種が蒔かれた四つの地とは

2017年8月 27日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>
13:3 イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
13:4 蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
13:5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
13:6 しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
13:7 また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
13:8 別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
13:9 耳のある者は聞きなさい。」
13:10 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」
13:11 イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。
13:12 というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。
13:13 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。
13:14 こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。
13:15 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』
13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。
13:17 まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。
13:18 ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。
13:19 御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。
13:20 また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
13:21 しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
13:22 また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
13:23 ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」

<要約>

みことばは素直に心を開く人に届く:

イエス様は群衆にたとえで神の国の奥義を語られました。種まきのたとえです。イエス様は、耳のあるものは聞きなさいと進めています。すると弟子たちは、イエス様に尋ねます。「なぜ、彼らにたとえでお話になったのですか?」と。御国の奥義を聞きたいという求道心をもって真剣に聞く人には、いよいよ知識が豊かにされます。ところが、敵対している人あるいは無関心な人は聞いても悟らず、ますます、真理から遠ざけられるのです。もし、あなたが、求める気持ちと素直な心で聞くならば、もうすでに良い地なのです。自分の心は、道端、岩地、いばらの土地ではないように願うからです。みことばの種はすでにまかれています。また、常に届けられているのです。しかし、求める気持ちのない人、素直な心になれない人には何の意味もないのです。

今、届けられている救い:

「あなた方の目は見ているから幸いです。あなた方の耳は聞いているから幸いです」と。イエス様の言わんとすることは以下のようです。「旧約聖書に語り継がれてきた救い主を今、目の前で、あなた方は見て、その声を聞いているから幸いです。それはわたしだからです。」今、復活のイエス様は目には見えませんが、ここにおられます。そして、あなたを招いています。「わたしはイエス・キリストです。あなたが見ようとすれば見えます。聞こうとすれば聞こえます。感じようとすれば感じるのです」と。福音は届けられています。イエス・キリストの救いはすべての人に提供されています。しかし、それをあなたが、信じるという信仰によって受け止めなければ、イエス・キリストを知ることにはなりません。イエス・キリストによる救いは、神がすべて用意してくださったことです。私たちはただ、それを受け取ればよいのです。受け取るためには両方の手を開いて差し出さなければなりません。心を向けてキリストをお迎えするのです。キリストに耳を傾けなければなりません。

実を豊かに実らせる秘訣:

この四種類の土地は、だれにでもある心の在り方です。それに伴う生き方を示しています。求める気持ちのある人は、良い地でありたいと思うのです。そして、他の三つの生き方をするまいと思うのです。ですから、これは、読者であるあなたの生き方に対する問いと言えます。また、このたとえは、あくまでも心の在り方についての話であって、行いについての話ではありません。何をするかのドゥーイングではなく、どうあるべきかのビーイングです。イエス様は良い心の在り方の前に他の三つの心の在り方について警告を発しています。それは、人の心に蒔かれた福音の種が定着し実らせることを妨げる三つの障害、あるいは三つの敵であるということです。第一のものは、「その人の心に蒔かれたものを奪い取っていく悪い者です。」つまり、悪魔、サタンです。第二の敵は、岩地です。これは人の内側にある敵です。岩地は私たち人間が生まれながら持っている悪に傾く性質と言えます。

第三の敵は、いばらの土地です。これはこの世です。この世の誘惑です。この世の価値に引っ張られて、世のことに心を使い、神の国と神の義を第一とすることができずに、世に妥協してしまいます。聖書は運命論ではありません。読者に、この四番目の土地であることを勧めています。私たちが、素直に読めば、百倍、六十倍、三十倍の実を実らす人になりたいと思うのは当然でないでしょうか。福音の種は蒔かれています。イエス・キリストの十字架による罪の赦しと永遠のいのちの救いが、あなたの心に届けられています。この種まきのたとえを通して、イエス様は何を読者に求めておられるのでしょうか。あなたが良い農夫となり、あなたの心の土地を管理しなさいと言われているようです。種がまかれて、芽が出て実を実らせるのに必要なのは、水と太陽です。それらは神が与えてくださることです。良い農夫がすることは、土地をよい土地に保つことです。鳥を追い払わなければなりません。石ころを取り除かなければなりません。いばらや雑草を取り除くことです。それは継続的に続けなければなりません。そうすれば、百倍、六十倍、三十倍の実を実らすことができると約束しているのです。神が実らせてくださるというのです。イエス様は、今日も、あなたの人生に百倍、六十倍、三十倍の実を実らせてあげよう、と皆さんをここに招いてくださいました。どうか良い地となって、みことばの福音をいただいてください。素直な心受け入れる心、何の努力も功績もいりません。主は、あなたに豊かな実を実らせ、永遠のいのちを与えてくださいます。

