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2018年08月 19日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>創世記3章1~15節
3:1 さて、神である【主】が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」
3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
3:9 神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
3:11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
3:12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
3:13 そこで、神である【主】は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」
3:14 神である【主】は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。
3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
<要約>
罪の本質:
サタンは堕天使とも言います。堕落した天使です。神は、二種類のいのちを造られました。目に見えるものと見えないものです。いのちを持つもので、目に見えない存在が天使です。天使は、神をほめたたえ、神のみ心をなし、神の創造されたものに仕える存在です。元天使であった霊が、高慢と不従順のゆえに天から落とされたのが、サタンをかしらとするもろもろの悪霊たちです。彼らは、神に逆らい、み心を拒み続けます。聖書にはサタンは人殺しで嘘つきであると書いています。天使も悪霊も無数にいるといわれています。サタンが蛇の姿をとって人を誘惑しました。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」と。神のことばをまげて伝えています。神は、食べてはいけないのは善悪の知識の木だけ、と言われたのです。サタンはそれを「どんな木も」と言って、すべての木を禁止の対象としました。ここに誇張があります。サタンはこれにより、エバの心に神へのマイナスの思いを増大させています。同様に人がするうわさ話も必ず誇張があります。実際以上に悪く言うのです。ですから、うわさ話に対しては、サタンが背後でその人への信頼を落とそうと巧みに働いていることを知らなければなりません。蛇は、「触れただけで死ぬわけがないでしょう」と言わんばかりに、「あなたは決して死にません」と断言します。巧妙な手口です。これは神のことばの完全な否定です。逆なことを断言しています。そして、「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と言って、彼女を誘惑に落とすのです。この「神のようになり」というのは、罪の本質をついています。罪とは、人間が神になろうとするところから始まるからです。これは、人間が持つ強い誘惑です。神のようになって、何でもできる。決まりは自分で作る。誰にも命じられない、思うままに人を動かす、ほしいものは何でも手に入れる。最高権力ですべてを従えたい、というものです。 アダムがどのように罪を犯したか、もう一度まとめてみましょう。罪の本質は、みことばに対する不従順です。つぎに、悪魔のことばの採用です。神は食べれば死ぬといわれましたが、悪魔は食べても死なないといいました。人は悪魔を選んだのです。そして、人間の究極の欲望は、神のようになりたいということです。神のようになり、周囲の人々を自分の思うままにコントロールしたいというのです。
罪がもたらすもの:
その木の実は「食べるのによく、目に慕わしい、いかにも好ましかった」とあります。誘惑は華美で、素晴らしく映るのです。そして、食べたのです。誘惑に対しての敗北です。一線を越えてしまいました。ボーダーを超えてしまったのです。とって食べるという行為はとても簡単で容易な行為です。しかし、その重大さは計り知れません。「ちょっとくらい」という思いが雪だるまのように大きくなり、嘘に嘘を重ねるようになり、取り返しのつかないところまで来るのです。入り口は、簡単で容易に見えますが、その重大さは測り知れないのが、それが罪の性質です。私たちは、サタンと私たち自身が持つ罪の性質には注意しなければなりません。彼らが食べた後には、彼らが見えたものは、自分たちが裸である事実です。自分たちが恥ずべき存在であることの自覚です。罪は恥をもたらすということです。神の戒めを破った瞬間から良心にひびが入り、ごめんなさいといって、神に帰ることもせずに逃げ隠れしたのです。神は「あなたは、どこにいるのか」と問うています。これは、神が人を見失ったのではなく、人が神との交わりを絶ったからです。アダムもエバも神から問われたとき、他に罪を転嫁しています。これが人間の姿です。最終的には、神が悪いとするのです。こんな世界にしたのは神が悪い、もし神ならば、もっと良い世界を造れと言わんばかりです。堕落前は、神を主としていましたので、人は神の支配下にありましたが、堕落後は、人は罪に縛られて悪魔の支配下に移ったのです。