2017年7月 16日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>ヨハネの福音書8章1~12節
8:1 イエスはオリーブ山に行かれた。
8:2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。
8:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、
8:4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。
8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
8:6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
8:7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
8:8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。
8:10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」
8:11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」〕
8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
<要約>
みことばは光と剣:
律法学者やパリサイ人らが、姦淫の現場でとらえた女性をイエス様と民衆の前において、イエス様を試しにかかりました。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」もし、イエス様が、律法の通り石打にせよというならば、罪人の友として赦しを説いていた言動と大きく違うことになります。また、石打にしなければ、律法をないがしろにするものと糾弾されます。どちらを選んでも、イエス様は窮地に立たされます。イエス様の、「あなた方のうちで罪のないものが」という言葉を聞いて、訴えていた者たちは、年長者から始めて一人一人出て行きました。キリストのみことばによって、罪示されたのです。みことばが彼らの良心に届いたのです。年長者ほど、経験的に自分の罪深さを知っていたのでしょう。イエス様のことばは暗黙のうちに一人一人に届きました。聖書のみことばは、時として、光として私たちの心の深みまで照らし出します。それは自分の罪とか弱さとかが関わっていたことです。つらい、苦しい、恥ずかしい思い出であったと思います。「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」みことばは、光として、あるいは剣として、聞く者の心に迫ります。朝、窓のカーテンを開くと光が部屋に差し込んで、明るくなり、部屋の埃が目に付くようになります。みことばは心の中を照らし、自分の罪がわかってきます。他者の悪いところばかりを見て、訴えていた律法学者やパリサイ人らは、自分の罪を思い知らされたのです。自分にはこの女性を裁くことはできないということを悟ったのです。
無条件の罪の赦しを受け取る:
イエス様は「婦人よ」と呼びかけています。これは敬意を表す丁寧な言葉です。そして、「あなたを罪に定める者はなかったのですか」と聞いています。責のことばはありません、悔い改めなさい、とも言っていません。彼女は十分に罪を自覚していたのでしょう。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と言われました。これは赦しの宣言です。ここに、イエス様は罪人をどのようにお取り扱いになるかがわかります。最初に赦しがあるのです。赦しが提供されているのです。条件を付けていません。もう少し苦しんだら赦してやる、ある期間牢獄で反省しなければならないとも言いません。ただ、応答を求めておられます。あなたが神の赦しの宣言をどうとらえるかです。神はあなたに信仰を求めておられます。そのためには、あなたは思いを変えなければなりません。だれも自分で自分の罪を拭い去ることはできません。この女性は、自分の罪を自覚し、自分にはどうすることもできない、無力を覚えていました。そして、イエス・キリストに自分の身をゆだね、信じて仰いだのです。彼女はイエス様の罪の赦しをただ受けたのです。そして、「行きなさい」とのイエス様のことばに促されて、新しい出発をするのです。罪赦されたものは、二度と罪に支配されるのではありません。信じて従うものに与えられる自由な喜びに満たされて歩むのです。それがクリスチャンライフです。
イエス様は罪びとの友です。罪のない人にはイエス様は近づきになりません。罪を自覚し、悩む者の近くにおられます。なぜなら、イエス様は罪びとを招くために来られたからです。罪を自覚し、悔いた心をもっている人、自分は赦される必要があると思っている人の近くにイエス様はおられるのです。悔いた心、砕かれた心と神は喜ばれるのです。イエス様は、罪を憎まれましたが、罪人を愛されました。また、信仰を喜ばれますが、不信仰を嫌われます。不信仰は、信じる力がないというのではなく、イエス様のところへ行かないということです。
信仰によって前向きに生きる:
この罪を赦された女性は、イエス様のことばを受けて出ていきました。その後、どのような人生を歩んだかは聖書に書いていません。しかし、「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」と書いているように、イエス様に従い、もう決してやみに戻ることがなく、いのちの光をもって歩んでいったと想像します。罪赦されたものは、信仰によって前向きに生きることができます。後ろのものを忘れて、前に置かれた信仰の走せ場を一心に走るのです。最後には栄光のゴールが待っています。それが聖書の約束です。