裁きと赦しの法則

2025年3月30日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
赦しの力;

目に見える世界に万有引力の法則があるのと同じくらい、目に見えない霊の世界にも法則があります。その一つに、2節にあるように、人を裁くと裁かれるという法則です。壁にぶつけたボールは強くぶつけただけの勢いで反ってきます。人を裁くと同じくらいの強さで自分に帰ってくるのです。同様に「あなたが量る通りの量であなた方もはかられる。」のです。また、もう一つに、人を赦すと赦されるという法則があります。自分の罪の大きさがわかると、人の罪が目立たなくなり、人を赦すことができるのです。そして自分の罪の深さがわかればわかるほど赦しの大きさがわかり、すなわち全ての罪が赦されている恵を実感するのです。イエス様は十字架で、裁きを赦しに変えてくださったのです。「赦すためです、主の十字架」という賛美があります。赦しが真の平和をもたらし、和解をもたらします。赦し合うことによって、真の幸いが来るのです。イエス・キリストは裁きの法則が主導している人間社会に、赦しの法則をもたらしてくださったのです。

福音は神の力:

聖なるものと真珠は福音のことを指しています。キリストの救いの福音は金よりも純金よりも真珠よりもはるかに価値のあるものです。神がその命を代価として差し出して産み出されたものだからです。神は人間を犬や豚ではなく、高価で尊い存在としてごらんになっています。しかし、真珠を踏みつける豚や犬のようにこれほど価値のある神の福音を拒んでしまうのも人間です。高価な真珠はそれを身に着ける人の価値を高めます。また、その価値を引き出す働きがあります。気品のある方が高価な真珠を身に着けるとその気品がさらに輝きを増すでしょう。福音の価値がわかればわかるほどに私たち自分自身の価値がわかってくるのです。自分がいかに神に愛されている存在なのか、そして自分を大切な存在として、「自分は神に選ばれたオンリイワン」であることに気づくのです。福音は私たちのよいところを引き出してくれます。自分の使命、用いていただきたいと言う願いが表れます。 福音は私たちを罪の滅びから救い出すばかりでなく、私たち人間が生きる意味や価値を明らかにしてくれるのです。福音はあなたを滅びから救い出し、永遠のいのちを与えます。さらに、あなたを神の最高の作品として輝かせるのです。それこそが福音の力です。

<聖書>マタイの福音書7章1~6節
【新改訳2017】
7:1 さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。
7:2 あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。
7:3 あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。
7:4 兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。
7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。
7:6 聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります。

罪を赦すために来られた神

2025年3月23日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
罪と病いと死の関係:

当時の社会は、因果応報の考えが一般的で、病は罪のためであると考えていたようです。現代でも、罪と病は全く無関係とはいえません。罪からくる悪習慣による病気もあります。暴飲暴食からくる健康被害、喫煙がもたらす健康障害、性病などもそうかもしれません。しかし、多くの病は罪と無関係であるといえます。がんとか遺伝病も多くは罪と関係ありません。別の個所で、イエス様は、生まれつきの盲人に道でお会いになりました。そして、彼が生まれついたのは罪のためではなく、神の御業があらわされるためであると言って、彼の眼を開かれました。この場合、病は神の栄光のわざの顕われであったのです。かたや、病と死は創造の初めからあったものではなく、アダムの罪によって人類に入ってきたものです。ですから、根元的には、病気や死は罪の結果ともいえます。そのように罪と病と死は密接に関係しているといえます。イエス様はその根元的な罪を取り除くために来られました。あなたを罪と死と、そして、悪魔から救うために来られたのです。

罪を赦す十字架:

神であるイエス様が地上に来られた目的は、罪の赦しの権威を行使するためでした。つまり、人の罪を赦すために来られたのです。罪人にご自身を与えつくすために来られました。それは、実に、イエス・キリストは、十字架にかかるために来られたといえます。十字架とは何でしょうか。それは、死刑の道具です。無実の神が人の身代わりとなって罪の罰を負ってくださった。無実の神があなたの身代わりとなってあなたが受けるべき罰を受けてくださったのです。イエス様はあなたの罪のために来てくださった、神が家畜小屋で最も貧しい人となって生まれてくださった。それは、あなたの罪を赦し、新しい人としての再生させるために生まれてくださったのです。クリスマスには、世界中の人々がこの救い主の誕生を祝います。何からの救いでしょうか。罪と死と悪魔からの救いです。キリストの罪の赦しを受けたあなたは、過去、現在、未来のすべての罪が赦されているがゆえに、罪の責めを受けなくてもよいのです。そして、むしろ神に喜ばれることを積極的に行うことができるようになります。それは、隣人を愛するという行為となって表れるのです。罪の赦しの条件はただ一つ、イエス様を信じることです。

<聖書>ルカによる福音書5章17~26節
【新改訳2017】
5:17 ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人たちと律法の教師たちが、そこに座っていた。彼らはガリラヤとユダヤのすべての村やエルサレムから来ていた。イエスは主の御力によって、病気を治しておられた。
5:18 すると見よ。男たちが、中風をわずらっている人を床に載せて運んで来た。そして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとした。
5:19 しかし、大勢の人のために病人を運び込む方法が見つからなかったので、屋上に上って瓦をはがし、そこから彼の寝床を、人々の真ん中、イエスの前につり降ろした。
5:20 イエスは彼らの信仰を見て、「友よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
5:21 ところが、律法学者たち、パリサイ人たちはあれこれ考え始めた。「神への冒?を口にするこの人は、いったい何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」
5:22 イエスは彼らがあれこれ考えているのを見抜いて言われた。「あなたがたは心の中で何を考えているのか。
5:23 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
5:24 しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、中風の人に言われた。「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」
5:25 すると彼はすぐに人々の前で立ち上がり、寝ていた床を担ぎ、神をあがめながら自分の家に帰って行った。
5:26 人々はみな非常に驚き、神をあがめた。また、恐れに満たされて言った。「私たちは今日、驚くべきことを見た。」

ゆるぎない平安

2025年3月16日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書6章25~34節
【新改訳2017】
6:25 ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。
6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。
6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。
6:28 なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。
6:30 今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。
6:31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。
6:32 これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。
6:33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
6:34 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

<要約>
人の不安はどこから:

生まれながらの人間は、罪人で、いのちの源である神から離れて、神を認めることができず、自分のいのちの意味を見出せない状態にあります。ですから、不安に陥る根源的な原因には、罪の問題があるのです。罪から来る報酬は死です、とありますように、罪の結果は死です。人の不安はどこからと題してお話ししています。私たちは、先が見えない、未来がわからない、自分がこの後、どうなるのだろうか?死んだ後どうなるのか?自分の存在はどうなってしまうのだろうか?自分がこの世の中で生きている意味は何なのだろうか?と不安になります。人の不安は、根源的には罪からきています。神との関係が失われて、神の恵みと愛、そこからくる平安を受け取ることができない状態になるからです。そして、聖書は、私たち人間はどこからきてどこへ向かっているのかを説明しています。最初があり終わりがあります。この世の中は最終的には、罪によって滅ぶのですが、新しい天と新しい地が用意されているので心配しなくてよいと語っています。

神がくださるゆるぎない平安:

イエス様は、体や命のことで心配しなくてもいい。神があなたに約束していることは、最終的には素晴らしい祝福と恵みの世界です。ですから、今、与えられたいのちを主のために用いなさいということです。優れたことのために用いなさい、ということです。神が与えるゆるぎない平安と題してお話ししました。私たちにはいろいろな心配事があります。明日のことは、明日が心配します。労苦はその日に充分あります、とある通り、私たちは、その日その日を心配するのみでよいのです。神が私たちの人生の最初から終わりまで、そして永遠に至るまで、責任を持って導いてくださいます。そのことをよく心しておく必要があります。ですから、今、私たちができることは神の国と神の義を求めること、つまり神をいつも心の中心において、神との関係を大切にして行く歩みが求められています。そうすれば、生きる上での様々な必要は、すべて、与えられます。キリストにあるものはゆるぎない平安を得ることができると聖書は約束しています。私たちはイエス様が与える平安をいただいています。それは揺るぎない平安です。最後の敵である死をも滅ぼし、復活のいのちに生かしてくださるからです。どんなときも心騒がせることなく、ひるむことなく、神を見上げて参りましょう。

