2017年2月19日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>Ⅱ列王記5章1~17節
5:1 アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。【主】がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士で、ツァラアトに冒されていた。
5:2 アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から、ひとりの若い娘を捕らえて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていたが、
5:3 その女主人に言った。「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのツァラアトを直してくださるでしょうに。」
5:4 それで、ナアマンはその主君のところに行き、イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。
5:5 アラムの王は言った。「行って来なさい。私がイスラエルの王にあてて手紙を送ろう。」そこで、ナアマンは銀十タラントと、金六千シェケルと、晴れ着十着とを持って出かけた。
5:6 彼はイスラエルの王あての次のような手紙を持って行った。「さて、この手紙があなたに届きましたら、実は家臣ナアマンをあなたのところに送りましたので、彼のツァラアトを直してくださいますように。」
5:7 イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の服を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、ツァラアトを直せと言う。しかし、考えてみなさい。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」
5:8 神の人エリシャは、イスラエルの王が服を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人をやって言った。「あなたはどうして服を引き裂いたりなさるのですか。彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」
5:9 こうして、ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った。
5:10 エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」
5:11 しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、【主】の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。
5:12 ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。」こうして、彼は怒って帰途についた。
5:13 そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」
5:14 そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。
5:15 そこで、彼はその一行の者を全部連れて神の人のところに引き返し、彼の前に来て、立って言った。「私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました。それで、どうか今、あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。」
5:16 神の人は言った。「私が仕えている【主】は生きておられる。私は決して受け取りません。」それでも、ナアマンは、受け取らせようとしきりに彼に勧めたが、彼は断った。
5:17 そこでナアマンは言った。「だめでしたら、どうか二頭の騾馬に載せるだけの土をしもべに与えてください。しもべはこれからはもう、ほかの神々に全焼のいけにえや、その他のいけにえをささげず、ただ【主】にのみささげますから。
<要約>
悩みがもたらすもの:
ナアマンの悩みは、病気の悩みでした。病気はすべての人に襲い来るものです。ある意味ではありふれた悩みであります。ナアマンは悩みを通して、イスラエルの真の神に近づきました。いや、これは、神の方で彼を摂理の中に招いたのです。主が捕虜の若い娘に働いて進言させたのです。神は和平というこの状況を作り、ナアマンにあわれみをおかけになったのです。私たちも、自分の病、そして、家族の病を通して神は私たちに悩みを与え、「わたしに来なさい」と招いておられるのです。私もかつて、病気をきっかけとして、神を求め救われました。大学3年生の時、吐血で入院しました。私の出血は点滴ですぐに止まったのですが、私の隣のベッドの方は若くしてある夜出血して吐血して最後まで止まらずに亡くなりました。間近にそれを見た私は、死を恐れ、また、死後どこへ行くのかわからず不安に悩まされたのです。その悩みを通して、KGKの夏季キャンプに導かれて、イエス・キリストを救い主として信じました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」イエス・キリストを信じる者に与えられる永遠の命です。死は絶望ではなく永遠に至る門であることがわかったのです。死は恐怖ではなくなったのです。さらに死後にある神とともにあるいのちの希望、復活の希望が与えられています。悩みは、人の心を暗くして、憂鬱にします。しかし、悩んでいる時、神はその人の近くにおられるのです。そして、その人を招いておられます。悩んで、祈りに導かれることは幸いです。悩んで祈り、神を求めるとき、神を体験し、神を崇めるようになるのです。これは約束です。悩みは、神と出会うチャンスであると言えます。
