8月7日(日)主日礼拝ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明
<聖書>ルカの福音書10章25~37節
【新改訳2017】
10:25 さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
10:27 すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
10:29 しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」
10:30 イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。
10:34 そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」
<要約>
神と向き合わず永遠のいのちを失った人間:
永遠のいのちというのは、私たちの今のいのちが天国で永遠に続くというのではありません。いのちの質が全く違います。それは、神のいのちです。ですから、朽ちることもしぼむことのないいのちです。死も、苦しみも、悲しみも、悩みもない永遠の祝福の中で喜びと賛美に満ち溢れるいのちです。永遠のいのちは、行いによって得るのではなく、信仰によって恵みによって与えられるのです。隣人を愛する前に、第1番目に、あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。それは別の言い方だと、神としっかり向き合いなさいということです。神は人をご自身の形に似せてつくられました。最初の人間の心は神を理解し、神を知り、神のみ心を行うことができたのです。しかし、人間は神と向き合うことをやめて、神の思いより自分の思いを優先し、自分を神の上に置きました。そして、神から遠く離れてしまい、いのちを失ったのです。ですから、神を知ろうともせず、神と向き合うということもわからないのです。本来あるべき関係から大きくずれているのです。それを罪といいます。永遠のいのちを失っているのです。
あなたと向き合って永遠のいのちをくださる神:
イエスさまは、そのような人間の本質をご存じです。私たちに向き合って下さるのです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という言葉は重いのです。自分の家族や愛する人のために自分のいのちを犠牲にする人はいるでしょう。しかし、誰でも敵であり憎んでいる人のために自分のいのちを捨てることはできません。神は、私たち人間がそのままでは自らの罪によって滅んでしまうのを惜しみ、独り子であるイエス・キリストを私たちの身代わりとして十字架におかけになりました。長谷川少年はその先生が自分と最後まで向き合ってくれると、信じたかったのです。そのような愛を信じたかったのです。しかし、誰も人間にそのような愛を要求することは無理と考えます。その先生が、長谷川与志充を愛するために、自分の子どものいのちを犠牲にするなどということは、起こりえません。その起こりえないことを父なる神は、してくださったのです。それが、キリストの十字架です。