水路のそばに植わった木

2017年8月 20日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>詩篇1篇1~6節
1:1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
1:2 まことに、その人は【主】のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
1:4 悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。
1:5 それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。
1:6 まことに、【主】は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。

<要約>

聖書は幸福と希望を与える書:

1篇は詩篇の序論ともいえます。それは、正しい人とは?幸いな人生とは?何かです。聖書は神が人に当てたラブレターであると前に話したことがあります。神は読者であるあなたに「わたしの目にはあなたは高価で貴い存在である。私はあなたを愛している。」と語っています。また、「幸福な人生を送ってもらいたい、だから、聖書の教えに耳を傾けて生きなさい」と勧めています。私は、聖書を読み込んでいる人で、落胆と失望の人生を歩んでいる人を見たことがありません。聖書を読み親しんでいる人は、外目はどんなに悲惨に見える状況でも希望と感謝をもっているのです。ですから、聖書は幸福と希望を与える書であるといったのです。

正しい人と悪しき人の違い:

幸いな人は、何をしても繁栄する、と断言しています。それは、水路のそばで水と養分を十分に得ている木のようであるからだ、というのです。ここで注目していただきたいのは、聖書の言う正しい人は、神との関係において正しい人間だという意味です。その人は主の教えを喜びとして昼も夜もその教えを口ずさんでいる人だというのです。主の教え、それは狭義では律法ですが、この場合、聖書のみことばであるといってもよいでしょう。「罪」と「人」と書いて、聖書では「つみびと」と読みます。これを罪人(ざいにん)と呼んだ人がいます。ざいにんは犯罪者で、悪者と一緒で、特別な人たちを指します。しかし、罪人(つみびと)というのは、聖書によるとすべての人を指します。すべての人は罪びとであると聖書は指摘します。悪者、罪人について、これは、神との関係が壊れている人のことで、それは、風が吹き飛ばすもみがらのようだと表現しています。万物の創り主である神は、ご自身の栄光を表すためにすべてのものをおつくりになりました。そして、最後に人を造られたのです。人に自然界を管理させました。すべては完全でよいものでした。人は神の似姿であり、人の良心には神の基準が書きしるされていました。神と人の関係は愛と信頼の交わりで、完全な関係でした。しかし、最初の人アダムが神の戒めを破り、自分を神の上に置いたのです。それ以来人には罪が入り、神との愛と信頼の関係は全く失われました。人の良心は曇ってしまい、曇った鏡のように、正しいこと悪いことを映し判別することができなくなりました。ですから、人は、最初は悪いと思って良心が疼いてもいても、いつの間にか慣れてしまって、なんとも思わなくなってしまうのです。堕落した人間の良心とはそういったものです。

水路に移植され実を結ぶ幸いな人:

それでは、神との関係が失われてしまった人間に、どのような回復の道が与えられたのでしょうか。罪のために曇ってしまった私たちの良心に代わって、神はモーセを通して十戒を与えてくださいました。十戒は律法ですが、それには人はこうあるべきであるという神の基準が書かれています。ですから十戒を守ることができれば、幸せになるのです。「まことにその人は主の教えを喜びとし」とあるように、神との関係が正された人は、十戒を守ることを喜びとするのです。ここで注意していただきたいのは、正しい人が正しい行いをするのであって、正しい行いが正しい人をつくるのではないということです。神との関係が正されること、すなわち、神に立ち返って、神から正しいとされた人は、神の戒めを喜びとするのです。しかし、幸いな正しい人にされるためには、3節にあるように、水路のそばに植えかえられる必要があるのです。この水路というのは灌漑によってできた水路を意味します。それでは、「水路のそばに植えかえられた」というのはどういう霊的な意味があるのでしょうか。水路の水は、神のいのちのへ水です。私たちは神のいのちへの水をいただくために、植え替えられなければなりません。それにより、神のいのちとつながるのです。それは神の与える水、キリストが与える水です。それは聖霊ということができます。イスラエルの砂漠で育つ豊かな樹木のように、いのちの水がある土地に植え替えられることです。具体的には、自分の力により頼んで生きようとすることをやめて、神を信じ、キリストにつながり、聖霊のいのちをいただくのです。かくして、神のいのちとつながり正しい関係に入り、豊かな実りを見ることができるのです。人は自分の力で自分を清くすることはできません。難行苦行は一見良いように見えますが、かえって人を高慢にするのです。良い行いがよい人をつくるのではありません。良い行いをしてもよい人間にはなれません。良い人が良い行いをするのです。そのためには、思いを変えて、あなたを造りあなたを愛しておられる神を仰ぐことです。聖霊があなたのうちに住んでくださいます。あなたは変えられます。「すべては良くなります。あなたは、必ず幸せになります。」

