神が言われる幸いとは

2023年2月19日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書5章1~12節
【新改訳2017】
5:1 その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。
5:2 そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。
5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。

<要約>

苦難の中で神から幸いを受ける:

聖書は、困難、苦難と言うマイナスと思えることが、やがてプラスになる。最後には希望につながると言っています。心の貧しい人は傍におられる神に飢え渇きのために求め続けている人です。常に神におすがりしている状態です。心の内で、常に叫びを持っている人のことです。そのようにへりくだって絶えず神を求めている人は天国の所有者になるのです。また、一切の悲しみが慰められるというのです。この世で慰めを得なくても、やがて慰められる時が必ず来ると言うのです。ルターは、神からの祝福は、それは祝福とはとても思えないかたちで来る、と言っています。祝福は苦難や悲しみと言うベールに包まれて届けられるとも言えます。それは、何よりも神ご自身が人の罪の身代わりとなって苦難を味わい、十字架で死んで復活することを通して救いを届けてくださったことによります。それは何にも勝る祝福と言えます。死は何の力もなく、永遠のいのちが与えられます。すなわち、主ご自身が、祝福を苦難と悲しみと言うベールに包んで私たちに届けてくださいました。私たちは苦難の中にも神から幸い、祝福を受けているのです。

神からの幸いを隣人に届ける:

神があわれみ深いように、神から幸いを受けた人々は、隣人に対してあわれみ深くあるべきです。心のきよい者は罪赦されたクリスチャンであるといえます。彼らは、他の人の背後におられるキリストを見ています。私たちは、隣人を、神が命を捨てるほどに愛した大切な存在としてとらえるべきです。そうすると、この世の中で、どうでもいい人は、ひとりもいないことに気づきます。今日まで、世界中で、歴史を通して多くの人々が迫害を経験しました。そのようなときには喜び踊りなさいと、イエス様は勧めています。信仰者に与えられる幸いは、この世の与える幸いと違います。この世にあっては、うれしいことも悲しいことも、喜ばしいことも苦しいこともあります。しかし、信仰者は、常に上を向いて歩むことができます。それは、決して消し去ることができない希望、しぼむことがない希望があり、最後のゴールである天の御国の所有者とされているからです。そして、先に救われたクリスチャンは、あなたの隣人にこの神の幸いを届けていく責務が与えられていることを忘れてはいけません。