神さまのビジョンは私のビジョン

2018年07月 29日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢執事 崔誠宰

<聖書>Ⅱペテロ3章8~13節
3:8 しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
3:10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
3:11 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。
3:12 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
3:13 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

関係回復への招き

2018年07月 22日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き15:1~17
15:1 さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。
15:2 そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。
15:3 彼らは教会の人々に見送られ、フェニキヤとサマリヤを通る道々で、異邦人の改宗のことを詳しく話したので、すべての兄弟たちに大きな喜びをもたらした。
15:4 エルサレムに着くと、彼らは教会と使徒たちと長老たちに迎えられ、神が彼らとともにいて行われたことを、みなに報告した。
15:5 しかし、パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである」と言った。
15:6 そこで使徒たちと長老たちは、この問題を検討するために集まった。
15:7 激しい論争があって後、ペテロが立ち上がって言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。
15:8 そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、
15:9 私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。
15:10 それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。
15:11 私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」
15:12 すると、全会衆は沈黙してしまった。そして、バルナバとパウロが、彼らを通して神が異邦人の間で行われたしるしと不思議なわざについて話すのに、耳を傾けた。
15:13 ふたりが話し終えると、ヤコブがこう言った。「兄弟たち。私の言うことを聞いてください。
15:14 神が初めに、どのように異邦人を顧みて、その中から御名をもって呼ばれる民をお召しになったかは、シメオンが説明したとおりです。
15:15 預言者たちのことばもこれと一致しており、それにはこう書いてあります。
15:16 『この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。
15:17 それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。
<要約>

行いによっては救われない:

ユダヤ教から信じてクリスチャンになったある人々が、エルサレムからアンテオキアに来て、教会の人々に「兄弟たち、モーセが命じた割礼を受けなければあなた方は救われない」と言い出したのです。そして、割礼を主張するユダヤ人クリスチャンと激しい対立となったのです。そこで、彼らはエルサレム教会で、議論してもらい、教会会議に諮ることにしました。二人はエルサレムに着いて、「教会と使徒と長老たちに迎えられ、神が彼らと共にいて行われたことを、皆に報告した」のです。そこで開かれたのは、AD50年に開催された、エルサレム教会会議です。果たして、救われるためには割礼が必要なのか、律法を守ることができなければ救われないのか、という議論です。パリサイ派出身のパウロも、キリストに救われる前までは、厳格に律法を遵守していました。パウロは「律法による義についてなら、非難されるところもない」と言っています。すなわち、以前のパウロは、律法を厳しく守って自分は義とされている、だから神の前で正しい人間だと思っていました。このように、パリサイ人たちにとって、律法は、自分の正しさを主張するためのものとなっていました。自分を立派で美しく見せるための道具としていたのです。それを自己義認と言います。そして、彼らは神に対しても自分を正しい人間であると主張していたのです。そこにはへりくだった悔いた心はありません。神の嫌われる高慢な心があります。彼らは神がお与えになった律法を誤用していました。律法は人が自らの正しさを証明するためのものではなく、むしろ、罪を示されて神の前に謙遜にさせられるためのものです。ペテロはそのことに気付いていました。そして、ペテロは言います。「律法は父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきであった」と。十戒にある、父と母を敬え、姦淫してはいけない、殺してはいけない、盗んではいけない、偽証してはいけない、など表面的には、守ることができることでしょう。しかし、心をご覧になる神の前では、誰一人守ることができないのです。そのことで反って責められるのです。つまり、自分の罪に気付かされるのです。人は行いによって神に近づくことはできません。神は心を見られるからです。いくら純粋に見える行為でも、人は神に栄光を帰すのでなければ、それを自分の栄誉にしてしまうからです。そこに、罪深い人間の姿があります。良い行い、善行を積んだら神はそれを評価して、天国へ導いてくださるでしょうか。誤りです。天国へ入るための条件は、罪が完全に赦されていることのみです。すなわち、その人には全く罪が認められないことです。聖書は、キリストの十字架以外にあなたの罪をきよめるものは何もないと主張しています。救いは外にあります。わたしの内にはありません。人間の内にはありません。いくら内側をきよめようと難行苦行を積んでも、人間は聖くなりません。行いは救いの条件ではないということです。では、行いはいらないのでしょうか。否、ヤコブ書には「行いのない信仰は死んだものだ」言っています。キリストを信じている人は、感謝と喜びから、主のために何かをしたい、自分にできることをしたいと思うのです。その行いを神は喜んで評価してくださるのです。

