赦し赦される

2021年10月31日ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

マタイの福音書18章21~35節
18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」
18:22 イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。
18:23 ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。
18:24 清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。
18:25 彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。
18:26 それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。
18:27 家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。
18:28 ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
18:29 彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。
18:30 しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。
18:31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。
18:32 そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。
18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』
18:34 こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。
18:35 あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」

<要約>

自分の罪がわからないので人を赦せない

私たちが神の赦しを実感するためにはまず、自分の罪がわからなければなりません。罪は人に、罪責感を呼び起こします。それは 悲しみであり、後悔であり、心の痛みです。しかし、罪を認めることは、必ずしも悔いや心の痛みや悲しみを呼び起こすことではありません。自分は罪深い人間であるということを認めること、認知することです。私たちは、み言葉を求めるときに、み言葉は鏡のように、私たちの心を映し出します。そして、自分の罪に気づきます。感情が動かされることもあるかもしれませんが、むしろ、自分が罪深い人間であること認めていくという作業じゃないかと思います。「何の罪もないイエス・キリストを十字架につけたのはこのわたしである」と応えることは、聖書が読者のすべてに求めている応答です。あなたは、その事実を認め信じることです。それが信仰です。2000年前のキリストを十字架につけたなんて、現代に生きる私の責任でない、と言いますか?それでは、あなたはキリストと何の関係もない人間となります。

回復と再生への徹底した赦し

王は、彼をかわいそうに思って、赦し、借金を免除した、というのです。全部負債を赦し、無しにしてくれたのです。天のみ国では、地上と違って、負債すなわち罪の免除があるということ、完全に罪を赦すというのです。父なる神は、罪びとを「かわいそうに思って」おられるということです。父なる神は、哀れみのゆえに人間が持つ途方もない罪の負債を赦すことを決めました。そのために、罪の負債を身代わりに罪のない神の御子に支払わせたのです。その払うべき代価が御子イエス・キリストの十字架の死でした。キリストの十字架の贖いを信じる者を神は無条件で赦してくださいます。赦されたものは人を赦すことができます。人を赦すことで、自分も赦されていることに気づき神に感謝するのです。私たちは、主の十字架の贖いによって、永遠に返済不能、不可能を赦されたのです。これを認識できるでしょうか。これを実感できるでしょうか。聖霊によるのでなければ、罪について、義について、裁きについて、私たちの目は開かれることはないのです。