アベルの信仰とカインの罪

2017年5月28 日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記4章1~16節
4:1 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、【主】によってひとりの男子を得た」と言った。
4:2 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から【主】へのささげ物を持って来たが、
4:4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物とに目を留められた。
4:5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。
4:6 そこで、【主】は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。
4:7 あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
4:8 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。
4:9 【主】はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」
4:10 そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。
4:11 今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。
4:12 それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」
4:13 カインは【主】に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。
4:14 ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」
4:15 【主】は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで【主】は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。
4:16 それで、カインは、【主】の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。
<要約>

<聖書>創世記4章1~16節
4:1 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、【主】によってひとりの男子を得た」と言った。
4:2 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から【主】へのささげ物を持って来たが、
4:4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物とに目を留められた。
4:5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。
4:6 そこで、【主】は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。
4:7 あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
4:8 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。
4:9 【主】はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」
4:10 そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。
4:11 今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。
4:12 それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」
4:13 カインは【主】に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。
4:14 ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」
4:15 【主】は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで【主】は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。
4:16 それで、カインは、【主】の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。
<要約>

神は心を見られる:

主はアベルの捧げものに目を止められ、カインの捧げものには目を止められませんでした。

神は二人の捧げる態度と心を見ておられたのです。「人はうわべを見るが主は心を見られる」と書いてある通りです。アベルの心の姿勢は、最上のもの、自分にできる最高の捧げものです。すなわち、献身のしるしとしての捧げものです。自分の上に主を置いている姿勢です。

それに対して、ここに書かれていませんが、カインの心は、神に喜ばれないものでした。それは、神を最上のお方としなかったのです。自分の下に神を置いたともいえます。神は創造主です。万物を造り、わたしたち人間をおつくりになり、ご自身の栄光と尊厳を表されました。そのような方を私たち人間は、恐れるべきです。神は、なぜ、顔を伏せっているのか、と言ってカインに声をかけています。これは、彼に悔い改めのチャンスを与えておられるのです。しかし、カインは神の忠告を聞きませんでした。そして、弟アベルを殺すのです。外面的には同じように、自分の収穫の一部をもって捧げものにしたのですが、心の内面では、全く違う捧げものをしていたのです。神はささげる者の心を見ておられます。創造主である神の私たち人間への要求は昔も今も変わりません。申6:5「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい。」そして、神を恐れ、愛し、信頼することです。

罪の負債と贖いの十字架:

カインは神に受け入れられなかったことに怒り、また、弟をねたみ、さらに憎しみが殺意となり、ついには殺人を犯しました。神は再び、カインに迫ります。「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と。それにもかかわらず、カインは悔い改めることもなく、知らないと白を切るのでした。神は「あなたの弟の血が、その土地から私に叫んでいる」と言われました。これは、罪が償いを求めているということです。罪は代価を求めます。人のいのちには人のいのちで払わなければなりません。それが、正当な代価といえます。アベルの血の代価は、殺人者カインの血で払わなければなりません。しかし、神は、カインが殺されないように、彼に一つのしるしを与えられました。彼に出会う人々が彼を殺さないようにさせたのです。神はここで、殺人の連鎖が起きないようになさったのです。また、主は罪深いカインを哀れまれました。神は哀れみの神です。どんな大きな罪、咎でも主は私たちの代わりに、になってくださるというのです。人間は正しく人を裁くことができません。神のみが正しい裁きを与えることができるのです。ですから、復讐してはいけないと書いています。罪からくる報酬は死です、とあるように、罪の負債は死をもって支払うほかないのだ、と聖書は言います。そして、人には根源的な罪があります。それは、人が神を無視して自分の人生を生きることです。もし、あなたが、神より自分を優先して生きているなら、そこに根源的な罪があります。罪は神への債務証書であるといえます。それを、十字架にくぎ付けにされたと主は仰せになりました。神は、カインばかりでなく、すべての人の債務証書を十字架の上で無効にされました。神が用意されたのはキリストの十字架です。キリストがすべての人のすべての罪の債務をゼロとしてくださったというのです。どのようにでしょうか。神は正しくさばかれるお方です。殺人には殺人で報いなければなりません。しかし、神は人を惜しんでおられます。神はあなたを愛しておられます。そこで、神はその一人子で全く罪のないイエス・キリストに人類、そしてあなたの罪を着せて代わりに十字架で殺したのです。もはや、罪に責められることはないのです。イエス様は十字架の上であなたの罪の負債を全部取り除いてくださいました。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」にある通りです。それには、あなたが罪の赦しのプレゼントをただ受け取るだけでいいのです。

