2017年8月 6日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>エレミヤ書36章1~8,21~28節
36:1 ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの第四年に、【主】からエレミヤに次のようなみことばがあった。
36:2 「あなたは巻き物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書きしるせ。
36:3 ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪とを赦すことができる。」
36:4 それでエレミヤは、ネリヤの子バルクを呼んだ。バルクはエレミヤの口述に従って、彼に語られた【主】のことばを、ことごとく巻き物に書きしるした。
36:5 そしてエレミヤは、バルクに命じて言った。「私は閉じ込められていて、【主】の宮に行けない。
36:6 だから、あなたが行って、【主】の宮で、断食の日に、あなたが私の口述によって巻き物に書きしるした【主】のことばを、民の耳に読み聞かせ、また町々から来るユダ全体の耳にもそれを読み聞かせよ。
36:7 そうすれば、彼らは【主】の前に祈願をささげ、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。【主】がこの民に語られた怒りと憤りは大きいからである。」
36:8 そこでネリヤの子バルクは、すべて預言者エレミヤが命じたとおりに、【主】の宮で【主】のことばの巻き物を読んだ。
36:21 王はエフディに、その巻き物を取りに行かせたので、彼はそれを書記エリシャマの部屋から取って来た。エフディはそれを、王と王のかたわらに立つすべての首長たちに読んで聞かせた。
36:22 第九の月であったので、王は冬の家の座に着いていた。彼の前には暖炉の火が燃えていた。
36:23 エフディが三、四段を読むごとに、王は書記の小刀でそれを裂いては、暖炉の火に投げ入れ、ついに、暖炉の火で巻き物全部を焼き尽くした。
36:24 王も、彼のすべての家来たちも、これらのすべてのことばを聞きながら、恐れようともせず、衣を裂こうともしなかった。
36:25 エルナタンとデラヤとゲマルヤは、巻き物を焼かないように、王に願ったが、王は聞き入れなかった。
36:26 王は、王子エラフメエルと、アズリエルの子セラヤと、アブデエルの子シェレムヤに、書記バルクと預言者エレミヤを捕らえるよう命じたが、【主】はふたりを隠された。
36:27 王が、あの巻き物、バルクがエレミヤの口述で書きしるしたことばを焼いて後、エレミヤに次のような【主】のことばがあった。
36:28 「あなたは再びもう一つの巻き物を取り、ユダの王エホヤキムが焼いた先の巻き物にあった先のことばを残らず、それに書きしるせ。
<要約>
神のことばである聖書は不変不滅:
時代や背景が違う多くの人々によって書かれているにもかかわらず、聖書のテーマは一つに貫かれています。それは、「人類にもたらされた救い」です。旧約聖書の舞台は、神の造られた世界と人類です。そこで、人類に罪がはいりました。神は人類を救うためにユダヤ民族を選ばれました。ユダヤ民族を通して神の救いと祝福を全人類に届けようとしました。しかし、彼らはそのような神が与える使命に目覚めることなく、神を無視して、神から離れ思い思いの道を歩んでいきました。その間、神は幾たびも預言者を遣わして、神のことばを伝えました。エレミヤもその一人です。神の民への裁きの警告、そして、神の哀れみ、救いの計画など、様々な人々を通して語られたのです。そこに、聖書にははっきりした神のご意志とご計画が明示されています。聖書には一人の著者である神がおられることの証明です。新約聖書はユダヤ民族の中から全人類の救い主がお生まれになり、すべての民に救いと祝福を届ける準備ができたことを告げています。そして、この良き知らせが人々によって全世界に語り続けられるようになったのです。聖書は神の歴史、ヒズストーリー、神の人にかかわる歴史をつづったものであるといえます。神のご計画と人を救うために行われた神の行為が書き綴られています。聖霊がそれぞれの著者を動かして、彼らの個性や知性そして状況を用いて書かしめたので、人のことばでありますが、それ以上に神のことばです。これまでの歴史を通して、幾度となく聖書は消滅を免れてきました。危機にありましたが、神の御手が働いて守られたのです。歴史において、聖書を撲滅させようと幾多の試みがなされてきましたが、それとは反対に、現在では、聖書は世界で一番普及している書物になっています。このことを見ても、聖書は単に人間が作り出した書物ではありません。その真実性、確実性は歴史を通して貫かれています。神がご自身のいのちをかけて、人類を罪から救うという壮大なご計画とその成就を記した書物です。「天地は滅びます、しかし、私のことばは決して滅びません。」とイエス様が言われたように、聖書が消滅することは絶対にないのです。
