2021年9月19日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>Ⅰペテロの手紙1章1~9節
1:1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち、すなわち、
1:2 父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。
1:3 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。
1:4 また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。
1:5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。
1:6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、
1:7 試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。
1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。
1:9 あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。
<要約>
信仰の故に苦難を受ける:
誰でも真剣に信仰に生きようとするならば人生において試練を経験するものです。それは神ご自身が御子の十字架の死を通して 苦しみと悲しみを経験なさったことと関係します。私たちは、どんなときもイエス様に従うこと、そして、たとえつまずいたり失敗したりしても、キリストの十字架の赦しを受けて、前に進むことです。十字架の苦難は、無実の神の御子が、極悪人にしか適用されない十字架刑に処せられたことです。それは、すべての人、そしてあなたの罪を背負って身代わりとなって死刑を受けてくださったことによります。本来、人はそのままでは自らの罪によって永遠の滅びに至ります。しかし、神の恵みは、十字架を信じる者には誰にでも、無条件に罪を赦し、永遠のいのちを与えてくださいます。イエス様に従う私たちクリスチャンも、苦難と悲しみを経験するものとして召されている、ということができます。ペテロは 断言しております。信仰のゆえに生じる試練や困難は、後に称賛と栄光と誉をもたらすというのです。もし、クリスチャンであることのために悪口雑言を受けるなら幸いです。栄光の御霊があなたを見守っていてくださるからです。そして、あなたは神を崇めるようになるのです。そこに、信仰の故の苦難と悲しみの意義があるからです。
栄えに満ちた喜びに至る救い:
イエス様の御生涯は苦しみと悲しみで終わったのではありません。復活により、生ける望みに、栄に満ちた喜びに、逆転勝利したのです。ですからここで、ペテロは勧めています。神はあなたを新しく生れさせ、生ける望みを持たせてくださったのだと。新しく生まれるためには、まず、死ななければなりません。それは、自分中心の古い自分に死ぬことです。つまり罪の自分に死んで聖霊に内に住んでいただくことです。イエス様は水と霊によって生まれなければ神の国を見る事ができないと、語りました。水は洗礼を意味します。洗礼により罪に死んで内に住まわれる聖霊によって生きるのです。キリストは命に至る道です。私たち信者は信仰の結果である、罪の赦しからくる救いを得ています。人生は死んで終わりではありません。やがて、信仰の報いである天での栄えに満ちた喜び踊る生活があなたを待っています。私たちは天国を先取りして今、喜んでいます。