恵みによって救われる:

ユダヤ人たちには強い選民思想というのがあって、まず、一つの疑問は、異邦人は本当に救われるのか、というものでした。また、もし、異邦人が救われるのであれば、異邦人もまず、ユダヤ人のようになってから、ユダヤ人の習慣に習って、また、モーセの律法に沿った生活をしてからでないと、イエスの十字架の救いに預かれないと思っていたのかもしれません。よく、もう少しまじめな人間になってから、もう少し、良い人間になってから、教会に来ますという人がいます。それは間違いです。ありのままで神の前に来ればよいのです。悔いた低い心で来ればよいのです。ペテロは「私たちは主イエスの恵によって救われたのです。」と言いました。この後、パウロはローマ人への手紙や他のたくさんの手紙の中で、このただ信じるだけで、恵みにより救われるという、信仰義認の問題を、何度も説いております。人間の力や、よい行いによっては救われない、つまり、律法によっては救われない、ただ思いを変えて、自分の罪を悔い改め、イエスキリストの十字架のあがないを信じ、キリストに従っていくこと、によってのみ救われるのです。また、どんな過去に罪や過ちがあっても、もし、悔い改めて、キリストの十字架を仰ぎ見れば、すべての罪が赦される、ということです。私たちはそれぞれに過去の経験というものをもっています。それをよりどころとしているということがあります。それはとても大切ですし、当たり前のことでもあります。難しい手術をこなすベテランの外科医は、たくさんの手術の経験を持っていて、技術を磨いてきた人です。その経験に頼って困難な手術も成功させることができるのです。しかし、信仰義認、神様の前で罪赦されて救われるのには、過去の経験や実績も関係ありません。ただ、ただ信じて救われるのです。信じて神の前で正しいものとされるのです。人間的な力や努力や才能も全く無力にしたのがこの福音です。誰でも幼子のようにならなければ神の国を見ることができません。とあるとおりです。信仰による義は、イエス様の十字架の死が自分のためであった、あるいは自分がイエスを十字架につけたと認め、神の許しの約束を握るというところから来る平安と喜びです。

備えられた神との関係回復の道:

ヤコブは、バルナバとパウロが会衆に語り終えるのを待って、立ち上がりました。ヤコブの説教は始まります。神が異邦人を顧みて、「御名をもって呼ばれる民」を起こしてくださった事は、先に、シメオンが説明した通りです。と口火を切りました。このシメオンというのは、シモンのヘブル語で、シモン・ペテロのことです。すなわち、今までは、ユダヤ人だけが神に選ばれた神の民という認識でしたが、コルネリオの回心という事件を通して、神は、異邦人もご自身の民となさることを明らかに示されました。そして、そのことは、今になって言われたことではなく、昔の預言者が語っていたことだと、説明します。「この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。」とあります。「わたしは帰ってきて」というのは、父と同格の御子イエス様が来られたことです。「倒れたダビデの幕屋」「廃墟と化した幕屋」は同じ意味です。幕屋は天国の模型でした。すなわち、サタンによって奪い取られたこの地に、神のご支配を回復するということです。イエス様は、宣教の初めに「神の国は近づいた」と言って、ガリラヤで立ち上がりました。サタンが支配しているこの世に、神の国の到来を告げたのです。ですから、もうここに神の国は来ています。このエルサレム会議以来、パウロを中心として、異邦人社会に福音が届けられるようになり、現在は全世界に及んでいます。そして、最後「それを元どおりにする」。これは壊れた幕屋を元どおりにする、ということです。この霊的意味は、アダムの罪以来、壊れてしまっていた人と神との関係を元どおりにするということです。最初の人アダムは、神に逆らい罪を犯してしまいました。それにより、神との関係は完全に壊れてしまいました。その神との断絶は、アダムの罪を受け継いだ全人類に及んでいます。しかし、そのすぐ後、救い主の到来の預言がなされたのです。女の子孫に救い主が表れ、彼は、サタンにかかとを噛まれるが、その足でサタンの頭を踏み砕くというのです。神のその預言はどのように成就したのでしょうか。紀元前二千年ころ、神はメソポタミアにいた一人の人アブラハムを選び、アブラハムに約束を与えられました。神はアブラハムを祝福し、地上のすべての民族は彼によって祝福されるということです。アブラハムの子孫であるイスラエル民族の中から全人類の救い主イエス・キリストが与えられました。全人類は、イエス・キリストにより祝福されています。また、神との関係回復を得ています。キリストを信じる者はすべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられ、神の国の世継ぎとされ、天国のあらゆる祝福と富をいただくことができるからです。このように神との関係回復の道が供えられました。そして、とき至って、今、その神との関係回復にあなたも招かれています。

