神の恵みを無にしない生き方

2025年2月16日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ガラテヤ人への手紙2章15~21節
【新改訳2017】
2:15 私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、「異邦人のような罪人」ではありません。
2:16 しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。
2:17 しかし、もし、私たちがキリストにあって義と認められようとすることで、私たち自身も「罪人」であることになるのなら、キリストは罪に仕える者なのですか。決してそんなことはありません。
2:18 もし自分が打ち壊したものを再び建てるなら、私は自分が違反者であると証明することになるのです。
2:19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。
2:20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。
2:21 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。

<要約>
信仰義認とは?:

信仰義認、それは、行いではなく、信仰によって神の前で正しいと認められることです。割礼や律法の規定を守らなければ救われないというユダヤ人クリスチャンの主張は、外面と整え、行いを立てていく生き方です。しかし、聖書によると、律法の行いや割礼、善行、施しなど、救われるためには要りません。ただ、信じるだけで救われるというのが、信仰義認です。信仰義認の教えは、私たち人間にはなじみが薄く、すぐに、行いによる義に走っていきがちです。律法を行うことで、神の前でも人の前でも正しい人間であると自らを主張しようとする性質が私たち人間にはあるのです。それに対して聖書が私たちに勧めている教えは以下のようです。罪のない神の独り子イエス様が、すべての人、そしてあなたの罪を赦すために、死を身代わりとなって十字架で味わってくださった。そのことをあなたは、ただ信じて受け止めることであなたの罪は赦され、代わりに永遠のいのちが与えられるのです。ただへりくだって神の恵みを空の両手でいただけばよいのです。そうすれば、過去現在未来までもすべての罪が赦され、神の子とされ、永遠の御国の世継ぎとされるのです。それが信仰義認の教理です。

神に生きるとは?: パウロは、「神に生きる」ために律法によって律法に死にました。私はキリスト共に十字架につけられました。そして、パウロが、この肉体にあって生きているのは、自分を愛し、自分のためにご自身を与えてくださった神の御子を信じる信仰によるのだと告白しています。それが「神に生きる」また「生きることはキリスト」の意味です。そこまでいかなくても、現在の私たちクリスチャンは具体的にどのように生きて行けばよいのでしょうか。私たちは洗礼により古い自分は死にました。十字架でイエス・キリストと共に死んだのです。そして、キリストが死んでよみがえったように、私たちもよみがえりの命をいただいています。永遠に続く祝福と喜びと希望の命です。やがて新天新地で生きる命です。それは、神に生きる、イエス様と一緒に生きる、自分の十字架を背負ってイエス様の後に従う人生です。クリスチャンライフは困難苦難の連続です。しかし勝利のゴールがある人生です。前向きに与えられた賜物を積極的に用いる生き方です。そこにこそ、神に生きる、生きることはキリストと言える、信仰の奥義があるのです。