雄々しくあれ強くあれ

2025年6月1日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨシュア記1章1~11、16~18節
【新改訳2017】
1:1 【主】のしもべモーセの死後、【主】はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げられた。
1:2 「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこの民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地に行け。
1:3 わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたがたに与えている。
1:4 あなたがたの領土は荒野からあのレバノン、そしてあの大河ユーフラテス川まで、ヒッタイト人の全土、日の入る方の大海までとなる。
1:5 あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
1:6 強くあれ。雄々しくあれ。あなたはわたしが父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ。
1:7 ただ強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。
1:8 このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。
1:9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、【主】があなたとともにおられるのだから。」
1:10 ヨシュアは民のつかさたちに命じた。
1:11 「宿営の中を巡って、民に命じなさい。『食糧を準備しなさい。三日のうちに、あなたがたはこのヨルダン川を渡るからだ。あなたがたの神、【主】があなたがたに与えて所有させようとしておられる地を占領するために、あなたがたは進むのだ。』」

1:16 彼らはヨシュアに答えた。「あなたが私たちに命じたことは、何でも行います。あなたが遣わすところには、どこでも参ります。
1:17 私たちは、あらゆる点でモーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。どうかあなたの神、【主】が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように。
1:18 あなたの命令に逆らい、あなたが私たちに命じることばに聞き従わない者はみな、殺されなければなりません。あなたは、ただ強く雄々しくあってください。」

<要約>
悔い改めるのを待っておられる神:

聖書に照らすと、人間の罪による腐敗は悪臭を放つほど甚だしいと言えます。私たち人間は普段罪がわからず、自分が罪人であると気付くこともありません。一般には、やってはいけないことをすることを罪と言います。泥棒、殺人、姦淫などです。しかし、罪は行いばかりでなく、思いとことばの領域のことも含んでいます。人を憎らしいと思ったら殺人罪、妻以外の女性に情欲を抱いたなら姦淫罪です。やってはいけないことをするのが罪と言いましたが、やらなくてはいけないことをしないのも罪です。困っている人を見ても助けないのも聖書では殺人罪です。心の領域まで見通すと、神の目には私たちはどんなに積み深いかがわかります。神は義なる方ですから、どんな小さな罪をも見逃すことはできません。必ず裁かなければなりません。しかし、神は待っておられます。何を、でしょうか。そうです、悔い改めです。思いを変えて神を見上げることです。こころを低くして救いを求める信仰です。

呪いを祝福に変える神:

神は、信仰を問うています。信じて生きるか、信じないで滅びるかということです。神を信じるものに、無条件に与えられるのが罪の赦しです。父なる神は裁きを与える代わりに赦すために、罪のないご自身のひとり子を与えてくださいました。神は正しい方ですので、罪に対しては必ずさばきを下します。しかし、人が裁かれ滅ぶのを惜しまれて、身代わりにご自身の子を十字架で裁いたのです。人は誰もが、死を恐れています。霊魂は無に帰するのではなく、神の前に立たされて、生きていた時の様々な罪に対して裁かれるのです。その得体のしれない裁きを恐れるので、死を恐れるのです。死はさばきであり呪いと言えます。決して渇くことのない、永遠のいのちへの水は、みことばと礼拝の中でいつも頂くことができます。それはイエス様を信じることです。今朝も、自分の罪を告白して、もう一度信仰に立つことです。これは何と大きな励ましのことばでしょうか。勝利に勝利を約束しています。決してあなたを見捨てず、あなたとともにいよう。心を強くして、勇敢であれ、勝利はあなたのものだ、と。信仰によって受け止めましょう。祝福の原則に立って、日々、熱心にみことばを聴き、礼拝に出席し説教を聞き、神を求めましょう。神の命令を守ることです。必ず祝福されます。

教会の鍵の権威とは?

2025年5月25日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイによる福音書16章13~19節
【新改訳2017】
16:13 さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。
16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」
16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
16:17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
16:18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。
16:19 わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」

<要約>
イエス・キリストは誰?:

