約束と信仰と救い

2020年10月25日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>ガラテヤ3章15~29節
3:15 兄弟たちよ、人間の例で説明しましょう。人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません。
3:16 約束は、アブラハムとその子孫に告げられました。神は、「子孫たちに」と言って多数を指すことなく、一人を指して「あなたの子孫に」と言っておられます。それはキリストのことです。
3:17 私の言おうとしていることは、こうです。先に神によって結ばれた契約を、その後四百三十年たってできた律法が無効にし、その約束を破棄することはありません。
3:18 相続がもし律法によるなら、もはやそれは約束によるのではありません。しかし、神は約束を通して、アブラハムに相続の恵みを下さったのです。
3:19 それでは、律法とは何でしょうか。それは、約束を受けたこの子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたものです。
3:20 仲介者は、当事者が一人であれば、いりません。しかし約束をお与えになった神は唯一の方です。
3:21 それでは、律法は神の約束に反するのでしょうか。決してそんなことはありません。もし、いのちを与えることができる律法が与えられたのであれば、義は確かに律法によるものだったでしょう。
3:22 しかし聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした。
3:23 信仰が現れる前、私たちは律法の下で監視され、来たるべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。
3:24 こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。
3:25 しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。
3:26 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。
3:27 キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。
3:28 ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。
3:29 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

<要約>

信仰は神につながる鉄パイプ:

私たちは誰でもイエス様を信じるときに、この太いパイプで父なる神とつながります。この太いパイプはイエス様といえます。神の持っておられる永遠のいのちにつながっていますので、この肉体の死は絶望でなくなります。たとえ、死に瀕しても祝福をいただくことができるのです。神はどんなに大きな罪があってもそれを悔い改めて神に告白するならば、十字架のゆえに赦してくださいます。そして私たちをきよめてくださるのです。イエス様という強い鉄パイプがあるので、どんな暗いトンネルに閉じ込められるような人生経験、たとえば、重い病気、大きな試練、を経験しても大丈夫です。神の愛があなたを取り囲んでいるからです。イエス様を信じてこの鉄パイプを自分のものとしてください。

約束による救いと祝福:

神は私たちを無条件で愛してくださっています。世界をおつくりになって統べ治めておられる神は私たちの生命に絶対必要な空気や太陽、水など無料で提供してくださっています。神は私たちの命を保っていてくださいます。人間は自分で生きているように思っていますが、絶対必要なものが常に与えられていることを忘れているのです。この「約束」とは、祝福と救いの約束ということができます。その約束が、アブラハムの子孫であるキリストに相続されました。神は、キリストによって約束されたこの特別な祝福と救いをみんなに受け取ってもらいたいと提供しているのです。

信仰によって受け取る約束:

律法は私たちに罪を指摘し、イエス様の救いに連れて行く働きをします。ここでは養育係にたとえています。養育係は子どもを監督し、教師のところへ連れて行く働きをしていました。律法は私たちをイエス様へと向かわせるのです。そして、イエス様が現れた以上、私たちは養育係すなわち律法の下にはいないということです。養育係を離れてイエス様に向うのです。そして、イエス様を信じる信仰によって祝福と救いを受け取るのです。

人生を変える祈り

2020年10月18日
説教者:東京JCF協力牧師  長谷川与志充師

<聖書>使徒の働き22章6~10節
22:6 私が道を進んで、真昼ごろダマスコの近くまで来たとき、突然、天からのまばゆい光が私の周りを照らしました。
22:7 私は地に倒れ、私に語りかける声を聞きました。『サウロ、サウロ、どうしてわたしを迫害するのか。』
22:8 私が答えて、『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、その方は私に言われました。『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである。』
22:9 一緒にいた人たちは、その光は見たのですが、私に語っている方の声は聞き分けられませんでした。
22:10 私が『主よ、私はどうしたらよいでしょうか』と尋ねると、主は私に言われました。『起き上がって、ダマスコに行きなさい。あなたが行うように定められているすべてのことが、そこであなたに告げられる』と。