信じて義とされた者の証:

アベルは、その捧げものによって、彼の信仰が証されて、信仰による義を得たということです。それに対して、カインは悔い改めて神に信頼を置いて歩むということをせず、俗悪なもの、殺人者として数え上げられました。神の哀れみにすがることもなく、信仰に至ることもなかったようです。大変残念な人生を送ったと思われます。捧げものがアベルを義としたのではありません。神はアベルのその心を見られたのです。捧げものによって、神の心を惹こうともくろんだのではありません。すべての収穫を与えてくださる神に感謝と喜びと賛美の心からアベルはそのような行動に出たのです。アベルは見返りを期待しません。おそらく神の応答も期待していなかったでしょう。ただ、神を見上げているのです。また、アベルは最初の真の礼拝者であったといえます。パウロは真の礼拝について述べています。「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」それは、心から混じりけのない思いをもって自分自身を神にささげることです。私たちもイエス様を信じる信仰によって義とされた者たちです。あなたは贖われて、聖いものとされました。その義をもって、神を愛し隣人に仕えていきたいと思います。

罪と救いの約束

2017年5月21 日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

聖書<創世記3章1~15節>
3:1 さて、神である【主】が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」
3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
3:9 神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
3:11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
3:12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
3:13 そこで、神である【主】は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」
3:14 神である【主】は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。
3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

<要約>

誘惑と罪:

サタンが蛇の姿をとって人を誘惑しました。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」と。神のことばをまげて伝えています。神は、善悪の知識の木だけ、と言われたのです。サタンはそれを「どんな木も」と言って、すべての木を禁止の対象としました。ここに誇張があります。サタンはこれにより、エバの心に神へのマイナスの思いを増大させています。それに対して彼女は言いました。「あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ」と神が仰せられた、と。しかし、神は「触れてもいけない」とは仰せになりませんでした。ここに、エバはサタンのことばに反応して、やはり、過剰に応答しています。次に、蛇は、「触れただけで死ぬわけがないでしょう」と言わんばかりに、「あなたは決して死にません」と断言します。巧妙な手口です。これは神のことばの完全な否定です。そして「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と言って、彼女を誘惑に落とすのです。この「神のようになり」というのは、罪の本質をついています。罪とは、人間が神になろうとするところから始まるからです。堕落前は、神を主としていましたので、人は神の支配下にありましたが、堕落後は、人は罪と死に縛られて悪魔の支配下に移ったのです。ですから、現在、人類は悪魔の支配下で苦しんでいます。個人レベルでも国家レベルでもそうです。国は、戦争はいけないとわかっていても戦争をやめられないのです。個人レベルでは、健康に悪いとわかっていても悪い習慣をやめることができません。赦さなければならないとわかっていてもなかなか心で赦すことができない。これらは、悪魔の支配下で苦しんでいる人間の姿なのです。

罪の結果:

彼らが食べた後には、彼らが見えたものは、自分たちが裸である事実です。自分たちが恥ずべき存在であることの自覚です。罪は恥をもたらすということです。彼らは、主のみ顔を避けて園の木の間に身を隠しました。神の戒めを破った瞬間から良心のうずきを覚えて、罪責感にとらわれました。罪を犯した人間はみじめになり、恥を覚えて、神を避ける行動に出ます。神は「あなたは、どこにいるのか」と問うています。これは、神が人を見失ったのではなく、人が神との交わりを絶ったからです。私たちは罪を隠したいのです。そして、神を恐れて、隠れようとします。そして、自分の罪を認めたくないのです。アダムもエバも神から問われたとき、他に罪を転嫁しています。これが人間の姿です。最終的には、神が悪いとするのです。こんな世界にしたのは神が悪い、もし神ならば、もっと良い世界を造れと言わんばかりです。「罪がわからなければ、真の意味でキリスト信仰に至ることはない」といいます。罪がわからなければ、十字架のみ赦しがわからないからです。また、人間の罪は分かっても自分の罪がわからないということがあります。残念ながら、そういう方々も真のキリスト信仰に至ることはできません。なぜなら、そういう人は、キリストの十字架は自分のためにあったと思えないからです。新約聖書には、ひとりのアダムの違反によって罪が入り、罪によって死が入り、こうして、全人類に死が入ったと書いています。アダムが全人類の代表となっています。これを聖書の代表性といいます。アダムの罪を全人類が引き継いだということです。私たちの代表の行動は私たち自身の行動と受け止められるのです。聖書はさらに、アダムだけの罪ではなく、その罪の性質が遺伝してすべての人は生まれながら罪びとであると宣言しています。ですから、堕落以降、生まれながらの人間は、本当の意味で神を知ることがなく、また、神がなさることを理解することができません。また、神を愛することも喜ばせることもできないのです。

神の救いの約束:

3章15節は原始福音と言われています。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」おまえはサタンですから、サタンとエバの間に、そして、サタンの子孫と女の子孫との間に神が敵意を置く、というのです。この女の子孫は、単数であることからキリストを指しています。キリストはやがてサタンの頭を踏み砕くというのです。「お前は彼のかかとにかみつく」これは、相手に激しい苦痛を与えるが、致命的なものにはならないというのです。サタンは救い主イエス・キリストを亡き者にしようとしました。最初は荒野で四十日四十夜、サタンはイエス様を誘惑しました。アダムはサタンの誘惑に落ちましたが、イエス様はみことばによってサタンの誘惑を退けました。落とすことができなかったサタンは、イエス様を抹殺しようともくろみます。そして、当時の宗教指導者たちや民衆を用いて、さらに弟子たちの裏切りを使って、ついに十字架で殺すに至るのです。これはサタンがキリストのかかとにかみついた瞬間です。一瞬、サタンは勝って、神は負けたかのように見えます。しかし、これは何という不思議でしょうか。また、神の知恵でしょうか。この負けと見える十字架刑により、キリストはすべての人の罪を、そしてあなたの罪をその身に負われました。すべての人の代わりに罪に対する神の怒りをキリストご自身がうけて、十字架で苦しみ死んでくださったのです。すなわち、人が受けるべき罪の裁きを代わりに受けて、あなたを無罪にしてくださったのです。「キリストの打ち傷によってあなたはいやされた。」とイザヤ書にある通りです。そればかりではなく、神はキリストの従順のゆえに、キリストを復活させて、それにあずかるものに永遠のいのちをお与えくださいます。これは、サタンの頭を踏み潰した瞬間です。サタンはもう、神の子キリストに勝利することはできないのです。私たち信じる者はサタンの支配から、キリストの支配と移されました。今日もあなたのためにイエス・キリストの救いが提供されています。どうすればそれをいただくことができるでしょうか。それは、ただいただくというだけです。何の行いもいりません。信仰によって、いただくのです。自らの罪を認めて十字架を仰ぐことです。

人の創造

2017年5月14 日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記1章26~2章9節、15~18節
1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
1:29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。
1:30 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。
1:31 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。
2:1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。
2:2 神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。
2:3 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。
2:4 これは天と地が創造されたときの経緯である。神である【主】が地と天を造られたとき、
2:5 地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である【主】が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。
2:6 ただ、水が地から湧き出て、土地の全面を潤していた。
2:7 神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。
2:8 神である【主】は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。
2:9 神である【主】は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。
2:15 神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
2:16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
2:18 神である【主】は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」
<要約>

神のかたちである人:

神のかたちというのは、神は霊ですから、目に見える形はありません。目に見えない形のことを言っています。私たち人間には人格というものがあります。この人格は最初の人アダムの罪によりひびが入ってしまいましたが、人の人格も神のかたちの名残と言えます。人格の要素には、知・情・意があります。人間の堕落により、知性は曇ってしまいましたが、人間の知性はすごいものであると思います。世の中には頭の良い人がいると思います。コンピュータを見ても私にはその仕組みは全くわかりませんが、作った人がいるので感心します。また、私たちは感情があるので、喜び悲しむ存在です。それにより喜怒哀楽にあふれた豊かな人生を送ることができます。また、意志については、創造的な意志によって、人類は文化文明を築いてきました。また、あなたが、志をもって決断するなら自分では不可能と思われることもみ心にかなったことであれば成就します。ここに背後に神の働きがあるからです。また、人間には他の動物にはないものがあります。それは霊です。他の動物も地の土から造られました。しかし、鼻から神のいのちの息を吹き込まれたことはなかったのです。このいのちの息は、霊ということができます。人間は霊的な存在といえます。アダムの堕落以来、完全な神のかたちにひびが入りました。そして、霊のいのちを失ったのです。その子孫である私たちも真のいのちを失い、生まれながらの罪びとです。そして、その罪によって滅ぶべきものとされました。時至って、神はその人間に対しても和解といのちの回復のために救い主イエス・キリストを与えてくださいました。最初の人の堕落のためにいったん失われた神と人との麗しい関係は、イエス・キリストにより回復しました。イエス様を信じる者は新しく生まれ変わるということです。そして、創造された時に持っていた神との麗しい関係に入るのです。こうして神は、人の創造をもって、すべてのみわざを完成されました。それをご覧になって、満足されました。そして、「非常に良かった」と締めくくられました。堕落前の神の創造のみわざは火の打ち所のない完全なものでした。人の創造という最終的なご目的を果たされて、神のご栄光を表されたのです。神のみ思いはその時から変わっていません。現在に生きるあなたにも同じ思いを持ておられます。そして、今日も招いておられるのです。「わたしに来なさい憩わせてあげよう」と。神はこの上もなく、あなたを愛してくださり、あなたがこの地上で幸せに生きることを喜びとして、期待し、交わることを楽しみにしておられます。

神の代理者としての人:

神は、世界を人の幸せのために用意され、さらに彼らにすべての被造物を管理させました。すべての被造物の長として支配させました。すなわち、人に仕事と使命を与えたのです。それはまた、人を神の代理として地上を治めさせるということです。堕落前の人は、神からの知恵を用いて、地上のすべての物を正しく管理できました。ですから、人には素晴らしい労働と豊かな生活があったのです。現代も、人間は地上のあらゆる動植物を管理するものとしての使命を持っています。しかし、堕落以来、正しく管理することができずにいます。乱獲により絶滅寸前の動植物もあります。また、化石燃料の使い過ぎにより、地球温暖化が起こり、南極の氷は溶けだして海の水位が上昇して、水没しようとしている島国もあります。人が神中心の生き方から、人間中心の生き方を選んだ結果、正しく治めることができなくなったのです。それが現代に及んでいることです。神の代理人であったのに、自分が主人となった人間の姿です。それ以来人と神とは敵対関係にあるといえます。「放蕩息子のたとえ」話があります。父を離れて放蕩の限りを尽くした息子がある日、正気になって、父に帰ります。父はまだ遠くにいた彼を見つけて走りより彼を抱き口づけしました。放蕩息子の父親のように神の人に対する御思いは今も変わりはありません。そして、あなたに対する御思いも変わりません。あなたを愛して、あなたが神と和解して、親しい関係に入るのを喜んでおられます。そして、神はあなたに使命と労働を与えておられます。また、神はあなたをキリストの代理として、もう一度遣わしておられるのです。あなたは小さなキリストであることを忘れないでください。小さなキリストとしてあなたの隣人に仕えていくことです。また、隣人が神との和解を受けて幸せになるためにみことばを伝えるのです。

神は人を愛と信頼と喜びの交わりに招かれている:

