2018年05月 27日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>詩篇119篇105~112節
119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。
119:106 私は誓い、そして果たしてきました。あなたの義のさばきを守ることを。
119:107 私はひどく悩んでいます。【主】よ。みことばのとおりに私を生かしてください。
119:108 どうか、私の口の進んでささげるささげ物を受け入れてください。【主】よ。あなたのさばきを私に教えてください。
119:109 私は、いつもいのちがけでいなければなりません。しかし私は、あなたのみおしえを忘れません。
119:110 悪者は私に対してわなを設けました。しかし私は、あなたの戒めから迷い出ませんでした。
119:111 私は、あなたのさとしを永遠のゆずりとして受け継ぎました。これこそ、私の心の喜びです。
119:112 私は、あなたのおきてを行うことに、心を傾けます。いつまでも、終わりまでも。
<要約>
みことばは人生のガイド:
「聖書のことばは、私の足元にある懐中電灯で、それは私がどこへ進んでいったらよいか、その道を照らし明らかにしてくれる。」と言うのです。人間が定めた法律は時代で変わります。しかし、聖書のみことばは変わることはありません。神が古今東西、全人類にお与えくださったものだからです。小教理に、聖書を正しく理解するための鍵は、律法と福音を区別することです、と書いています。聖書には、律法と福音という二つの内容が書かれています。律法は神のあなたに対する要求です。福音は、神の要求にそぐわないあなたでも神はご自身の命を捨てるほどに愛しておられることです。聖書のことばに則って生きれば必ず、幸せになれます。素晴らしい祝福の人生を送ることができるのです。つまり聖書のことばは幸せな人生のガイドラインです。聖書を読むと聖書の中には、神の二つのお姿が表れます。一つは、「神は焼き尽くす火」と言われるように、厳しい怒りのお姿です。人の罪を決してゆるさない、罪に対しては必ず報酬を与える厳しい裁判官のようです。もう一つは、やさしい、やさしいお姿です。あなたをそして私を大切に思うお姿です。神の目にはあなたは高価で貴い、どんな罪もお赦しになる、やさしいお姿です。それはイエス様にみられるお姿です。あなたのために十字架にお掛りになることも厭わないお姿です。それは神の愛です。子どもを幸せに育てるためには、人間の親もやさしいばかりではいけません。子どものほしいものは何でも与えるような親であれば、子どもは不幸に育つでしょう。逆に厳しさばかりでは、子どもは委縮してしまうでしょう。人の親にも優しさと厳しさが必要です。神もそれと似ていますが、人間の親と神とを比べることはできません。神は義の神です。正義の神です。少しの罪も見逃すことはできません。必ず裁くと言います。また、同時に愛の神です。いざという時に、自分の子どもを見捨てるような人間の愛ではありません。神の愛は一点の曇りもない完全な愛です。私たちはそのことを正しく認識しなければなりません。聖書のみことばに生きれば必ず幸せになると言いましたが、何も戦いも試練もない平穏な人生があるとは言っていません。闇の世は依然として私たちを取り囲んでいるのです。この詩編の記者は実際には、悩み、苦しみ、そして、周りからの策略や攻撃があったようです。しかし、わなから守られて、迷わずに生きることができると告白しています。これは信じる者に対する神の守りと言えます。この記者は自分は、戒めから迷い出なかったと言っています。実際は、聖霊がみことばを用いて悪しき者からあなたを守ってくださるのです。それはキリストを信じる者に対する神の約束です。ヨハネ福音書には、「神は決してあなたを捨てて孤児にしません」と書いています。詩篇には、「あなたを狩人のわなから疫病から救い出してくださる」と書いています。神の国の民、すなわち信者は聖霊とみことばによって守られていると言えます。また、神は人を救おうと神の国を拡大なさっています。ご自身の国の民であるあなたを用いて救いを全世界に届けようとしておられます。あなたにはその使命があることを認識しましょう。
みことばは永遠のプレゼント:
記者は、「あなたのさとしを永遠のゆずりとして受け継ぎました」と言います。永遠のゆずりと言うのは、神からの永遠のプレゼントと言えます。神の無償のプレゼントは、キリストの十字架の贖いによる罪の赦しと永遠のいのちです。神のあわれみにより与えられた永遠のいのち、それは永遠の祝福に生きる人生です。私たちはこの世のいのちばかり意識しているかもしれませんが、神から与えられたいのちは永遠です。この世のいのちであれば80年でしょう。この世のいのちしかないと思っている人は、80年90年を視野に人生設計をします。でも、永遠のいのちを持っているクリスチャンは、永遠をベースとして人生設計をします。そして、永遠を視野において今を生きるのです。ユダヤ人哲学者のマルチンブーバーは言いました。「人は新しいことに挑戦している限り老いることはない。」すなわち、挑戦する人の霊は年を取ることはない、と言うことです。また、もし信仰のチャレンジを続けるなら、信仰は年齢とともに強まることはあっても老いることはありません。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」と聖書にある通りです。私たちの身体は日々衰えてきます。しかし、霊はますます成長していくのです。私は、2010年に牧師の召しはなかったのですが、聖書を学びたいと思いました。それは60歳からの挑戦でした。2010年3月、JTJ宣教神学校の神学部牧師志願科に入学できました。JTJには、牧師としての召命がなくても、その願いがあれば学ぶことができる牧師志願科というコースがあります。学びを続けているうちにいろいろなチャレンジを受けましたが、みことばが与えられました。献身者の召しをいただきました。2015年5月に牧師按手を受けました。昨年、百歳を超えて活躍し天に召された聖路加病院の日野原先生は「生涯現役」という言葉を残されました。私も、このことば「生涯現役」で行こうと思っています。神がストップをおかけになるまで信仰のチャレンジをしていくつもりです。クリスチャンライフは結果オーライの人生、と言えます。この世の歩においては、依然やみが覆っていても、その道は神の栄光を拝する道です。ゴールが定まっています。あなたがこの恵みにとどまり続けるなら、栄光のゴールが待っています。それは、勝利のゴールです。イエス・キリストがあらかじめ勝利してくださったからです。永遠の祝福に与れることが約束されています。そうであれば、永遠を視野に人生設計をしましょう。
みことばは永遠の心の喜び:
「私は、あなたのさとしを永遠のゆずりとして受け継ぎました。これこそ、私の心の喜びです。」と言っています。みことばに生きる人生、すなわち、聖書を指針として、人生を設計して、生きる人生には、いつまでも続く心の喜びがあるというのです。決してしぼまない心の喜びです。それは魂の根底にある喜びと言えます。喜びあるいは喜ぶという言葉は、全聖書の中で655か所にあります。喜びはクリスチャンの特徴と言えます。Ⅰテサロニケ5:16~18には、次のことばがあります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」これは、クリスチャンは喜びの源泉を持っているから、いつも喜ぶことができるからです。決して奪い去られることのない、決して揺るがない喜びの源は何でしょうか。それは、神からの永遠のプレゼントである永遠のいのちがあるということ、そして罪赦されて心の傷が癒されている状態であることです。私は、いつも喜んでいられるのは心に傷のない状態であると思います。心の痛みがあっては喜ぶことはできません。かつて、小学生の娘さんがいじめによって自殺してしまった、その母親がその子の手記に「心も血を流すの」と書いてあったと言いました。身体の傷と同じように心の傷からも血が流れるというのです。ある人のことばで、心に傷を受けて、それが癒されるのに数年間かかった、と言っていました。傷が癒されて、心の喜びがわいてくるのです。心の傷はどうしたら癒されるのでしょうか。イザヤ書には、「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」と書いています。それは言うまでもなく、イエス・キリストがあなたの罪のために十字架で血を流されました。その傷によって、あなたの傷が癒された、と宣言しているのです。神はあなたを傷のない非難されることのないものとしてくださいます。キリストは真の癒し主です。もし、あなたに心の傷があるならばキリストに行きましょう。そして、喜びで満ちる人生を歩んでいただきたいと願います。