2017年7月 9日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>ルカの福音書5章17~26節
5:17 ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていた。彼らは、ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレムから来ていた。イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた。
5:18 するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。
5:19 しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真ん中のイエスの前に、つり降ろした。
5:20 彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。
5:21 ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」
5:22 その理屈を見抜いておられたイエスは、彼らに言われた。「なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。
5:23 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。
5:24 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために」と言って、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。
5:25 すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。
5:26 人々はみな、ひどく驚き、神をあがめ、恐れに満たされて、「私たちは、きょう、驚くべきことを見た」と言った。
<要約>
病気と死は罪の結果か?:
家はいっぱいで、戸口まで人があふれていて、中に入ることはできない状況でした。そこに四人の男たちが中風を患っていた友人を床のまま四隅をもって屋上に上って屋根の瓦をはがして、寝床をイエス様の前につり下ろしたのです。イエス様は彼らの信仰を見て、中風の人に「友よ。あなたの罪は赦されました。」と宣言されました。イエス様は彼に病の癒しばかりでなく罪の赦しもお与えになりました。彼には、言葉で表せないほどの恵みで喜び踊ったのです。罪と病と死は密接に関係しているといえます。イエス様はその根元的な罪を取り除くために来られました。あなたを罪と死と、そして、悪魔から救うために来られたのです。具体的に罪とはどういうものでしょうか。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」聖書は、人の罪は心から出ているといいます。心が一番の上流で、次にことば、行動となるのです。殺人行為の上流にあるのが、憎しみです。ですから、憎しみは殺人罪であると聖書は言うのです。また、「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」とあります。神は人の心の思いをはかっておられます。神には何一つ隠しおおせることができないのです。死後、すべての人は神の法廷に立たされて、すべての罪が明らかにされて、神の前で弁明しなければならないのです。そして、赦しを受け取っていなければ、永遠の牢獄である滅びへと落とされるのです。
キリストは罪を赦すために来られた:
神であるイエス様が地上に来られた目的は、罪の赦しの権威を行使するためでした。つまり、人の罪を赦すために来られたのです。実に、イエス・キリストは、十字架にかかるために来られたといえます。無実の神があなたの身代わりとなってあなたが受けるべき罰を受けてくださったのです。イエス様を訴える口実を探るために来ていた律法学者やパリサイ人たちは、イエス様の「あなたの罪は赦されました」の宣言に対して「神のほかに人の罪を赦すことができる存在はない」と心の中で言いました。では、イエス様の地上で罪を赦す権威はどこからきているのでしょうか。これまで、イスラエルでは神殿で祭司は人々の罪の赦しのために、祭儀に携わっていました。罪を犯した人は傷のない聖い動物を携えて神殿に来ます。祭壇の前でその人はその動物の上に手を置いて自らの罪を動物に着せます。祭司はその動物を殺して血を流させることによりその人の罪の赦しを宣言します。しかし、それはやがて来られるイエス・キリストの十字架の型です。旧約の儀式は、時いたって罪のない神の子羊であるキリストが十字架ですべての人の罪を贖ってくださったことにより成就しました。そこに、イエス様が罪の赦しをお与えになることができる根拠があるのです。そして、同時にイエス様ご自身が神であることを示されたのです。罪を赦す権威はキリストだけにしか与えられていません。人類史上、罪を赦し神との和解を与えることのできる人間は誰もいません。ただ、100%神であり同時に100%人間であるイエス・キリストのみができるのです。そして、イエス様は、中風の人に、罪を赦す権威と病気を治す力を同時に示されたのです。イエス・キリストがもたらした罪の赦しによって、それを受け取るものは、罪の束縛から解放されて罪から自由にされます。死からも自由にされます。キリストの罪の赦しを受けたあなたは、むしろ神に喜ばれることを積極的に行うことができるようになります。それは、隣人を愛するという行為となって表れるのです。
神の赦しを信じて受ける:
このイエス様の宣言は、イエス様のところへ連れてこられたすべての人々への宣言と言えます。このことばは、このあと二千年間、信仰をもってイエス様に近づくすべての人に対しての宣言です。これまで、イエス様のこの罪の赦しの宣言受けて、罪と死から解放されて永遠のいのちに至った人々が無数いるでしょう。私の義父、淑子姉の父親は、2000年に天に召されました。80歳でした。義父は腎臓がんになり、秋田県本荘にある由利組合病院で手術を受けることになりました。しかし、主治医からは心臓も悪いことから手術は危険であると聞いていました。私たちは、父が入院する前に福音を語っておかなければならないと思い、盛岡から矢島まで車を飛ばして、行きました。そして、イエス様は私たちの罪のために十字架で死んでくださり、信じる者に永遠のいのちを与えるために復活してくださったことを話しました。父は最後までよく聞いてくださいましたが、「話は理解できたが、自分はまだ信じることはできない」と言われました。そのあと、手術が成功するようにと祈って盛岡に帰ってきました。手術は無事に済み順調に回復して管も取れた夜、今度は脳こうそくで意識が亡くなったのです。昏睡状態が続き、もう終わりかと思ったのですが、ある時、彼は不思議な体験をしたのです。意識のない状態で、夢を見たのです。それは、白い衣を着た人が、横たわっている義父の傍らに立って、「生きなさい。生きるように」と声をかけたのです。何度か繰り返しそのような体験をして、義父はみるみるよくなりました。なんと、6日月後には、杖をついて、新幹線で盛岡に遊びに来たのです。そして、盛岡月が丘教会で、洗礼を受けました。彼を訪れて「生きなさい」と声をかけたのはイエス様ご自身であることを義父ははっきりと認知したのです。それは、中風の人に「起きて歩け」と言われた同じイエス様の宣言でした。病が癒されるばかりでなく、罪も赦されて永遠のいのちをいただいたのです。