ですから、現在、人類は悪魔の支配下で苦しんでいます。個人レベルでも国家レベルでもそうです。国は、戦争はいけないとわかっていても戦争をやめられないのです。個人レベルでは、健康に悪いとわかっていても悪い習慣をやめることができません。赦さなければならないとわかっていてもなかなか心で赦すことができない。これらは、悪魔の支配下で苦しんでいる人間の姿なのです。新約聖書は、このアダムの罪をどのように解釈しているでしょうか。ひとりのアダムの違反によって罪が入り、罪によって死が入り、こうして、全人類に死が入ったと書いています。アダムが全人類の代表となっています。これを聖書の代表性といえます。アダムの罪を全人類が引き継いだということです。私たちの代表の行動は私たち自身の行動と受け止められるのです。聖書はさらに、アダムだけの罪ではなく、その罪の性質が遺伝してすべての人は生まれながら罪びとであると宣言しているのです。ですから、堕落以降、生まれながらの人間は、本当の意味で神を知ることがなく、また、神がなさることを理解することができません。また、神を愛することも喜ばせることもできないししません。皆、悪魔の支配下にあるからです。でも、ご安心ください。イエス様は私たちを、悪魔の支配からキリストの支配に移してくださいました。イエス様の救いは、移動、引っ越しであるといいました。クリスチャンは、キリストの支配下にありますので、もう悪魔に支配されることはありません。では、どのように神は、悪魔の支配下から人を神の支配下、キリストの支配下に移してくださったのでしょうか。
原始福音:
そこで神は、15節をお与えになりました。これは原始福音と呼ばれるものです。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」おまえはサタンですから、サタンとエバの間に、そして、サタンの子孫と女の子孫との間に神が敵意を置く、というのです。この女の子孫は、単数であることからキリストを表しています。この「彼は」は、キリストで、サタンの頭を踏み砕くというのです。これはサタンとその力に対する完全な勝利を意味します。蛇を殺す一番の方法は頭を踏み潰すことだからです。「お前は彼のかかとにかみつく」これは、相手に激しい苦痛を与えるが、致命的なものにはならないというのです。神は、人の罪に対して、すぐに救いの道を計画なさりました。サタンは救い主を亡き者にしようとしました。最初は荒野で四十日四十夜、サタンはイエス様を誘惑しました。アダムはサタンの誘惑に落ちましたが、イエス様はみことばによってサタンの誘惑を退けました。落とすことができなかったサタンは、イエス様を抹殺しようともくろみます。そして、当時の宗教指導者たちや民衆を用いて、さらに弟子たちの裏切りを使って、ついに十字架で殺すに至るのです。これはサタンがキリストのかかとにかみついた瞬間です。一瞬、サタンは勝って、神は負けたかのように見えます。しかし、これは何という不思議でしょうか。また、神の知恵でしょうか。この負けと見える十字架刑により、キリストはすべての人の罪を、そしてあなたの罪をその身に負われました。すべての人の代わりに罪に対する神の怒りをキリストご自身がうけて、十字架で苦しみ死んでくださったのです。すなわち、人が受けるべき罪の裁きを代わりに受けて、あなたを無罪にしてくださったのです。「キリストの打ち傷によってあなたはいやされた。」とイザヤ書にある通りです。そればかりではなく、神はキリストの従順のゆえに、キリストを復活させて、それにあずかるものに永遠のいのちをお与えくださいます。これは、サタンの頭を踏み潰した瞬間です。サタンはもう、神の子キリストに勝利することはできないのです。このようにして、私たち信じる者はサタンの支配から、キリストの支配と移されました。アダムの違反によりすべての人に罪が入りました。しかし、イエス・キリストの従順と義の行為、それはとりもなおさず十字架であります。これにより、すべての人が義、すなわち神の前で正しいものとみなされて、永遠のいのちが与えられるということです。神が提供してくださるのは、罪と死と滅びからの救いです。どうすればそれをいただくことができるでしょうか。それは、ただいただくというだけです。なんの行いもいりません。信仰によって、いただくのです。自らの罪を認めて十字架を仰ぐことです。あなたは神のいのちといつながっているので、たとえ、地上のいのちが終わっても神のみ手の中で永遠を祝福と恵みの中で生きるのです。
人の創造と罪
2018年08月 12日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>創世記2章7~25節
2:7 神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。
2:8 神である【主】は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。
2:9 神である【主】は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。
2:10 一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。
2:11 第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れる。そこには金があった。