私たちは自分の力では、イエス・キリストが神であり救い主であると告白することはできません。ですから、私たちは自分を誇ることができません。さらに「あなたはペテロ(岩)です。 わたしはこの大きな岩の上にわたしの教会を建てます。よみの門も教会に勝つことはできないとはどういうことでしょうか。黄泉の門、それは私たちの最後の敵である人間の死です。なぜなら キリストが その復活によって死を滅ぼされたからです。そして地獄のどんな恐ろしい力も、私の教会に打ち勝つことは出きません。」と言われました。教会はこの信仰告白の上に建っています。それは大きな岩であり、勝利を保証してくださっています。キリストご自身が保証人ですから、どんなにか確かなことでしょうか。私たちもペテロと同じように、神のことを思わないで、人のことを思っているということはないでしょうか。クリスチャンライフは自分中心ではなく神中心です。キリストは誰?と言う問いは、歴史を通して失われることはありませんでした。この問いは、あなたの生死を決定する問いです。殉教者たちはこの世のいのちは失いました。しかし、代わりにそれより素晴らしい永遠のいのちを得たのです。

幸いと勝利を保証する教会:

イエス様はペテロに天的権威を付与されました。キリストの代理権を与えたともいえます。最初に、これから形成される地上の教会のリーダーとなるペテロに語られました。しかし、それは、ペテロばかりではなく、続く教会のリーダーたちに与えられ継承されています。さらに教会の一人ひとりにも与えられています。では、鍵の権威の行使の第一番は何でしょうか。それは、罪の赦しです。罪の赦しによってキリストにつなぐことに対して、鍵の権威の行使のもう一つは、キリストを拒み、悔い改めない者を罪に定めることです。当教会は小さな群れですが、お一人お一人に神の賜物が与えられています。そして、この大いなる権限が委ねられているのです。イエス様に代わって、当教会は、信じる皆さんお一人お一人に幸いと勝利を保証しています。ですからハレルヤチャペル滝沢は幸いと勝利の教会です。そして、神はあなたに人生の幸いと勝利を保証してくださいます。

悪い知らせと良い知らせ

2025年5月18日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>エペソ人への手紙2章1~10節
【新改訳2017】
2:1 さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、
2:2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。
2:3 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。
2:6 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。
2:7 それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。
2:8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
2:10 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

<要約>
悪い知らせ(1~3節):

人間は神によってつくられ、神によって存在させられている者たちです。従って神を離れて生きることなどできません。ですから、肉体的には生きていてもそれは本当のいのちから離れた状態で、あたかも糸の切れた凧と同じで、どこへ行ってしまうかわからないのです。どうしてそんなことになってしまうのでしょうか。それが、「自分が犯した背きと罪」なのです。人生の意味や価値が失われてしまっているということです。そして、神から離れている人生は、「自分の肉欲に生き、肉と心の望むままを行っている」ということです。肉欲のとりこになっているというのです。ここの肉欲というのは、いわゆる情欲とか強欲というものだけではありません。生まれながらの人間の思いや言葉や行いは突き詰めるとすべて「自分のため」なのです。それは神のみ思いとかけ離れており肉と呼ばれるものです。すべての人は生まれながらの罪人なのです。これは、最大の悪い知らせと言えるのではないでしょうか。この死んでいるような状態から生き返らせることのできるお方は、ただ一人、すべてのものにいのちを与えられたつくり主で、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせられたお方以外にはありません。

良い知らせ(4~10節):

そのような、希望もなく、喜びもなく、滅びに向かっていた人間に対して、神は何をしてくださったでしょうか。人の「罪」のために、神が用意してくださった解決が、イエス・キリストです。私たちの罪にために死なれて、葬られ、三日目によみがえられました。そして信じ罪赦された者は、キリストと同じ復活のいのちが与えられるのです。神は私たち人間に、二つの相反する御思いを抱いておられます。一つは、私たち人間の罪のゆえに私たちを怒っておられるということ。もう一つは、私たちをご自身のいのちを捨てるほどに愛しておられるということ。神の怒りはキリストの十字架に落ちたので、信じるものの上には神の怒りはなく、もう一方の神の愛のみが注がれるのです。神からの賜物、プレゼントは神が与える救いです。それは、イエス様を信じて受け入れること、信仰を持って神の救いをいただくこと。そして罪と死と悪魔の力から救い出していただくのです。これ以上の良い知らせは この世界どこを探しても ありません。 それは あなたのために、神が用意してくださった救いです。ぜひ自分のものとしてください。

あなたは教会の何?

