悲しみと失意を喜びと希望に

2019年09月22日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>ルツ記2章1~13節
2:1 さて、ナオミには、夫エリメレクの一族に属する一人の有力な親戚がいた。その人の名はボアズであった。
2:2 モアブの女ルツはナオミに言った。「畑に行かせてください。そして、親切にしてくれる人のうしろで落ち穂を拾い集めさせてください。」ナオミは「娘よ、行っておいで」と言った。
2:3 ルツは出かけて行って、刈り入れをする人たちの後について畑で落ち穂を拾い集めた。それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑であった。
2:4 ちょうどそのとき、ボアズがベツレヘムからやって来て、刈る人たちに言った。「【主】があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「【主】があなたを祝福されますように」と答えた。
2:5 ボアズは、刈る人たちの世話をしている若い者に言った。「あれはだれの娘か。」
2:6 刈る人たちの世話をしている若い者は答えた。「あれは、ナオミと一緒にモアブの野から戻って来たモアブの娘です。
2:7 彼女は『刈る人たちの後について、束のところで落ち穂を拾い集めさせてください』と言いました。ここに来て、朝から今までほとんど家で休みもせず、ずっと立ち働いています。」
2:8 ボアズはルツに言った。「娘さん、よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ってはいけません。ここから移ってもいけません。私のところの若い女たちのそばを離れず、ここにいなさい。
2:9 刈り取っている畑を見つけたら、彼女たちの後について行きなさい。私は若い者たちに、あなたの邪魔をしてはならない、と命じておきました。喉が渇いたら、水がめのところに行って、若い者たちが汲んだ水を飲みなさい。」
2:10 彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。「どうして私に親切にし、気遣ってくださるのですか。私はよそ者ですのに。」
2:11 ボアズは答えた。「あなたの夫が亡くなってから、あなたが姑にしたこと、それに自分の父母や生まれ故郷を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私は詳しく話を聞いています。
2:12 【主】があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、【主】から、豊かな報いがあるように。」
2:13 彼女は言った。「ご主人様、私はあなたのご好意を得たいと存じます。あなたは私を慰め、このはしための心に語りかけてくださいました。私はあなたのはしための一人にも及びませんのに。」

<要約>

麗しい人間関係の土台:

嫁と姑は一般的には仲良くなれないことが多いのです。大げさではなく、嫁姑の関係は、人類の永遠の課題であると言えます。信仰の父と呼ばれるアブラハムの子のイサクの妻リベカも、長男エソウの嫁のことで、悩んでいたという記事があります。それは、聖書にみられる嫁姑の事例です。嫁姑の問題を見ましたが、信仰の父といわれるアブラハムも親子の問題、夫婦の問題で苦労しました。このように、私たちクリスチャンも嫁姑の問題、親子の問題でつまずくのです。私たちは最も近い隣人である親子の人間関係から発して、兄弟関係、夫婦関係、嫁姑の関係など絶えず問題を抱えています。それは、結局のところ私たち人間は自分中心で、他人のことを優先して考えることができないところにその原因があるのです。イエス様が言われた「あなたの隣人をあなたと同様に愛しなさい」という道徳律法を現実には守ることができないのが私たちの姿です。それは私たち人間の罪ということができます。ですから、ルツのナオミに対する誠意のある言葉は、私たちの普通の心からは出てこない言葉なのです。信仰によってしか生まれてこない言葉です。それは、私たち信者がキリストに対する誠意を表す言葉ということができます。ですから、麗しい人間関係の土台は信仰であると言えます。

喜びの交換:

ベツレヘムに着いたナオミとルツは、食べていくために早速落穂ひろいに行きます。ルツが仕事を始めていると、ちょうどその時、ボアズがやってきました。ルツとボアズの出会いは実に美しく絵になる情景であったと思います。やがて二人は結婚して、男の子が与えられました。その名はオベデ。オベデはダビデの父エッサイの父と書いています。ダビデのおじいさんということです。そしてダビデの子孫にイエス・キリストがお生まれになるのです。ルツ記は、ハッピーエンドです。信仰によって決断していく人はハッピーエンドです。信仰者はどんなことがあっても最後は、ハッピーエンドの人生なのです。私たちに約束されている天国の希望と祝福は永遠のものです。そのことが本当に分かると、この世の束の間の苦しみは取るに足りないものとなるのです。私たちはナオミやルツのように失意や苦しみに会うことがあります。その様な時こそ、神はあわれみと祝福の御手を伸べていてくださるということを覚えたいと思います。ボアズに買い取られたルツの幸いは、キリストに代価を払って買い取られた私たち信者の幸いを映しています。ボアズとルツは結婚して夫婦になりました。ボアズとルツの関係はキリストと教会の関係を示しています。夫婦のきずなは一心同体です。教会である私たち一人ひとりとキリストの関係は、一心同体です。夫婦では、夫あるいは妻の苦しみは双方の苦しみとなり、夫あるいは妻の喜びは双方の喜びとなるのです。ルツが夫を亡くした悲しみや苦しみは、ボアズによってすっかり拭い去られて、逆に喜びに変えられたのです。私たちもキリストにより私たちの持っているマイナスはすべてプラスに変えられるのです。ルターは、キリストとの結合を「わたしとキリストは膠でくっついている。」と表現しています。キリストと信者とは一体であり、一人の人格となり、分離することができないというのです。一体となったキリストと私の間には喜びの交換がなされるのです。すなわち、キリストにある勝利、義、いのちなどが私のものになるのです。逆に、私の罪や死などはキリストのものとなっているからです。それは、大変な負債を抱えた貧しい娘が、巨万の富を持つ王子と結婚するようなものです。貧しい娘の負債は全くなくなり、娘は王女としての身分、そして富や豊かさを全部もらうのと同じです。これを喜びの交換と言います。キリストを信じてキリストにつく者とされた私たちは、喜びの交換を体験しているのです。あなたの持つ悲しみと失意は、キリストのものとなりやがて溶け去ります。逆に、キリストの喜びと希望があなたの中に宿るのです。

罪の贖いによる和解

2019年09月15日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>創世記45章1~15節
45:1 ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、「皆を私のところから出しなさい」と叫んだ。ヨセフが兄弟たちに自分のことを明かしたとき、彼のそばに立っている者はだれもいなかった。
45:2 ヨセフは声をあげて泣いた。エジプト人はその声を聞き、ファラオの家の者もそれを聞いた。
45:3 ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」兄弟たちはヨセフを前にして、驚きのあまり、答えることができなかった。
45:4 ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私は、あなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。
45:5 私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。
45:6 というのは、この二年の間、国中に飢饉が起きていますが、まだあと五年は、耕すことも刈り入れることもないからです。
45:7 神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。
45:8 ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。神は私を、ファラオには父とし、その全家には主人とし、またエジプト全土の統治者とされました。
45:9 どうか、急いで父上のところに上って行き、言ってください。『息子のヨセフがこう言いました。「神は私をエジプト全土の主とされました。ためらうことなく私のところに下って来てください。
45:10 ゴシェンの地に住んで、私の近くにいてください。父上も、子と孫、羊と牛、また父上に属するすべてのものも。
45:11 飢饉はあと五年続きますから、父上も家族も、また父上に属するすべてのものも、困ることのないように、私が父上をそこで養いましょう」と。』
45:12 さあ、あなたがたも、弟のベニヤミンも、自分の目でしっかり見てください。あなたがたに話しているのは、この私の口です。
45:13 あなたがたは、エジプトでの私のすべての栄誉と、あなたがたが見た一切のことを父上に告げ、急いで父上をここに連れて来てください。」
45:14 彼は弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンも彼の首を抱いて泣いた。
45:15 彼はまた、兄弟みなに口づけし、彼らを抱いて泣いた。それから兄弟たちは彼と語り合った。

<要約>

罪の負債を清算できない人間:

彼らは、過去の自分たちが行った悪に対して後悔しておりました。一人の人の人生を奪った罪は大きいのです。長男ルベンの説得で殺人は犯さなかったにせよ、兄弟であるヨセフにあわれみをかけることなく奴隷として売り飛ばしました。罪は呪いとなって帰ってきます。これは、壁に向かって投げたボールが跳ね返って帰ってくるのと同じくらい確かな法則です。蒔いた罪の種のために災いを刈り取りらなければなりません。ヨセフの兄弟たちを見ると、罪の負債を返すことのできない人間の姿が描き出されています。「彼の血の報いを受けているのだ」とルベンは言っています。これは、罪の呪いを恐れる人間の姿です。罪の結果は刈りとらなければならないのです。盗んだら返さなければならない、損害を与えたら弁償しなければならないのです。心の罪が行いになると実害が生じます。憎しみは十戒に照らすと殺人罪です。兄弟に向かって腹を立てる者は燃えるゲヘナに投げ込まれる、また、情欲を抱いて女性を見たら姦淫罪であるとイエス様は言われました。十戒を中心とした律法は私たちの罪を指摘し絶えず責め立てます。律法は天地が滅び失せない限り消えません。つまり、罪も消えないのです。罪を消す唯一の方法を神はお与えくださいました。それがキリストの十字架の血です。罪はその代価を払うことによってのみ取り除くことができるからです。それが、キリストの十字架の贖いです。罪のない神のひとり子が人間のすべての罪を背負い身代わりとなってすべての罪の罰を受けてくださったことによるのです。それ以外、人間の罪は消せません。キリストの十字架の贖いを受け取らない限り、罪に対する容赦のない神のさばきがあるのです。

代わって罪を清算されたキリスト:

しかし、四男のユダがヤコブを説得しついに兄たちはベニヤミンを連れて食料の買い出しにエジプトに出発するのです。弟ベニヤミンに再会したヨセフは高ぶる気持ちを何とか抑え兄弟たちと食事をしました。しかし、まだ、兄たちを信用しきれないヨセフは、もう一度彼らを試みることにしました。彼らに食料を持たせて帰らせたのですが、ベニヤミンの袋にヨセフ所有の盃を入れておいたのです。兄弟たちの帰り道にヨセフのしもべが彼らに追いつきました。ヨセフのしもべは盃をベニヤミンの袋の中に発見したのです。ヨセフは、ベニヤミンを泥棒としてエジプトの奴隷とすることを命じました。その時、ユダがひれ伏して弁明するのです。ユダは、ヨセフに言います。ベニヤミンの代わりに自分をエジプトの奴隷としてほしいということです。ユダのこの言葉が、ヨセフの心を溶かしたのです。なぜ、ヨセフのこころは溶けたのでしょうか。兄たちはヨセフの命をエジプトに売り飛ばしたという罪がありました。ヨセフはその自分の命を兄弟たちに買い戻してもらいたいと思っていたのです。すなわち、二十数年前に戻って、エジプト人の奴隷とされている自分の命を買い戻してもらいたいと願ったのです。しかし、過去に戻れませんのでそれは無理なことです。そこで、ヨセフは同じ母の兄弟である自分の分身ともいえるベニヤミンを自分の代わりにしたのです。エジプトの奴隷にしたのです。そして、兄弟たちを試したのです。もし、昔と同じで悔い改めていないのなら、ベニヤミンをエジプトに残して彼らはカナンに帰るでしょう。しかし、そうではありませんでした。ユダが悔い改めたのです。ユダが自分の命を身代わりとしてベニヤミンの命を救おうとしたのです。これにより、ヨセフも救われたのです。ここに、イエス・キリストの贖いの意味が見事に説明されています。このユダの決意は、神の目にも喜ばれました。また、神はユダに特別な祝福をお与えになりました。それは、ユダの子孫にダビデ王が出て、さらにその子孫にイエス・キリストがお生まれになったのです。ユダは、ヨセフと兄弟たちの和解のための身代わりとなったのです。ユダの子孫、そしてダビデの子孫であるイエス・キリストも神と人類の和解のために身代わりとなったのです。もう一度、この単純な真実「キリストは私の代わりに死んでくださった。そして、私の命のために復活なさった。」ことを覚えたいと思います。ヨセフをエジプトに遣わしたのは神であるとヨセフは述べます。それは、節理の中にイスラエル一族に大いなる救いを与えるためでありました。神は、兄たちの失敗やヨセフの苦難もすべてを益に変える力を持っておられます。私たちにとって絶対絶命と思える状況にあってもキリストの大いなる救いがあるのです。その救いは確固たる救いです。その救いは根底からの救いです。何物も奪うことのできない救いです。キリストの十字架による救いは罪と死と悪魔からの救いです。この救いをいただくにはどうしたらよいのでしょうか。それはただイエス・キリストを信じて受けることです。