みことばは必ず成る

2018年07月 15日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き12章1~17節
12:1 そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、
12:2 ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。
12:3 それがユダヤ人の気に入ったのを見て、次にはペテロをも捕らえにかかった。それは、種なしパンの祝いの時期であった。
12:4 ヘロデはペテロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。それは、過越の祭りの後に、民の前に引き出す考えであったからである。
12:5 こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。
12:6 ところでヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寝ており、戸口には番兵たちが牢を監視していた。
12:7 すると突然、主の御使いが現れ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。
12:8 そして御使いが、「帯を締めて、くつをはきなさい」と言うので、彼はそのとおりにした。すると、「上着を着て、私について来なさい」と言った。
12:9 そこで、外に出て、御使いについて行った。彼には御使いのしている事が現実の事だとはわからず、幻を見ているのだと思われた。
12:10 彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。そこで、彼らは外に出て、ある通りを進んで行くと、御使いは、たちまち彼を離れた。
12:11 そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私を救い出してくださったのだ。」
12:12 こうとわかったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。
12:13 彼が入口の戸をたたくと、ロダという女中が応対に出て来た。
12:14 ところが、ペテロの声だとわかると、喜びのあまり門をあけもしないで、奥へ駆け込み、ペテロが門の外に立っていることをみなに知らせた。
12:15 彼らは、「あなたは気が狂っているのだ」と言ったが、彼女はほんとうだと言い張った。そこで彼らは、「それは彼の御使いだ」と言っていた。
12:16 しかし、ペテロはたたき続けていた。彼らが門をあけると、そこにペテロがいたので、非常に驚いた。
12:17 しかし彼は、手ぶりで彼らを静かにさせ、主がどのようにして牢から救い出してくださったかを、彼らに話して聞かせた。それから、「このことをヤコブと兄弟たちに知らせてください」と言って、ほかの所へ出て行った。

<要約>

最悪の中に神のご計画がある:

国家の最高権力者によって、初代教会は最も重要な人物が捕えられて、殺されようとしています。エルサレムの教会は窮地に立たされていました。ペテロは牢の中で、決して逃げられない。絶体絶命、教会にとってもなすすべがない状態でした。イエス様の直弟子であり、教会のリーダーの一人ヤコブが殺されました。さらに、イエス様が、「あなたの上に私の教会を建てる」と言われたペテロが明日殺されようとしているのです。最悪の状況の中で、教会は祈りました。そこに神のご計画があらわされました。ペテロが救出されたのは、絶対起こりえないことが起こったということです。ペテロは二本の鎖に繋がれて二人の兵士の間で寝ていたというのです。翌朝殺されようとする前の晩のことです。すると突然、主の使いが現れ、光が牢屋を照らしました。御使いはペテロの脇腹を叩いて起こし、「急いで立ち上がりなさい」と言いました。すると鎖が彼の手から落ちたのです。立ち上がった。そうしたら鎖が落ちたのです。神は御使いを用いて、ペテロを牢獄から救出したのです。出口のないトンネルはない、開けない夜はない、同じように、試練や困難にも脱出の道はあるのです。日本では、ここ毎年のように、豪雨の被害を受けています。今年は西日本で、広範囲にわたり大雨による被害があり、大勢の人々が命を失いました。豪雨の災害は日本中、どこででも起こりうるそうです。災害にあった人、災害に会わなかった人、そこには何の違いもありません。今日の聖書のはなしを見ても、ペテロは救出されたのにヤコブは殺された、ということです。どうしてそのように片一方は救出されもう片一方は救出されることなく死んでしまったのでしょうか。しかし、その答えはありません。この世はそのような疑問で満ちています。しかし、神はすべてを知っておられるということです。人間は神のなさることを完全には理解できません。もし、人間の思考や理性の中に神様をすっぽりと入れることができるならばそれは神ではありません。それは、人間が考え出した神と言うことでしょう。それは真の神ではありません。はっきりしていることは、神は愛の方であるということです。神はご自身の独り子のいのちを与えてもよいと思われるくらい、人間を愛しておられるということです。キリストの十字架を見るとそれがわかります。十字架が語っているのは、私たち一人一人に対する神の愛です。言葉で言い尽くすことのできない愛です。十字架のメッセージは全世界の真の教会で毎週のように語られております。二千年間も語ってきたのに、語り尽くせないのです。私たちは、近視眼で、目先の事しか見えません。しかし、長いスパンで見ると、神の最善がなされています。聖書の預言は必ず成就しています。それは歴史が証明しています。もし、あなたが、今、試練や困難の中にいるのでしたら、あなたにいのちを与えて、あなたを愛しておられる神を信頼して見て下さい。必ず、神の最善が明らかにされる時が来ます。

