神との関係は大丈夫?

2020年1月19日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>マタイ3章1~6,13~17節
3:1 そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて、
3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。
3:3 この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。
3:4 このヨハネはらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
3:5 そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、
3:6 自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。

3:13 そのころ、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに来られた。彼からバプテスマを受けるためであった。
3:14 しかし、ヨハネはそうさせまいとして言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」
3:15 しかし、イエスは答えられた。「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」そこでヨハネは言われたとおりにした。
3:16 イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。
3:17 そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」

<要約>

神と正しい関係に入るには:

聖書は言います。人は生まれながら罪の性質を持って生まれ、現に人は罪を犯すものだと。聖書には、すべての人は罪を犯したから、神の栄光を受けることができない、と書いています。人の罪が、神との関係を断絶させています。そもそも人が創り主である神を認めないことが最大の罪です。自分の罪が分からない人は、イエス・キリストの救いもわかりません。実にイエス様は私たちの罪を取り除くために来られたからです。悔い改めは、今まで神を無視してきたことを悔いて、神に立ち返り、神との関係を正すことです。さて、イエス様は本来神の子で、生まれながら罪のないお方です。そのイエス様が、ヨハネの下に来てバプテスマを受けようとなさいました。この「すべて正しい」の「正しい」は、原語で「義」という言葉が使われています。義という字は、「神との関係で正しい」ということを意味しています。悔い改めは、思いを変えて、神を見上げ、神を心にお迎えするという心の姿勢から出てきます。まだ、神との正しい関係に入っていない人は、信じて洗礼を受けることです。それは、神との正しい関係に入ることを意味します。あなたと神の関係は大丈夫でしょうか。もう一度、悔い改めて神と向き合いましょう。

神との正しい関係を取り戻してくださるキリスト:

神はイエス様がヨハネのバプテスマを受けて、これから救いのわざ、人類の贖いのわざに立ち上がったことを喜ばれました。そして、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と声をかけられました。イエス様ご自身は、人々の罪の贖いの代価として、十字架で苦しみ命を捨てなければならないと決意しておられました。すなわち受難を心に決めていました。無罪の神がすべての人の罪を背負って身代わりとなって十字架で裁かれいのちを落としてくださったのです。信じる者は誰一人裁かれることなく、神のいのちにあずかり、復活の希望に生きるのです。このように、キリストは私たち人間と神との関係をご自身の血によって取り戻してくださったのです。ですから、悔い改めて信じれば、神の国はあなたのものになるのです。私たちのいのちはこの地上だけではありません。永遠を過ごすことになります。あなたには、いつまでも続く希望と喜びがついてくるのです。


神をお父さんと呼ぶ祝福

2020年1月5日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>ルカの福音書2章39~52節
2:39 両親は、主の律法にしたがってすべてのことを成し遂げたので、ガリラヤの自分たちの町ナザレに帰って行った。
2:40 幼子は成長し、知恵に満ちてたくましくなり、神の恵みがその上にあった。
2:41 さて、イエスの両親は、過越の祭りに毎年エルサレムに行っていた。
2:42 イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習にしたがって都へ上った。
2:43 そして祭りの期間を過ごしてから帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかずに、
2:44 イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを進んだ。後になって親族や知人の中を捜し回ったが、
2:45 見つからなかったので、イエスを捜しながらエルサレムまで引き返した。
2:46 そして三日後になって、イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
2:47 聞いていた人たちはみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。
2:48 両親は彼を見て驚き、母は言った。「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」
2:49 すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」
2:50 しかし両親には、イエスの語られたことばが理解できなかった。
2:51 それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。
2:52 イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。

<要約>

神を父と呼べない人の姿:

この神をご自分の父と呼んだのはイエス様が初めてです。それまでは父祖の神と言っていました。神を父と呼ぶことは誰もありませんでした。信仰によりイエス様の者とされた私たちは、「天の父なる神様」といのります。本来、被造物である私たち人間は創造主なる神に近づくことも向き合うこともできません。その神を私たちが「お父さん」と呼べる近い存在に、イエス様が、縮めてくださったのです。人は神から遠く離れていて、生まれながらのままでは創造主なる神を認めることも、信じることもできません。依然、罪と死と悪魔の支配下にあるのです。それが、神と出会うまでの私たち人間のありのままの姿です。それは、大きな断絶です。その断絶は、人間の努力や力では埋め合わすことのできない溝です。その溝にご自身が横たわり架け橋となってくださったのがキリストです。罪のない神のひとり子が、すべての人の罪をその身に受けて十字架で裁かれ死んでくださいました。御子を信じる者はその罪が赦されて、断絶は取り除かれます。

神を父とする祝福の人生:

イエス様は13歳を前にして、父母の神、父祖の神ではなく、ご自分の父であると宣言したのです。その後、ナザレに帰って両親に仕えられた、と書いています。聖書は、イエス・キリストを模範として生きるように勧めています。しかし、イエス様のようになることはできないでしょう。イエス様は神と人に愛され、最後まで神に従いとおしました。十字架さえも従いとおしたのです。その友のために命を捨てるほど大きな愛はないと言われました。しかし、友ばかりではなく、敵をも愛し、敵のために自分の命をも差し出したのです。私たちはいつも自分を優先して物事を考え進めています。また、自分に対してよい思いを持っていない人は避けます。しかし、イエス様はご自分に危害を与える人々とも向き合いました。また、イエス様は私たちに自分の十字架を負ってついてきなさいと命じています。それは、私たちを祝福にあずからせたいからです。天にあるあらゆる祝福を信じる者に与えたいのです。私たちが、感謝と喜びから献身するときに、神の栄光、真実、祝福の中に置かれていることに気づかせられるのです。