいました。それは、正義をもってあなたを悪魔から解放し守る王です。また、同時に、あなたの罪の代価をご自身のいのちで支払い贖ってくださった救い主です。また、ご自身の生き方を通して神の御心を教えてくださる完全なお方です。この全能であり、全知の神である完全なお方、イエス・キリストが今日もあなた提供されています。あなたが彼を心に受け取ること、それがクリスマスです。

救い主の預言

2017年12月 3日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>イザヤ書9章1~7節

9:1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。
9:2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。
9:3 あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。
9:4 あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。
9:5 戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。
9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。

<要約>

救いと祝福の約束:

創世記12章で、神はアブラハムに言われました。「あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福する。地上のすべての民族はあなたによって祝福される」と。また、神の約束は、アブラハムに「あなたの子孫たち」にと言わないで、「あなたの子孫に」と言って、単数形で語られてきました。それは、遠い将来において現れる、アブラハムの子孫、救い主キリストを指していたのです。神は、キリストによって、全世界に祝福をもたらしてくださいました。この祝福の根拠が、救い主イエス・キリストと呼ばれているように、キリストの救いです。イエス・キリストの救いが祝福をもたらしていると言えます。救いという言葉を使う時には、~からの救いと言います。例えば、貧困からの救い、病からの救い、悪政からの救い、災害からの救い、などです。しかし、神が与えてくださる救いは、もっと根元的な救いと言えます。それは、罪と死と悪魔からの救いです。罪は、原語では、「的外れ」という意味です。本来神から創造されたときのあるべき姿から外れているということです。では、本来人間のあるべき姿とは何かは、十戒に示されています。十戒の範囲は、心と言葉と行いに及びます。表面的には十戒を守って行動していても心を見られる神は満足しません。そして、すべての人は罪を犯していると聖書は指摘しています。さらに罪からくる報酬は死です、とある通り、罪によって全人類に死が入ったのです。すなわち、人は、本来あるべき人の姿から大いに外れてしまった、神から遠く離れてしまったと言えます。罪により神の支配である光の中から、悪魔の支配であるやみに入ってしまったのです。救い主イエスがもたらした救いは、罪の呪いからの救いです。つまり死と滅びからの救いです。同時に悪魔の支配からの解放です。すなわちやみから光の中へ移されることです。神は、人を救い、祝福にあずからせようと思われました。現代、イエス・キリストの救いと祝福は全世界に届けられています。神はあなたを悪魔の支配から取り戻し、罪と死の呪いから解放しようと招いておられます。

神から遠ざかる人間:

イザヤ書はBC700年ころの著書です。その著者はイザヤです。イザヤはBC742年ころに神から召命を受けて、約50年間預言活動をしました。ソロモンの死後、イスラエル王国は北と南に分裂しました。それからしばらくして、北王国は、北方の大国アッシリヤによって、BC721年に滅亡させられてしまいました。アッシリア帝国は非常に残忍で、捕虜の目をつぶして、国へ引いていったようです。それゆえ、当時はアッシリア帝国の侵略の手が、南王国にも忍び寄り、国中が恐怖と不安で押しつぶされそうになっていました。その中で、イザヤは南王国の王と人民に神のメッセージを伝えました。それは、罪からの悔い改めを迫りつつ、同時に恐怖や不安にいる人々に慰めを語り、神の約束を伝えました。北王国イスラエルが滅亡した理由については、偶像礼拝による背信の罪です。神から離れた民は悪魔の支配下に移り、当然呪いを受ける羽目になったのです。それに対して、神のみ思いはどうだったでしょうか。「わたしは誰が死ぬのも喜ばない。だから、イスラエルの家よ。悔い改めて生きよ」と神は命じているのです。しかし、神のその様な御思いに対しても彼らは、反省することなく主に反逆して、自らが自滅に向かったのです。ここから見えることは、神の約束は変わらない、しかし、人が、真の神から心が離れて、その約束を投げ捨てるために、自ら悪魔のとりこにされるということです。神は見捨てることをしません。人が神を見捨てて自ら離れていくのです。現代の私たちにも同じメッセージが届けられています。神がおられることは、被造物によって知られており、明らかです。しかし、造り主なる神を認めない人間の姿があります。その代わり、神でないものを神として祭ったり、拝んだり、礼拝したりしています。そこに、造り主なる神を認めようとしない、人間の深い罪があります。

救い主をお与えくださる神:

神はご自身の全存在をかけて、そのような人間に近づいてくださいました。救いの道を準備してくださったのです。それがクリスマスです。あなたが、神に帰るのを待っておられるのです。アッシリアの侵略によって、北王国は暗黒と苦悩の中に落とされました。その現実がある中で、イザヤは、神の救い、福音を語ります。「苦しみのあったところに、闇がなくなる。」と書いています。今は、依然苦しみとやみの中にいるが、それがなくなるときが来るとイザヤは預言します。「先に、ゼブルンの地とナフタリの地は、辱めを受けたが、」とあります。アッシリアはガリラヤ地方を征服したのちに、一部の人々を他国に連れ去り、逆に他国人をそこに移住させました。それは、神の民と自負していた彼らには屈辱でした。それが、「辱めを受けたが」という内容です。しかし、のちには「海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受けた」と完了形で書いています。もうすでに起こったかのように異邦人のガリラヤは栄光を受けたというのです。これは、このあと約700年後に救い主キリストの来臨によってガリラヤが神の栄光を受けたことの預言です。「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」と述べています。光として来てくださる救い主を示しています。死の影に住んでいる者、暗黒の死の影に座る者、これは、死と滅びに定められている人々への救いです。南王国ユダの人民は、襲い来るアッシリアを前になすすべもなく、恐怖におののきながらそこに住んでいる有様は、まさに、「死の影の地に住んでいた民」といえます。現代社会においても、世界を見ると、貧困や戦争で、死の陰の地に住んでいると言える人々が大勢います。主が、イスラエルの民を虐げる国々から解放する時、それは、人の力によらない、神のみわざであることを知らしめるためでした。行動されたのは主であることを示したのです。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」すなわち、この四つの身分はどれも神の身分であると言えます。これは、はっきりやがて来られるメシヤ、キリストを指していると言えます。これは、イスラエルの民にかかわる救いばかりではなく、約700年後、全人類に救い主が与えられることの預言です。ちょうど、私たちが外に出て、山々を見るときに、すぐ近くに見える山とさらに遠くに薄く見える山々があります。一つの景色の中に、近くのことと遠くのことが重なって見えるのと同じように、聖書の預言も、近々に起こることとはるか後に起こることが重なって語られているのです。この預言は、現代に生きる人々にも語られています。「死の陰に住んでいたものたち」それは、悪魔にとらえられて真の神を失っている人々への救いです。そして、やがて、救い主が再び来られて神の民は永遠の御国へと引き上げられる時にすべての預言は成就します。このことは万軍の主である神の熱心によって成し遂げられたのです。神が人を罪と死と悪魔から救おうとされているその熱心は、さめることもしぼむこともありません。神が無条件でお与えくださった救いを信仰によっていただくものとされた私たちは、神の熱心とご愛に感動して、これからは主のために人生を用いていただきたいと思います。

決断、勇気、行動

2017年11月 26日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記24章1~27
24:1 アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。【主】は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。
24:2 そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。
24:3 私はあなたに、天の神、地の神である【主】にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。
24:4 あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」
24:5 しもべは彼に言った。「もしかして、その女の人が、私についてこの国へ来ようとしない場合、お子を、あなたの出身地へ連れ戻さなければなりませんか。」
24:6 アブラハムは彼に言った。「私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。
24:7 私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える』と約束して仰せられた天の神、【主】は、御使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。
24:8 もし、その女があなたについて来ようとしないなら、あなたはこの私との誓いから解かれる。ただし、私の息子をあそこへ連れ帰ってはならない。」
24:9 それでしもべは、その手を主人であるアブラハムのももの下に入れ、このことについて彼に誓った。
24:10 しもべは主人のらくだの中から十頭のらくだを取り、そして出かけた。また主人のあらゆる貴重な品々を持って行った。彼は立ってアラム・ナハライムのナホルの町へ行った。
24:11 彼は夕暮れ時、女たちが水を汲みに出て来るころ、町の外の井戸のところに、らくだを伏させた。
24:12 そうして言った。「私の主人アブラハムの神、【主】よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。
24:13 ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。
24:14 私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」
24:15 こうして彼がまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せて出て来た。リベカはアブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘であった。
24:16 この娘は非常に美しく、処女で、男が触れたことがなかった。彼女は泉に降りて行き、水がめに水を満たし、そして上がって来た。
24:17 しもべは彼女に会いに走って行き、そして言った。「どうか、あなたの水がめから、少し水を飲ませてください。」
24:18 すると彼女は、「どうぞ、お飲みください。だんなさま」と言って、すばやく、その手に水がめを取り降ろし、彼に飲ませた。
24:19 彼に水を飲ませ終わると、彼女は、「あなたのらくだのためにも、それが飲み終わるまで、水を汲んで差し上げましょう」と言った。
24:20 彼女は急いで水がめの水を水ぶねにあけ、水を汲むためにまた井戸のところまで走って行き、その全部のらくだのために水を汲んだ。
24:21 この人は、【主】が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていた。
24:22 らくだが水を飲み終わったとき、その人は、重さ一ベカの金の飾り輪と、彼女の腕のために、重さ十シェケルの二つの金の腕輪を取り、
24:23 尋ねた。「あなたは、どなたの娘さんですか。どうか私に言ってください。あなたの父上の家には、私どもが泊めていただく場所があるでしょうか。」
24:24 彼女が答えた。「私はナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘です。」
24:25 そして言った。「私たちのところには、わらも、飼料もたくさんあります。それにまたお泊まりになる場所もあります。」
24:26 そこでその人は、ひざまずき、【主】を礼拝して、
24:27 言った。「私の主人アブラハムの神、【主】がほめたたえられますように。主は私の主人に対する恵みとまこととをお捨てにならなかった。【主】はこの私をも途中つつがなく、私の主人の兄弟の家に導かれた。」
<要約>

アブラハムの決断:

アブラハムにはなお、神の約束の成就のために信仰の次の段階がありました。それは、世継ぎと決まったイサクに嫁を迎えることです。将来を見据えての決断です。それは、アブラハムの家の最年長のしもべを自分の生まれ故郷に遣わしてイサクの嫁を連れてくることでした。ここから、信仰者の決断を学ぶことができます。神は、私たち一人一人に約束を与えてくださいます。それが成就されていくためには、私たちがみことばに応答して一歩進みだす必要があります。アブラハムの家は豊かになり、イサクにすべてを継承する準備ができていました。そして、イサクが嫁を貰い、アブラハムから独立する時が来たのです。これは、イサクにとっては独立ですが、アブラハムにとっては、子離れと言えます。アブラハムはイサクを自分の子であっても、神の約束の子どもであるとしっかり認識していました。子育て中の皆さんも、神があなた方にお与えくださった子どもたちは、神があなたに託した神の約束の子どもです。その認識が大切です。子どもたちはあなた方から独立して必ず離れていきます。私たちは、子どもたちを神にお返ししていくのです。「あなたの子孫にこの地を与える」という約束に基づいてアブラハムは行動しております。それは、この偶像礼拝のカナン人の娘ではなく、同じ真の神を知っている親族のいる自分の故郷から嫁を迎えることでした。そのことを最年長のしもべに約束をさせました。しもべは言います。「もし、その女性がこの土地について来ない場合はどうします?」その時の答えは、イサクをアブラハムの郷里において帰ってはいけない、必ず戻しなさいというものです。アブラハムは自分の郷里にイサクの妻となる人がいるかどうか、この時点では、見えていなかったようです。アブラハムは、結果を前もって見ることはできなくても、二つのことにしっかり立っていました。一つは、神は約束を撤回することはないという信仰です。二つ目は、人は神の約束を撤回してはいけないということです。私たちも、前もって結果を見ることのできないことが多くあります。しかし、神様の約束を疑ってはいけません。神は約束を撤回なさらないと信じることです。神はあなたを幸せにすると、そして喜びにあふれる人生を与えると約束しているのですから、疑ってはいけません。まだ、結果が見えなくても、み言葉を握って約束を信じ続けるのです。アブラハムは神の約束をしっかり握って、決断して実行しました。人間は未来を読むことができません。しかし、神は約束を守られます。私たち信者に必要なことは、決断し、信じて従っていくことです。

しもべの勇気:

しもべは十頭のラクダと高価な品々をもって、目的地ナホルの町につきました。そこで、ラクダを伏させて祈りました。おそらく彼は、主人アブラハムの敬虔な祈りの姿を見て、神を知ったのでしょう。これは、私たちクリスチャンが、主イエスを通して神を知り、神を拝していることと似ています。このしもべはアブラハムを通して真の神と出会いました。私たちも主イエスを通して、真の神を知ることができます。この一連の出来事に、彼は、祈りで始め、礼拝と祈りで終わっています。かれは、私の主人アブラハムの神と言っています。アブラハム契約を与え実行してくださる神、約束の神であることを念頭に置いた祈りです。その約束をかなえてくださいとの願いを込めて神に呼び掛けているのです。彼は勇気と信仰をもって大胆に神に近づいています。私たちクリスチャンも私たちが信じている神はどのような方であるかを覚えるようにとイエス様は主の祈りを教えてくださいました。初めに「天にいます私たちの父よ」と祈ります。私たちがこの祈りで何を念頭に置いて祈るべきかを教えています。それは、私たちの神は、天地の創造主であり人知を超えた高いところにおられます。そして、私たちのお父さんです。だから、私たちのすべての必要を知っておられ、それらを与えて、守ってくださる方であることを信じて祈りなさいということです。次にこのしもべは、自分に与えられた任務が果たせるように主の取り計らいを祈りました。そして、主人アブラハムへの恵みを祈ります。これは、彼自身の祝福は主人の祝福であり同時に、主人の祝福は彼の祝福でもあるということです。私たちクリスチャンもイエス様の喜びを自分の喜びとするときに、祝福あふれる人生を送ることができるのです。そして、彼がイサクにとってふさわしい女性を与えてくださいと祈っています。祈りは即座に聞かれました。彼の祈りがまだ終わらないうちに目の前に、リベカが表われました。彼女は親戚の娘です。非常に美しく、処女で、男が触れたことがなかったとあります。水がめに水を満たして肩に担いで上がってきたところでした。そして、しもべの願いを聞いてすぐに対応しています。また、全部のラクダに水を飲ませました。そして、彼女がアブラハムの親戚の娘であることがわかり、そこで彼は主を礼拝して、主をほめたたえ、感謝をささげるのでした。イサクの妻にリベカが選らばれたのは、全く神の主権の中で繰り広げられたことです。このしもべは節理のうちにみこころがあらわされるように祈りました。そして、その通りの人が与えられました。私たちも、祈るときに節理のうちに神の御心があらわされていくことを願うのです。その為に、勇気をもって大胆に神に近づくのです。

リベカの行動力:

最後に、リベカの行動を見てみましょう。急いで水がめの水を水舟にあけて、井戸のところまで走っていきました。そして、十頭のラクダに水を飲ませるために往復するのです。ここに、「すばやく」「急いで」「走って」という言葉から、リベカの行動力がよく表現されています。想像するに、リベカは非常に美しいばかりでなく、健康で体力もあり。また、進んで人に奉仕する易しく気配りのある女性であったことがわかります。オープンで勇気があり積極的な女性であったと想像します。また、リベカは自分の親や家族を離れて、イサクの下へ旅立つのです。そこに、リベカの信仰と行動力を見ます。この三人はイサクの嫁探しということでイサクにために用いられた人たちです。イサクは前にも話しましたが、イエス・キリストのひな型です。このイサクのために用いられた三人の資質を見ると、決断、勇気、行動ということができると思います。それは、同時に、キリストのために生きる者の資質ということができます。決断と勇気と行動です。神はそれぞれにタラントを与えておられます。多い少ないは問題ではありません。神に与えられたタラントを用いることを神は望んでいます。そこに必要なのは、決断と勇気と行動です。この後、リベカはイサクと会い、結婚し救い主の系図に書き記されました。神が人類救済のご計画を遂行されるためにこれらの人々を用いました。その時から約二千年を経て、イエス・キリストがお生まれになりました。アブラハムへの約束は、イサクに引き継がれ、ヤコブに継がれ、イスラエル民族に、そして、ダビデを経て、ダビデの子孫であるキリストに至ったのです。「すべての民族はアブラハムによって祝福される」というアブラハムの契約は、イエス・キリストによって成就しました。現在、イエス・キリストによって全世界のあらゆる民族は祝福されています。それは、キリストが全人類の罪の身代わりとなって十字架にかかり、私たちの罪を赦し永遠のいのちに生きる者としてくださったからです。その名を信じた者には神の子どもとされる特権をお与えになったのです。キリストを信じる者は神の子とされる身分が与えられて神の国の相続者として永遠の祝福にあずかるのです。

死といのちの試練

2017年11月 19日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記22章1~14節
22:1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。
22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
22:3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。
22:4 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。
22:5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」と言った。
22:6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
22:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
22:8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
22:9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
22:10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
22:11 そのとき、【主】の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
22:14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「【主】の山の上には備えがある」と言い伝えられている。

<要約>

試練の意義:

「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」とあります。また、試練を喜びなさいというのです。キリストの栄光が表われるとき、喜び踊るものとされるからです。キリストの苦しみにあずかれることなので、喜びなさいとあります。苦しみを通って喜びがあるということです。聖書は、「苦しみを通してあたえられる喜び」について多く語られています。次に、試練に耐えるものには、いのちの冠が与えられるとあります。試練によって鍛錬された信仰は、終末あるいは再臨の時には称賛と光栄と栄誉となるのです。聖書は試練を嫌なこと、マイナスなことと教えていません。試練は、むしろあなたの信仰を強め、鍛錬するものであります。試練に耐えてきた人には、信仰がゆるぎないものとなるのです。すなわち、「試練は信仰を育てる」。金が精錬されて、混じりけのない純金になるように「あなたも試練によって、純真で素直な信仰の持ち主」となるのです。信仰がなければ神に喜ばれないとあるように、神はあなたの素直な純真な信仰を求めています。試練は信仰を造るのです。パウロはローマにいるクリスチャンたちに、自分は艱難や試練も喜んでいると伝えました。それは艱難や試練があなたの人格を練り、最終的に朽ちない希望をあたえられるというのです。クリスチャンは、「失望に終わらない希望」を持っています。世にある希望は、移ろいゆくものです。決して揺るがないものはありません。絶対大丈夫と言えるものはないでしょう。しかし、神が与えてくださる希望は決して失望に終わりません。神が与えてくださる希望は、「死を通って、いのちに至る」希望だからです。

ひとり子をささげる父の涙:

神は、アブラハムに「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサク」と言って声をかけています。イサクはアブラハムにとっては、自分のいのちより大切な我が子であったでしょう。神はその心情を理解して、「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサク」と言ったのです。神は、アブラハムを信頼していました。そして、これから課す試練がアブラハムにとってどんなに苦しい、つらい試練であるか、知っていました。神はこの試練を通して、神の救いのご計画を示そうとされたのです。「アブラハムならきっと、この試練に耐える信仰を持っている」と思っておられたでしょう。アブラハムは、イサクのいのちを神が死者の中から取り戻してくださると信じました。今、アブラハムに課そうとしている試練を、神は、ご自身にも課しておられたのです。それは、神のひとり子イエスを、愛するあなたのためになだめの供え物として十字架にかけさせることです。アブラハムへの「あなたの子、あなたの愛するひとり子」の言葉に、神は「わたしの子、わたしの愛するひとり子イエス」への御思いを重ねておられたのでしょう。そこに、父の苦しみ、そして、父の涙を見ます。アブラハムに重ねられた神の苦しみと涙です。イサクをささげたアブラハムは、イエス様をささげた父なる神の型です。父なる神の動機は何でしょうか。それはあなたへの愛です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いて、たきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置きました。アブラハムが刀を振り上げて自分の子を屠ろうとしたその時、神様の「待った」が入ったのです。

死を通していのちに至る:

神は、人類を罪と死と悪魔から救うために無実の御子キリストに、十字架で人の罪を背負わせてなだめの供え物として死に渡されました。ですから、神が成してくださったその救いは完全です。御子を信じる者は罪に定められることなくいのちに移されるのです。死後、やがて復活のからだをいただいて永遠に生きるものとされるのです。なぜ、神は地上にいる間、この肉体の死を残しておられたのでしょうか。もし、キリストの贖いにより、イエス・キリストを信じ洗礼を受けたとたんに罪赦されて永遠のいのちが与えられて、堕落前のアダムのように、死がなくなり、そのまま永遠に生きるものとされたらどうでしょうか。私たちの周りは、死なない人と死ぬ人が混在することになります。当然みな死にたくないので、とにかく洗礼を受けるでしょう。この世に信仰はいらなくなりますし、信仰はなくなります。神は支配ではなく、信仰を通して人を救おうとなさっています。神は信仰を最も大切なこととしておられるからです。信じた者にも地上で肉体の死が残されているわけは、クリスチャンが最後まで、信仰に生きるためです。死を迎えるまで、信仰の訓練は続きます。私たちはこの肉体にいる間は様々な重荷で苦しみ悶えています。「天からの住まい」は復活のからだです。この地上の幕屋が壊れて、すなわち死を迎えて、復活のからだによみがえるとき、死がいのちに飲まれるのです。死がいのちの終わりではなく、死がいのちの始まりとなります。死を通過して永遠のいのちに入るのです。ドイツの神学者であり、牧師であったボンヘッファーは、ヒットラー暗殺計画に加担し、それが発覚して絞首刑に処せられました。ヒットラーが自害する約2週間前のことでした。絞首台を目の前にして彼は、看守に言葉を残しました。「これが最後です。わたしにとっていのちの始まりです」と。わたしたちには、この地上で苦しみがあり、悲しみがあり、嘆き、そして死があります。だから、イエス様も、「こころみに合わせないで悪からお救いください」と主の祈りで祈るようにわたしたちに教えています。神は信者をいつも守ってくださいます。また、神は、哀れみと慰めのお方です。神はどんなに悲しむ人をも慰めることができます。なぜなら、神は、御子の十字架でその悲しみを経験なさっているからです。そればかりでなく、すべての苦しみと死を通って蘇られた方、主キリストはどんなことがあっても失望に終わらない希望をお与えくださいます。

信仰と行い

2017年11月 12日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ローマ人への手紙4:18~25、エペソ人への手紙2:8~10
4:18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。
4:19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
4:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
4:22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
4:23 しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、
4:24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
4:25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
2:10 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

<要約>

信仰による義:

アブラハムは「からだは死んだも同然」で、「サラの胎も死んでいた」にもかかわらず、その信仰は弱まりませんでした。「彼は不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを固く信じました。」アブラハムはイサクをモリヤの山でいけにえとしてささげたとき、「イサクの復活」を信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたと書いています。それが、信仰義認です。行いではありません。信じる者は、神の前で義と認められるのです。すなわち、神の前で、罪なしと判定されます。アブラハムが死人を生かす神を信じて義とされたように、私たちもイエス様を死者の中からよみがえらせた方を信じることで義と認められるのです。義は、人として正しいことではなく、神の目から見て正しいという意味です。人が見て正しい人は、いくらでも周りにいます。しかし、神の目から見て正しい人は誰もいないと聖書は言います。すなわち、罪のない人は一人もいない、というのが聖書の主張です。でも、罪のない神のひとり子であるイエス・キリストが全人類の罪を一手に背負って身代わりとなって十字架で死んでくださったことにより、信じる者は価なしに義、罪無しと認められるのです。アブラハムは、やがて来られる救い主キリストをはるかに仰いでいたのです。そうしてアブラハムは、後に次ぐ人々が、キリストの贖いと復活を信じる信仰により救われることの先駆けとなったのです。私たち信者は、律法である十戒を守ることによっては救われず、信仰によって救われました。また、人は律法の行いによってはひとりも義と認められない、とあります。律法の中心は十戒です。ですから、十戒を行おうとすると、できないことが分かって反って、自分の罪を指摘されます。では、人間が守ることができない十戒は努力目標なのでしょうか。「どうせ十戒は守れないから、罪を犯してもいいのだ、イエス様が赦してくださるから努力目標として日々精進すればよい」、のでしょうか。これは否です。十戒は努力目標ではありません。守れないあるいは守らない者は罪に定められます。神の怒りがその上にあります。しかし、幸いなことに、イエス様の十字架の贖いを信じて神の義をいただいたものは、神の怒りから救われています。すなわち、自分を救おうとすることから自由になっています。もともと、救いは私たちの内側にはなく、救いは外にあるといいました。神がすべて用意してくださった救いの道です。では、律法である十戒はどういう意味になるのでしょうか。クリスチャンには要らなくなるのでしょうか。そうではありません。自分を救うことから自由になったクリスチャンにとって、十戒は愛する神の御心なので、ますます、慕わしいものとなります。私の足の灯、私の道の光、さらに道しるべともなります。私たちが道に迷ったときに、行先を示すガイドラインともなるのです。

良い行いに召される:

救いは「行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」とあります。行いによるのであれば、できる人とできない人、行える人と行えない人がでるでしょう。そうすると、できる人、行える人は自分を誇ってできない人を見下すようになります。救いが、全く行いによるのでなく、自分たちから出たものでなければ、だれも誇ることはできないということです。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」とあります。神の作品という意味は、キリストによって再創造された、新しく造られたということです。古い自分が改善されてよくなったのではありません。古い自分が死んで新しく生まれ変わったのです。次に、「私たちが良い行いに歩むように、そのよい行いをも予め備えてくださったのです」と書いています。私たちが、神の作品とされた理由がここにあります。良い行いに歩むためです。そして、そのよい行いも予め備えられているというのです。ここで間違えていただきたくないのは、良い人と良い行いの関係です。良い行いが良い人を造るという考えがあります。それは間違いです。良い人が良い行いをするのです。良い実は良い木からとれるのと同じです。キリスト・イエスにあって義とされた新しい人は神の作品ですので、神の召しに従って、良い行いをするのです。信じて救われ、洗礼を受けた人は、すでに傷のない神の子どもです。なぜなら、罪赦され、永遠のいのちが与えられているからです。もう救われるために努力する必要のない人たちだからです。世の光として輝くことのみです。クリスチャンも悩みは当然あります。しかし、よく考えてください。救われているのです。すなわち、サタンの支配下ではなく、キリストの支配下に移されています。そして、罪赦されて永遠のいのちを与えられています。クリスチャンは、いのちについて悩まなくてよい、心配しなくてよい、天のみ国に帰るところが用意されている、最終的に神が責任取ってくださるからです。この世の中では、世の光として輝くだけです。クリスチャンは世の光です。また、マタイの福音書では、「地の塩」であるとも言われています。その自覚に立っていただきたいと思います。ですから、「私たちが良い行いに歩むように」というのは、クリスチャンとして、この世の中で、ベストを尽くすようにということです。隣人によりよく仕えるために自分を磨かなければなりません。自分に愛を課していくのです。怠慢はいけません。次に、「良い行いをも予め備えてくださった」というのは、神は私たちが隣人愛の実践をする場所を備えてくださっているということです。私たちはそれぞれ、複数の身分と立場を与えられています。ある方は母であったり、同時に職業婦人であったり、妻であったり、教会では役員であったりです。それは神がその人をそれぞれのところへ召していてくださるということです。私たちが召されている場所は、大きく分けると主に三つあります。教会、家庭、職場です。神が召してくださる領域に、重い軽いはありません。どの領域にも等しく召されているのです。ですから、職場を重んじて家庭をないがしろにしてはいけません。また、教会を重んじて職場をないがしろにしてはいけません。同様に教会を重んじて家庭をないがしろにすることもいけません。それぞれ逆も同じです。それぞれにクリスチャンとしてベストを尽くすことです。私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって神の前で義とされ、罪と死と悪魔から救われています。また、私たちはキリストにあって再創造された神の作品であって、神の備えてくださったところでよい行いに進むのです。それぞれ召されたところ、遣わされたところでベストを尽くすのです。それが、クリスチャンライフです。

人間中心VS神中心の人生

2017年11月 05日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記19章1~29節
19:1 そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。
19:2 そして言った。「さあ、ご主人。どうか、あなたがたのしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊まりください。そして、朝早く旅を続けてください。」すると彼らは言った。「いや、わたしたちは広場に泊まろう。」
19:3 しかし、彼がしきりに勧めたので、彼らは彼のところに向かい、彼の家の中に入った。ロトは彼らのためにごちそうを作り、パン種を入れないパンを焼いた。こうして彼らは食事をした。
19:4 彼らが床につかないうちに、町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。
19:5 そしてロトに向かって叫んで言った。「今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」
19:6 ロトは戸口にいる彼らのところに出て、うしろの戸をしめた。
19:7 そして言った。「兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでください。
19:8 お願いですから。私にはまだ男を知らないふたりの娘があります。娘たちをみなの前に連れて来ますから、あなたがたの好きなようにしてください。ただ、あの人たちには何もしないでください。あの人たちは私の屋根の下に身を寄せたのですから。」
19:9 しかし彼らは言った。「引っ込んでいろ。」そしてまた言った。「こいつはよそ者として来たくせに、さばきつかさのようにふるまっている。さあ、おまえを、あいつらよりもひどいめに会わせてやろう。」彼らはロトのからだを激しく押しつけ、戸を破ろうと近づいて来た。
19:10 すると、あの人たちが手を差し伸べて、ロトを自分たちのいる家の中に連れ込んで、戸をしめた。
19:11 家の戸口にいた者たちは、小さい者も大きい者もみな、目つぶしをくらったので、彼らは戸口を見つけるのに疲れ果てた。
19:12 ふたりはロトに言った。「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。
19:13 わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが【主】の前で大きくなったので、【主】はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」
19:14 そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。「立ってこの場所から出て行きなさい。【主】がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。
19:15 夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」
19:16 しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。──【主】の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。
19:17 彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」
19:18 ロトは彼らに言った。「主よ。どうか、そんなことになりませんように。
19:19 ご覧ください。このしもべはあなたの心にかない、あなたは私のいのちを救って大きな恵みを与えてくださいました。しかし、私は、山に逃げることができません。わざわいが追いついて、たぶん私は死ぬでしょう。
19:20 ご覧ください。あそこの町は、のがれるのに近いのです。しかもあんなに小さいのです。どうか、あそこに逃げさせてください。あんなに小さいではありませんか。私のいのちを生かしてください。」
19:21 その人は彼に言った。「よろしい。わたしはこのことでも、あなたの願いを入れ、あなたの言うその町を滅ぼすまい。
19:22 急いでそこへのがれなさい。あなたがあそこに入るまでは、わたしは何もできないから。」それゆえ、その町の名はツォアルと呼ばれた。
19:23 太陽が地上に上ったころ、ロトはツォアルに着いた。
19:24 そのとき、【主】はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の【主】のところから降らせ、
19:25 これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。
19:26 ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。
19:27 翌朝早く、アブラハムは、かつて【主】の前に立ったあの場所に行った。
19:28 彼がソドムとゴモラのほう、それに低地の全地方を見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていた。
19:29 こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。

<要約>

三通りの生き方:

最初に、「アブラハムの生き方」は、信仰の父と言われるように、信仰者の良いモデルです。アブラハムは失敗もしましたが、神を信じ崇め、信仰に堅くたった人です。アブラハムの生き方は、神を人生の中心に置く生き方です。どんなに望みが見えなくなっても信じ続ける生き方です。神の全能を疑わない生き方です。神の約束を疑わない生き方です。アブラハムは何を見て喜んでいたのでしょうか。そうです、天の故郷を見ていたのです。ここに、信仰者として生きる者が見定めるゴールが見えます。次に、ロトの生き方を見てみましょう。彼の心にはむなしさがあったと考えます。魂に空洞があったのです。世の罪に流されてここまで来てしまったのです。門のところに座って、夕陽を見ながら、取り返しのつかない過去を回想していたと想像します。アブラハムと別れて目で見て良い場所選んで生活してきました。しかしそこには幸福はなく、心満たされることがなかったのです。かえって心を痛めることを多く見てきました。しかし、ロトは、自ら真剣に神様を求め、神様に近づこうとしたことは一度もなかったのです。ロトは、そこで、二人の旅人を見つけ、何かを直感したのでしょうか。「彼らを見るなり、立ち上がって、彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ」とあります。そして、彼らにロトの家で食事をして泊まるように誘いました。ロトはそれまで得た資産を手にしてソドムの街に住むようになったのです。しかし、ロトはソドムの住人の無節操な好色な振る舞いに悩まされていました。しかし、そこでの生活には経済的な面など外面的な豊かさもあって、ロトはそこで安逸をむさぼっていたのです。ロトは神様を頭では知っていました。しかし、彼はアブラハムの様に神様と出会っていなかったのです。ロトの一家はソドムとの罪の関係を深めて、滅びの道を歩んでいたと言えるでしょう。心が神から離れると、罪の世界に引き寄せられて、世の中の不道徳や悪の流れに流されてどこまでもいくのです。ロトは、神より地上の生活を優先し、自分の考えを中心して生きる生き方の例です。もう一つの生き方の例は、ソドムとゴモラの人々です。ソドムは性的倒錯、罪に汚れた町でした。ソドムの住人はよこしまで、主に対して非常な罪人であった、と書かれています。ソドムは不道徳で悪が満っていた町でありました。しかし、そこでの人々の意識としては、悪に慣れて、悪を悪とも思わない、それが日常となっていました。しかし、彼らには真の神を礼拝し崇める生活はありませんでした。すなわち、神から離れた人間は、人間中心の日常生活を送っているということです。現代社会人の生き方の原動力となっているのは、人間中心主義です。ヒューマニズムです。これははっきり言って悪魔の考えです。人間を中心に持ってきて神を蚊帳の外に置こうとする意図がこのことばにあるからです。聖書によると、福音を拒み続けるならば、現代社会の人々はソドムやゴモラの人々より裁きの日には罰が重いといえます。現代社会を考えると、神から離れた人類の歩みの姿が見えてきます。人間は罪の性質を変えることができないのです。世界中に憎しみが増強しています。人類は教育によっても、憎しみの連鎖を断ち切ることはできません。ソドムとゴモラは特別な街ではなく、創り主から離れた人間の姿を表しているのです。

神の愛と怒り:

聖書を読むと、神の二つのお姿に出会います。一つは、愛とあわれみの神です。神は、哀れみ深く、情け深く、怒るのに遅く、恵みと真に富んでおられる。また、罪びとをすぐに滅ぼそうとしないで、忍耐と寛容をもって悔い改めるのを待っておられるということです。

それでは、もう一つの神のお姿は、怒りの神です。この二つのお姿はどちらも神の真実なお姿です。神は聖いお方です。聖なるお方です。神の聖さからくるのが神の正義です。それは、どんな小さな罪をも赦すことができません。必ず裁きます。すなわち、裁きの神は焼き尽くす火です。もう一つは、神は愛とあわれみの神です。人を愛し亡んでしまうのを惜しんで、どんな罪をも赦す神です。

赦すため主の十字架:

では、愛し赦す神、怒り赦さない神の相矛盾している二つのお姿にどのように神は筋を通されたのでしょうか?それが十字架です。罪のない神が人となって、人の罪の身代わりとなって神の怒りをひとえに受けてくださったのです。信じる者は神の怒りを免れて、救われて神の愛の中に生きることができるのです。聖書は救いの書です。同時に聖書は警告の書です。ロトの娘たちの婿はソドムの裁きと救いの警告を聞いて、彼らは「冗談のように思われた」と書いています。そこに悲惨があります。警告を無視しました。恐ろしい落とし穴に落ちたのです。また、聖書は救いの書です。ここに救いの道があらわされています。家族、友人、知人に警告と救いを知っている私たち信者はもっと伝えるべきではないでしょうか。ロトは優柔不断で世に流されていく人間でした。しかし神はアブラハムのとりなしの祈りにこたえて、神様は彼を滅びの中から救い出してくださいました。同様に、わたしたちも、周りのこのままでは滅んでしまう方々に、福音を伝え、とりなしていきたいと思います。

アブラハムのとりなし

2017年10月 29日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記18章16~33節
18:16 その人たちは、そこを立って、ソドムを見おろすほうへ上って行った。アブラハムも彼らを見送るために、彼らといっしょに歩いていた。
18:17 【主】はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。
18:18 アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。
18:19 わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて【主】の道を守らせ、正義と公正とを行わせるため、【主】が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」
18:20 そこで【主】は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。
18:21 わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行っているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」
18:22 その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、【主】の前に立っていた。
18:23 アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。
18:24 もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。
18:25 正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行うべきではありませんか。」
18:26 【主】は答えられた。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」
18:27 アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。
18:28 もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが四十五人を見つけたら。」
18:29 そこで、再び尋ねて申し上げた。「もしやそこに四十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その四十人のために。」
18:30 また彼は言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。もしやそこに三十人見つかるかもしれません。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが三十人を見つけたら。」
18:31 彼は言った。「私があえて、主に申し上げるのをお許しください。もしやそこに二十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その二十人のために。」
18:32 彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」
18:33 【主】はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは自分の家へ帰って行った。