祈りは状況を変える:

ペテロが捕えられて殺されることになったとき、教会は彼のために、神に熱心に祈り続けたと書かれています。窮地に陥れられたときすべきただ一つのことは祈りです。どんな所でもどんな状況でも私たちは祈りに向かうべきです。熱心な祈りは神を動かすのです。また祈りに期待しなければ、結果を見ることができません。彼らは、徹夜の祈り会をしていました。リーダーのペテロもヤコブを取りされる。これから教会はどうなるのだろうか。不安でいっぱいでした。しかし、最終的には、「みこころがなりますように」と祈ったでしょう。私たちも困難に会ったとき、御心が最善であると信じ「御心がなりますように」と祈りましょう。彼らは、ペテロが救出されるとは思っていなかったことがわかります。予期していない神のみわざに彼らは驚き、さらに神を恐れたのです。私たちが、なすすべがない、何にもできない、と言うときも、祈りはできるのです。人生には絶対起こりえないと思うことが起こるのです。神さまの奇跡を見るのです。最大の奇跡は救われるはずがない人が救われたということではないでしょうか。祈りは状況を変えます。たとえ、願ったように外的状況は開けなくても、祈るものの内的状況、心の状況は変わります。祈ることによって、神は全能であることを思い起こします。祈ることによって、神は愛の方であることを思い起こします。祈ることによって、神が最善をなしてくださることを確信するからです。ですから、皆さん、いつも祈りましょう。

神のみことば止められない:

ヘロデ・アグリッパはユダヤ全土を統括する王でした。彼の策略によっても、神の言葉を止める事はできませんでした。悪魔はキリスト教を撲滅させようとしました。歴史を通して働いています。紀元303年ローマ皇帝ディオクリティアヌスは世界中の聖書を集めて焼き払いました。ローマ帝国内に1冊も聖書がないと言う状態までしました。しかし、その約10年後にはキリスト教はローマ帝国の国教となったのです。近世になっても、聖書撲滅を試みた人々がいます。しかし、聖書は消失することはありません。逆に、聖書はあらゆる言語に翻訳されて、今も全世界に広がり続けています。ここに神の勝利があります。人間、そして、悪魔のいかなる策略に対しても聖書の言葉、神のみ言葉は決して止めることはできないのです。苦しみの中にもみ言葉は流れています。神のみことばは止めることのできません。その証をします。2014年2月に、クリスチャンの友人夫妻の次男が20歳の若さで突然亡くなりました。大学時代、教会で一緒の兄姉です。なぜ、どうしてそんなに若くして亡くなったのか、答えは出ないのです。4年半もなりますが、現在も、痛みと悲しみがあります。しかし、朝晩、夫婦で神の御前に出て、聖書を読み、祈っていると聞きました。神と交わる時間を持っています。それにより、神と親しい交わりの中に入れられています。今は次男の死の意味がわからない。しかし、いつかあるいは御国で知ることができるのです。みことばは止められることなく、彼らのうちに流れ続けています。永遠の希望に生きているのです。もう一つは、ハレルヤ保育園の園児の教育に係る証です。今から約20年前のことです。順兄が岡山の倉敷市にある川崎医科大学に入学した年のことです。5月の連休に関西方面へ家族旅行をしました。彼は最初のころ、西大寺キリスト教会に通っておりました。私たちは旅行中の主日に、そこで礼拝を守りました。その時教会の隣に大きな建物があり、そこには教会の幼稚園がありましたので、見学させてもらいました。そこで初めて、モンテッソーリ教育に出会ったのです。盛岡に帰って、その教育法について学び、これだと思いました。そして、ハレルヤ保育園にモンテッソーリ教育を導入することをきめたのです。私たちは西大寺キリスト教会の隣に教会の三倍くらい大きな立派な幼稚園を見た時は、なんでこんな大きな立派な建物があるのだろうかと思いました。その後で、耳にした話ですが、その時を遡る数年前に教会は大変な試練にあったのです。窮地に立たされたのです。教会のキャンプで連れて行った中学生が海に溺れて死亡したのです。教会全体が冷え込み、牧師は責任をとって辞任したのです。その後、新しい牧師が使わされてきました。祈りの中で、その牧師に与えられたことは、溺死した子どものことを覚えて、子どもに宣教していくというビジョンでした。そして、その大きな建物が与えられました。そこで、モンテッソーリ教育に取り組んだのです。苦しみを通して与えられた宣教のみ言葉は止まることがありません。そして、宣教のみことばはハレルヤ保育園にも流れています。そしてこのチャペルに流れているのです。最後に、イザヤ書のみことばを読んで終わります。「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」