2:12 その地の金は、良質で、また、そこにはベドラハとしまめのうもあった。
2:13 第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れる。
2:14 第三の川の名はティグリス。それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。
2:15 神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
2:16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
2:18 神である【主】は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」
2:19 神である【主】は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。
2:20 人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。しかし人には、ふさわしい助け手が見つからなかった。
2:21 神である【主】は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。
2:22 神である【主】は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。
2:23 人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」
2:24 それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。
2:25 人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。
<要約>
人は神の似姿であり代理者:
神は、いのちの息を吹き込むことによって人をご自身のかたちに似せてつくられました。神のかたちに似せてつくられたということは、神のご性質や人格に似せて人をつくられたということです。それは、神は人を他の被造物と区別されたということです。神がいのちの息を吹き込まれた、それは神の霊です。ですから、人間は霊的な存在といえます。動物は霊がないので、神を求めることもありません。ですから、動物には宗教はありません。霊によって私たちは神のいのちとつながり、永遠に生きるものとされていました。しかし、人間は自分が神のようになれるという誘惑を受けて、自分を神の上に置こうとしました。そして戒めを破り、罪を犯してしまいました。そこで、人間は、堕落して、神から離れて真のいのちを失いました。神は人をおつくりになった後、人に使命をお与えになりました。それは、地を従え、すべての生き物を支配することです。つまり、管理することです。神は人をエデンの園に置き、そこを耕させ、そこを守らせたとあります。神は、世界を人の幸せのために用意され、さらに彼らにすべての被造物を管理させたのです。すべての被造物の長として支配させたのです。すなわち、人に仕事と使命を与えたのです。それはまた、人を神の代理者として地上を治めさせるということです。堕落前の人は、神からの知恵を用いて、地上のすべての物を正しく管理できました。ですから、人には素晴らしい労働と豊かな生活があったのです。現代も、人間は地上のあらゆる動植物を管理するものとしての使命を持っています。しかし、アダムの堕落以来、人は正しく管理することができずにいます。乱獲により絶滅寸前の動植物もあります。また、化石燃料の使い過ぎにより、地球温暖化が起こり、南極の氷は溶けだして海の水位が上昇して、水没しようとしている島国もあります。人が神中心の生き方から、人間中心の生き方を選んだ結果、正しく治めることができなくなったのです。それが現代に及んでいることです。神の代理人であったのに、自分が主人となった人間の姿です。それ以来人と神とは敵対関係にあるといえます。神の似姿であり代理者であるというのが、人の本来の姿です。今は、私たちはキリストにより神と和解して、親しい関係に入っています。神は再び私たちを神の代理者として立たせてくださっています。そして、神は私たちに使命と労働を与えておられます。また、今度は、神は私たちをキリストの代理者として、もう一度遣わしておられるのです。あなたは小さなキリストであることを忘れないでください。小さなキリストとしてあなたの隣人に仕えていくことです。また、隣人が神との和解を受けて幸せになるためにみことばを伝えるのです。
神のご支配にある自由:
神はすべての被造物を見て、そして、人がそれらを正しく管理している姿を見て、「非常に良かった」と思われました。そして、人は神のご支配のもとで祝福の中にいたということです。地上で考えうるあらゆる最善、幸せ、愛、喜び、感謝、平安を持っていました。神は、エデンの園に人を置き、そこで動物たちを管理させました。そこは理想郷という場所でした。神の清さと義が支配していました。神は人に自由意思を与えておられます。人は、それをもって神に完全に従う幸いを味わっていました。神は人にどのようにして自由を与えられたのでしょうか。それは、園の中央に善悪の知識の木を生えさせることによってです。人に自由を与えるために、善悪の知識の木を植えられたのです。神は人に命じて仰せられたとあります。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と。ボーダーを与えたのです。これ以上踏み込んではいけないという境界線を与えたのです。禁止命令です。どうして、自由を与えるために禁止命令を出したのでしょうか。境界線があって初めて人は自由になれるからです。幼稚園の園児も柵で囲まれた園庭にいることによって、安全に自由に遊べるのです。柵がなければ、道路から自動車が入ってきて、自由な空間ではなくなってしまいます。規則があって、範囲が決められて、人は初めて自由を味わえるのです。範囲も決まりを与えないのは放縦であって、自由ではありません。神は、善悪の知識の木を植えることにより、人が自らの自由意思をもって神に従うことを良しとしたのです。そこに愛と信頼の関係ができるからです。人はロボットや奴隷のようにではなく、自らの自由意思で強制されることもなく神に信頼を寄せることができます。これが、神と人、人格を持った者同士の愛と信頼と喜びの交わりなのです。善悪の知識の木の実を食べることは、人が神になりあがって、善悪の判断基準を自分のものとすることです。すなわち、神の上に自分を置くことになるのです。神は人間との関係に、秩序をお与えになったともいえます。神が上で人が下です。人が神の上に立とうとするとき、ボーダーを超えるということが起きるのです。原罪は、神が定めたボーダーを超えることから生じた罪です。神のご支配に入るということは、神を信じて、神のルールの中で自由を得ることです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」と、イエス様は招いています。
断絶の架け橋となった十字架:
人には、隣人が必要です。家族、友人、知人が必要です。人は自分のためだけに生きていくことにさみしさや虚しさを感じることが多いのです。人は、家族のために、隣人のために、他の人々のために生きる時にこそ喜びや意欲、生きる力が出てくるのです。ここで、最初の人アダムにとって初めての隣人であるエバが与えられました。そして、家族ができました。神の「生めよ増えよ、地を満たせ」という祝福の約束のように、この後、人類が形成されていきました。神は、人の関係を通して私たち一人ひとりに祝福を届けておられます。人は誰でも、父と母からこの世に生まれます。人にとって最初の隣人は、父母です。子どもとして父母のもとにいる間は親子、兄弟の関係の中で成長します。社会性を身につけます。そして、大人になって、独立します。独り立ちするのです。そして、また、新しい家庭を築くのです。彼らは裸であったが、恥ずかしいと思わなかったとあります。それは、彼らはまだ、罪を犯す前であったからです。彼らには罪がなく、心とことばと行いにおいて不一致がなかったのです。外側と内側に不一致はありません。私たちのように外側は正しく見えても内側には罪のけがれを隠しているというようなことはありません。透明性に富んでいました。悪魔の誘惑に乗って神に反逆して、堕落してしまうまでは恥ずかしさ、不面目、不名誉など罪に起因する感情はなかったのです。しかし、罪を犯した後、彼らは自分が裸であったことを恥ずかしく思うようになりました。そして、木の葉で身体を隠したとあります。そのアダムの罪の性質を受け継いだ私たちすべての人は不面目、羞恥心を持っています。外側は清く正しく見せても、内側は罪と汚れでいっぱいであるということがあります。聖書には、罪は人の内側から出ていると書いています。「悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです」と書いています。神は心を見られます。人は自分の内側を偽って表面上は正しく美しく見せているのです。また、人は神の上に自分を置いて、神から遠く離れ、神を認めず、自分を優先して生きています。そこに人間の根本的な罪があります。そのような罪を神は悲しんでおられるばかりでなく、人の罪を受け入れることはできません。なぜなら、人の罪は、神の清いご性質、つまり神の正しさとは相いれないものだからです。私たちは自ら罪によって聖い神に近づくことも神の前に立つこともできないのです。神は清く正しい神ですから、人のいかなる罪も赦すことができません。人は自らの罪のために滅びへと向かっていると言えます。それゆえ、神と人は断絶状態にあると言えます。そのような人間を神は惜しんで、「わたしに来なさい」と、招いておられます。そのために、神はイエス・キリストによって救いの道を用意してくださいました。キリストの十字架は、神と人の間の断絶に橋を架けて、あなたのところに来て、あなたを招いておられるのです。
四日までの創造
2018年08月 05日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>創世記1章1~19節
1:1 初めに、神が天と地を創造した。
1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
1:3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
1:4 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。
1:6 神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」
