にもかかわらずの十字架

2019年10月27日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>エズラ記9章1~9節、15節
9:1 これらのことが終わった後、指導者たちが私のところに近づいて来て次のように言った。「イスラエルの民、祭司、レビ人は、カナン人、ヒッタイト人、ペリジ人、エブス人、アンモン人、モアブ人、エジプト人、アモリ人など異国の忌み嫌うべき習慣と縁を絶つことなく、
9:2 かえって、彼らも息子たちも、これらの国々の娘を妻にし、聖なる種族がもろもろの地の民と混じり合ってしまいました。しかも、指導者たち、代表者たちがこの不信の罪の張本人なのです。」
9:3 私はこのことを聞いて、衣と上着を引き裂き、髪の毛とひげを引き抜き、茫然として座り込んでしまった。
9:4 捕囚から帰って来た人々の不信の罪のことで、イスラエルの神のことばを恐れかしこむ者はみな、私のところに集まって来た。私は夕方のささげ物の時刻まで、茫然としてそこに座っていた。
9:5 夕方のささげ物の時刻になって、打ちのめされていた私は立ち上がり、衣と上着を引き裂いたまま、ひざまずき、自分の神、【主】に向かって手を伸べ広げて、
9:6 こう言った。「私の神よ。私は恥じています。私の神よ。私はあなたに向かって顔を上げることを恥ずかしく思います。私たちの咎は増し、私たちの頭より高くなり、私たちの罪過は大きく、天にまで達したからです。
9:7 私たちの先祖の時代から今日まで、私たちは大きな罪過の中にありました。私たちのその咎のため、私たちや、私たちの王、祭司たちは、諸国の王たちの手に渡され、剣にかけられ、捕虜にされ、かすめ奪われ、面目を失って、今日あるとおりです。
9:8 しかし今、しばらくの間、私たちの神、【主】はそのあわれみによって、私たちに逃れの者を残し、私たちのためにご自分の聖なる所に一本の杭を与えてくださいました。これは、私たちの神が私たちの目を明るくし、奴隷の身の私たちを少しでも生き延びさせてくださるためでした。
9:9 事実、私たちは奴隷です。しかし私たちの神は、この奴隷の身の私たちを見捨てることなく、かえって、ペルシアの王たちによって恵みを施し、私たちを生かして、私たちの神の宮を建て直させ、その廃墟を元に戻し、ユダとエルサレムに石垣を下さいました。

9:15 イスラエルの神、【主】よ、あなたは正しい方です。まことに、今日あるとおり、私たちは逃れの者として残されています。ご覧ください。私たちは罪過を負ってあなたの御前におります。このような状態で、だれもあなたの御前に立つことはできないにもかかわらず。」

<要約>

みことばから離れる人間;

当時のイスラエルの民は神のことばから遠く離れてしまっていたのです。みことばから離れると、神を恐れることもなくなります。神に対する恐れを持っているでしょうか。神のことば、聖書に重きを置かない生活になっていることはないでしょうか。私たちは、黙っていれば、神のことばを失ってしまいます。絶えず、心に刻み込まなければなりません。イスラエルの民は、神に対する恐れを失い、神のことばを守らなかったのです。そのために、当然の結果として、罪の結実を刈り取らなければならなかったのです。神の民であるクリスチャンも神を畏れて、愛し、信頼するように求められています。この世は、神のことばを知りません。また、神のことば、十字架のことばを愚かなこととします。しかし、イエス・キリストの十字架は、救いを受ける私たちには神の力です。そのままでは私たちを含めてすべての人間は、自らの罪のために滅んでしまう存在であり、地上の命が終わった後、神の御前に出ることさえできないのです。

にもかかわらず御前に立たせてくださる神:

そのように繰り返し犯した不信の罪により、滅ぼされても仕方がないイスラエルの民でした。しかし、神は、エズラを通してメシヤ預言を語られました。そして、神はペルシア王を通して民に恵みを施し、民を生かしてくださいました。私たち、すべての人は、そのままでは、自らの罪のために御前に立つことも許されない者たちです。にもかかわらず、キリストの十字架によって立たせてくださるというのです。歴史を支配しておられる神は、現代も、哀れみによりイスラエルの民を祖国に立たせていてくださっています。また、私たちをも忍耐をもって、今、立たせてくださっているのです。私たちは、終わりの日に義の衣であるキリストを着て、神の御前に立つことができるというのです。キリストを着るときに、私たちの全ての罪もそれによる傷も覆われて聖いものとみなしてくださるからです。なぜでしょうか。それは、罪のない神のひとり子が私たちの代わりになって罪を飲んで十字架で刑罰を受けてくださったからです。私たちにできる事は何でしょうか。空の両手を差し出して、神からの贈り物であるキリストを救い主として受け取ることです。

将来と希望

2019年10月20日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>エレミヤ29章1~11節

29:1 預言者エレミヤは、ネブカドネツァルがエルサレムからバビロンへ引いて行った捕囚の民、すなわち、長老で生き残っている者たち、祭司たち、預言者たち、および民全体に、エルサレムから次のような手紙を送った。
29:2 この手紙は、エコンヤ王、王母、宦官たち、ユダとエルサレムの首長たち、職人、鍛冶がエルサレムを去った後、
29:3 ユダの王ゼデキヤが、バビロンの王ネブカドネツァルのもと、バビロンへ遣わした、シャファンの子エルアサとヒルキヤの子ゲマルヤの手に託したもので、そのことばは次のとおりである。
29:4 「イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。
29:5 家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。
29:6 妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えよ。減ってはならない。
29:7 わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために【主】に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。』
29:8 まことに、イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『あなたがたのうちにいる預言者たちや、占い師たちにごまかされるな。また、あなたがたが見ている夢に聞き従ってはならない。
29:9 なぜなら、彼らはわたしの名を使って、偽りをあなたがたに預言しているからだ。わたしは彼らを遣わしていない──【主】のことば。』
29:10 まことに、【主】はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。
29:11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