従順により神を見る:
ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立ちました。しかし、エリシャは、ナアマンを出迎えずに使いをやって、指示だけを与えるのでした。それは、ヨルダン川へ行って七たび体を洗いなさい、そうすれば、身体は元通りになるというのです。しかし、ナアマンは、エリシャが顔も見せないで、指示だけを与えたことに怒りを燃やしました。彼は、エリシャが出てきて、主を呼び求めて、ナアマンの身体の悪いところに手を差し伸べて癒してくれると考えていました。このように、ナアマンは「何か大いなること」を期待していました。しかし、あまりにも単純な指示であったのです。ヨルダン川で身を浸して洗うというのは、あまりにも簡単で、愚かに見えたのです。それだったら、ヨルダン川よりももっと良い川がアラムにはある。それらの川で身を洗ってきよくなれないだろうかと、言い、怒って帰途に就いたとあります。その時、彼のしもべたちが彼の所に来ていいました。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」神の指示は、決して難しいものではありません。一言です。今日もあなたに「悔い改めて、神を信じなさい」と語っています。あるいは、「み言葉を信じて従いなさい」と聖書を通して語っておられます。あまり、単純なことなので聞き流すのでしょうか。神のことばを真摯に受け止める者は幸いです。エリシャは、ナアマンがエリシャの力で癒されたと思わないようにしたのです。だから、神からの指示だけを与えたのです。癒し主は真の神、主であることを彼に示したのです。信仰を持って行動した時に癒されるのです。ナアマンは、無礼に扱われたように感じ、怒りました。しかし、しもべたちの進言に謙虚に耳を傾けました。そして、へりくだって、愚かにも見えるエリシャの指示に従ったのです。ナアマンは謙遜にされたのです。ナアマンは神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に降りて行って、七回身を浸したのです。そうしたら、幼子の身体のようになりきよくなりました。ナアマンは神のことばに従順に従いました。ここに、神のわざが起こる原則が示されています。私たちも日々、みことばをいただきます。神からの指示があるでしょう。それに対する自分の思いもあるでしょう。ナアマンは、反抗して怒りました。私たちも素直に従えないような思いになるかもしれません。しかし、ナアマンは神のことばに従って、大いなる奇跡を見て、そして癒されました。さらに信仰が与えられました。ポイントは、従うということ、従順ということです。従順はクリスチャンライフのキーワードです。もしあなたが、神のことば、あるいは神に従順であれば、あなたは神の御業を見ます。あなたの日常生活の中で神が働きみわざを起こしていてくださるのが見えてきます。その神の御業を見て、あなたの信仰は強められて感謝にあふれるでしょう。そして、あなたはまた神に従順であろうとするのです。そして、次に来るみことばに従う時、神のご介入、みわざ、奇跡を見ます。信仰が強められて、感謝にあふれます。そして、また、みことばを慕い求めるのです。これを信仰の正の循環と言います。
福音のことばを受け取る:
ナアマンは、早速エリシャの所に帰って来て、信仰告白をします。「私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました。」真の神はただ一人、天地万物をおつくりになり、私たちにいのちを与え、そして全宇宙を保っておられる方です。ナアマンはその信仰に至ったのです。その信仰によって、身体の病ばかりでなく魂のいのちも救われました。そして、ナアマンは、多額で高価な贈り物をエリシャに進めます。しかし、エリシャは受け取らなかったのです。エリシャは無欲で高潔な人物であったことがわかります。それは、エリシャは、ナアマンに神の恵みはどういうものかを教えようとしたのです。すなわち、神の救いの恵みは、金銭で買えないものであること、すなわち無代価な恵み、であることを示したのです。新約の時代に至り、この神の恵み、すなわち福音は神のひとり子のいのちの代価によって得られた無限に尊い恵みであることがわかります。ゆえに、どんな金銭でも得られるものではないのです。福音は簡単です。「人間はその罪により死後裁かれて、そのままでは永遠の滅びに行かなければならない。しかし、神はそのことを惜しんで、罪のない神のひとり子であるキリストに人間のすべての罪を負わせました。そして、むごたらしい十字架で人の身代わりとして裁き死に至らせました。だから、キリストがあなたのために代わって死んでくださった事を信じるなら、それだけで、あなたの罪は赦されて、神の怒りは去り、あなたの上に神の祝福が注がれるのです。」人は、知識としては分かるのですが、なかなか理解して信じることは難しいようです。なぜなら、まず、自分の罪がわからないし、死後裁かれる、などというのは非常に愚かしく聞こえます。パウロは「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」と言いました。「十字架のことば、福音は、人間の知恵では愚かに見えます。そして、神がお与えくださった福音を愚かだと思い、受け取ることのない人々は自らの罪のために滅びに至ります。しかし、これを素直に受け取り信じる者には、福音はことばで言えない恵みです。そして、あなたは神の無限の力に支えられるのです。」今日、是非この十字架のことば、福音を受け取っていただきたいと思います。何の条件もいりません。ただ、あなたの両手をあげて、心を天の神に向けて、そこから注がれる恵み、神の約束です。罪の赦しと永遠のいのちを受け取ればよいのです。