敬虔な人コルネリオ

2018年07月 08日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き10章1~17,34~43節
10:1 さて、カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であった。
10:2 彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが、
10:3 ある日の午後三時ごろ、幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。御使いは彼のところに来て、「コルネリオ」と呼んだ。
10:4 彼は、御使いを見つめていると、恐ろしくなって、「主よ。何でしょうか」と答えた。すると御使いはこう言った。「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。
10:5 さあ今、ヨッパに人をやって、シモンという人を招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれています。
10:6 この人は皮なめしのシモンという人の家に泊まっていますが、その家は海べにあります。」
10:7 御使いが彼にこう語って立ち去ると、コルネリオはそのしもべたちの中のふたりと、側近の部下の中の敬虔な兵士ひとりとを呼び寄せ、
10:8 全部のことを説明してから、彼らをヨッパへ遣わした。
10:9 その翌日、この人たちが旅を続けて、町の近くまで来たころ、ペテロは祈りをするために屋上に上った。昼の十二時ごろであった。
10:10 すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになった。
10:11 見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。
10:12 その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。
10:13 そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」という声が聞こえた。
10:14 しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」
10:15 すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」
10:16 こんなことが三回あって後、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。
10:17 ペテロが、いま見た幻はいったいどういうことだろう、と思い惑っていると、ちょうどそのとき、コルネリオから遣わされた人たちが、シモンの家をたずね当てて、その門口に立っていた。

10:34 そこでペテロは、口を開いてこう言った。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、
10:35 どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。
10:36 神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。
10:37 あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。
10:38 それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。
10:39 私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行われたすべてのことの証人です。人々はこの方を木にかけて殺しました。
10:40 しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。
10:41 しかし、それはすべての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちにです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられて後、ごいっしょに食事をしました。
10:42 イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。
10:43 イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」

<要約>

神を求めて祈る人に主は顕れる:

カイザリヤにいるローマの百人隊長コルネリオは異邦人ですが立派な人物でありました。彼は敬虔な人で、ユダヤ教の教理を受け入れて、宗教的慣習を守っていました。コルネリオは天地万物の創り主である神を信じていました。神の民ユダヤ人に与えられた律法を重んじて、律法に則った生活をしていました。神の望んでおられる生き方を目指していたと言えます。ユダヤ教徒としてするべきわざを心得ていました。一家をあげてユダヤ人社会に溶け込み、会堂(シナゴグ―)に集い、律法や預言書の朗読を聞き、ラビたちの説教を聞いていたことでしょう。ですから、ユダヤ人が救い主を待ち望んでいたことも理解していました。そして、彼自身も救い主を待ち望んでいたことでしょう。今日の記事から、彼は午後3時の祈りの時を持ちました。それは、ユダヤ教徒の夕方の祈りの時として一般的に持たれていたことです。コルネリオはなぜ、全世界の造り主であるユダヤ教の神を信じるに至ったかは何も書いていません。しかし、ローマの百人隊長という職業からも推し量ることができます。百人隊長は短命で死と隣り合わせに生きていた人間でありました。コルネリオは自分が異邦人ではありますが、そのことで卑下することもなく、神を愛し、恐れ、信頼する人でした。打算のない真心を主に捧げていました。そのようなコルネリオに聖霊がお降りになりました。聖霊は、自分を主に明け渡し、従う人におくだりになるのです。「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。」彼の祈りと奉仕は神への献身の現れでした。それに対して、当時の宗教指導者であるパリサイ人や律法学者たちの祈りは、自分の敬虔さを誇示する祈りであったようです。神は私たちのささげものそのものより、それを差し出す私たちの心をご覧になって喜びます。砕かれた、悔いた心です。謙遜でへりくだり、自分の罪をはっきりと認識している人を求めています。私たちの祈りや奉仕もそこに立ちたいと思います。