地の塩、世の光

2025年3月2日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
塩気を保つクリスチャンライフ:

塩気を保ったクリスチャンライフは、みことばに立った生活を送るということです。聖書の中心である福音をしっかり押さえて生活することです。それはイエス様の十字架と復活をしっかり信じているということにかかっています。聖書の中心メッセージは、神は御子イエス・キリストによりあなたや私を罪と死と悪魔から救ってくださったということです。私たち人間は自らの罪のゆえに、死と滅びに定められています。神は、人が滅びるのを惜しんで、そのすべて人の罪を神の独り子キリストに背負わせて、身代わりとして十字架刑で死に至らせたのです。そこに神の愛があらわされています。そればかりでなく死んで3日目に復活しました。それを信じる者はに永遠の命を与えてくださいます。クリスチャンが塩気を保つことは難しいことではありません。まず、イエス・キリストを信じる信仰によって生きることです。そして、あなたが塩気を保つ 生活をするためには聖書のみことばに立って生活することです。そのために、聖書を読み、聖書に親しみ、みことばを蓄えなければなりません。

世の光として輝くクリスチャンライフ:

クリスチャンは地の塩ですが、塩の塩気は味わってみなければわかりません。しかし、光は外に向けて放たれ周りの人々に届いていきます。そこには積極的に生きる証のクリスチャンライフがあります。失敗を恐れず、前向きに生きることです。それぞれが遣わされている三つの職域、教会、家庭、職場あるいは学校、それぞれのところで最善を尽くすことです。神を愛し、人を愛する生涯です。あなた方の光をマスの下においてはいけない、隠れていてはいけない、世に出て行きなさい。光は闇を吹き払うのです。光は、目に見えるものです。ある時はそれは灯台となり、迷った人を正しく導くでしょう。世の光として輝くために、私たちは何に努力しなければならないかです。努力するべきことは、信仰に励むことです。行いではないのです。すなわち、神との関係に生きることです。具体的には、神を恐れ、愛し、信頼することです。神との関係が正されると、行いは自然と出てきます。あなたの光は輝きます。塩は塩気を取り戻し、あなたは世の中に良い影響を及ぼします。火があるところには必ず光が生じます。そのように信仰がある人は必ずよい影響を周りに及ぼしていくのです。

<聖書>マタイの福音書5章13~16節
【新改訳2017】
5:13 あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。
5:14 あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
5:15 また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

ブドウ園のたとえ

2025年2月23日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
神に不満を抱く人の姿:

私たちは生まれながらの罪の性質により、自分が認められたい自分が評価されたいという思いが強くあります。他の人と比べてこれだけやったので自分はそれ相当の報酬を受けたいと考えます。人に対してはそれで良いかもしれません。しかしこと神に関してはそうではありませんね。イエス様は私たち信者に、「自分を捨てて自分の十字架を背負って私についてきなさい」とおっしゃっています。それはどういうことでしょうか?何度も言っているように私たちは礼拝の民です。礼拝をするということは、ヘブル語の言語では、ひれ伏す、と意味です。神の前にひれ伏す生活とはどういうものでしょうか。それは私たちの生活を神中心に整えなさいということです。週一回の主日礼拝を大切にし、日日みことばと祈りの生活をすることです。それは自分のことより神が喜ばれることを選んでいく人生です。神に栄光をお返しする人生です。神のなさることは最善であること信じつぶやかず疑わず神を信頼して行くことです。そうすれば神へのつぶやきは消え、感謝と喜びがついてきます。神に栄光を帰す人を、神はおもちいになります。自分が褒められるのではなく、神がほめたたえられるのです。すなわち、神を愛する人生です。言い換えればあなたによってあなたの隣人が祝福される人生です。そこにこそ本当の喜びがあるのです

値をつけることができない犠牲:

主人の招きに応じてブドウ園に来た人々に主人は、同じ1デナリをお与えになったのと同じように、イエス様の招きに応じて、イエスのもとに来たすべての人に「義」のプレゼントをくださるということです。そして、神から義とされた人は、罪赦されて永遠のいのちを持ちます。私たちのどんな罪も、神の義に覆われて消えてしまします。ちょうど、どんなに汚れた罪の服を着ていても、神の義の衣を羽織ると罪はおおわれて見えなくなるのと同じです。早くから、イエス様を信じて、ずっと教会で奉仕してきた人も、人生の後半に主を信じてクリスチャンになった人も、等しく、神の義が与えられます。永遠のいのちが与えられます。牧師や聖職者とよばれる人も、無名の信徒も、同じ神の恵みに浴するのです。それが、信じるすべての人に与えられる神の義です。イエス様の十字架と罪の赦しは、父なる神が、御子の命に代えてくださった値段をつけることのできない恵です。

<聖書>マタイの福音書20章1~16節
【新改訳2017】
20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。
20:2 彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。
20:3 彼はまた、九時ごろ出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。
20:4 そこで、その人たちに言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。』
20:5 彼らは出かけて行った。主人はまた十二時ごろと三時ごろにも出て行って同じようにした。
20:6 また、五時ごろ出て行き、別の人たちが立っているのを見つけた。そこで、彼らに言った。『なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。』
20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』主人は言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。』
20:8 夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』
20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。
20:10 最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。
20:11 彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。
20:12 『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』
20:13 しかし、主人はその一人に答えた。『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。
20:14 あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。
20:15 自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』
20:16 このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」

神の恵みを無にしない生き方

2025年2月16日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ガラテヤ人への手紙2章15~21節
【新改訳2017】
2:15 私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、「異邦人のような罪人」ではありません。
2:16 しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。
2:17 しかし、もし、私たちがキリストにあって義と認められようとすることで、私たち自身も「罪人」であることになるのなら、キリストは罪に仕える者なのですか。決してそんなことはありません。
2:18 もし自分が打ち壊したものを再び建てるなら、私は自分が違反者であると証明することになるのです。
2:19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。
2:20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。
2:21 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。

<要約>
信仰義認とは?:

信仰義認、それは、行いではなく、信仰によって神の前で正しいと認められることです。割礼や律法の規定を守らなければ救われないというユダヤ人クリスチャンの主張は、外面と整え、行いを立てていく生き方です。しかし、聖書によると、律法の行いや割礼、善行、施しなど、救われるためには要りません。ただ、信じるだけで救われるというのが、信仰義認です。信仰義認の教えは、私たち人間にはなじみが薄く、すぐに、行いによる義に走っていきがちです。律法を行うことで、神の前でも人の前でも正しい人間であると自らを主張しようとする性質が私たち人間にはあるのです。それに対して聖書が私たちに勧めている教えは以下のようです。罪のない神の独り子イエス様が、すべての人、そしてあなたの罪を赦すために、死を身代わりとなって十字架で味わってくださった。そのことをあなたは、ただ信じて受け止めることであなたの罪は赦され、代わりに永遠のいのちが与えられるのです。ただへりくだって神の恵みを空の両手でいただけばよいのです。そうすれば、過去現在未来までもすべての罪が赦され、神の子とされ、永遠の御国の世継ぎとされるのです。それが信仰義認の教理です。

神に生きるとは?: パウロは、「神に生きる」ために律法によって律法に死にました。私はキリスト共に十字架につけられました。そして、パウロが、この肉体にあって生きているのは、自分を愛し、自分のためにご自身を与えてくださった神の御子を信じる信仰によるのだと告白しています。それが「神に生きる」また「生きることはキリスト」の意味です。そこまでいかなくても、現在の私たちクリスチャンは具体的にどのように生きて行けばよいのでしょうか。私たちは洗礼により古い自分は死にました。十字架でイエス・キリストと共に死んだのです。そして、キリストが死んでよみがえったように、私たちもよみがえりの命をいただいています。永遠に続く祝福と喜びと希望の命です。やがて新天新地で生きる命です。それは、神に生きる、イエス様と一緒に生きる、自分の十字架を背負ってイエス様の後に従う人生です。クリスチャンライフは困難苦難の連続です。しかし勝利のゴールがある人生です。前向きに与えられた賜物を積極的に用いる生き方です。そこにこそ、神に生きる、生きることはキリストと言える、信仰の奥義があるのです。