神のことばを軽視する社会:
エレミヤは、最も暗い悲劇的な時代に生きた預言者です。その時代は、南ユダ王国がバビロンによって滅ぼされバビロンに捕え移されました。国家全体にわたり、人々はバアルなど土着の宗教に心を奪われていました。それに伴う性的な罪も深いものでした。不義や不法もはびこっていました。宗教家も不正の実をむさぼり、その場しのぎの偽りの預言をしました。そして、エレミヤは指摘します。「身分の低い者から高い者まで、みな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っている」と。エレミヤは、民を導く、王や指導者の罪ばかりでなく、特にも宗教指導者たちの罪を指摘します。現代においても同じです。国家の為政者、指導者は大きな責任を負わせられています。また、それ以上に、牧師の責任も大きいと思います。なぜなら、牧師はこの地上のことばかりでなく、あなたの人生の永遠についても神のことばを託されているからです。人々は耳に聞こえの良いことを求めます。しかし、牧師は聖書から神のメッセージを語らなければなりません。ですから、牧師は皆さんにとって耳の痛いことも語らなければなりません。「あなたは罪びとです」というのは勇気がいります。しかし、みことばを割り引いて語ってはなりません。心を見られる神は、すべての人の心のはかりごとを知っています。そして、人の思いはすべてにおいて悪に傾いていると指摘しています。最大の罪は、あなたを造りあなたにいのちを与えておられる神を認めないことです。その実態は、神より自分を上位に置いているのです。神を恐れないということです。ですから、わたしは毎週同じことを語っています。それは、覚醒と回心のすすめです。目を覚ましなさい、ということと回心、悔い改めてイエス様を救い主として信じなさいということです。神の民への怒りと憤りの預言は、神殿でエレミヤの預言を筆記したバルクによって読み上げられました。民や一部の首長たちはその内容を聞いて恐れたとあります。そして、彼らはそれを王に聞かせなければならないと考え、行動しました。それに対して、王や首長たち、王の家来たちはどうでしょうか。彼らは神の真意を理解することなく、反逆したのです。みことばの巻物をナイフで切って暖炉にくべたのです。エホヤキム王をはじめ首長たちや家来たちは、高慢になっていました。エレミヤを通して語られた神のことばを悔い改めて受け入れることがなかったのです。
悔い改めて立ち返るのを待つ神:
神は何を期待したのでしょうか。それは、回心です。あなたが神に立ち返ることです。神は、私たちの罪を指摘するのは、私たちを責め苦しめるためではありません。神の真意は、当時のイスラエルの民に対しても、現代の私たちに対しても同じです。聖書は私たちの罪を指摘します。それは、私たちが悔い改めて立ち返るためなのです。ひいては、神が私たちに喜びと希望を与えるためなのです。悔い改めて、イエス・キリストをあなたの救い主として信じることです。神は第一に、そのことをあなたに期待しているのです。あなたの罪に対する責めの一切をイエス様は身代わりとなって十字架で処理してくださいました。ですから、信じるだけでいいのです。何の功績もいりません。神は、絶望と思われる状況の中で、神の民に計画を立てておられたのです。「それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」と。この預言のことばは成就しました。ユダ王国はバビロニアに捕囚されて滅ぼされましたが、70年後バビロニアに代わって起きたペルシャによって、祖国帰還が許されるのです。神殿も再建されて、彼らは夢を見ているもののように喜びに満たされるのです。みことばは歴史において必ず成就します。また、このみことばは、信じて受け止める者たちにも成就します。信じる者に、神は揺るがされることのない平安と、決して失望に終わることのない希望を与えてくださるのです。