1:7 神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。
1:8 神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。
1:9 神は仰せられた。「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」そのようになった。
1:10 神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。
1:11 神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。
1:12 地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。
1:13 夕があり、朝があった。第三日。
1:14 神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。
1:15 また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。
1:16 神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。
1:17 神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、
1:18 また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた。
1:19 夕があり、朝があった。第四日。
<要約>
人は生きる意味を求めている:
創造の目的は二つあります。神はご自身の栄光のために世界をつくられたということです。ご自身が崇められるために万物は存在しているのです。天地創造のもう一つの目的は、人に栄光と誉の冠をお与えになるためにです。平たく言うと、人間をこの上もなく幸福にするためにです。詩篇8章には、「神は人を神よりいくらか劣るものとし、栄光の誉れの冠をかぶらせた」とあります。ここから、神が人をどのように見ておられるのかがわかります。神は、人を高価で貴い存在として、栄光と誉がふさわしい価値あるものと見て下さっています。それは、王にあっては王子の身分と言えます。聖書は、キリストを信じる者は神の子とされる身分が与えられると書いています。これはとりもなおさず、あなたがこの上もなく幸福となるために、あなたに神の子の身分を与え、世界を造られたということです。 神は、このように、目的と意図をもって全世界をおつくりになりました。それに対して、万物は偶然にできたという考え方があります。ある日突然、偶然に物ができた、さらに偶然と偶然が重なり、生命ができた。そして、環境に適応して生命は進化して、単細胞生物から複雑な生命体に代わり、類人猿が生まれて、最後に人間になった、という考え方です。偶然は意味を語りません。突き詰めて言えば、偶然にできたというのは、存在の意味はないということです。人は意味を持たなければ生きることはできません。私たちは、毎日の生活で何らかの意味を見出して生きています。生活のために仕事をします。それを通して家族が幸せになるため、愛する人々のためにつらい仕事もこなします。どろぼうも自分の家族や子供たちを養うためにそれを仕事として行っているのだということです。良きも悪しきもそれなりの意味を見出して生きています。その意味を失ったときに人間は生きていくことができなくなります。聖書は、人間の存在の意味を教えています。その価値を教えています。聖書はあなたの存在の意味と価値を教えています。神の栄光のために、神が崇められるためにあなたに命を与え、あなたに目的と使命、価値をお与えになったのです。 神が万物を創造した目的は、神がほめたたえられること。そして、神があなたを愛して、あなたが幸せになり、幸せなあなたによって神が崇められることなのです。神はあなたにいのちを与え、使命を与えておられます。自分のためだけに生きても、人は幸せになれません。あなたのいのちを神と人のために使う時にこそ、本当の幸いな生き方ができるのです。
人のために地は整えられた:
1節は、神は最初に天と地をつくられました。対照的な二つのことば、天と地、を用いて全体を表しています。すなわち、天と地は万物を意味します。天は、目に見えない神の臨在を表すところで、地は目に見える宇宙と地上を指しています。天は目には見えませんが、神のご支配と臨在です。神は、目に見えるいのちと、目に見えないいのちをおつくりになりました。目に見えるいのちは、人間と動物です。目に見えないいのちは天使です。天使は、性別もなく、死もなく、そして罪もない被造物です。神と人に仕える者たちです。神がこの天の領域で造られた者が天使です。それは、霊的存在です。しかし、神がおつくりになった天使の中のある者たちは、高慢になり、神に反抗して神のご支配である天から落とされました。それが、サタンと呼ばれる悪魔と無数の悪霊です。2節からは、地の領域に属するものの創造が書かれています。そして、19節までに、創造が完成する6日のうち4日までに整えられたものが書かれています。それは、地上と海と空と太陽、月、星、植物など、人間と動物がすむための環境となるものです。神は、光よあれ、と命じて光ができました。光がなければ、私たちは物が見えません。