不正の富で友をつくりなさいとは

2025年2月2日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
永遠の住まいに入る賢い行動:

この不正の管理人は主人の富を不正を働いてでも抜け目なく用いました。光の子である私たちに主人が託している財産とは何でしょうか。それは、十字架の罪の赦し永遠のいのち、それは救いの福音です。永遠の住まいに入る賢い行動、と題してお話しています。私たちは、不正の富を用いて、自分のために友を造りなさい、と勧められています。それは、この不正の管理人のように、自分の救いを貪欲に求めることです。それが永遠の住まいに入るために賢い行動であるということです。私たちは、裸で生まれ裸で世を去らなければなりません。もともと、私たちのすべては神のものです。私たちはそれを管理するように任されています。自分のものとしてはいけないのです。救いは神の一方的な賜物です。それを自分の内のとどめてはいけません。それらは、神から委託されたものです。ですから、神の恵みの賜物を用いて、友をつくる、すなわち宣教することです。

イエスを信じ神の国に入る:

イエス様が来られたのは、世界の歴史の分岐点でした。その前の時代を紀元前、BC、ビフォークライストと言います。旧約の時代は、イスラエルの民は救い主の到来を待ち望んでいました。預言者たちによって、救い主がやがて来ることが預言されていた時代です。旧約の時代はバプテスマのヨハネの時までです。救い主イエス・キリストが来られて、新しい時代に入りました。神の国に入る条件は、イエス・キリストをあなたの救い主と信じるだけでよいのです。もう少しいうと、あなたが、罪を悔いて、イエス・キリストがあなたの救い主であることを口で告白してバプテスマを受ければ救われるというのです。これほど簡単な救いの方法はありません。イエス・キリストの救いは、私たちのすべての罪を十字架で身代わりとなってその罪の負債を取り除いてくださった事によります。その結果、罪赦されて永遠のいのちが与えられるのです。救いは、罪と死からの救いと言えます。そして、イエス・キリストによる救いの福音は、今日、全世界に宣伝えられて、すべての人々に届けられようとしています。そして、「だれもかれも、無理にでもこれに入ろうとする」時代となったのです。

<聖書>ルカによる福音書16章1~16節
【新改訳2017】
16:1 イエスは弟子たちに対しても、次のように語られた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この管理人が主人の財産を無駄遣いしている、という訴えが主人にあった。
16:2 主人は彼を呼んで言った。『おまえについて聞いたこの話は何なのか。会計の報告を出しなさい。もうおまえに、管理を任せておくわけにはいかない。』
16:3 管理人は心の中で考えた。『どうしよう。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力はないし、物乞いをするのは恥ずかしい。
16:4 分かった、こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、人々が私を家に迎えてくれるようにすればよいのだ。』
16:5 そこで彼は、主人の債務者たちを一人ひとり呼んで、最初の人に、『私の主人に、いくら借りがありますか』と言った。
16:6 その人は『油百バテ』と答えた。すると彼は、『あなたの証文を受け取り、座ってすぐに五十と書きなさい』と言った。
16:7 それから別の人に、『あなたは、いくら借りがありますか』と言うと、その人は『小麦百コル』と答えた。彼は、『あなたの証文を受け取り、八十と書きなさい』と言った。
16:8 主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた。この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである。
16:9 わたしはあなたがたに言います。不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。
16:10 最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。
16:11 ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなければ、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょうか。
16:12 また、他人のものに忠実でなければ、だれがあなたがたに、あなたがた自身のものを持たせるでしょうか。
16:13 どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。」
16:14 金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、イエスをあざ笑っていた。
16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。
16:16 律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音が宣べ伝えられ、だれもが力ずくで、そこに入ろうとしています。

イエスの弟子であるとは

2025年1月26日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカによる福音書14章25~35節
【新改訳2017】
14:25 さて、大勢の群衆がイエスと一緒に歩いていたが、イエスは振り向いて彼らに言われた。
14:26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。
14:27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。
14:28 あなたがたのうちに、塔を建てようとするとき、まず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、費用を計算しない人がいるでしょうか。
14:29 計算しないと、土台を据えただけで完成できず、見ていた人たちはみなその人を嘲って、
14:30 『この人は建て始めたのに、完成できなかった』と言うでしょう。
14:31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようと出て行くときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうか、まず座ってよく考えないでしょうか。
14:32 もしできないと思えば、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和の条件を尋ねるでしょう。
14:33 そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません。
14:34 塩は良いものです。しかし、もし塩が塩気をなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。
14:35 土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられます。聞く耳のある者は聞きなさい。」

