2019年08月11日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
聖書<ルカの福音書12章13~21節
12:13 群衆の中の一人がイエスに言った。「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください。」
12:14 すると、イエスは彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのですか。」
12:15 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
12:16 それからイエスは人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
12:17 彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』
12:18 そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。
12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』
12:20 しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
12:21 自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」
<要約>
人の前に富んでも神の前に富まない人:
この金持ちは、自分のいのちはずっと安泰であると考えました。いのちが神のものであり神の主権の中にあることに気づかなかったのです。彼は、金銭が魂に満足を与えることができると考えました。富は私たちの生活を支えますが、それ自体が私たちに真のいのちを与えることも、真の満足を与えることもできません。お金は、地上的なこの身体のいのちを支えることはできても、魂や霊のいのちを支えることはできません。なぜなら、魂と心の満足は人格の満たしから来るからです。人は人と、そして神とのつながりの中で喜び、充実、希望、平安、感謝を感じることができる存在だからです。人は人格的な触れ合いによって癒され、人として成長するのです。それでも、真の神を信じない、生まれながらの人間にはなお、人格の中心に満たされない空洞があります。それは、霊のいのちをお与えになっておられる神によってしか満たすことができません。この金持ちは、物質的には富んでいましたが、神の前では富まない人でした。神の前に富むことのない人間に対して、神の方から働きかけて富む者にしてくださるのです。
富む者としてくださる神:
神は、恵みにより私たち信じる者を富む者としてくださいます。どのくらい富む者としてくださるのでしょうか。キリストは、天の富を捨てて貧しくなり、もっとも貧しい人のひとりとしてこの世に来てくださいました。イエス様は天の富を信じる者にお与えになり、その代わりとして、私たちの貧しさを担われたというのです。すなわち、「私のすべての罪の負債はキリストのもの、キリストが持っている天にあるすべての富と祝福は私のもの」となったのです。これを喜びの交換といいます。私たちがすることはその罪のゆるしと永遠のいのちの祝福を信仰によって受けとめることなのです。「わたしの望みはあなたです」と神に望みを置く人生こそ、信仰に富む人生です。外面的に悲しくて不幸に見えても、この世の富に代えられない最も大切な事は信仰に富むことです。信仰の富は信じるあなた方にもうすでに与えられています。ですから、これからは使うのみです。天の宝をどのように使いますか。それは自分のためだけに使ってもむなしいものです。それをあなたの隣人のために用いましょう。