信仰と行い

2017年11月 12日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ローマ人への手紙4:18~25、エペソ人への手紙2:8~10
4:18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。
4:19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
4:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
4:22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
4:23 しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、
4:24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
4:25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
2:10 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

<要約>

信仰による義:

アブラハムは「からだは死んだも同然」で、「サラの胎も死んでいた」にもかかわらず、その信仰は弱まりませんでした。「彼は不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを固く信じました。」アブラハムはイサクをモリヤの山でいけにえとしてささげたとき、「イサクの復活」を信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたと書いています。それが、信仰義認です。行いではありません。信じる者は、神の前で義と認められるのです。すなわち、神の前で、罪なしと判定されます。アブラハムが死人を生かす神を信じて義とされたように、私たちもイエス様を死者の中からよみがえらせた方を信じることで義と認められるのです。義は、人として正しいことではなく、神の目から見て正しいという意味です。人が見て正しい人は、いくらでも周りにいます。しかし、神の目から見て正しい人は誰もいないと聖書は言います。すなわち、罪のない人は一人もいない、というのが聖書の主張です。でも、罪のない神のひとり子であるイエス・キリストが全人類の罪を一手に背負って身代わりとなって十字架で死んでくださったことにより、信じる者は価なしに義、罪無しと認められるのです。アブラハムは、やがて来られる救い主キリストをはるかに仰いでいたのです。そうしてアブラハムは、後に次ぐ人々が、キリストの贖いと復活を信じる信仰により救われることの先駆けとなったのです。私たち信者は、律法である十戒を守ることによっては救われず、信仰によって救われました。また、人は律法の行いによってはひとりも義と認められない、とあります。律法の中心は十戒です。ですから、十戒を行おうとすると、できないことが分かって反って、自分の罪を指摘されます。では、人間が守ることができない十戒は努力目標なのでしょうか。「どうせ十戒は守れないから、罪を犯してもいいのだ、イエス様が赦してくださるから努力目標として日々精進すればよい」、のでしょうか。これは否です。十戒は努力目標ではありません。守れないあるいは守らない者は罪に定められます。神の怒りがその上にあります。しかし、幸いなことに、イエス様の十字架の贖いを信じて神の義をいただいたものは、神の怒りから救われています。すなわち、自分を救おうとすることから自由になっています。もともと、救いは私たちの内側にはなく、救いは外にあるといいました。神がすべて用意してくださった救いの道です。では、律法である十戒はどういう意味になるのでしょうか。クリスチャンには要らなくなるのでしょうか。そうではありません。自分を救うことから自由になったクリスチャンにとって、十戒は愛する神の御心なので、ますます、慕わしいものとなります。私の足の灯、私の道の光、さらに道しるべともなります。私たちが道に迷ったときに、行先を示すガイドラインともなるのです。

良い行いに召される:

救いは「行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」とあります。行いによるのであれば、できる人とできない人、行える人と行えない人がでるでしょう。そうすると、できる人、行える人は自分を誇ってできない人を見下すようになります。救いが、全く行いによるのでなく、自分たちから出たものでなければ、だれも誇ることはできないということです。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」とあります。神の作品という意味は、キリストによって再創造された、新しく造られたということです。古い自分が改善されてよくなったのではありません。古い自分が死んで新しく生まれ変わったのです。次に、「私たちが良い行いに歩むように、そのよい行いをも予め備えてくださったのです」と書いています。私たちが、神の作品とされた理由がここにあります。良い行いに歩むためです。そして、そのよい行いも予め備えられているというのです。ここで間違えていただきたくないのは、良い人と良い行いの関係です。良い行いが良い人を造るという考えがあります。それは間違いです。良い人が良い行いをするのです。良い実は良い木からとれるのと同じです。キリスト・イエスにあって義とされた新しい人は神の作品ですので、神の召しに従って、良い行いをするのです。信じて救われ、洗礼を受けた人は、すでに傷のない神の子どもです。なぜなら、罪赦され、永遠のいのちが与えられているからです。もう救われるために努力する必要のない人たちだからです。世の光として輝くことのみです。クリスチャンも悩みは当然あります。しかし、よく考えてください。救われているのです。すなわち、サタンの支配下ではなく、キリストの支配下に移されています。そして、罪赦されて永遠のいのちを与えられています。クリスチャンは、いのちについて悩まなくてよい、心配しなくてよい、天のみ国に帰るところが用意されている、最終的に神が責任取ってくださるからです。この世の中では、世の光として輝くだけです。クリスチャンは世の光です。また、マタイの福音書では、「地の塩」であるとも言われています。その自覚に立っていただきたいと思います。ですから、「私たちが良い行いに歩むように」というのは、クリスチャンとして、この世の中で、ベストを尽くすようにということです。隣人によりよく仕えるために自分を磨かなければなりません。自分に愛を課していくのです。怠慢はいけません。次に、「良い行いをも予め備えてくださった」というのは、神は私たちが隣人愛の実践をする場所を備えてくださっているということです。私たちはそれぞれ、複数の身分と立場を与えられています。ある方は母であったり、同時に職業婦人であったり、妻であったり、教会では役員であったりです。それは神がその人をそれぞれのところへ召していてくださるということです。私たちが召されている場所は、大きく分けると主に三つあります。教会、家庭、職場です。神が召してくださる領域に、重い軽いはありません。どの領域にも等しく召されているのです。ですから、職場を重んじて家庭をないがしろにしてはいけません。また、教会を重んじて職場をないがしろにしてはいけません。同様に教会を重んじて家庭をないがしろにすることもいけません。それぞれ逆も同じです。それぞれにクリスチャンとしてベストを尽くすことです。私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって神の前で義とされ、罪と死と悪魔から救われています。また、私たちはキリストにあって再創造された神の作品であって、神の備えてくださったところでよい行いに進むのです。それぞれ召されたところ、遣わされたところでベストを尽くすのです。それが、クリスチャンライフです。