福音は神の力、最強の力

<聖書>ローマ人への手紙1章8~17節
1:8 まず初めに、私はあなたがたすべてについて、イエス・キリストを通して私の神に感謝します。全世界であなたがたの信仰が語り伝えられているからです。
1:9 私が御子の福音を伝えつつ心から仕えている神が証ししてくださることですが、私は絶えずあなたがたのことを思い、
1:10 祈るときにはいつも、神のみこころによって、今度こそついに道が開かれ、何とかしてあなたがたのところに行けるようにと願っています。
1:11 私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたいからです。
1:12 というより、あなたがたの間にあって、あなたがたと私の互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。
1:13 兄弟たち、知らずにいてほしくはありません。私はほかの異邦人たちの間で得たように、あなたがたの間でもいくらかの実を得ようと、何度もあなたがたのところに行く計画を立てましたが、今に至るまで妨げられてきました。
1:14 私は、ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です。
1:15 ですから私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。
1:16 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。
1:17 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

<要約>
信じる者に神の力:

福音は、全ての人に救いをもたらす神の力です。ここでパウロが強調したいのは「信じる」という行為です。信じる全ての人には福音は神の力となるのです。神の力の力は、ドミナス、ダイナマイトと同じ語源で、その力は敵の要塞をも爆破する力です。最強の力と言えます。それは悪魔の力、罪の力、死の力にも打ち勝ちます。その神の力をもって、どんな状況の中にあるあなたをも救うことができるのです。

福音の力を体験して生きる:

もしあなたが罪を悔い改めてキリストを救い主と信じるなら、あなたのすべての罪が赦され、神との和解が得られ、罪と死と悪魔から解放されます。そして、神の子として、喜びと永遠に続く命へと移されるのです。あなたが、神が提供する福音を空の両手を広げて、ただ信じ受け入れるだけで良いのです。「義人は信仰によって生きる」。神から義とされたあなたは、これからは信仰に生きるのです。すなわち神をあなたの中心にすえることです。そして、福音の力、神の力を体験して生きることです。

キリストにある喜び

2020年10月4日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>ピリピ人への手紙2章1~18節
2:1 ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2:2 あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
2:3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。
2:4 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。
2:5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。
2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
2:10 それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
2:11 すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。
2:12 こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。
2:13 神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。
2:14 すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。
2:15 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、
2:16 いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。
2:17 たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。
2:18 同じように、あなたがたも喜んでください。私とともに喜んでください。

<要約>
キリストが与える喜びをいただく:

イエス様は、十字架の死に至るまで父なる神に従い通しました。そして、死んで墓に葬られました。イエス様は十字架ですべての人の罪を背負って、罪の裁きを受けてくださいました。罪に対する神の怒りの杯を飲み干してくださったのです。そのイエス様の功績のゆえに、神はイエス様を復活させられたのです。「イエスよ。よくやった。あなたは最後まで私に従ってくれた。人の命のために、あなたは罪びとと数えられて十字架で死んでくれた。それゆえ、私はあなたを復活させて、すべての名にまさる名をあなたに与える。あなたを主の主、王の王にする」と。そして、同時に、神が、私たち信じる者に下さるものは何でしょうか。イエス・キリストの十字架と復活の福音は信じる人々に、永遠のいのち、復活のいのち、それによるしぼむことのない希望を与え続けたと言えます。そして、それを思うときに、死によっても奪い去ることのできない喜びを味わうものとされたのです。

キリストの喜びがあなたと周りを変える:

神はへりくだる者、神に従う者を高めてくださるということです。そしてそのような人々に、神は御心を示して、良いことを行なわせてくださいます。ですから、不平を言わず疑わず行いなさいとあります。喜んで信仰をもって行いなさいということです。そうすれば、ついには、あなたは純真なものとなって、この世代の中にあって、神の子どもとして、いのちのことばを握って世の光として輝くのです。周囲の人々にも感化していくのです。そこに、キリストの与える喜びを自分の物として行く素晴らしい生き方があるのです