キリストの謙遜と苦難

2026年2月22日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
自己中心と虚栄で一つになれない人間:

ピリピ教会にはパウロの働きを支え応援するという熱心さがある反面、ピリピ教会には、どうも信徒同士の対立があったようです。なぜ人間は自己中心と虚栄で一つになれないのでしょうかそれは私たちが持っている生まれながらの罪の性質のためですそれは最初の人アダムの罪から来ていますある時悪魔人を誘惑しました人は高慢になり、神の上に自分を置こうとしたのですそして神の戒めを破り罪を犯しましたそれが原罪です。それ以来人は自分中心となり、世界は、人間中心に動いてきました。神を無視し神を認めず、神の戒めを破ってしまいました。善悪の知識の木の実を食べたために、人間が善悪決めていくことになったのですしかし人間は有限であり無限で全知全能ののように正しい裁きはできません。神の椅子に座り世界を裁くことはとてもできないのですそのことに気付いた人間「自分が裸であるのを恐れて、身を隠しました」。それは、恐れと羞恥心です。また、恥をかきたくないので、自分にそれほどの力がないのにうわべをよく見せようとします。それが虚栄心です。「イエス様ならどうなさるだろうか」という問いを自分自身に投げかけて行動するのです。

謙遜により苦難を通られた救い主:

主イエス・キリストは王の王、主の主として、私たちを古い主人である悪魔の支配から解放してご自分の支配に移してくださいました。主イエス・キリストは、なぜ真の人間となったのでしょうか。それは、私たち人間を救うためです。主イエス様は貧しく生まれたのです。全ての人よりも低いものとなり、全ての人に仕え、全ての人にご自分のいのちを与えるためだったのです。++主イエス様はローマ総督のポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受けました。イエス様は、私たち罪人の身代わりに神に呪われたものとなったのです。イエス様の死によって、信じる者の一切の罪は赦されるのです。過去現在未来にわたる罪は赦されます。そのように十字架の贖いにより、罪人に定められていた罰は終わり、神の怒りはなだめられ、罪と死と悪魔の力は砕かれたのです。謙遜により苦難を通られたイエス様は、私たちが受けるべき滅びに代えて、いのちを与えてくださいました。私たちは、神が主イエス様を通して行われた救いをただ空の両手を差し出して受け取るだけでいいのです。

<聖書>ピリピ人への手紙2章1~11節
【新改訳2017】
2:1 ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2:2 あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
2:3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。
2:4 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。
2:5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。
2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
2:10 それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
2:11 すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。

病気と死はいのちの入り口となる

2026年2月15日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
病気や死は終わりではない:

多くの人は、病気にかかって入院したり、寝込んだりします。病気の期間の長短にかかわらず、それぞれが、病苦を味わい、心の葛藤を覚えながら脱出の道を模索して、悩み苦しむのです。病気と死はもともと、人の罪の結果です。アダムの罪以来、罪はすべての人を支配しています。アダムの罪以来、病が人に入り、人は死ぬものとなりました。私たちは誰一人、病気を経験しない人はいません。それゆえ、人の身体のいのちは死で終わります。しかし、霊のいのちは死んでもなくなりません。まぜなら、人は特別な存在として、神の愛の対象として、神に似せてつくられたからです。他の動物とは違って、私たち人間には霊があります。アダムの罪以来、すべての人は真の神がわからず、神から遠く離れています。神との関係が途切れてしまっているのです。その関係を回復させてくださったのが、イエス様です。永遠のいのちは、復活の希望です。神のプレゼントです。神は、すべての人の罪と死に代えて、永遠のいのちを提供してくださっています。罪のない神の子イエス・キリストが十字架ですべての人の罪を背負い代わりに死んでくださった。そして、3日目に復活されたことです。その復活はすべての人に提供されています。自らの罪を悔い改めてイエス様を信じる者は誰でも永遠のいのちをいただくことができるのです。それが、神が用意してくださり、提供しておられる福音です。プレゼントです。

光があるうちに光を信じる:

イエス様は、時が来たことを示すために、「もう一度ユダヤに行こう」と言われました。イエス様は、そこで、祭司長や律法学者たちにとらえられて、十字架にかけられて、殺されるのを知っていました。しかし、イエス様は言われました。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」と。イエス様はご自身を「世の光」と言われました。わたしが世にいる間は、と言って、やがて、イエス様がこの世から取り去られる時が来ることを。そして、だれも働くことのできない夜が来るので、光を見ることができなくなる。その前に、光であるイエス様を信じなさい。と言われたのです。また、光であるイエス様を心に持たなければ、闇の中を歩くことになる、霊的な暗黒があることを示されたのです。そういう状態の人は自分がどこへ行くのかもわかりません。そして、永遠の滅びに至るのです。イエス様を信じるのには、期限があるのです。私たちの身体のいのちがあるうちにイエス様を救い主と信じなければなりません。人のいのちは神の主権の中にあります。誰も、自分のいのちはいつまで続くかはわからないのです。光があるうちに光を信じたいと思います。

<聖書>ヨハネによる福音書11章1~17節
【新改訳2017】
11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。
11:2 このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
11:3 姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
11:4 これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」
11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
11:6 しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。
11:7 それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。
11:8 弟子たちはイエスに言った。「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか。」
11:9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。
11:10 しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」
11:11 イエスはこのように話し、それから弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。」
11:12 弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、助かるでしょう。」
11:13 イエスは、ラザロの死のことを言われたのだが、彼らは睡眠の意味での眠りを言われたものと思ったのである。
11:14 そこで、イエスは弟子たちに、今度ははっきりと言われた。「ラザロは死にました。
11:15 あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」
11:16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが仲間の弟子たちに言った。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」
11:17 イエスがおいでになると、ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた。

天国に入る唯一の道

2026年2月1日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
人の普遍的な問い:

ニコデモの心にあった問いは、「神の国に入るための資格はなにか」「あるいは永遠のいのちを持つためには人は何をしなければならないのか」というようなものであったと想像します。私たちも永遠の命はあるのだろうか?天国ってあるのだろうか?人生で一番大切なことはなんだろうか?というような質問を誰もが持ってるのではないでしょうか。ニコデモは、イエス様の「人は新しく生まれなければ神の国を見ることができない」との言葉が理解できませんでした。老年になっていたニコデモは、新しく生まれるという言葉に引っかかったのでしょう。ニコデモは、神に選ばれたイスラエル人です。しかも、律法を守ることを指導し自らもそのことに努力してきたという自負もありました。でも、彼の心には、自分はこれでいいのだろうか。本当に救われているのだろうか?というぬぐえない疑問があったのです。イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。イエス様は、悔い改めて、イエス様に着くバプテスマを受けなければ、神の国に入ることはできないと言われたのです。私たちは、肉体をもって生まれたが、肉体のいのちには、真のいのちはないのです。御霊によって生まれなければ、真のいのちを持つことはできない、つまり、永遠のいのちを持つことはないということを言われたのです。私たちも永遠の命はあるのだろうか?天国ってあるのだろうか?人生で一番大切なことはなんだろうか?というような質問を誰もが持ってるのではないでしょうか。それに対して、天地をつくりあなたをおつくりになりいのちを与えておられる神は、永遠のいのち、天国への道を用意して招いてくださっているのです。

人は十字架を仰いで救われる:

ニコデモは、これまで、正しい行いが正しい人間をつくる、と考えていました。そのためにニコデモは善行を積んで救われようと努力してきました。貧しい人々に施しをしてきました。ニコデモはこれまでの自分の人生にプライドを持っていたでしょう。後ろ指さされるようなことは何もしていない、自分は正しい人生を歩んできたと自負していました。ですから、新しく生まれなおさなければ、今のままじゃ天国に行けない、と言われて動揺したのです。日本人も「自分は正しい人生を歩んできた」と自負している人は多いと思います。また、ニコデモと同様に、日本人の多くは、「天国に入るためには何をしたらよいのか」「あるいは死んだあと、本当に永遠のいのちはあるのか。」など。人生の問いを求めているのではないかと思います。洗礼によって、古いあなたは死に、聖霊により新しい人に復活するのです。そして、洗礼によって、聖霊があなたのうちに住まわれます。結果、罪から来る死と滅びから救われるのです。すべての人は、十字架を仰ぎ見れば救われます。何の努力もいらない、ただ自らの罪を知ってイエス様の十字架を信じることで救われるのです。これが福音です。

<聖書>ヨハネによる福音書3章1~16節
【新改訳2017】
3:1 さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。
3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
3:3 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
3:8 風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」
3:9 ニコデモは答えた。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」
3:10 イエスは答えられた。「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。
3:11 まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。
3:12 わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。
3:13 だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。
3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。