2018年07月 01日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>使徒の働き7章45~8書3節
7:45 私たちの父祖たちは、この幕屋を次々に受け継いで、神が彼らの前から異邦人を追い払い、その領土を取らせてくださったときには、ヨシュアとともにそれを運び入れ、ついにダビデの時代となりました。
7:46 ダビデは神の前に恵みをいただき、ヤコブの神のために御住まいを得たいと願い求めました。
7:47 けれども、神のために家を建てたのはソロモンでした。
7:48 しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。
7:49 『主は言われる。天はわたしの王座、地はわたしの足の足台である。あなたがたは、どのような家をわたしのために建てようとするのか。わたしの休む所とは、どこか。
7:50 わたしの手が、これらのものをみな、造ったのではないか。』
7:51 かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。
7:52 あなたがたの父祖たちが迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。
7:53 あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」
7:54 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。
7:55 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、
7:56 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」
7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。
7:58 そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。
7:59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
7:60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。
8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。
8:2 敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。
8:3 サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。
<要約>
宣教の主役は聖霊:
聖霊は目には見えませんが、そのお方は光のように人々に臨み、真理を明らかにするのです。そのお方があなたに臨むとき、あなたの心の罪を明らかに示します。ちょうど、朝、窓のカーテンを引くと朝日が差し込み、部屋の中の埃が目に入るのと似ています。そして、あなたは、部屋の空気が汚いのに気付き息苦しさを覚えて、外の新鮮な空気を入れようとします。そして、窓を開けるとすがすがしい風が入ってきます。同様に、聖霊があなたの心を照らすとき、あなたは自身の罪を見せられて痛みを覚えます。息苦しさを覚えて、心の窓を開いて聖い聖霊を心に迎えるのです。そして、あなたの心の罪を取り除いていただくのです。ですから、聖霊は光のようであると言いましたが、同時に風のようです。また、水のようです。イエス・キリストを信じた者は、教会で洗礼を受けます。その時用いるのが水です。水は汚れを洗い流す力があります。洗礼によりあなたの罪がすべて洗われるのです。清めます。そして、聖霊があなたの中に入り、あなたに真のいのちを与えます。今の時代は、どういう時代でしょうか。2000年前にイエス・キリストは天に昇られました。その後聖霊が下りました。そして、全世界にキリストの十字架と復活が述べ伝えられてきました。やがて、キリストの再臨の時を迎えます。現代は、その少し前の時代と言えます。なぜなら、聖書に、福音がすべての国民に宣べ伝えられてから、終りが来るとあるからです。福音はほとんどの国民に伝えられており、キリストの再臨は近づいていると言えます。
今日は、イエス・キリストの最初の殉教者であるステパノについての記事です。神は、人類を祝福するために、最初に、アブラハムを選ばれました。そして、アブラハムへの祝福はその子孫であるイスラエル民族に及びました。そして、イスラエル民族を通してすべての国民に祝福を届けようとされました。その祝福の神は救い主でありました。ユダヤ民族だけにとどまらず全人類を罪と死と滅びから救う救い主であったのです。神がユダヤ民族を選びあわれみ愛したのにかかわらず、真の神から心が離れて偶像に心惹かれ偶像礼拝の罪に陥りました。その度に神は預言者を送り、神のみことばを伝えて、民を立ち返らせようとしました。しかし、民は預言者を迫害し殺してしまいました。神は、そのようなイスラエルのために救い主を送るという約束をたびたび送っていました。しかし、ますますかたくなになり、ついには、神のひとり子キリストを十字架につけて殺しまったのです。ステパノはそれを指摘して、民が聖霊に逆らう生き方をしているのだと、糾弾しました。旧約の時代から聖霊は働いています。聖霊は、光のように、風のように、そして水のようにどこにでも偏在し、歴史を導いてこられていると言えます。
