ブドウ園のたとえ

2025年2月23日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
神に不満を抱く人の姿:

私たちは生まれながらの罪の性質により、自分が認められたい自分が評価されたいという思いが強くあります。他の人と比べてこれだけやったので自分はそれ相当の報酬を受けたいと考えます。人に対してはそれで良いかもしれません。しかしこと神に関してはそうではありませんね。イエス様は私たち信者に、「自分を捨てて自分の十字架を背負って私についてきなさい」とおっしゃっています。それはどういうことでしょうか?何度も言っているように私たちは礼拝の民です。礼拝をするということは、ヘブル語の言語では、ひれ伏す、と意味です。神の前にひれ伏す生活とはどういうものでしょうか。それは私たちの生活を神中心に整えなさいということです。週一回の主日礼拝を大切にし、日日みことばと祈りの生活をすることです。それは自分のことより神が喜ばれることを選んでいく人生です。神に栄光をお返しする人生です。神のなさることは最善であること信じつぶやかず疑わず神を信頼して行くことです。そうすれば神へのつぶやきは消え、感謝と喜びがついてきます。神に栄光を帰す人を、神はおもちいになります。自分が褒められるのではなく、神がほめたたえられるのです。すなわち、神を愛する人生です。言い換えればあなたによってあなたの隣人が祝福される人生です。そこにこそ本当の喜びがあるのです

値をつけることができない犠牲:

主人の招きに応じてブドウ園に来た人々に主人は、同じ1デナリをお与えになったのと同じように、イエス様の招きに応じて、イエスのもとに来たすべての人に「義」のプレゼントをくださるということです。そして、神から義とされた人は、罪赦されて永遠のいのちを持ちます。私たちのどんな罪も、神の義に覆われて消えてしまします。ちょうど、どんなに汚れた罪の服を着ていても、神の義の衣を羽織ると罪はおおわれて見えなくなるのと同じです。早くから、イエス様を信じて、ずっと教会で奉仕してきた人も、人生の後半に主を信じてクリスチャンになった人も、等しく、神の義が与えられます。永遠のいのちが与えられます。牧師や聖職者とよばれる人も、無名の信徒も、同じ神の恵みに浴するのです。それが、信じるすべての人に与えられる神の義です。イエス様の十字架と罪の赦しは、父なる神が、御子の命に代えてくださった値段をつけることのできない恵です。

<聖書>マタイの福音書20章1~16節
【新改訳2017】
20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。
20:2 彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。
20:3 彼はまた、九時ごろ出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。
20:4 そこで、その人たちに言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。』
20:5 彼らは出かけて行った。主人はまた十二時ごろと三時ごろにも出て行って同じようにした。
20:6 また、五時ごろ出て行き、別の人たちが立っているのを見つけた。そこで、彼らに言った。『なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。』
20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』主人は言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。』
20:8 夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』
20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。
20:10 最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。
20:11 彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。
20:12 『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』
20:13 しかし、主人はその一人に答えた。『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。
20:14 あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。
20:15 自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』
20:16 このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」