成功する人生の秘訣

2019年09月08日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>創世記41章14~37節

41:14 ファラオは人を遣わして、ヨセフを呼び寄せた。人々は急いで彼を地下牢から連れ出した。ヨセフはひげを剃り、着替えをして、ファラオの前に出た。
41:15 ファラオはヨセフに言った。「私は夢を見たが、それを解き明かす者がいない。おまえは夢を聞いて、それを解き明かすと聞いたのだが。」
41:16 ヨセフはファラオに答えた。「私ではありません。神がファラオの繁栄を知らせてくださるのです。」
41:17 それで、ファラオはヨセフに話した。「夢の中で、見ると、私はナイル川の岸に立っていた。
41:18 すると、ナイル川から、肉づきの良い、つやつやした雌牛が七頭上がって来て、葦の中で草をはんでいた。
41:19 すると、その後を追って、弱々しい、とても醜く痩せ細った別の雌牛が七頭、上がって来た。私は、このように醜い牛をエジプト全土でまだ見たことがない。
41:20 そして、この痩せた醜い雌牛が、先の肥えた七頭の雌牛を食い尽くしてしまった。
41:21 ところが、彼らを腹に入れても、腹に入ったのが分からないほど、その姿は初めと同じように醜かった。そのとき、私は目が覚めた。
41:22 また、夢の中で私は見た。見ると、一本の茎に、よく実った七つの穂が出て来た。
41:23 すると、その後を追って、貧弱で、しなびた、東風に焼けた七つの穂が出て来た。
41:24 そして、そのしなびた穂が、あの七つの良い穂を?み込んでしまった。そこで私は呪法師たちに話したが、だれも私に説明できる者はいなかった。」
41:25 ヨセフはファラオに言った。「ファラオの夢は一つです。神が、なさろうとしていることをファラオにお告げになったのです。
41:26 七頭の立派な雌牛は七年のことで、七つの立派な穂も七年のことです。それは一つの夢なのです。
41:27 その後から上がって来た七頭の痩せた醜い雌牛は七年のことで、痩せ細り東風に焼けた七つの穂も同様です。それは飢饉の七年です。
41:28 これは、私がファラオに申し上げたとおり、神が、なさろうとしていることをファラオに示されたのです。
41:29 今すぐ、エジプト全土に七年間の大豊作が訪れようとしています。
41:30 その後、七年間の飢饉が起こり、エジプトの地で豊作のことはすべて忘れられます。飢饉が地を荒れ果てさせ、
41:31 この地の豊作は、後に来る飢饉のため、跡も分からなくなります。その飢饉が非常に激しいからです。
41:32 夢が二度ファラオに繰り返されたのは、このことが神によって定められ、神が速やかにこれをなさるからです。
41:33 ですから、今、ファラオは、さとくて知恵のある人を見つけ、その者をエジプトの地の上に置かれますように。
41:34 ファラオは、国中に監督官を任命するよう、行動を起こされますように。豊作の七年間に、エジプトの地の収穫の五分の一を徴収なさるためです。
41:35 彼らに、これからの豊作の年のあらゆる食糧をすべて集めさせ、ファラオの権威のもとに、町々に穀物を蓄えさせるのです。彼らは保管し、
41:36 その食糧は、エジプトの地に起こる七年の飢饉のために、国の蓄えとなります。そうすれば、この地は飢饉で滅びることがないでしょう。」
41:37 このことは、ファラオとすべての家臣たちの心にかなった。