2025年5月4日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>Ⅰコリント12章12~27節
【新改訳2017】
12:12 ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
12:13 私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。
12:14 実際、からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています。
12:15 たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
12:16 たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。
12:18 しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。
12:19 もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。
12:20 しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。
12:21 目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。
12:22 それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。
12:23 また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、
12:24 格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。
12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。
12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。

<要約>
教会はキリストのからだ:

教会はキリストのからだであり、信者はそれぞれがその部分であり器官なのです。わたしたちの生きているからだは活動しています。からだが活動するためには、からだを構成している器官が互いに役割を果たしているからです。コリント教会の人々は、重要でないと見えるクリスチャンを見下していたことがあったようです。そうではなく、教会は、かえって、劣った人、弱い人、貧しい人を尊ぶところです。これは頭であるキリストのご性質そのものだからです。教会がキリストのからだとして活動していくために、聖霊は信者に賜物、すなわち才能や役割をお与えになります。その賜物によって、信者が教会の中で様々な働きを担うのです。そして、教会は活動し成長していくのです。それらの能力や働きには違いがありますが、優劣がないのです。神はすべての人を分け隔てなく愛しております。生まれながらの人間は、真の神を知ることも信じることもできません。聖書は創り主なる神がおられ、その神は万物の父であると述べています。人は永遠なるものを求めています。ところが、神と人との隔てとなっているものがあります。それが人の罪です。罪のために霊の目が曇っており、見出せないのです。イエス様は無条件で私たちを愛し、ご自身のいのちを捨ててくださったのです。それによる救いを無条件で受けている私たちも無条件で愛することができるように祈り、そしてささげたいと思います。

教会はキリストの花嫁:

「教会はキリストのからだ」であるという話をしました。聖書は「教会そして、クリスチャンである私たちはキリストの花嫁」であるとも言っております。クリスチャンは、イエス様と結婚したのと同じです。これは、例えていうなら、一国の富のすべてを手の中に納めている王子と多額の借金を抱えた奴隷娘が結婚したようなものです。奴隷娘の借金は王子のものとなり、王子の持っている一国の富は奴隷娘のものになります。もちろん娘の借金はゼロになり、娘は王妃の身分を得るのです。クリスチャンはこれと同じなのです。あなたは教会の何?と題して説教しました。私は、そしてあなたは、ハレルヤチャペルの会員です。しかし、もっと重要なことは、あなたはキリストのからだの一部であるということです。そして、かしらであるキリストの思いを思いとして世にあらわしていくことです。

必要なことは一つだけ

2025年4月27日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカによる福音書10章38~42節
【新改訳2017】
10:38 さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
10:41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
10:42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

<要約>
不平と不満に変わる人間の愛:

神が、わたしを愛して、わたしにとって最善を導いてくださっているという確固たる神への信頼を持っていれば、わたしは不平や不満を抱かないはずです。神は全能者です。あなたの神の毛の数さえも知っておられるのです。まして、あなたの重荷や苦しみはすべてご存知なのです。マルタは、「イエス様はわたしの気持ちがわからないのかしら」と思ったようですが、決してそんなことはなかったのです。神は、私たちにこの上もない寛容を示しておられます。マルタはイエス様を愛していました。しかし、その愛は不平と不満に変わっていきました。イエス様のためにという思いは、次第に、自己愛に変わってきたのです。何もしないマリヤを憎らしく思いました。そればかりでなく、イエス様に対しても、不平不満を漏らしました。このように私たち人間の愛は、自分が不利に立たされると不平不満に変わりやすいのです。神を愛しているといいながら、突き詰めれば自分よがりな自己愛なのです。

どうしても必要なこと:

聖書を読んで祈るというのは、クリスチャンの日々の営みです。日常生活の色々な要素の中で、最も必要なことです。それは、神との交わりであり、神との会話であり、神のいのちにつながって生きるということです。イエス・キリストはブドウの木で私たちはその枝です、というのです。もし、枝が幹につながっていなければ、実を結ぶことができないばかりか、枯れていのちをうしなうというのです。聖書は、人間が真のいのちに生きるために、どうしても必要なものがあると教えています。それは、ずばり、イエス・キリストを信じることです。イエス・キリストは一言で言えば、「救い主」です。何からの救いかというと、罪と死と滅びからの救いです。わたしたちは生まれながらの罪びとで、自らの罪のために死すべき存在です。死は肉体の死ばかりでなく永遠の滅びを指します。キリストがその十字架を通して私たちのすべての罪を赦してくださっているのです。その無条件の救いを無代価で提供してくださっているのです。私たちのすることは、ただ、イエス・キリストを救い主と信じれが良いのです。それは、キリスト・イエスにある永遠の命です。肉体のいのちはやがて閉じるのですが、神の命につながっているので、永遠のいのちに生きるのです。