復活は最も確かな希望

2017年8月 13日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>Ⅰコリント15章1~20節
15:1 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
15:2 また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
15:3 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
15:5 また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
15:7 その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。
15:8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。
15:9 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。
15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
15:11 そういうわけですから、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。
15:12 ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。
15:13 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。
15:14 そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
15:15 それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。
15:16 もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
15:18 そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。
15:19 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

<要約>

福音の最も大切な内容:

福音理解において最も大切なことは、最初に、イエス・キリストが聖書に示す通り、私たちの罪のために死なれたことです。すなわち、十字架です。イエス・キリストが私たちの罪の代わりに十字架で死なれたことです。そして、イエス・キリストは確かに墓に葬られたのです。それから復活して、ペテロに表れ、他の十二弟子に表れ、その後40日間地上で500人以上の兄弟たちに表れました。そして、イエス様は、オリーブ山で弟子たちやイエス様の家族の見ている前で、天に昇って行かれたのです。そして、復活の主は最後に教会の迫害者であるパウロに表れてくださったというのです。このことはまだ多くの証人たちが生きているので、動かされることのない事実なのだと念を押しています。イエス様の十字架の死は私の罪のためであったこと、身代わりの死であったこと、そして、復活は罪の赦しと永遠のいのちの確証なのです。これが福音です。そして、多くの人々がこの福音によって、人生が変えられて、迫害をも恐れないで、大胆に喜びと感謝をもって生きている、その様を彼らは見聞きすることができるからです。福音を理解する力は聖霊によってのみ与えられ、福音の理解は人間の知恵によっては深める事はできません。御霊は語りかけ真理に導き、イエス様の栄光を現し証しします。御霊はイエス様の心を受けてそれを知らせるのです。すなわち福音を理解する力を与えるのです。

福音の及ぼす力:

福音の及ぼす力とは何でしょうか。その力が、パウロに見事に表れたのです。かれは、教会とクリスチャンの大迫害者でした。ダマスコ途上で復活のキリストが現れて、彼の上に大逆転が起こりました。ダマスコ途上でイエス・キリストとお会いした時にまばゆい光によって目が見えなくなりました。そして、飲まず食わずの三日間にパウロの心の目が開かれたのです。ここに聖霊の大いなる働きがありました。その後、パウロはアラビアに引きこもって数年旧約聖書の預言を全部調べたのでしょう。パウロはそれまで、パリサイ派の指導者ガマリエルの弟子として、旧約聖書を知り尽くしていました。そして、その後に新約聖書のローマ書をはじめとして、13巻の書物を書いたのです。ここに聖霊がパウロに臨んで、福音を理解する力、殉教を恐れないで大胆に伝道する力を与えられました。パウロがキリスト教の教理を体系づけたといえます。そこで、この福音にある最大の希望は復活にあるといえます。

復活の信仰:

パウロは、キリストの復活とともに私たち信者の復活について述べています。もしキリストの復活がなければクリスチャンも復活する事はないでしょう。そして復活がなければ私たちの信仰はむなしいものとなります。実際、キリストの弟子たちも、キリストが十字架にかかって処刑されたときには、皆がっかりして一時は散り散りになってしまったのです。

最後は死んでしまって終わりか、と言うことです。もしそこまでのキリストであれば私たちのキリスト信仰は、実質がない、みのりがない、むなしいものであり、今なお私たちは罪の中にいることになります。キリストにあって死んだ者たちは滅んでしまったということです。しかし、復活があるならば、信仰には実質がある、確かな体験がある、答えがあるということです。それは罪からの解放であり永遠の命であります。私たちの人生はこの世だけで終わりません。それは、永遠に続く命と祝福に溢れた人生となるのです。そして、クリスチャンはこの世で最も希望のある存在者となるのです。今、日本では、お盆の時節です。そこでは、死者を覚えて、お墓参りやいろいろな行事があります。お盆休みということばも普通に使われています。ここに日本人の死生観をうかがうことができます。人は、死ぬことへの恐れがあると同時に、死は当然のこと自然なことであり、仕方のないことと考えているのです。仏教では、傷病労苦は人生にはつきものなので、どうにもならないことはあきらめることしかない。心身を悩ませる心を煩悩と言います。ですから、煩悩を払いあきらめに生きるのです。仏教の本質は、あきらめです。そして、日本人の多くはこの仏教思想に深く影響されています。しかし、そこには救いはありません。聖書は、人間の現状について、罪と死の問題を指摘しています。そして、罪と死と悪魔からの救いと復活の希望を与えます。仏教的思想に生きる日本人に復活の希望を伝えていかなければなりません。キリストの十字架と復活は、私たち人間のすべての罪を赦し、永遠の命与えるために神がなしてくださった歴史的事実なのです。それが、この「キリストによって全ての人が生かされる」ことの意味です。そして、キリストを信じて、復活のいのちを自分のものとしているものは、最も幸せな人生を送るものとなるのです。