キリスト信仰へと導く聖霊:
ステパノの説教は、神殿に話が及びます。神殿はソロモンが神のみ住まいとして建てたものです。神は天地万物の創り主であり、人のつくった建物にはお住みにならないことを告げられました。すなわち、神殿という建物には神の本体はなく神のみ住まいの模型であったのです。しかし、当時、神殿は見える形での神の臨在の場所でした。神殿を通して人は神に近づくことができました。すなわち、神殿はやがて来られる救い主キリストの影であって、本体はキリストであることを示されたのです。神殿では、民の罪を贖うために、傷のない小羊などの動物がいけにえとして捧げられていました。これは、来るべきキリストのひな型でした。キリストは神の犠牲の子羊として世に来られたからです。罪のない神が人となってこられました。罪のない神のひとり子キリストが、あなたや私、いや全人類の罪を背負って、十字架にかかり死んでくださいました。その事により、すべての罪をぬぐい取ってくださったのです。すべての人は、自らの罪のために死んで滅ぶべきものとなっていました。その人間を死と滅びからキリストがご自身の血をもって買い取ってくださったのです。ユダヤ民族には、神殿こそ神の臨在の中心でした。ユダヤ民族にとって神殿を信仰の中心として、民は毎年お参りに来ていました。しかし、そのような信仰の中心である神殿は、実際のところは、イエス様が指摘されたように強盗の巣となっていたのです。そこでは、宗教指導者たちは犠牲の動物を販売して、商売にしていました。彼らは外面を繕い、内実のない見せかけの信仰だったのです。そこで、イエス様は、神殿でユダヤ人たちを前に言いました。(ヨハ 2:19)「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」それは、ご自身の身体の神殿のことを言っておられたのです。イエス様が十字架で殺され、三日目に復活されることを暗示されたのです。そのイエス様の発言が神への冒涜として、裁判で死刑を言い渡されました。イエス様のことば通りに、その後、神殿礼拝は破棄されました。現代は、イエス・キリストが真の神殿となり、礼拝者たちは霊と真をもって、世界中のどこででも礼拝を守ることができるのです。私たちは彼らを反面教師として学ぶ必要があります。私たち信者は、外面をつくろい、内実のない信仰生活をしていないでしょうか。神を愛し、恐れ、信頼する生き方をしているでしょうか。神を愛しているのなら、神に喜ばれることを模索して実行しようとします。また、神を恐れているのならば、神が嫌われること、罪から離れます。さらに、神に信頼いているのならば、目に映る様々なことがらに対しても疑いまどうことなく、神はすべてを働かせて益としてくださることを信じ続けます。聖霊は聖書のみことばを用いて働かれ、私たちをキリストの救いへと導いてくださいます。聖霊に心を開くことが大切です。
迫害と殉教で宣教が拡大:
そのステパノの批判に対して、ユダヤ人たちは、「はらわたが煮えかえる思いで」怒り、ステパノを町の外へ連れ出して、そこで石打の刑にして殺しました。最初の殉教者ステパノ、彼は名もない一人の男でした。しかし、彼は聖霊に満たされて、堂々と自分の信仰の証をしました。イスラエルの歴史を振り返りながら、その歴史が神に対する不信仰と反逆の歴史であったことを説きます。人々は、聞く耳を持たないばかりか、強い怒りに満たされて耳を覆いステパノに対する殺意をあらわにいたします。これを機に激しい迫害の嵐が、エルサレムの教会から当時のローマ帝国、そして、歴史を通して全世界に広がりました。神の摂理と思いますが、迫害によって宣教が拡大しました。日本でも1,600年ころから、安土桃山時代、江戸時代には各地で迫害が起こり、多くの信者が殉教しました。おおよそ250年間の迫害と殉教の歴史があります。キリスト教の歴史、それは迫害と殉教の歴史ということができるかもしれません。迫害はなぜ起こるのでしょうか。それは信仰があるからです。信仰を捨てれば、迫害はやむのです。江戸時代は、何とかクリスチャンに信仰を捨てさせようと拷問や誘惑で巧みに信仰を捨てさせようとしました。ある人びとは信仰を捨て、迫害から解放されました。しかし、多くのクリスチャンは死の向こうにあるもの、永遠の命、天国を待ち望んで、すなわち、信仰によって迫害に耐えていったのです。8章に入ると、激しい迫害によって、多くのクリスチャンがエルサレムを後にローマ世界に散っていきました。道々、イエス・キリストを宣べ伝えたのです。すなわち、福音宣教が拡大したのです。この処刑の場所にパウロという青年が登場しています。彼は、やがて、異邦人伝道に遣わされ、この新約聖書の半分以上も表すものとなったのです。そして、やがては自分が迫害した、キリストのために迫害を受け殉教したのです。ステパノの殉教によってパウロは聖霊に捕らえられました。このあと、パウロが劇的な改心をし、最大の宣教者となったのです。神はキリストの十字架と復活によって、私たち罪と死と滅びから救ってくださいました。そしてこの救いの福音は、このようにして、全世界に及んで、今日私たちのところにも届けられました。聖書の預言はことごとく成就しています。今日、あなたにも聖霊は語りかけています。悔い改めて、イエス・キリストを信じて救われなさいと。