2017年12月 3日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>イザヤ書9章1~7節
9:1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。
9:2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。
9:3 あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。
9:4 あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。
9:5 戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。
9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。
<要約>
救いと祝福の約束:
創世記12章で、神はアブラハムに言われました。「あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福する。地上のすべての民族はあなたによって祝福される」と。また、神の約束は、アブラハムに「あなたの子孫たち」にと言わないで、「あなたの子孫に」と言って、単数形で語られてきました。それは、遠い将来において現れる、アブラハムの子孫、救い主キリストを指していたのです。神は、キリストによって、全世界に祝福をもたらしてくださいました。この祝福の根拠が、救い主イエス・キリストと呼ばれているように、キリストの救いです。イエス・キリストの救いが祝福をもたらしていると言えます。救いという言葉を使う時には、~からの救いと言います。例えば、貧困からの救い、病からの救い、悪政からの救い、災害からの救い、などです。しかし、神が与えてくださる救いは、もっと根元的な救いと言えます。それは、罪と死と悪魔からの救いです。罪は、原語では、「的外れ」という意味です。本来神から創造されたときのあるべき姿から外れているということです。では、本来人間のあるべき姿とは何かは、十戒に示されています。十戒の範囲は、心と言葉と行いに及びます。表面的には十戒を守って行動していても心を見られる神は満足しません。そして、すべての人は罪を犯していると聖書は指摘しています。さらに罪からくる報酬は死です、とある通り、罪によって全人類に死が入ったのです。すなわち、人は、本来あるべき人の姿から大いに外れてしまった、神から遠く離れてしまったと言えます。罪により神の支配である光の中から、悪魔の支配であるやみに入ってしまったのです。救い主イエスがもたらした救いは、罪の呪いからの救いです。つまり死と滅びからの救いです。同時に悪魔の支配からの解放です。すなわちやみから光の中へ移されることです。神は、人を救い、祝福にあずからせようと思われました。現代、イエス・キリストの救いと祝福は全世界に届けられています。神はあなたを悪魔の支配から取り戻し、罪と死の呪いから解放しようと招いておられます。
神から遠ざかる人間:
イザヤ書はBC700年ころの著書です。その著者はイザヤです。イザヤはBC742年ころに神から召命を受けて、約50年間預言活動をしました。ソロモンの死後、イスラエル王国は北と南に分裂しました。それからしばらくして、北王国は、北方の大国アッシリヤによって、BC721年に滅亡させられてしまいました。アッシリア帝国は非常に残忍で、捕虜の目をつぶして、国へ引いていったようです。それゆえ、当時はアッシリア帝国の侵略の手が、南王国にも忍び寄り、国中が恐怖と不安で押しつぶされそうになっていました。その中で、イザヤは南王国の王と人民に神のメッセージを伝えました。それは、罪からの悔い改めを迫りつつ、同時に恐怖や不安にいる人々に慰めを語り、神の約束を伝えました。北王国イスラエルが滅亡した理由については、偶像礼拝による背信の罪です。神から離れた民は悪魔の支配下に移り、当然呪いを受ける羽目になったのです。それに対して、神のみ思いはどうだったでしょうか。「わたしは誰が死ぬのも喜ばない。だから、イスラエルの家よ。悔い改めて生きよ」と神は命じているのです。しかし、神のその様な御思いに対しても彼らは、反省することなく主に反逆して、自らが自滅に向かったのです。ここから見えることは、神の約束は変わらない、しかし、人が、真の神から心が離れて、その約束を投げ捨てるために、自ら悪魔のとりこにされるということです。神は見捨てることをしません。人が神を見捨てて自ら離れていくのです。現代の私たちにも同じメッセージが届けられています。神がおられることは、被造物によって知られており、明らかです。しかし、造り主なる神を認めない人間の姿があります。その代わり、神でないものを神として祭ったり、拝んだり、礼拝したりしています。そこに、造り主なる神を認めようとしない、人間の深い罪があります。
救い主をお与えくださる神:
神はご自身の全存在をかけて、そのような人間に近づいてくださいました。救いの道を準備してくださったのです。それがクリスマスです。あなたが、神に帰るのを待っておられるのです。アッシリアの侵略によって、北王国は暗黒と苦悩の中に落とされました。その現実がある中で、イザヤは、神の救い、福音を語ります。「苦しみのあったところに、闇がなくなる。」と書いています。今は、依然苦しみとやみの中にいるが、それがなくなるときが来るとイザヤは預言します。「先に、ゼブルンの地とナフタリの地は、辱めを受けたが、」とあります。アッシリアはガリラヤ地方を征服したのちに、一部の人々を他国に連れ去り、逆に他国人をそこに移住させました。それは、神の民と自負していた彼らには屈辱でした。それが、「辱めを受けたが」という内容です。しかし、のちには「海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受けた」と完了形で書いています。もうすでに起こったかのように異邦人のガリラヤは栄光を受けたというのです。これは、このあと約700年後に救い主キリストの来臨によってガリラヤが神の栄光を受けたことの預言です。「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」と述べています。光として来てくださる救い主を示しています。死の影に住んでいる者、暗黒の死の影に座る者、これは、死と滅びに定められている人々への救いです。南王国ユダの人民は、襲い来るアッシリアを前になすすべもなく、恐怖におののきながらそこに住んでいる有様は、まさに、「死の影の地に住んでいた民」といえます。現代社会においても、世界を見ると、貧困や戦争で、死の陰の地に住んでいると言える人々が大勢います。主が、イスラエルの民を虐げる国々から解放する時、それは、人の力によらない、神のみわざであることを知らしめるためでした。行動されたのは主であることを示したのです。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」すなわち、この四つの身分はどれも神の身分であると言えます。これは、はっきりやがて来られるメシヤ、キリストを指していると言えます。これは、イスラエルの民にかかわる救いばかりではなく、約700年後、全人類に救い主が与えられることの預言です。ちょうど、私たちが外に出て、山々を見るときに、すぐ近くに見える山とさらに遠くに薄く見える山々があります。一つの景色の中に、近くのことと遠くのことが重なって見えるのと同じように、聖書の預言も、近々に起こることとはるか後に起こることが重なって語られているのです。この預言は、現代に生きる人々にも語られています。「死の陰に住んでいたものたち」それは、悪魔にとらえられて真の神を失っている人々への救いです。そして、やがて、救い主が再び来られて神の民は永遠の御国へと引き上げられる時にすべての預言は成就します。このことは万軍の主である神の熱心によって成し遂げられたのです。神が人を罪と死と悪魔から救おうとされているその熱心は、さめることもしぼむこともありません。神が無条件でお与えくださった救いを信仰によっていただくものとされた私たちは、神の熱心とご愛に感動して、これからは主のために人生を用いていただきたいと思います。