神は人に命じて仰せられたとあります。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と。ここで、神は初めて禁止令を出されました。人には特別な使命が与えられました。それは、世界を神に代わって統治することでした。しかし、自然界を神に代わって統治すると言っても、人には神のご意思の通りを行うだけしかありません。つまりロボットのようでした。どうして、善悪の知識の木からだけは取ってはだめだ、と言う禁止命令を出したのでしょうか。神は人に、範囲を与え、これ以上踏み込んではいけないという境界、ボーダーを定めたのです。それが善悪を知る知識の木です。そのことにより、人はロボットや奴隷のようにではなく、自らの自由意思で強制されることもなく神に信頼を寄せることができるのです。これが、神と人、人格を持った者同士の愛と信頼と喜びの交わりなのです。神は人間との関係で、秩序をお与えになったともいえます。神が上で人が下です。人が神の上に立とうとするとき、ボーダーを超えるということが起きるのです。原罪は、神が定めたボーダーを超えることから生じた罪です。人は神の下にあって幸せに生きることができるのです。人間は地のチリで形づくられました。その通り、どこから見てもこの肉体は脆弱で簡単に命を落とします。そんな人間が、神のいのちの息を吹き込まれて霊的ないのちに生きるものとなったのです。しかし、人間が罪を犯し、神の上に自分を置いて高慢になってしまったのです。アダムの罪以来、人間は、造り主である神を無視し、神に背を向けて生きてきました。それが現状です。でも、あなたはこの壊れた神との関係に和解を得たのです。それは、イエス・キリストがあなたと神の間の仲介者となり、キリストが提供する神との和解をあなたが受け入れたからです。あなたはこれまでキリストに背を向けて、和解を受けなかったのです。しかし、キリストが一方的にあなたの罪を十字架で引き受けて身代わりとなって死んでくださった事を知りました。それを信じて受け止めたので、あなたのすべての罪が赦されたのです。このように、あなたは、神との愛と、信頼と喜びの交わりに今日招かれています。今日、イエス・キリストをあなたの救い主と信じましょう。

天地創造とあなた

2017年5月7 日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>創世記1章1~23節
1:1 初めに、神が天と地を創造した。
1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
1:3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
1:4 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。
1:6 神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」
1:7 神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。
1:8 神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。
1:9 神は仰せられた。「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」そのようになった。
1:10 神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。
1:11 神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。
1:12 地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。
1:13 夕があり、朝があった。第三日。
1:14 神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。
1:15 また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。
1:16 神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。
1:17 神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、
1:18 また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた。
1:19 夕があり、朝があった。第四日。
1:20 神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」
1:21 神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神はそれを見て良しとされた。
1:22 神はそれらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」
1:23 夕があり、朝があった。第五日。

<要約>

神が万物とあなたを創造した目的:

この「神」はヘブル語でエロヒームと言って複数形で書かれています。神は一人ですが、ここでは複数形で書かれています。ヨハネ福音書では、イエス・キリストを指して、「造られたものでこの方によらずにできたものは一つもない」と書いています。また、コロサイ書1章には、御子キリストによって万物は造られたことが書いています。創造の目的は二つあると考えます。「万物は、み子によって造られ、み子のために造られたのです」とあることから、世界は御子のために、すなわち、キリストのために万造られたのです。イエス・キリストである三位一体の神ご自身のためであるということです。別の言葉で言うならば、神はご自身の栄光のために世界を作られたということです。ご自身が崇められるために万物は存在しているのです。もう一つの目的は、人に栄光と誉の冠をお与えになるためにです。平たく言うと、人間をこの上もなく幸せにするためにです。これはとりもなおさず、あなたが幸せになるために世界を神は造られたということです。あなたはイエス様の十字架によって罪赦されて神と和解しました。つまり、神との麗しい関係に入っているのです。そこで、神は尽きることのないいのちの祝福をあなたにお与えになっているということです。神は、目的と意図をもって全世界をおつくりになりました。それに対して、万物は偶然にできたという考え方があります。偶然にできたというのは、存在の意味はないということです。人は意味を持たなければ生きることはできません。聖書は、人間の存在の意味を教えています。その価値を教えています。聖書はあなたの存在の意味と価値を教えています。神のあなたへの思いは、聖書の中にあります。神のご性質の中心です。それは愛です。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と。神が万物を創造した目的は、神がほめたたえられること。そして、神があなたを愛して、あなたが幸せになり、幸せなあなたによって神が崇められることなのです。