喜びと希望のイースター

2025年3月20日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨハネによる福音書20章1~18節
【新改訳2017】
20:1 さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。
20:2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」
20:3 そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。
20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
20:5 そして、身をかがめると、亜麻布が置いてあるのが見えたが、中に入らなかった。
20:6 彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
20:7 イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。
20:8 そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。
20:9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。
20:10 それで、弟子たちは再び自分たちのところに帰って行った。
20:11 一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
20:12 すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。
20:13 彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」
20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。
20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」
20:16 イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。
20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」
20:18 マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。

<要約>
悲しみと絶望は喜びと希望に変わる:

死がもたらす別離の悲しみは多くの人が経験するものです。人の死は、自分の死を見つめる機会となります。死を見つめることは大切であることを聖書は説いています。イエス様を信じる者には、死が、喜びへの入り口であり、希望であります。そこに福音の力があります。イエス様の救いは、罪と死と滅びからの救いです。生まれながらの人間は自らの罪により死と滅びに定められています。しかし、イエス様の十字架はその罪を取り除いてくださったのです。信じる者には、罪の報酬としての死はもうなくなりました。ただ、神からのプレゼントとしての永遠の命があるのです。これが、イエス様が十字架で死んで復活されたことの意味です。イエス・キリストが歴史的人物で偉大な聖人であると聞いていても、救い主であることを知らない人々がほとんどです。そのような方々には、いまだに、死の別離は大きな悲しみであり、また、やがて来る自分の死もあきらめて受け入れていかなければならないものに違いないのです。それに対して、キリストの十字架と復活を信じる者には、永遠のいのちが与えられます。信じる者には、悲しみは喜びに、絶望は希望に変わるということです。

すがりつく信仰と祝福:

マリヤは「だれかが私の主を取っていきました」と「私の主」と言いました。マリヤは、私たちの主、ではなく、私の主とイエス様を独占しています。弟子のトマスもイエス様を「私の主、私の神よ」と言っています。これは何を意味しているのでしょうか?私たちは、イエス様を独り占めにしておすがりしてよいということです。主は、あなたを個人的に求めておられます。私の主と言って、主を独占し、主にすがりつき、主の元から離れない信仰者の代表でした。イエス様はすがりつく者の声に耳を傾けてくださいます。すがりつく者はイエス様をそれだけ深く体験していると言えるでしょう。それは大きな祝福です。神を身近に体験できるということは何という祝福でしょうか。イエス様と疎遠になっていませんか?イエス様に近づきましょう。具体的には主を呼び求めることです。朝に夕に主を呼び求めることです。主はみことばを持って答えてくださいます。聖書の言葉をとおして私たちに語りかけ私たちを強めてくださいます。聖書を毎日読みましょう。あなたに苦難や困難に乗り越える力を与えくださいます。

裁きと赦しの法則

2025年3月30日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
赦しの力;

目に見える世界に万有引力の法則があるのと同じくらい、目に見えない霊の世界にも法則があります。その一つに、2節にあるように、人を裁くと裁かれるという法則です。壁にぶつけたボールは強くぶつけただけの勢いで反ってきます。人を裁くと同じくらいの強さで自分に帰ってくるのです。同様に「あなたが量る通りの量であなた方もはかられる。」のです。また、もう一つに、人を赦すと赦されるという法則があります。自分の罪の大きさがわかると、人の罪が目立たなくなり、人を赦すことができるのです。そして自分の罪の深さがわかればわかるほど赦しの大きさがわかり、すなわち全ての罪が赦されている恵を実感するのです。イエス様は十字架で、裁きを赦しに変えてくださったのです。「赦すためです、主の十字架」という賛美があります。赦しが真の平和をもたらし、和解をもたらします。赦し合うことによって、真の幸いが来るのです。イエス・キリストは裁きの法則が主導している人間社会に、赦しの法則をもたらしてくださったのです。

福音は神の力:

聖なるものと真珠は福音のことを指しています。キリストの救いの福音は金よりも純金よりも真珠よりもはるかに価値のあるものです。神がその命を代価として差し出して産み出されたものだからです。神は人間を犬や豚ではなく、高価で尊い存在としてごらんになっています。しかし、真珠を踏みつける豚や犬のようにこれほど価値のある神の福音を拒んでしまうのも人間です。高価な真珠はそれを身に着ける人の価値を高めます。また、その価値を引き出す働きがあります。気品のある方が高価な真珠を身に着けるとその気品がさらに輝きを増すでしょう。福音の価値がわかればわかるほどに私たち自分自身の価値がわかってくるのです。自分がいかに神に愛されている存在なのか、そして自分を大切な存在として、「自分は神に選ばれたオンリイワン」であることに気づくのです。福音は私たちのよいところを引き出してくれます。自分の使命、用いていただきたいと言う願いが表れます。 福音は私たちを罪の滅びから救い出すばかりでなく、私たち人間が生きる意味や価値を明らかにしてくれるのです。福音はあなたを滅びから救い出し、永遠のいのちを与えます。さらに、あなたを神の最高の作品として輝かせるのです。それこそが福音の力です。

