教会の鍵の権威とは?

2025年5月25日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイによる福音書16章13~19節
【新改訳2017】
16:13 さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。
16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」
16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
16:17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
16:18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。
16:19 わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」

<要約>
イエス・キリストは誰?:

私たちは自分の力では、イエス・キリストが神であり救い主であると告白することはできません。ですから、私たちは自分を誇ることができません。さらに「あなたはペテロ(岩)です。 わたしはこの大きな岩の上にわたしの教会を建てます。よみの門も教会に勝つことはできないとはどういうことでしょうか。黄泉の門、それは私たちの最後の敵である人間の死です。なぜなら キリストが その復活によって死を滅ぼされたからです。そして地獄のどんな恐ろしい力も、私の教会に打ち勝つことは出きません。」と言われました。教会はこの信仰告白の上に建っています。それは大きな岩であり、勝利を保証してくださっています。キリストご自身が保証人ですから、どんなにか確かなことでしょうか。私たちもペテロと同じように、神のことを思わないで、人のことを思っているということはないでしょうか。クリスチャンライフは自分中心ではなく神中心です。キリストは誰?と言う問いは、歴史を通して失われることはありませんでした。この問いは、あなたの生死を決定する問いです。殉教者たちはこの世のいのちは失いました。しかし、代わりにそれより素晴らしい永遠のいのちを得たのです。

幸いと勝利を保証する教会:

イエス様はペテロに天的権威を付与されました。キリストの代理権を与えたともいえます。最初に、これから形成される地上の教会のリーダーとなるペテロに語られました。しかし、それは、ペテロばかりではなく、続く教会のリーダーたちに与えられ継承されています。さらに教会の一人ひとりにも与えられています。では、鍵の権威の行使の第一番は何でしょうか。それは、罪の赦しです。罪の赦しによってキリストにつなぐことに対して、鍵の権威の行使のもう一つは、キリストを拒み、悔い改めない者を罪に定めることです。当教会は小さな群れですが、お一人お一人に神の賜物が与えられています。そして、この大いなる権限が委ねられているのです。イエス様に代わって、当教会は、信じる皆さんお一人お一人に幸いと勝利を保証しています。ですからハレルヤチャペル滝沢は幸いと勝利の教会です。そして、神はあなたに人生の幸いと勝利を保証してくださいます。

悪い知らせと良い知らせ

2025年5月18日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>エペソ人への手紙2章1~10節
【新改訳2017】
2:1 さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、
2:2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。
2:3 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。
2:6 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。
2:7 それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。
2:8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
2:10 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

<要約>
悪い知らせ(1~3節):

人間は神によってつくられ、神によって存在させられている者たちです。従って神を離れて生きることなどできません。ですから、肉体的には生きていてもそれは本当のいのちから離れた状態で、あたかも糸の切れた凧と同じで、どこへ行ってしまうかわからないのです。どうしてそんなことになってしまうのでしょうか。それが、「自分が犯した背きと罪」なのです。人生の意味や価値が失われてしまっているということです。そして、神から離れている人生は、「自分の肉欲に生き、肉と心の望むままを行っている」ということです。肉欲のとりこになっているというのです。ここの肉欲というのは、いわゆる情欲とか強欲というものだけではありません。生まれながらの人間の思いや言葉や行いは突き詰めるとすべて「自分のため」なのです。それは神のみ思いとかけ離れており肉と呼ばれるものです。すべての人は生まれながらの罪人なのです。これは、最大の悪い知らせと言えるのではないでしょうか。この死んでいるような状態から生き返らせることのできるお方は、ただ一人、すべてのものにいのちを与えられたつくり主で、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせられたお方以外にはありません。

良い知らせ(4~10節):

そのような、希望もなく、喜びもなく、滅びに向かっていた人間に対して、神は何をしてくださったでしょうか。人の「罪」のために、神が用意してくださった解決が、イエス・キリストです。私たちの罪にために死なれて、葬られ、三日目によみがえられました。そして信じ罪赦された者は、キリストと同じ復活のいのちが与えられるのです。神は私たち人間に、二つの相反する御思いを抱いておられます。一つは、私たち人間の罪のゆえに私たちを怒っておられるということ。もう一つは、私たちをご自身のいのちを捨てるほどに愛しておられるということ。神の怒りはキリストの十字架に落ちたので、信じるものの上には神の怒りはなく、もう一方の神の愛のみが注がれるのです。神からの賜物、プレゼントは神が与える救いです。それは、イエス様を信じて受け入れること、信仰を持って神の救いをいただくこと。そして罪と死と悪魔の力から救い出していただくのです。これ以上の良い知らせは この世界どこを探しても ありません。 それは あなたのために、神が用意してくださった救いです。ぜひ自分のものとしてください。

あなたは教会の何?

2025年5月4日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>Ⅰコリント12章12~27節
【新改訳2017】
12:12 ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
12:13 私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。
12:14 実際、からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています。
12:15 たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
12:16 たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。
12:18 しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。
12:19 もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。
12:20 しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。
12:21 目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。
12:22 それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。
12:23 また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、
12:24 格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。
12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。
12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。

<要約>
教会はキリストのからだ:

教会はキリストのからだであり、信者はそれぞれがその部分であり器官なのです。わたしたちの生きているからだは活動しています。からだが活動するためには、からだを構成している器官が互いに役割を果たしているからです。コリント教会の人々は、重要でないと見えるクリスチャンを見下していたことがあったようです。そうではなく、教会は、かえって、劣った人、弱い人、貧しい人を尊ぶところです。これは頭であるキリストのご性質そのものだからです。教会がキリストのからだとして活動していくために、聖霊は信者に賜物、すなわち才能や役割をお与えになります。その賜物によって、信者が教会の中で様々な働きを担うのです。そして、教会は活動し成長していくのです。それらの能力や働きには違いがありますが、優劣がないのです。神はすべての人を分け隔てなく愛しております。生まれながらの人間は、真の神を知ることも信じることもできません。聖書は創り主なる神がおられ、その神は万物の父であると述べています。人は永遠なるものを求めています。ところが、神と人との隔てとなっているものがあります。それが人の罪です。罪のために霊の目が曇っており、見出せないのです。イエス様は無条件で私たちを愛し、ご自身のいのちを捨ててくださったのです。それによる救いを無条件で受けている私たちも無条件で愛することができるように祈り、そしてささげたいと思います。

教会はキリストの花嫁:

「教会はキリストのからだ」であるという話をしました。聖書は「教会そして、クリスチャンである私たちはキリストの花嫁」であるとも言っております。クリスチャンは、イエス様と結婚したのと同じです。これは、例えていうなら、一国の富のすべてを手の中に納めている王子と多額の借金を抱えた奴隷娘が結婚したようなものです。奴隷娘の借金は王子のものとなり、王子の持っている一国の富は奴隷娘のものになります。もちろん娘の借金はゼロになり、娘は王妃の身分を得るのです。クリスチャンはこれと同じなのです。あなたは教会の何?と題して説教しました。私は、そしてあなたは、ハレルヤチャペルの会員です。しかし、もっと重要なことは、あなたはキリストのからだの一部であるということです。そして、かしらであるキリストの思いを思いとして世にあらわしていくことです。