2017年7月 30日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>ルカの福音書19章1~10節
19:1 それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。
19:2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
19:3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
19:4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
19:5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
19:6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
19:7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。
19:8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
19:9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
<要約>
すべての人にある孤独の実態:
3節の「彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。」という一文からザアカイの状況、日常が見えてきます。ザアカイは町の有力者でしたから、「ザアカイさん、前の方へどうぞ」と周りの人たちも声をかけてくれたと思います。しかし、誰もが彼を無視していたのです。そればかりではなく彼は、嫌われものでした。なぜかというと、不正な利をむさぼっていたからです。周りの人々からの彼への非難や悪口を耳にしていたでしょう。だから、周りの人々の敵意から身を守るためにますます人を遠ざけていたのかもしれません。そこに、彼の寂しさ、孤独が見えてきます。孤独は広辞苑では、「思うことを語ったり、心を通い合わせたりする人が一人もなく寂しいこと」です。ことばと心の交流がない状況です。一人ぽっちでさみしい人格、満たされない心の空洞ともいえます。ザアカイは取税人の頭となり、大金持ち、何でも手に入る状況にありました。しかし、彼には、常に孤独、寂しさがありました。真に魂の平安と充足を与えるもの、ザアカイの人格の深いところで、求めていたことは明らかです。それは彼の「イエス様を何としても見たい」と言う思いからわかります。彼の心の求めが木に登るという行動に駆り立てたからです。ザアカイが求めていたものは、彼を孤独から解放するものです。それは彼の一人ぽっちでさみしい人格を満たすものです。心の空洞を満たすものです。先日、高校生が病院に来ました。朝、起きると体調が悪くなり、吐き気と頭痛で学校へ行けなくなってきているということです。診察して身体はどこも悪くなかったので、心に問題があるのです。彼女はいつも学校では大勢の友達と明るくふるまっているようですが、非常に孤独であることがわかりました。ネットで四六時中やり取りしていますが、それでは満たされないのです。逆に自己防衛のために、仲間外れにされないためにネットがつながるようにしているのです。いつもグループで行動していて、トイレに行くにもみんなで一緒に行くそうです。「なぜ」と聞いたら、トイレに行こうとして自分がひとり抜けると、残った友達たちがみんなで自分の悪口を言うからです。これは非常に孤独といえます。広く付き合うけれども本当の友達ができないのです。心の悩みや喜びを分かち合う親友がいないのです。今の高校生の孤独です。彼らには、心の居場所となって話を聞いてくれる人が必要なのです。心の居場所がない孤独です。何一つ不自由のない家族の中にいても孤独な若者もいます。家族の皆は高学歴で社会的な地位も高い職業についていますが、彼だけは、日雇労働していて収入が低いのです。年末年始に彼は家族の元へ帰ってくるのですが、居づらくて、すぐに自分のところへ帰ると言うのです。結婚したい相手がいるのですが、収入が低いので父親が反対しいています。彼は、孤独なのです。それは、自分がありのままに受け入れられていない孤独です。また、外目からは何の問題もないような夫婦にも孤独があります。同じ屋根の下に生活していますが、食事は別、部屋も別、一日口を利かないこともまれではないのです。これははっきりした孤独です。しかし、長年連れ添っていてお互いに分かりあっていると思っていても、ふとしたことから、夫婦もお互いに分かり合えないで孤独を感じているのです。これは人間としての限界だと思います。お互いが分かりあえない孤独です。最近は、家族のきずなも薄れて、独居老人が知らぬ間に亡くなっています。それを孤独死と言います。お互いの人間関係が疎になっています。周囲の無関心からくる孤独です。すべての人には、気づかないでいても孤独の実態があります。聖書は、すべての生まれながらの人は、失われているというのです。もともと、人は造り主である神によっていのちを与えられ、神のために生きる存在として造られました。ですから、人は造り主に出会うまでは心の空洞を満たすことができないのです。
あなたを見つけ出し孤独を満たしてくださる神:
ザアカイは先回りして、道端に植わっているイチジクぐわの木によじ登って、イエス様がお通りになるのを待っていました。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは、イエス様を一目見たかった、自分が心の奥底で探していたものを持っておられるかもしれない。自分がずっと求めていた救いを与えてくださるかもしれない。その時です。イエス様の方で下から見上げて、名指しで呼んでくださった事です。イエス様は、ご自身のご計画の中にザアカイ訪問を組み込んでおられたのです。偶然の出来事ではありません。同様に、イエス様はここに招かれて集って来た方々に、声をかけておられます。イエス様が「あなたの家に泊まる」という意味は、「あなたを見つけ出し祝福する」ということです。今日、皆さんは偶然にここにきていると思っているかもしれません。それは違います。今朝、イエス様があなたを見つけ出し祝福しておられるのです。マックス・ルケードという人が書いた「たいせつなきみ」という絵本があります。ある町には、一人の彫刻家によって造られた様々な人形が暮らしていました。かれらは、金色のお星さまのいいねシールと茶色のだめシールを持っていて、それぞれが町で出会う他の人形にいいところがあるとお星さまシール、失敗やダメなところがあるとだめシールを張ります。その中で、パンチネロという人形はいつも失敗ばかりで、外見も美しくなく、彼に会う人形たちは彼にだめシールを張ります。ある時、だめシールだらけになって落ち込んでいると、シールが一つも張られていないルシアという人形と出会うのです。彼女には誰かがシールを張ろうとしてもシールはすぐ落ちて張り付かないのです。パンチネロは彼女に聞きます。どうして君にはシールがくっつかないの。彼女は、山の上の家にいる彫刻家のエリを紹介してくれました。ネロは勇気を出してエリに会いに行くのです。エリはネロを待っていたとばかり歓迎してくれました。そして、ネロのことは何でも知っていました。そして言いました。「わたしがお前を造ったのだよ。私の作ったものには失敗はないのだよ。お前は私のもの。わたしはお前を大切に思っている」と。「皆がお前をどう思うかより、私がお前をどう思っているかが大切なのだよ」と言いました。そして、「いつでも来なさい、待っているよ」と言われました。ネロは喜んで帰途につきました。だめシールは一つ一つが剥がれ始めたのです。主人公のパンチネロは、自分の作り主に会いました。それと同じように、もうすでに、あなたも、あなたを造りあなたに命を与えられている創造主なる神に出会ったのです。また、もし、あなたが心を開くなら、聖霊なる神があなたの魂の空洞を満たしてくださいます。あなたをおつくりになった神は、あなたを高価で貴いものとみておられるからです。
神があなたのうちに住んでくださるとき:
聖霊なる神によって、あなたの魂の空洞が満たされたとき、あなたは、真のいのちの充足を得ます。それはあなたのうちで尽きない泉となってあふれ出るのです。イエス様は言われます。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」ザアカイは「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」と言いました。イエス・キリストを自分の救い主と信じて心にお迎えしたザアカイは、もうお金に縛られる人生から解放されました。罪から自由になったのです。イエス・キリストを心に迎えると、罪と死と悪魔から自由になります。死からさえも自由になります。その人の内側から永遠のいのちの水が湧き出ているからです。