平安と希望の約束

2017年8月 6日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>エレミヤ書36章1~8,21~28節
36:1 ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの第四年に、【主】からエレミヤに次のようなみことばがあった。
36:2 「あなたは巻き物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書きしるせ。
36:3 ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪とを赦すことができる。」
36:4 それでエレミヤは、ネリヤの子バルクを呼んだ。バルクはエレミヤの口述に従って、彼に語られた【主】のことばを、ことごとく巻き物に書きしるした。
36:5 そしてエレミヤは、バルクに命じて言った。「私は閉じ込められていて、【主】の宮に行けない。
36:6 だから、あなたが行って、【主】の宮で、断食の日に、あなたが私の口述によって巻き物に書きしるした【主】のことばを、民の耳に読み聞かせ、また町々から来るユダ全体の耳にもそれを読み聞かせよ。
36:7 そうすれば、彼らは【主】の前に祈願をささげ、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。【主】がこの民に語られた怒りと憤りは大きいからである。」
36:8 そこでネリヤの子バルクは、すべて預言者エレミヤが命じたとおりに、【主】の宮で【主】のことばの巻き物を読んだ。

36:21 王はエフディに、その巻き物を取りに行かせたので、彼はそれを書記エリシャマの部屋から取って来た。エフディはそれを、王と王のかたわらに立つすべての首長たちに読んで聞かせた。
36:22 第九の月であったので、王は冬の家の座に着いていた。彼の前には暖炉の火が燃えていた。
36:23 エフディが三、四段を読むごとに、王は書記の小刀でそれを裂いては、暖炉の火に投げ入れ、ついに、暖炉の火で巻き物全部を焼き尽くした。
36:24 王も、彼のすべての家来たちも、これらのすべてのことばを聞きながら、恐れようともせず、衣を裂こうともしなかった。
36:25 エルナタンとデラヤとゲマルヤは、巻き物を焼かないように、王に願ったが、王は聞き入れなかった。
36:26 王は、王子エラフメエルと、アズリエルの子セラヤと、アブデエルの子シェレムヤに、書記バルクと預言者エレミヤを捕らえるよう命じたが、【主】はふたりを隠された。
36:27 王が、あの巻き物、バルクがエレミヤの口述で書きしるしたことばを焼いて後、エレミヤに次のような【主】のことばがあった。
36:28 「あなたは再びもう一つの巻き物を取り、ユダの王エホヤキムが焼いた先の巻き物にあった先のことばを残らず、それに書きしるせ。

<要約>

神のことばである聖書は不変不滅:

時代や背景が違う多くの人々によって書かれているにもかかわらず、聖書のテーマは一つに貫かれています。それは、「人類にもたらされた救い」です。旧約聖書の舞台は、神の造られた世界と人類です。そこで、人類に罪がはいりました。神は人類を救うためにユダヤ民族を選ばれました。ユダヤ民族を通して神の救いと祝福を全人類に届けようとしました。しかし、彼らはそのような神が与える使命に目覚めることなく、神を無視して、神から離れ思い思いの道を歩んでいきました。その間、神は幾たびも預言者を遣わして、神のことばを伝えました。エレミヤもその一人です。神の民への裁きの警告、そして、神の哀れみ、救いの計画など、様々な人々を通して語られたのです。そこに、聖書にははっきりした神のご意志とご計画が明示されています。聖書には一人の著者である神がおられることの証明です。新約聖書はユダヤ民族の中から全人類の救い主がお生まれになり、すべての民に救いと祝福を届ける準備ができたことを告げています。そして、この良き知らせが人々によって全世界に語り続けられるようになったのです。聖書は神の歴史、ヒズストーリー、神の人にかかわる歴史をつづったものであるといえます。神のご計画と人を救うために行われた神の行為が書き綴られています。聖霊がそれぞれの著者を動かして、彼らの個性や知性そして状況を用いて書かしめたので、人のことばでありますが、それ以上に神のことばです。これまでの歴史を通して、幾度となく聖書は消滅を免れてきました。危機にありましたが、神の御手が働いて守られたのです。歴史において、聖書を撲滅させようと幾多の試みがなされてきましたが、それとは反対に、現在では、聖書は世界で一番普及している書物になっています。このことを見ても、聖書は単に人間が作り出した書物ではありません。その真実性、確実性は歴史を通して貫かれています。神がご自身のいのちをかけて、人類を罪から救うという壮大なご計画とその成就を記した書物です。「天地は滅びます、しかし、私のことばは決して滅びません。」とイエス様が言われたように、聖書が消滅することは絶対にないのです。