聖霊はやみの中であなたを守られる:

「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」茫漠という意味は、混沌としていて形なくということです。そこに神のことばが働いて、創造が始まりました。無から有ができ、バラバラになっていたものが整って形を作っていくのです。神は万物を創造し、そして保っておられます。宇宙は素晴らしい秩序をもって運航しています。一分一秒も狂いなく動いています。だから、遠い宇宙に宇宙船を送ることができるのです。だから、私たちは毎日を時間に合わせて生活できるのです。神のみ手がなかったら今もあっという間に宇宙は崩壊するでしょう。神が生きて働かれて万物を保持しておられるのです。ですから、毎日が保たれ守られています。創造の初めから、大水とやみはありました。それ自体は災いでも悪でもありません。やみは光の届かないところです。3節に、やみを夜と名付けたとある通り、夜は休息のために必要です。大海原も海洋生物など生命のために必要です。しかし、やみも大水も災害になることがあります。最初はすべてよかったのですが、アダムの罪以来、地は呪われてしまったのです。そのために、自然災害も後を絶たないくらい起きているといってもよいのです。「神の霊が水の上を動いていた」と書いています。神の霊、それは聖霊です。ソロモンは「神は暗闇の中に住む」といいました。聖霊は災いと思われるようなところに住んでくださり働いてくださるのです。時に、神は私たちが苦しみに合うことも許されるのです。私たちを愛するがゆえに苦しみに合うのを赦されることがあるのです。神はあなたにご計画を持っておられます。また、あなたが今直面している様々な問題にみ言葉を通してお語りになっています。それは、あなたが、幸いを得て幸せになるためです。

みことばはあなたを生かす:

神はみことばにより、世界を創造なさいました。最初に命じられたのは、「光よあれ」です。そして、光をよしとされました。夜と朝があって、第一日目です。次に、6節から、「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間を区別された。」とあります。これは、地球の表面を覆っていた水が、海と上空の水とに分けられたことを意味します。大空は二層の水でサンドイッチにされるということです。海の水は液体ですが、上空の水は、気体、つまり水蒸気として存在したと思います。神はそれをよしとされました。素晴らしい環境でありました。これが第二日目に起こったことです。だから、最初の人間は驚くべき長寿でした。約900年間生きたのです。しかし、そのあと、人間の堕落により洪水が起こりました。ノアの洪水から、神は人の齢を120年にすると宣言されました。ノアの洪水によって地球の環境は激変しました。悪化したのです。上空の水蒸気層が雨となって地に落ちて全地は水で覆われました。温室効果が壊れて、南極と北極は極寒となり氷で覆われました。そのために水が引いて陸が現れたのです。今の地球の環境です。大空と大気の環境ができたのが、第二日です。次に、三日目には地上に陸と海が分かれ、地上には種類に従って植物が作られました。さらに四日目には、神は太陽と月と星をおつくりになりました。そして、五日目には、海に住む魚など海洋生物と空の鳥をおつくりんしなりました。すべて種に従っておつくりになりました。六日目に、陸に生きる動物と最後に人間をおつくりになりました。このように、世界は六日間でできたのです。現在の動植物の食物連鎖を考えると短い期間に一緒に創造される必要があります。現在も神の創造の御業は行われ続けています。あなたも、神の目的とご計画によって、この地上に生まれてきたのです。そして、神のみことばを聞いて、自分が神から離れていたことを知りました。造り主である方を無視して生きていたことにあなたは気づきました。神のみことばによって罪がわかりました。そして、みことばで、イエス様とお会いしました。みことばによりイエス・キリストの十字架が自分のためであったことを知りました。そして、すべての罪が赦されていることを信じることができました。みことばにより永遠のいのちが与えられていることがわかりました。また、あなたは聖書のみことばによって、日々神のお取り扱いを受けているのです。