<聖書>マタイの福音書7章1~6節
【新改訳2017】
7:1 さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。
7:2 あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。
7:3 あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。
7:4 兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。
7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。
7:6 聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります。

罪を赦すために来られた神

2025年3月23日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
罪と病いと死の関係:

当時の社会は、因果応報の考えが一般的で、病は罪のためであると考えていたようです。現代でも、罪と病は全く無関係とはいえません。罪からくる悪習慣による病気もあります。暴飲暴食からくる健康被害、喫煙がもたらす健康障害、性病などもそうかもしれません。しかし、多くの病は罪と無関係であるといえます。がんとか遺伝病も多くは罪と関係ありません。別の個所で、イエス様は、生まれつきの盲人に道でお会いになりました。そして、彼が生まれついたのは罪のためではなく、神の御業があらわされるためであると言って、彼の眼を開かれました。この場合、病は神の栄光のわざの顕われであったのです。かたや、病と死は創造の初めからあったものではなく、アダムの罪によって人類に入ってきたものです。ですから、根元的には、病気や死は罪の結果ともいえます。そのように罪と病と死は密接に関係しているといえます。イエス様はその根元的な罪を取り除くために来られました。あなたを罪と死と、そして、悪魔から救うために来られたのです。

罪を赦す十字架:

神であるイエス様が地上に来られた目的は、罪の赦しの権威を行使するためでした。つまり、人の罪を赦すために来られたのです。罪人にご自身を与えつくすために来られました。それは、実に、イエス・キリストは、十字架にかかるために来られたといえます。十字架とは何でしょうか。それは、死刑の道具です。無実の神が人の身代わりとなって罪の罰を負ってくださった。無実の神があなたの身代わりとなってあなたが受けるべき罰を受けてくださったのです。イエス様はあなたの罪のために来てくださった、神が家畜小屋で最も貧しい人となって生まれてくださった。それは、あなたの罪を赦し、新しい人としての再生させるために生まれてくださったのです。クリスマスには、世界中の人々がこの救い主の誕生を祝います。何からの救いでしょうか。罪と死と悪魔からの救いです。キリストの罪の赦しを受けたあなたは、過去、現在、未来のすべての罪が赦されているがゆえに、罪の責めを受けなくてもよいのです。そして、むしろ神に喜ばれることを積極的に行うことができるようになります。それは、隣人を愛するという行為となって表れるのです。罪の赦しの条件はただ一つ、イエス様を信じることです。

<聖書>ルカによる福音書5章17~26節
【新改訳2017】
5:17 ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人たちと律法の教師たちが、そこに座っていた。彼らはガリラヤとユダヤのすべての村やエルサレムから来ていた。イエスは主の御力によって、病気を治しておられた。
5:18 すると見よ。男たちが、中風をわずらっている人を床に載せて運んで来た。そして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとした。
5:19 しかし、大勢の人のために病人を運び込む方法が見つからなかったので、屋上に上って瓦をはがし、そこから彼の寝床を、人々の真ん中、イエスの前につり降ろした。
5:20 イエスは彼らの信仰を見て、「友よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
5:21 ところが、律法学者たち、パリサイ人たちはあれこれ考え始めた。「神への冒?を口にするこの人は、いったい何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」
5:22 イエスは彼らがあれこれ考えているのを見抜いて言われた。「あなたがたは心の中で何を考えているのか。
5:23 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
5:24 しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、中風の人に言われた。「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」
5:25 すると彼はすぐに人々の前で立ち上がり、寝ていた床を担ぎ、神をあがめながら自分の家に帰って行った。
5:26 人々はみな非常に驚き、神をあがめた。また、恐れに満たされて言った。「私たちは今日、驚くべきことを見た。」

ゆるぎない平安

2025年3月16日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書6章25~34節
【新改訳2017】
6:25 ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。
6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。
6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。
6:28 なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。
6:30 今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。
6:31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。
6:32 これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。
6:33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
6:34 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

<要約>
人の不安はどこから:

生まれながらの人間は、罪人で、いのちの源である神から離れて、神を認めることができず、自分のいのちの意味を見出せない状態にあります。ですから、不安に陥る根源的な原因には、罪の問題があるのです。罪から来る報酬は死です、とありますように、罪の結果は死です。人の不安はどこからと題してお話ししています。私たちは、先が見えない、未来がわからない、自分がこの後、どうなるのだろうか?死んだ後どうなるのか?自分の存在はどうなってしまうのだろうか?自分がこの世の中で生きている意味は何なのだろうか?と不安になります。人の不安は、根源的には罪からきています。神との関係が失われて、神の恵みと愛、そこからくる平安を受け取ることができない状態になるからです。そして、聖書は、私たち人間はどこからきてどこへ向かっているのかを説明しています。最初があり終わりがあります。この世の中は最終的には、罪によって滅ぶのですが、新しい天と新しい地が用意されているので心配しなくてよいと語っています。

神がくださるゆるぎない平安:

イエス様は、体や命のことで心配しなくてもいい。神があなたに約束していることは、最終的には素晴らしい祝福と恵みの世界です。ですから、今、与えられたいのちを主のために用いなさいということです。優れたことのために用いなさい、ということです。神が与えるゆるぎない平安と題してお話ししました。私たちにはいろいろな心配事があります。明日のことは、明日が心配します。労苦はその日に充分あります、とある通り、私たちは、その日その日を心配するのみでよいのです。神が私たちの人生の最初から終わりまで、そして永遠に至るまで、責任を持って導いてくださいます。そのことをよく心しておく必要があります。ですから、今、私たちができることは神の国と神の義を求めること、つまり神をいつも心の中心において、神との関係を大切にして行く歩みが求められています。そうすれば、生きる上での様々な必要は、すべて、与えられます。キリストにあるものはゆるぎない平安を得ることができると聖書は約束しています。私たちはイエス様が与える平安をいただいています。それは揺るぎない平安です。最後の敵である死をも滅ぼし、復活のいのちに生かしてくださるからです。どんなときも心騒がせることなく、ひるむことなく、神を見上げて参りましょう。

地の塩、世の光

2025年3月2日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
塩気を保つクリスチャンライフ:

塩気を保ったクリスチャンライフは、みことばに立った生活を送るということです。聖書の中心である福音をしっかり押さえて生活することです。それはイエス様の十字架と復活をしっかり信じているということにかかっています。聖書の中心メッセージは、神は御子イエス・キリストによりあなたや私を罪と死と悪魔から救ってくださったということです。私たち人間は自らの罪のゆえに、死と滅びに定められています。神は、人が滅びるのを惜しんで、そのすべて人の罪を神の独り子キリストに背負わせて、身代わりとして十字架刑で死に至らせたのです。そこに神の愛があらわされています。そればかりでなく死んで3日目に復活しました。それを信じる者はに永遠の命を与えてくださいます。クリスチャンが塩気を保つことは難しいことではありません。まず、イエス・キリストを信じる信仰によって生きることです。そして、あなたが塩気を保つ 生活をするためには聖書のみことばに立って生活することです。そのために、聖書を読み、聖書に親しみ、みことばを蓄えなければなりません。

世の光として輝くクリスチャンライフ:

クリスチャンは地の塩ですが、塩の塩気は味わってみなければわかりません。しかし、光は外に向けて放たれ周りの人々に届いていきます。そこには積極的に生きる証のクリスチャンライフがあります。失敗を恐れず、前向きに生きることです。それぞれが遣わされている三つの職域、教会、家庭、職場あるいは学校、それぞれのところで最善を尽くすことです。神を愛し、人を愛する生涯です。あなた方の光をマスの下においてはいけない、隠れていてはいけない、世に出て行きなさい。光は闇を吹き払うのです。光は、目に見えるものです。ある時はそれは灯台となり、迷った人を正しく導くでしょう。世の光として輝くために、私たちは何に努力しなければならないかです。努力するべきことは、信仰に励むことです。行いではないのです。すなわち、神との関係に生きることです。具体的には、神を恐れ、愛し、信頼することです。神との関係が正されると、行いは自然と出てきます。あなたの光は輝きます。塩は塩気を取り戻し、あなたは世の中に良い影響を及ぼします。火があるところには必ず光が生じます。そのように信仰がある人は必ずよい影響を周りに及ぼしていくのです。

<聖書>マタイの福音書5章13~16節
【新改訳2017】
5:13 あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。
5:14 あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
5:15 また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

岩手県滝沢市のプロテスタント教会