神のことばを軽視する社会:

エレミヤは、最も暗い悲劇的な時代に生きた預言者です。その時代は、南ユダ王国がバビロンによって滅ぼされバビロンに捕え移されました。国家全体にわたり、人々はバアルなど土着の宗教に心を奪われていました。それに伴う性的な罪も深いものでした。不義や不法もはびこっていました。宗教家も不正の実をむさぼり、その場しのぎの偽りの預言をしました。そして、エレミヤは指摘します。「身分の低い者から高い者まで、みな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っている」と。エレミヤは、民を導く、王や指導者の罪ばかりでなく、特にも宗教指導者たちの罪を指摘します。現代においても同じです。国家の為政者、指導者は大きな責任を負わせられています。また、それ以上に、牧師の責任も大きいと思います。なぜなら、牧師はこの地上のことばかりでなく、あなたの人生の永遠についても神のことばを託されているからです。人々は耳に聞こえの良いことを求めます。しかし、牧師は聖書から神のメッセージを語らなければなりません。ですから、牧師は皆さんにとって耳の痛いことも語らなければなりません。「あなたは罪びとです」というのは勇気がいります。しかし、みことばを割り引いて語ってはなりません。心を見られる神は、すべての人の心のはかりごとを知っています。そして、人の思いはすべてにおいて悪に傾いていると指摘しています。最大の罪は、あなたを造りあなたにいのちを与えておられる神を認めないことです。その実態は、神より自分を上位に置いているのです。神を恐れないということです。ですから、わたしは毎週同じことを語っています。それは、覚醒と回心のすすめです。目を覚ましなさい、ということと回心、悔い改めてイエス様を救い主として信じなさいということです。神の民への怒りと憤りの預言は、神殿でエレミヤの預言を筆記したバルクによって読み上げられました。民や一部の首長たちはその内容を聞いて恐れたとあります。そして、彼らはそれを王に聞かせなければならないと考え、行動しました。それに対して、王や首長たち、王の家来たちはどうでしょうか。彼らは神の真意を理解することなく、反逆したのです。みことばの巻物をナイフで切って暖炉にくべたのです。エホヤキム王をはじめ首長たちや家来たちは、高慢になっていました。エレミヤを通して語られた神のことばを悔い改めて受け入れることがなかったのです。

悔い改めて立ち返るのを待つ神:

神は何を期待したのでしょうか。それは、回心です。あなたが神に立ち返ることです。神は、私たちの罪を指摘するのは、私たちを責め苦しめるためではありません。神の真意は、当時のイスラエルの民に対しても、現代の私たちに対しても同じです。聖書は私たちの罪を指摘します。それは、私たちが悔い改めて立ち返るためなのです。ひいては、神が私たちに喜びと希望を与えるためなのです。悔い改めて、イエス・キリストをあなたの救い主として信じることです。神は第一に、そのことをあなたに期待しているのです。あなたの罪に対する責めの一切をイエス様は身代わりとなって十字架で処理してくださいました。ですから、信じるだけでいいのです。何の功績もいりません。神は、絶望と思われる状況の中で、神の民に計画を立てておられたのです。「それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」と。この預言のことばは成就しました。ユダ王国はバビロニアに捕囚されて滅ぼされましたが、70年後バビロニアに代わって起きたペルシャによって、祖国帰還が許されるのです。神殿も再建されて、彼らは夢を見ているもののように喜びに満たされるのです。みことばは歴史において必ず成就します。また、このみことばは、信じて受け止める者たちにも成就します。信じる者に、神は揺るがされることのない平安と、決して失望に終わることのない希望を与えてくださるのです。