<要約>
自分を捨てて本当の自由を得る:

イエス様の弟子となるための条件は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってついてきなさいというものです。そして、イエス様のために命を投げ出しなさいということです。救いは神の一方的な恵みです。無条件の救いです。私たちの側の努力はいらないのです。しかし、神は私たちが方向転換をすること、今までのように自分中心の思いでなく、思いを変えて神に従っていくことを要求なさるのです。先に述べましたが、自分中心から神中心に生き方を変える時にあなたの人生は本当に幸せで豊かになるからなのです。この「財産をすべて捨てる」というのは、自分の持ち物に対する権利を放棄するということです。もともと、私たちは裸で生まれ裸で死んでいかなければなりません。この地上におけるすべての富も財産ももともとすべて神の物です。私たちはそれらを管理するように任されているのです。自分を捨てて本当の自由を得る、と題してお話してきました。私たちは、自分の持ち物や自分の才能、自分自身にしがみついて、手放すことができないために本当の自由を失うのです。むしろ、神のために自分の権利を放棄して、神中心の生活をするときに、神はあなたのすべてをお用いになり、本当の自由といのちを自分のものとすることができるのです。

イエスの弟子に与えられるいのちと平安:

あなたは、ありのままのあなたで、イエス様のところへ行きましょう。イエス様はあなたを休ませてくださいます。そして、あなたには平安が与えられます。なぜでしょうか。それは、イエス様があなたの重荷となっている様々なことを代りに担ってくださるからです。あなたの重荷、それは、家族であるかもしれません。財産であるかもしれません。また、自分自身であるかもしれません。人間関係であるかもしれません。仕事であるかもしれません。それらはあなたを疲れさすでしょう。ですからそれらを手放して、イエス様にお委ねしなさいというのです。皆さん、「いのちが一番大切」と思って、自分のいのちにしがみついていませんか。だから苦しいし、疲れるのではないでしょうか。いのちより大切なもの、私にとって、それはイエス様の愛です。イエス様によって与えられるいのちの平安と喜びがあります。 イエス様の弟子であることは決して難しい生き方ではありません。イエス様を信じて、イエス様を愛して、イエス様と一緒に歩むとこから始まるのです。それがイエス様の弟子に与えられるいのちと平安です。

狭い門から入りなさい

2025年1月19日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカの福音書13章22~30節
13:22 イエスは町や村を通りながら教え、エルサレムへの旅を続けておられた。
13:23 すると、ある人が言った。「主よ、救われる人は少ないのですか。」イエスは人々に言われた。
13:24 「狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。
13:25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってから、あなたがたが外に立って戸をたたき始め、『ご主人様、開けてください』と言っても、主人は、『おまえたちがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。
13:26 すると、あなたがたはこう言い始めるでしょう。『私たちは、あなたの面前で食べたり飲んだりいたしました。また、あなたは私たちの大通りでお教えくださいました。』
13:27 しかし、主人はあなたがたに言います。『おまえたちがどこの者か、私は知らない。不義を行う者たち、みな私から離れて行け。』
13:28 あなたがたは、アブラハムやイサクやヤコブ、またすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分たちは外に放り出されているのを知って、そこで泣いて歯ぎしりするのです。
13:29 人々が東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。
13:30 いいですか、後にいる者が先になり、先にいる者が後になるのです。」

<要約>
救いの道は狭い門から入る:

「狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。」民族の救い主を待ち望んでいた当時の宗教指導者たちは、ユダヤ人は神に選ばれた特別な民であり、ユダヤ人たちは自動的に救われ、天の御国には入れると考えていたようです。ところが、イエス様は、「そうではない。あなたがた律法を与えられて、神から特別に選ばれた民であっても、悔い改めないなら皆同じように滅ぶ」と言ったのです。そこである人の質問があります。これは自動的に救われ天国に行けるという問題ではなくて悔い改めるということがなければ、みな滅びるということであれば、救われる人は少ないのですかという質問になったのです。イエス様が提供される救いは、もっと人間の根源的な救いです。それはすべての人が抱えている問題です。罪と死の問題です。多くの人は、宗教は恐ろしいと思っています。また、無神論で、天に至る救いなんてあるものか、と思っています。また、楽観的に誰でもこの世の命が終われば、天国に入ると思っている方々もいるかもしれません。しかし、聖書は救いの道は狭いと書いています。ほとんどの人が天の御国に入れずして、死と滅びに至る、と聖書は述べています。

救われるためになすべきこととは:

救われるために努力しなさいというのです。誤解していただきたくないのは善行を積んだり人に施しをしたりすることが救いの条件ではありません。神を恐れ、愛し、信頼することです。それは行いではなく、心の姿勢です。油断せず、常に心の内で神を恐れ、愛し、信頼していくこと。神を中心とした人生を築き上げていくことです。すなわち信仰です。信仰によって救われるのです。私たちは信仰を持ち続けるために、どうすればいいでしょうか。難しくないです。日々の生活の中の努力です。毎日、神の心を向けます。すなわち、思いを変えて、つまり悔い改めて、祈り、聖書読みます。そして礼拝を守ること、聖餐式を守ることです。それらは行いです。それらの行いをしていくとき、信仰が伴います。行いをとおして働く信仰です。日々の生活の中での行い、それが信仰をつくるのです。イエス様は共にいてくださいます。ここにあるおひとりの人には最後まで落ちることなく救われることを望んでおります。お祈りしましょう

新しい天と新しい地

2025年1月5日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨハネの黙示録21章1~8節
【新改訳2017】
21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
21:3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
21:4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」
21:5 すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」
21:6 また私に言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。
21:7 勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
21:8 しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。」

<要約>
人の罪ゆえに滅びに定められた現代の天と地:

創世記によると、神が全世界をつくられて、人をおつくりになったとき、「世界は非常に良かった」と書いています。しかし、アダムの堕落以来、人類に罪が入り、罪と死と滅びがすべての人に及びました。その罪ゆえに人は神から遠く離れてしまいました。ですから、生まれながらの人は、罪人で、神を認めることができません。信じることができません。罪ゆえに人には死が入りました。そして人は滅ぶべき存在となったのです。しかし、神は、人と最初の麗しい信頼と愛の関係を取り戻し、幸せな関係を取り戻したいと願っておられる愛と憐みの神です。キリストは世を救うために来られました。そして、すべての人の罪を贖うために2千年前に十字架で身代わりの死を遂げました。それは、「あなたがあなたの罪ゆえに滅ぼされることのないためです。キリストはあなたが受けるべき罪の罰を代わりに受けてくださったことによります。」

新しい天と地に招かれた者に約束された勝利の人生:

やがて、キリストが再び来られて、最後の審判と新しい創造による新天新地ができます。それは、私たちにとって、神と共に生きるという新しい命の始まりなのです。ここに、キリストの十字架により、罪赦された人々の集まりである教会の姿が描かれてあります。それでは新しい人新しい天に招かれた者として相応しい生き方とは何でしょう。先ほども言いましたが、私たちは生まれながらの罪びとです。そして同時に、罪許された罪びとです。罪の責めの一切はイエス様が十字架で追ってくださいました。ですから、赦された罪人は、罪に支配されません。では、新天心地に招かれた罪人のふさわしい生き方とは何でしょうか。それは、これからは、自分の弱さや罪に翻弄されることなく赦された罪びとして前向きに生きることです。失敗を恐れず神を愛し人を愛する生き方に注力していることです。神を愛し、人を愛する生き方とは具体的には何でしょうか。勝利を得るものとは何でしょうか?それは、日々、最も小さな、最も弱い姿で私たちの前に現れてくださる小さなイエス様に心を向ける生き方です。そして、そのようなイエス様を見上げる時に、キリストはあなたを新しく作り替えてくださるのです。すなわち、弱さを覚えて、キリストを見上げる者をキリストは新しく作り変えてくださるのです。ですから勝利を得るものはこれらのものを相続するのです。