祝福と恵みを隣人に届ける:

ある時、み使いがコルネリオの前に現れてペテロを家に招いて話を聞くように促しました。ペテロはペテロで不思議な夢を見ました。天から四角を吊るされた大きな風呂敷が降りてきて中にある様々な四足の動物や這うもの空の鳥などを屠って食べなさいという声を聞いたのです。律法で、食べてはいけないものは食べられないとペテロは断ったものの、三回同じようなことがあり、「神がきよめたものをきよくないと言ってはならない」と戒めを受けたのです。そのような夢を見ていたちょうどその時に、コルネリオから使わされた人たちが彼の家の門口に立っていたのです。ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり訪問したりするのは律法にかなわないことだったのです。異邦人の家に入ることも、共に食事をすることも許されていなかったのです。そのことはコルネリオも十分承知していたことでした。しかし、ペテロもコルネリオもそのような慣習にとらわれず、また人の目を恐れずに、ためらわず聖霊に聞き従ったのです。ここでペテロは神の御心そして、神の救いの御業は異邦人にまで及んでいるということを発見しました。ペテロはコルネリオとあって、神は偏ったことをなさらないということに気付いたのです。イスラエルには、二つの湖があります。それらは神のメッセージを伝えています。ガリラヤ湖と死海です。ガリラヤ湖は豊かな緑に囲まれていて、湖にはたくさんの魚が取れます。しかし、死海は名前の通り死の海です。生物は濃厚な塩分のために住むことができません。また、死海の周囲には緑が全くなく砂漠となっています。死海にはヨルダン川から水が流入しています。しかし、死海から流出している川はありません。一方、ガリラヤ湖では、周囲の山々から多くの川が流入しています。そして、ガリラヤ湖もヨルダン川へ流出しているのです。ここに一つの教訓があります。死海は恵みを受けているが、その恵みを他に流さない人の生き方を示しています。ガリラヤ湖は恵みを受けて、それを他の人々へ流していく人の生き方です。コルネリオもペテロも共通点は、自分に与えられた賜物や才能を隣人のために用いていたということです。私たちクリスチャンも神の恵み、祝福を受けた者たちです。それは一方的な憐れみであったことを覚えます。しかし、それを他の人の祝福のために用いていくのです。

信じれば誰でも罪の赦しを受ける:

「イエス・キリストによって平和がもたらされる」。イエス・キリストが神と私たち人間の間に立ち、神との和解を成し遂げて下さったのです。イエス様は人と神の仲介者です。私たちのためにいつも神にとりなしていてくださるのです。そして「イエス・キリストはすべての人の主です」とあります。聖書が主張していることは、信者、未信者にかかわりなく、イエス・キリストは全人類の主であるということです。私たち一人ひとりは受け継いだ復活の証人なのです。これが神の方法です。神は長い年月をかけて、私たち一人ひとりを用いて福音を拡大させておられます。「その名によって罪の赦しが受けられる」とあります。最後に最も重要なことがのべられています。聖書にこう書かれています。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られたということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」(Ⅰテモテ1:15)イエスさまは私たちの罪を赦すために来られた。道徳教育のために来られたのではありません。人間の正しい生き方を教えるためにではありません。私たちに模範の人生を示すためにでもありません。また、自分で悟りを得るために来られたのではありません。自ら私たちの罪を背負って、身代わりとなって死ぬために来られたのです。私たちの罪を取り除くために来られたのです。ただ、十字架にかかり、身代わりとなって私たちの罪を赦すためにです。罪の赦しがそんなに重要なのでしょうか。なぜなら、罪の赦しがなければ、私たちは誰も救われません。罪と死の中に依然閉じ込められているのです。自分の罪のために滅びるばかりなのです。他の宗教はこの罪の問題を正面切って取り扱っていません。人間の最大の問題はこの罪の問題です。人間のどんな力や努力でも取り除くことができない。神がご自身の命を捨てなければならなかった。そうしなければ、罪を人間から取り除くことができないのです。福音の中心は罪の赦しです。キリストの十字架から罪の赦しが流れ出て、今は、全世界に及んでいます。世界中のどんな人もこの罪の赦しを受けることができます。それは、空の両手を上げて、神から受けるだけでいいのです。