<要約>

祝福を届ける器となるには:

アブラハム契約には三つの内容があります。一つ目は、アブラハムと子孫の祝福です。彼の子孫を増やし大いなる国民とすることです。二つ目は、アブラハムを祝福するものを祝福し、アブラハムを呪うものを呪うというものです。三つめは、地上のすべての民族はアブラハムによって祝福されるというものです。このアブラハム契約はキリストによって成就し、現代もクリスチャンによって全世界で更新されています。一つ目の約束はどう成就したでしょう。アブラハムの信仰による子孫であるクリスチャンは全世界に無数に広がって、御国の大いなる国民となっています。二つ目の「アブラハムを祝福するものを祝福し、アブラハムを呪うものを呪う」というのはどうでしょうか。イエス・キリストを信じ愛するものを神は祝福し永遠のいのちを与えてくださいます。しかし、イエス・キリストを呪うものには死と滅びが定められるということです。三つめは、アブラハムを通して、全国民を祝福するということです。今日の箇所は、その契約の実現のためにアブラハムが用いられたところです。アブラハムは滅びようとしているソドムとゴモラの町の人々のためにとりなしの祈りをしました。アブラハムは神の声を聴いて神に応答しています。心にある思いを神に申し上げています。祈りの奉仕は祝福の奉仕と言えます。ソドムの人々の救いのために、また、甥のロトの救いのためにとりなしています。アブラハム契約の三つ目は、クリスチャンは祝福の基となるというのです。さらに言えば、「クリスチャンは祝福を届ける器」といえます。クリスチャンの皆さんがいるところで、あなたの家族知人友人に祝福が届いていくというのです。神はあなたのいるところであなたの周りの人々を祝福しておられるのです。どのようにあなたは周りの人々に神の祝福を届けているのでしょうか。第一に祈りによってです。第二に、あなたの良い行いによってです。キリストがあなたを赦してくださったようにあなたも隣人を赦します。赦しは祝福です。第三に、あなたが周囲の人々に祝福を届けるのは、あなたの聖霊の実によってです。聖霊によってあなたのうちに形づくられたキリストがあなたを通して人々に表われていくことです。第四に、神の祝福を届ける器となるためには、イエス・キリストの贖いによる罪の赦しを受けることです。クリスチャンはイエス様の十字架の血潮にて罪赦された人です。私たちは悔い改めて罪赦された時、大胆に神の前に出ることができます。そして、神の祝福を届ける器とされるのです。

祈りは神を動かし世界を変える:

それでは、アブラハムのとりなしの祈りを見てみましょう。アブラハムはこの祈りで神の御心を探っています。私たちも日々、神の御心を求めています。祈りはキャッチボールです。思いを申し上げて、御声に霊の耳を傾けます。みことばを思いめぐらします。また、祈りつつ聖書を紐解きます。神は聖書の言葉を用いてあなたに語ります。また、この祈りによってアブラハムは神のあわれみを引き出しています。クリスチャンは祈りによって、神のあわれみを引き出すのです。神は裁きを遅らせています。罪人が悔い改めるのを、忍耐を持って待っておられるからです。結局、ソドムには10人も正しい人はいなかったのです。ついには燃える硫黄の火によって滅ぼされました。しかし、アブラハムの祈りによってロトと家族が救われました。このようにとりなしの祈りは神を動かすのです。神は、私たちのとりなしの祈りを求めておられます。神は「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」と言われました。そして、神はご自身のみ思いを話して、アブラハムがとりなしの祈りをするように仕向けたのです。同様に神はクリスチャンのとりなしの祈りを求めています。神はクリスチャンの祈りを聞いてみ心を表わそうとしておられます。神は哀れみの神です。人を愛しあわれみ、何とか救いたいのです。罪を赦し永遠のいのちを与えたいのです。その為に祈るクリスチャンを求めています。また、救われていない家族友人知人のために祈るあなたを求めています。

主イエスは罪を担いとりなしてくださる:

私たちが神の前に出てとりなすことができる根拠は何でしょうか。人間は、自らの罪により神の前に出ることはできません。旧約の民は、神を見たら死ぬと信じていました。預言者や祭司だけが、神と語らうことができました。しかし、一般の人々はその罪ゆえに神に近づくことができなかったのです。今は、イエス様が十字架により神と和解させてくださったので、信じる者は誰でも大胆に神と語らうことができます。すなわち、現代ではクリスチャンは万民祭司として、神に人々の罪をとりなすことができるのです。さらに、罪のないイエス様が、人の罪をあたかも自分の罪のようにして、代わりに担ってくださいました。そして、十字架で自ら苦しんでくださり、死んで三日目に復活し天に昇り、神の右の座についておられます。イエス様は昼夜問わず、私たちのためにとりなしていてくださるとあります。ですから、あなたは自分の罪や弱さを大胆にキリストに持っていくことです。

神は私たち信者の祈りによって動かされ、みわざをなしてくださいます。そして、信者はキリストの救いと祝福を届ける器として召されているのです。