2023年8月6日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明
<聖書>出エジプト記32:1~14
【新改訳2017】
32:1 民はモーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」
32:2 それでアロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪を外して、私のところに持って来なさい。」
32:3 民はみな、その耳にある金の耳輪を外して、アロンのところに持って来た。
32:4 彼はそれを彼らの手から受け取ると、のみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にした。彼らは言った。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」
32:5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼びかけて言った。「明日は【主】への祭りである。」
32:6 彼らは翌朝早く全焼のささげ物を献げ、交わりのいけにえを供えた。そして民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた。
32:7 【主】はモーセに言われた。「さあ、下りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。
32:8 彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道から外れてしまった。彼らは自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえを献げ、『イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ』と言っている。」
32:9 【主】はまた、モーセに言われた。「わたしはこの民を見た。これは実に、うなじを固くする民だ。
32:10 今は、わたしに任せよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がり、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とする。」
32:11 しかしモーセは、自分の神、【主】に嘆願して言った。「【主】よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。
32:12 どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。
32:13 あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。」
32:14 すると【主】は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。
<要約>
見える神(偶像)を持ちたがる人間:
金の子牛は、民が持っていた金の耳輪を元にできました。霊的な意味を当てはめると、金の耳輪は欲望です。欲望が神となった。偶像は人間の欲望から生まれるのです。偶像の背後にあるのが悪魔、サタンです。人間が神を造るという大きな過ちでした。さらにそれに祭壇を築いていけにえを捧げるという礼拝行為をしたのです。これを、聖書は淫行と言っています。すなわち夫や妻を裏切って結婚外の人と関係を持つことと同じだと言っています。私たち人間は、罪と弱さのために、目に見える神を求めてしまいます。目に見える神は偽りです。それは、人が造った神です。偶像礼拝の罪は恐ろしい結果をもたらします。イスラエルは、モレクと言う偶像に自分の子どもを火に入れてささげることもしました。偶像礼拝は、偶像の背後にいるサタンを礼拝していると言えます。私たちは目に見えない神を信じています。モーセ率いるイスラエルの民がしたように、荒野で不信の罪犯すことが無いようにしようではありませんか。偶像礼拝者になってはいけません。あなたの欲望を神にしてはいけません。不品行を避け、聖い生き方を追い求めましょう。不平を言ってキリストを試みてはいけません。神を畏れ、愛し、信頼しましょう。
神を動かすとりなしの祈り:
神の怒りとさばきに対して、モーセはとりなしの祈りをします。神の怒りの右の手が挙げられました。イスラエルの民の上に落とされようとしていました。モーセはとりなしの祈りを始めます。これは人類史上で、イスラエルを救った最大のとりなしの祈りです。謙遜なモーセですが、かなりはっきりと叱責するがごとく神に訴えております。モーセはみことばと約束に立って大胆に祈りました。とりなしの祈りのポイントは、みことばと約束に立って祈るということです。神は、聖霊と主キリストを私たちクリスチャンのためのとりなし手としてくださり、まどろむことも眠ることもなく祈っていてくださいます。イエス様と聖霊様が、一緒になってあなたや私のために個人的にとりなしてくださっています。ですから、自分のことは心配しなさんな、というのです。私たちクリスチャンは、モーセがとりなしたように、このままでは罪のため滅んでしまう家族や知人のために真剣に祈らなければなりません。神の約束を握って、神に訴えるのです。