宣教拡大のきっかけ

2018年07月 01日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き7章45~8書3節
7:45 私たちの父祖たちは、この幕屋を次々に受け継いで、神が彼らの前から異邦人を追い払い、その領土を取らせてくださったときには、ヨシュアとともにそれを運び入れ、ついにダビデの時代となりました。
7:46 ダビデは神の前に恵みをいただき、ヤコブの神のために御住まいを得たいと願い求めました。
7:47 けれども、神のために家を建てたのはソロモンでした。
7:48 しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。
7:49 『主は言われる。天はわたしの王座、地はわたしの足の足台である。あなたがたは、どのような家をわたしのために建てようとするのか。わたしの休む所とは、どこか。
7:50 わたしの手が、これらのものをみな、造ったのではないか。』
7:51 かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。
7:52 あなたがたの父祖たちが迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。
7:53 あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」
7:54 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。
7:55 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、
7:56 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」
7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。
7:58 そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。
7:59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
7:60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。
8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。
8:2 敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。
8:3 サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。

<要約>

宣教の主役は聖霊:

聖霊は目には見えませんが、そのお方は光のように人々に臨み、真理を明らかにするのです。そのお方があなたに臨むとき、あなたの心の罪を明らかに示します。ちょうど、朝、窓のカーテンを引くと朝日が差し込み、部屋の中の埃が目に入るのと似ています。そして、あなたは、部屋の空気が汚いのに気付き息苦しさを覚えて、外の新鮮な空気を入れようとします。そして、窓を開けるとすがすがしい風が入ってきます。同様に、聖霊があなたの心を照らすとき、あなたは自身の罪を見せられて痛みを覚えます。息苦しさを覚えて、心の窓を開いて聖い聖霊を心に迎えるのです。そして、あなたの心の罪を取り除いていただくのです。ですから、聖霊は光のようであると言いましたが、同時に風のようです。また、水のようです。イエス・キリストを信じた者は、教会で洗礼を受けます。その時用いるのが水です。水は汚れを洗い流す力があります。洗礼によりあなたの罪がすべて洗われるのです。清めます。そして、聖霊があなたの中に入り、あなたに真のいのちを与えます。今の時代は、どういう時代でしょうか。2000年前にイエス・キリストは天に昇られました。その後聖霊が下りました。そして、全世界にキリストの十字架と復活が述べ伝えられてきました。やがて、キリストの再臨の時を迎えます。現代は、その少し前の時代と言えます。なぜなら、聖書に、福音がすべての国民に宣べ伝えられてから、終りが来るとあるからです。福音はほとんどの国民に伝えられており、キリストの再臨は近づいていると言えます。

今日は、イエス・キリストの最初の殉教者であるステパノについての記事です。神は、人類を祝福するために、最初に、アブラハムを選ばれました。そして、アブラハムへの祝福はその子孫であるイスラエル民族に及びました。そして、イスラエル民族を通してすべての国民に祝福を届けようとされました。その祝福の神は救い主でありました。ユダヤ民族だけにとどまらず全人類を罪と死と滅びから救う救い主であったのです。神がユダヤ民族を選びあわれみ愛したのにかかわらず、真の神から心が離れて偶像に心惹かれ偶像礼拝の罪に陥りました。その度に神は預言者を送り、神のみことばを伝えて、民を立ち返らせようとしました。しかし、民は預言者を迫害し殺してしまいました。神は、そのようなイスラエルのために救い主を送るという約束をたびたび送っていました。しかし、ますますかたくなになり、ついには、神のひとり子キリストを十字架につけて殺しまったのです。ステパノはそれを指摘して、民が聖霊に逆らう生き方をしているのだと、糾弾しました。旧約の時代から聖霊は働いています。聖霊は、光のように、風のように、そして水のようにどこにでも偏在し、歴史を導いてこられていると言えます。

キリスト信仰へと導く聖霊:

ステパノの説教は、神殿に話が及びます。神殿はソロモンが神のみ住まいとして建てたものです。神は天地万物の創り主であり、人のつくった建物にはお住みにならないことを告げられました。すなわち、神殿という建物には神の本体はなく神のみ住まいの模型であったのです。しかし、当時、神殿は見える形での神の臨在の場所でした。神殿を通して人は神に近づくことができました。すなわち、神殿はやがて来られる救い主キリストの影であって、本体はキリストであることを示されたのです。神殿では、民の罪を贖うために、傷のない小羊などの動物がいけにえとして捧げられていました。これは、来るべきキリストのひな型でした。キリストは神の犠牲の子羊として世に来られたからです。罪のない神が人となってこられました。罪のない神のひとり子キリストが、あなたや私、いや全人類の罪を背負って、十字架にかかり死んでくださいました。その事により、すべての罪をぬぐい取ってくださったのです。すべての人は、自らの罪のために死んで滅ぶべきものとなっていました。その人間を死と滅びからキリストがご自身の血をもって買い取ってくださったのです。ユダヤ民族には、神殿こそ神の臨在の中心でした。ユダヤ民族にとって神殿を信仰の中心として、民は毎年お参りに来ていました。しかし、そのような信仰の中心である神殿は、実際のところは、イエス様が指摘されたように強盗の巣となっていたのです。そこでは、宗教指導者たちは犠牲の動物を販売して、商売にしていました。彼らは外面を繕い、内実のない見せかけの信仰だったのです。そこで、イエス様は、神殿でユダヤ人たちを前に言いました。(ヨハ 2:19)「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」それは、ご自身の身体の神殿のことを言っておられたのです。イエス様が十字架で殺され、三日目に復活されることを暗示されたのです。そのイエス様の発言が神への冒涜として、裁判で死刑を言い渡されました。イエス様のことば通りに、その後、神殿礼拝は破棄されました。現代は、イエス・キリストが真の神殿となり、礼拝者たちは霊と真をもって、世界中のどこででも礼拝を守ることができるのです。私たちは彼らを反面教師として学ぶ必要があります。私たち信者は、外面をつくろい、内実のない信仰生活をしていないでしょうか。神を愛し、恐れ、信頼する生き方をしているでしょうか。神を愛しているのなら、神に喜ばれることを模索して実行しようとします。また、神を恐れているのならば、神が嫌われること、罪から離れます。さらに、神に信頼いているのならば、目に映る様々なことがらに対しても疑いまどうことなく、神はすべてを働かせて益としてくださることを信じ続けます。聖霊は聖書のみことばを用いて働かれ、私たちをキリストの救いへと導いてくださいます。聖霊に心を開くことが大切です。

迫害と殉教で宣教が拡大:

そのステパノの批判に対して、ユダヤ人たちは、「はらわたが煮えかえる思いで」怒り、ステパノを町の外へ連れ出して、そこで石打の刑にして殺しました。最初の殉教者ステパノ、彼は名もない一人の男でした。しかし、彼は聖霊に満たされて、堂々と自分の信仰の証をしました。イスラエルの歴史を振り返りながら、その歴史が神に対する不信仰と反逆の歴史であったことを説きます。人々は、聞く耳を持たないばかりか、強い怒りに満たされて耳を覆いステパノに対する殺意をあらわにいたします。これを機に激しい迫害の嵐が、エルサレムの教会から当時のローマ帝国、そして、歴史を通して全世界に広がりました。神の摂理と思いますが、迫害によって宣教が拡大しました。日本でも1,600年ころから、安土桃山時代、江戸時代には各地で迫害が起こり、多くの信者が殉教しました。おおよそ250年間の迫害と殉教の歴史があります。キリスト教の歴史、それは迫害と殉教の歴史ということができるかもしれません。迫害はなぜ起こるのでしょうか。それは信仰があるからです。信仰を捨てれば、迫害はやむのです。江戸時代は、何とかクリスチャンに信仰を捨てさせようと拷問や誘惑で巧みに信仰を捨てさせようとしました。ある人びとは信仰を捨て、迫害から解放されました。しかし、多くのクリスチャンは死の向こうにあるもの、永遠の命、天国を待ち望んで、すなわち、信仰によって迫害に耐えていったのです。8章に入ると、激しい迫害によって、多くのクリスチャンがエルサレムを後にローマ世界に散っていきました。道々、イエス・キリストを宣べ伝えたのです。すなわち、福音宣教が拡大したのです。この処刑の場所にパウロという青年が登場しています。彼は、やがて、異邦人伝道に遣わされ、この新約聖書の半分以上も表すものとなったのです。そして、やがては自分が迫害した、キリストのために迫害を受け殉教したのです。ステパノの殉教によってパウロは聖霊に捕らえられました。このあと、パウロが劇的な改心をし、最大の宣教者となったのです。神はキリストの十字架と復活によって、私たち罪と死と滅びから救ってくださいました。そしてこの救いの福音は、このようにして、全世界に及んで、今日私たちのところにも届けられました。聖書の預言はことごとく成就しています。今日、あなたにも聖霊は語りかけています。悔い改めて、イエス・キリストを信じて救われなさいと。