2017年4月16 日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>ヨハネの福音書20章1~18節
20:1 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
20:2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」
20:3 そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。
20:4 ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
20:5 そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中に入らなかった。
20:6 シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓に入り、亜麻布が置いてあって、
20:7 イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。
20:8 そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。
20:9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。
20:10 それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。
20:11 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
20:12 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。
20:13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
20:16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)」とイエスに言った。
20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい。」
20:18 マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。
<要約>
十字架と復活の意義:
日曜日の早朝、マグダラのマリヤはイエス様のご遺体に香油を塗るためにやってきました。そうしたら、墓の石が転がしてあり、墓の入り口が開いていました。墓の中にイエス様の遺体がないことに気づいたマリヤはすぐに弟子たちのところに走って行きました。それを聞いたペテロとヨハネは走って墓に向かいました。彼らは墓に入り「見て、信じた」と書いています。誰もイエス様のご遺体に触れた形跡がないことから主の体は復活されたことを信じたのでしょう。しかし、彼らは、イエス様の十字架と復活の意味や内容をまだ理解していなかったのです。二人はそのまま、エルサレムの隠れ家に帰っていきました。彼らはイエス様のおっしゃったことがその通りになっているのをその目で見て信じたのです。しかし、イエス様の十字架と復活の意味、そしてそれがもたらすものをまだ、理解していませんでした。彼らを含めてイエス様の弟子たちは、イエス様が民をローマの圧政から解放する政治的な救い主として、ユダヤ人の王として期待していました。だから、イエス様がエルサレムへ上る道々で、ご自分が十字架につけられて死んで三日目に復活するというのを聞いても何のことかわからなかったのです。人間の持つ固定観念、先入観は神の言葉を見えなくさせます。弟子たちもそうでした。イエス様の十字架と復活の意義がまだ、よくわかっていなかったといえます。ペンテコステの時にエルサレムで祈っていた弟子たちに聖霊が下りました。聖霊は、彼らの心を開き真の知識に至らしめます。イエス様が言われた言葉を思い起こし、その意味を悟ったのです。また、旧約聖書の預言の言葉に目が開かれたのです。そこで、イエス・キリストの救いが、罪と死と悪魔からの救いであるという理解に至るのです。イエス様の十字架の死は、あなたや私の罪をあがなうためであり、復活は、あなたや私が朽ちることのないいのちに生きるためなのです。それが福音でありグッドニュースです。
名を呼んで近づいてくださる主:
二人の弟子は帰りましたが、マグダラのマリヤは再び戻ってきました。そして、墓のところにたたずんで泣いていました。そして、泣きながら体をかがめて墓の中を覗き込みました。二人の天使はマリヤに「なぜ、泣いているのですか」と問うています。マリヤは、「誰かが私の主をとっていきました。」と答えました。マリヤは依然、イエス様の復活のことは全く頭になかったようです。その時、背後に人を感じたのでしょう。後ろを振り向きました。そこに立っているイエス様を墓の管理人だと思ったのです。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」それでも気づかずに、自分は主のご遺体を引き取るので、どこに置いたか教えてくださいというのでした。イエス様は「マリヤ」と名前を呼びます。マリヤはイエス様と気づいたのです。ここに、ヨハネは、復活されたイエス様が最初にお会いになったのはマリヤであること。そして、彼女にその名を呼んで近づかれたことを記しています。なぜ、イエス様は最初にマリヤにご自身を表されたのでしょうか。イエス様の誕生の知らせは最も貧しく最も低い羊飼いたちに届けられました。復活の喜びの知らせは、最も卑しい罪深さを自覚している女性でした。これは、神が、最も貧しく、最も卑しめられている、最も見下されている人を大切に思われているからです。また、ヨハネは、羊のために命を捨てる良い羊飼いのようにイエス様はあなたやわたしの名を呼んで近づいてくださる方であることを教えています。
復活がもたらしたこと:
復活のイエス様と面と向かってお会いしたマリヤは、喜びのあまり思わずすがり付きました。マリヤに対して、イエス様は「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。」とマリヤを制しました。イエス様はこれから天の父である神のみ元に昇らなければならないと言葉を続けます。それには二つの理由があります。一つは、聖霊が来てくださるためです。イエス様の昇天の後、ペンテコステの時に弟子たちに聖霊が下りました。ペテロはエルサレムで人々に悔い改めて、イエス・キリストを信じるように説教をしました。そこで大勢の人々がイエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受けました。エルサレムで最初の教会が誕生したのです。聖霊は、私たちの心を照らし、罪を示されます。聖霊は聖書の言葉が理解できるようにし信じる心を与えてくださいます。聖霊は私たちをイエス・キリストのところへ連れて行ってくださいます。聖霊は三位一体の神です。もう一つは、イエス・キリストが父なる神に近づく人々のとりなしをするためです。私たちが日々犯す罪をサタンは神に訴え続けています。しかし、イエス様は信者の罪をご自身の十字架のゆえに赦すように神に働きかけています。それがとりなしです。神はイエス・キリストを仲介者として信者を取り扱われます。神のみ子キリストのとりなしにより、信者には良いことしか及ばないのです。復活によってもたらされたことは何でしょうか。それは、キリストにより復活のいのちはすべて信じる者に無代価で与えられるということです。信じる者は罪赦されて永遠のいのちにあずかることができます。また、信じて洗礼を受ける者には聖霊が与えられます。聖霊はあなたの人生の歩みに光を当て、行くべき道を示してくれます。また、イエス・キリストの十字架と復活の証人としてあなたを立ててくださいます。素直な心で主イエスをあなたの心にお迎えすることです。