<要約>

闇が深いほど背後の光は強い:

彼らは、エルサレムから異教のバビロンに連れて行かれました。ですから、神殿中心の信仰生活は絶たれました。宗教的枠組みを失っていたと言えます。イスラエル国家は消滅の危機にありました。先の見通しがつかないというのは、個人的にも、国家的にも、世界的にも、とてもつらいことです。現代に生きる私たちクリスチャンにおいても、教会統合や閉鎖するところも出て、霊的暗黒に包まれようとしています。思えば、イエス様のご降誕のときもイスラエルはローマの支配にあり、屈辱と困難、苦しみの中にありました。その「暗やみと死の世界」に「光といのちであるイエス・キリスト」を神は送ってくださったのです。今の時代にも、神は希望の約束を送ってくださっています。自分の前に映された自分の影、その闇が深いほど背後を照らす太陽の光は強いということです。同様に、もし皆さんが、個人的にも困難を覚え、あるいは行き詰まりを経験しているならば、今のピンチこそチャンスであることを知りましょう。

二つの領域でベストを尽くし希望に生きる:

彼らは、律法に則って生活していました。それがバビロンでは全くできなくなっていたので、絶望と無気力に陥っていました。その様な民に、神はエレミヤを通して、異郷の地でどのように生きて行ったらよいのかを、具体的に指示なさいました。その一つは、民がバビロニヤにいてもエルサレムに住んでいた時と同じように今を生きることです。そして、もう一つは、どんな状況にあっても主を礼拝しなさいというのです。そして、バビロンの町のために主に祈れと命じます。これは信者の二国論に通じます。信者は神の国に属して、教会では礼拝の民として礼拝を守ります。また、地上の国に属して、今を生きることです。つまり、遣わされた所で隣人愛の実践に励むのです。人々は教会で福音を聞きます。そして、クリスチャンを通して、背後のキリストを見るのです。聖書のみことばは、将来と希望を与えています。それは、主が再び来られること、そして、すべてのクリスチャンが新天新地に招き入れられるということです。信じるすべての人は、罪の赦しと永遠のいのちをいただいています。復活の命です。想像も絶する素晴らしい、栄光と喜びと賛美にあふれる御国でいつまでも主と共に生きるのです。

王の祝宴でキリストを着る

2019年10月06日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>マタイの福音書22章1~14節
22:1 イエスは彼らに対し、再びたとえをもって話された。
22:2 「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。
22:3 王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった。
22:4 それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」と。』
22:5 ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、
22:6 残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。
22:7 王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った。
22:8 それから王はしもべたちに言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。
22:9 だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。』
22:10 しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。
22:11 王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。
22:12 王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。
22:13 そこで、王は召使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』
22:14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」

<要約>

神の招きを拒絶する人間:

この例えで、王は神です。王子はキリストです。結婚の披露宴は神の国です。前もって、祝宴の招待状を差し上げていました。ところが、客は王の招待であるにもかかわらず、誰も来たがらなかった。今度は、王は別のしもべをつかわして、丁寧に再度招いたのです。王の驚くべき忍耐と寛容にもかかわらず、彼らは王の申し出に対してそれを気にもかけずに畑に行ったり、商売に行ったりしていました。また、他の者たちは王の使いに恥をかかせて、殺してしまったのです。これは、ひどい話だと思います。この例えは、メシヤを拒絶して、選民のくらいを取り上げられたイスラエル民族を指しています。これは一見イスラエル民族だけの問題のようですが、私たちすべての人間の問題でもあります。私たちは目先のことに心を奪われて、心で見えるはずの創り主の神を見ることができなくなっています。イエス様がお話をした狙いは何でしょうか。それは、神を無視することはとんでもない愚かなことですよ。それに気づきなさいということです。

来る者にキリストを着せてくださる神:

神は御子イエス・キリストの祝宴にすべての人を招いています。祝宴、それはキリストが支配する神の国です。神の国は、教会に現れています。教会には、罪の赦しとそれに伴う永遠のいのちが提供されています。全世界に福音が述べ伝えられて、大勢の人々が福音を受け入れております。キリストを信じて、礼服であるキリストを着て天国に入れられている人々であふれています。福音はすべての民族に届けられようとしています。そこで、王は礼服を着ていない一人の人を見つけました。本来ここに来た人々は大通りで連れてこられた人々ですので、礼服は王が準備し、一人ひとりに支給されたものです。ですから、この人が礼服を着ていなかったというのはすごくおかしな話です。不思議な話ですが、これは神のせっかくの申し出を拒絶する人間の姿を現しています。この人は、自分の姿が分からない人間を表します。礼服は、キリストを表しています。クリスチャンは、神様からいただいたイエス様という礼服を着ているということです。無代価で提供される天国への招きです。ただ、キリストを受け取ってそれを着ればよいのです。キリストを信じて心の内にお迎えすることです。