また、光がなければ光合成による植物の生育もありません。温熱も赤外線という目に見えない光です。次に神は、水をおつくりになりました。地球は水の惑星と言われているほど豊富な水によってできています。生命のためには水は欠かせません。宇宙探索でも生命の存在の条件として水のある惑星を探しました。火星など地球より外があにある惑星には水があります。しかし、すべて氷になっています。水であっても液体でなければ生命に役立ちません。次に神は大空をおつくりになりました。これは、地球の大気です。大空の上の水とは水蒸気層であると思います。下の水とは海であります。海は、海流により地球の温度を保っています。地球の大気の層はわずか、地球の半径の1%程度だそうです。宇宙から見れば非常に薄い青色の層です。大気の役割は何でしょうか。大気は、宇宙からくる有害な放射線をブロックしています。また、空気の層には気流が発生して地上の温度を一定に保っています。大気には生命に必要な酸素、窒素、わずかな二酸化炭素が含まれております。これも絶妙なバランスです。酸素は動物のために、二酸化炭素は植物の光合成のために、重要です。三日目に、「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」と言われ、乾いたところ、陸ができました。陸も海も地球の地殻の上に載っています。陸は言うまでもなく、人間を含めて動植物が住むところです。地殻は動いています。地殻の中身は鉄を中心とした重い物質で、内部はドロドロに溶けています。そして、対流しており、その流れによって地磁気が発生しています。地磁気は太陽からくる有害な電磁波をブロックして、大気の層を守りひいては地上の生命を守っています。陸地には、植物が創造されました。それは、次につくられる動物たちの食べ物となりました。つぎに、四日目に、太陽、月、星々です。太陽の必要性については、言うまでもありません。しかし、地球の太陽からの距離は非常に重要で、狭い範囲を公転しています。もし、公転軌道が5%太陽に近づいたら高温のために今の地球環境は保たれません。また、地球には地球の直径の四分の一もある大きな衛星、月が公転しています。そして、地軸は23.5度傾いており、月の引力によって潮の満ち引き、そして地球の自転により海流が発生しています。また、地軸の傾きにより、春夏秋冬があり、生命にとって最適な環境を与えています。宇宙物理学者によると、人間のような高等生物が生きるための環境がこの宇宙で整えられる確率は一千兆分の一だそうです。宇宙には一千億の銀河があると言っても、地球はまことに稀有な惑星であると言えます。無数の星があり、無数の惑星があっても確率的には地球のような高等生命をはぐくむ星は無に等しいのです。宇宙観測が進めば進むほどに、被造物の存在は偶然ではないことに気付かされています。そして、先端の宇宙物理学者は、インテリジェントデザイナーの存在を認めつつあります。しかし、それを神とは言わないのです。人間の罪の性質が神を認めようとしないのです。これらのことを考えると、実にこの地球も太陽も、月も地上に生きる生命のためにあつらえられたと言えます。聖書によると、この地は特に人のために意図して造られたといえます。
みことばはあなたを生かす:
「神は仰せられる」という行為によって万物がつくられました。仰せられたという言葉は、命じたという意味もありますが、宣言したといえると思います。神はみことばという手段で、世界を創造なさいました。このように、世界は六日間でできたのです。現在の動植物の食物連鎖を考えると短い期間に一緒に創造される必要があります。たとえば、草木には受粉のために蜂が必要です。蜂のためにも蜜を与える花が必要です。ですから、本当に一週間で造られたというのは地上の動物や植物がともに生存するためにはリーズナブルな期間であるのです。創造は、神のことばによって始まりました。そして、神のことばは全宇宙を保っておられます。現在も神の創造の御業は行われ続けています。あなたも、神の目的とご計画によって、この地上に生まれてきたのです。それは創造の初めからのご計画です。そして、神のみことばを聞いて、自分が神から離れていたことを知りました。造り主である方を無視して生きていたことにあなたは気づきました。神のみことばによって罪がわかりました。そして、みことばで、イエス様とお会いしました。みことばによりイエス・キリストの十字架が自分のためであったことを知りました。みことばにより、イエス様が罪を代わりに受けて十字架で死んでくださったことがわかりました。そして、すべての罪が赦されていることを信じることができました。みことばにより永遠のいのちが与えられていることがわかりました。また、あなたは聖書のみことばによって、日々神のお取り扱いを受けているのです。また、礼拝に集い、聖礼典を通して、メッセージを通して、今週もイエス様は生けるパンとなってあなたに神のいのちを注いでくださっています。神には偶然という言葉はありません。神はあなたにご計画を持っておられます。また、あなたが今直面している様々な問題にみ言葉を通してお語りになっています。それは、あなたが、幸いを得て幸せになるためです。悩みの中にいる方、困難の中にいる方、心の願いを神に申し上げましょう。神は心配してくださるからです。信仰を働かせて、みことばを握ってゆきましょう。神は、あなたを幸せにしたいと願っておられるからです。忍耐がいるでしょう。しかし、主イエスを信頼し続けることが大切です。