2021年5月9日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>使徒の働き15章1~11節
15:1 さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに「モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。
15:2 それで、パウロやバルナバと彼らの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバ、そのほかの何人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。
15:3 こうして彼らは教会の人々に送り出され、フェニキアとサマリアを通って行った。道々、異邦人の回心について詳しく伝えたので、すべての兄弟たちに大きな喜びをもたらした。
15:4 エルサレムに着くと、彼らは教会の人々と使徒たちと長老たちに迎えられた。それで、神が彼らとともにいて行われたことをすべて報告した。
15:5 ところが、パリサイ派の者で信者になった人たちが立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべきである」と言った。
15:6 そこで使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。
15:7 多くの論争があった後、ペテロが立って彼らに言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は以前にあなたがたの中から私をお選びになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされました。
15:8 そして、人の心をご存じである神は、私たちに与えられたのと同じように、異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために証しをされました。
15:9 私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。
15:10 そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか。
15:11 私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」
<要約>
割礼とモーセの律法:
割礼は、最初にアブラハムに与えられた契約のしるしです。神はアブラハムを選び、アブラハムの子孫を通して、救いをすべての民に広げようと計画されました。その選びと約束のしるしとして「割礼を施しなさい」と命じたのです。私たちがイエス様を信じたときに、キリストの割礼として、心の割礼を受けました。イエス様を救い主と信じて、バプテスマを受けることにより、古い自分に死んで新しく生まれ変わりました。聖霊があなたの内に住まわれ、キリストに結び付けられたのです。もう一つのユダヤ人クリスチャンの問題提起は、十戒を守ることです。十戒は、行いとしては、守ることができるかもしれません。しかし、心をご覧になる神の前では、誰一人十戒を守り切ることはできないのです。そのことで反って責められるのです。すなわち、律法の役目は、あなたの内側に語りかけ、あなたに罪を気づかせ、指摘し、あなたが、それを悲しんで悔い改めるように促すのです。そして、あなたを救い主イエスのところへ連れて行くのです。
行いではなく信仰によって救われる:
よく、もう少しまじめな人間になってから、もう少し、良い人間になってから、教会に来ますという人がいます。それは間違いです。パウロはローマ人への手紙や他のたくさんの手紙の中で、ただ信じるだけで、恵みにより救われるという、信仰義認を何度も解いております。人間の力や、よい行いによっては救われない、つまり、十戒によっては救われない、ただ思いを変えて、自分の罪を悔い改め、イエス・キリストの十字架のあがないを信じることによってのみ救われるのです。また、どんな過去に罪や過ちがあっても、すべての罪が赦されるのです。キリストの十字架の贖い、罪の赦しは神がなしてくださった一方的なみわざです。すなわち恵みです。行いによっては救われない、行いは救いの条件ではないといいました。では、行いはいらないのでしょうか。否、ヤコブ書には「行いのない信仰は死んだものだ」言っています。キリストを信じている人は、感謝と喜びから、主のために何かをしたい、自分にできることをしたいと思うのです。その行いを神は喜んで評価してくださいます。愛は行動で、行いによって表れるのです。