<要約>

苦難の中に主が共におられる祝福:

ヨセフは苦難の人でした。ヨセフは17歳の時に肉親である兄たちに裏切られて、ただ一人、奴隷の身でエジプトへ連れてこられました。そこで、やっとエジプトで王様の高官の家で認められ、愛されて、信用されました。しかし、そこでも罠にかけられて、牢獄につながれました。彼はどんな境遇にあっても神を信じすべてを主のみ手にゆだねて、決してつぶやくことをせず、すべてのことを働かせて益として下さる方にお任せしていました。聖書の約束は、神様はともにいてくださるということです。インマヌエルは「神が共にいてくださる」という意味です。主がヨセフとともにいてくださる、それは、ヨセフの側からは、神をいつもそばに意識していたということです。ジョン・ウエスレーは臨終のとき、「自分の人生で一番幸いだったことは、神がともにいてくださったことだ」と証を残しています。皆さんは、先週一週間を振り返って、「主がともにいてくださった」という経験をどれくらい思い出すことができますか。なぜなら神がともにいてくださることほどすばらしい祝福はないからです。

過去は今のために今は未来のために:

牢獄で、パロの夢を解き明かしたヨセフは、パロから徴用されパロに次ぐ第二の権威をあたえられました。ヨセフは七年間の豊作の間にできる限りの蓄えをしました。七年間の食糧備蓄という大事業を推進するために、彼は計画し、立案し、実行していったのです。そのようなヨセフの資質はどこで身についたのでしょうか。それは、ポティファルの家で主人の家財や土地や資産を管理運用し使用人の労務など扱った経験が生かされたのです。このように神はわたくしたちとってやがて必要となる訓練を今、与えて下さっています。今はわからなくても後でわかることは多くあります。ヨセフも兄弟たちに言いました。「売られてエジプトに来たのは、あなたがたを救うために自分を先に神が遣わしたのだ」と。ヨセフはエジプトを救いました。イスラエル民族を救いました。ここにもキリストのひな型としてのヨセフがあります。ヨセフは不当に扱われ無実の罪を着せられて、苦難の道を歩かせられました。そして、エジプトを救いに導いたのです。イエスさまは十字架で私たちの罪をになって苦しみ私たちを救い出してくださいました。

家族危機と救いの幻

2019年09月01日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>創世記37章1~11節
37:1 さて、ヤコブは父の寄留の地、カナンの地に住んでいた。
37:2 これはヤコブの歴史である。ヨセフは十七歳のとき、兄たちとともに羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らとともにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを彼らの父に告げた。
37:3 イスラエルは、息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。ヨセフが年寄り子だったからである。それで彼はヨセフに、あや織りの長服を作ってやっていた。
37:4 ヨセフの兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、穏やかに話すことができなかった。
37:5 さて、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。
37:6 ヨセフは彼らに言った。「私が見たこの夢について聞いてください。
37:7 見ると、私たちは畑で束を作っていました。すると突然、私の束が起き上がり、まっすぐに立ちました。そしてなんと、兄さんたちの束が周りに来て、私の束を伏し拝んだのです。」
37:8 兄たちは彼に言った。「おまえが私たちを治める王になるというのか。私たちを支配するというのか。」彼らは、夢や彼のことばのことで、ますます彼を憎むようになった。
37:9 再びヨセフは別の夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また夢を見ました。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいました」と言った。
37:10 ヨセフが父や兄たちに話すと、父は彼を叱って言った。「いったい何なのだ、おまえの見た夢は。私や、おまえの母さん、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むというのか。」
37:11 兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心にとどめていた。

<要約>

差別、ねたみ、憎しみ、殺意:

ヤコブの偏愛、差別によって、このヤコブの家庭には、子どもたちの不満や怒りがありました。このように、神の選びの民となるの家族の始まりは、惨憺たるものです。聖書は人間のありのままの姿を描いています。罪と争いの火種を持った家族に対して、神はその争いに直接介入することをなさいません。人間の罪によって最悪の状況に向かっていても神はそれをなお用いて、神のご計画を成就なさるのです。ヤコブ家では、家族機能が低下していました。そのような中で、ヨセフは、自分が見た二つの夢を家族に話しました。ヨセフの夢を聞いて、兄弟たちのヨセフに対する憎しみは尋常でないレベルに上がりました。兄たちのヨセフに対するねたみと殺意をはっきりと読み取ることができます。そして結果的にはヨセフはエジプトへ向かう商人の一行に売り飛ばされたのです。神の民とされたイスラエルの最初の家庭は問題がありました。それは、家族間の偏愛による差別、ねたみ、憎しみ、殺意でありました。これは、すべての人間関係の問題で全世界に広がり個人ばかりでなく民族、国家に及んでいます。人間の根底にある罪です。

愛、赦し、和解、救い:

この後、ヨセフは牢獄につながれました。ある時、パロのみた夢を解き明かして、エジプトは救われたのです。そして、ヨセフはエジプトのパロに次ぐ人物となったのです。やがて飢きんのためにヨセフの兄弟たちがエジプトに食料を買いにやってきました。そこで、ヨセフの夢が成就したのです。ヨセフは兄たちの憎しみ、殺意に代えて赦しと愛を返しました。兄たちと和解をしてイスラエルを救ったのです。ヨセフはイエス・キリストのひな型であるとされています。ヨセフの生涯はイエス様の生涯に似ています。イエス・キリストは人類の救いのために最も貧しい人間として生まれ、罪のないお方なのに人間のすべての罪を着せられて裁かれて十字架につけられ死んで葬られました。しかし、死人の内から復活し天に昇られて神の右に着かれました。万物の王であり支配者となられました。国家民族、地域社会、家庭、そして個人の中にも、キリストの十字架による罪の赦しは提供されています。神は、人が持つ憎しみ、殺意、に代えて、キリストにより愛と赦しと和解の福音を提供しておられます。

神の気前の良さ

2019年08月25日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>マタイの福音書20章1~16節
20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。
20:2 彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。
20:3 彼はまた、九時ごろ出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。
20:4 そこで、その人たちに言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。』
20:5 彼らは出かけて行った。主人はまた十二時ごろと三時ごろにも出て行って同じようにした。
20:6 また、五時ごろ出て行き、別の人たちが立っているのを見つけた。そこで、彼らに言った。『なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。』
20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』主人は言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。』
20:8 夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』
20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。
20:10 最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。
20:11 彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。
20:12 『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』
20:13 しかし、主人はその一人に答えた。『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。
20:14 あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。
20:15 自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』
20:16 このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」

<要約>

平等で完全な神の恵み:

ぶどう園の主人が働きの長い短いに関係なく、全員同じものを与えたように、父なる神も御国に来るものには働きの大小に関係なく賜物、プレゼントをお与えになることを示しています。また、主人は、一デナリを「相当のもの」と言い換えています。これは、「義」という言葉と同義語です。「神の義」は絶対正義とでもいえるでしょう。それは神の清さから来ています。一点の汚れも妥協もない清さです。その清さのゆえに、一点の罪も赦すことができません。ですから、どんな罪に対しても裁きを下されるのです。それに対して、人の正しさとはどういうものでしょうか。人の内側から出てくるものが人を汚すとあります。心に浮かぶ悪い考え、情欲、貪欲、よこしまなどが人に罪を犯させるのです。「義人は一人もいない」と聖書が言っている通りです。しかし、人が罪のために滅んでしまうことを神は惜しまれて、すべての人の罪の裁きを御子キリストに負わせられました。すべての人は、イエス・キリストの十字架の贖いを信じる時、完全に罪赦されて神の前に義とされます。それが、神の与える義です。神の恵みは、無条件の罪の赦しと永遠のいのちです。そこに、平等で完全な神の恵みがあります。

不平等と感じる人の心:

神の恵みは無限です。その恵みの前には、努力して功績を積んだものが得をするという考えはありません。「働けば働くほどもっともらえる」というのは、この世の中では、当然の報酬ということになります。しかし、神の恵みは全く違います。ねたましく思うという思いは、人と比較するところから生まれます。不平等を感じて文句を言うのです。もし、先に雇われたものたちがこう考えたらどうでしょう。「仕事がないのに自分のようなものを雇ってくれた。それだけで感謝です。そうでなければ一日中無為に過ごしてしまうところだった。1デナリで十分です。ご主人様ありがとうございます。」謙遜になれば、文句など出なかったはずです。神の恵みに完全に浴したければ、自分に死ななければなりません。自分が無になったときに神の恵みは完全にあなたのものとなるからです。自分はまだましだ、自分はそんなに罪深くないと言っている人には、神の恵みは届きません。私たちが救われたのは神の一方的な恵めであることをもう一度確認しましょう。

失われた人を捜し求める神

2019年08月18日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明


<聖書>マタイの福音書18章11~20節
18:12 あなたがたはどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
18:13 まことに、あなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。
18:14 このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。
18:15 また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。
18:16 もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。
18:17 それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。
18:18 まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。
18:19 まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。
18:20 二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」

<要約>

滅びないでいのちに至るために:

イエス様が来られた動機は、「失われている者を救うためであった」ということです。失われた者とは、神を信頼せず、神を恐れず、神を愛することを知らない人でいのちを失って、滅びに向かっている人です。たとえ話は、教会学校ではよく「迷子の羊」と題して語られるところです。羊飼いであるキリストにとってその迷っている一匹の羊はどれほど尊いものであるかを示しています。迷い出た一匹のために他の九十九匹を山に残して、捜しに出かけるというのです。普通、人は、九十九匹を危険な目に合わせてまで、迷い出た一匹を捜しに行くことはないが、神の愛はそうではありません、というところです。イエス様は一人の人も滅びることを望んでいません。すべての人が悔い改めに進むことを願っています。その為に、神はひとりの人も自らの罪によって滅んでいくことが無いように、十字架による罪の赦しと永遠のいのちを提供してくださっているのです。

天国の鍵を握る教会:

兄弟が罪を犯しているのを知ったなら、まず、最初に、「行って、忠告しなさい」というものです。しかし、その人がそれでも悔い改めず、忠告を聞かないならば、次には、他の一人か二人を連れて行きなさいというものです。他の証人を連れて事実確認にいかなければならないというのです。それでも聞き入れないならば、教会に訴えるのです。教会には戒規規定があります。それは、あくまでもその人を裁いて滅びに至ることを宣言するためではなく、悔い改めて救うためです。そして、「まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。」これは、ペテロを代表として教会が受けた「天国の鍵」の権威です。教会で戒規に処したことは、天国でもその通り執行されるということです。教会は、キリストの十字架による罪の赦しを宣言し、それにより神のいのちに与り、永遠のいのちが与えるところです。それと同時に、教会は罪に対する神の怒りをも伝え、悔い改めない魂は永遠の滅びに落とされることを宣言します。地上の教会の祈りが天を動かすのです。教会は、積極的に罪の赦しを宣言していきます。みことばと聖礼典を通して罪の赦しが宣言されています。

信仰に富むとは

2019年08月11日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

聖書<ルカの福音書12章13~21節

12:13 群衆の中の一人がイエスに言った。「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください。」
12:14 すると、イエスは彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのですか。」
12:15 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
12:16 それからイエスは人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
12:17 彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』
12:18 そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。
12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』
12:20 しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
12:21 自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」

<要約>

人の前に富んでも神の前に富まない人:

この金持ちは、自分のいのちはずっと安泰であると考えました。いのちが神のものであり神の主権の中にあることに気づかなかったのです。彼は、金銭が魂に満足を与えることができると考えました。富は私たちの生活を支えますが、それ自体が私たちに真のいのちを与えることも、真の満足を与えることもできません。お金は、地上的なこの身体のいのちを支えることはできても、魂や霊のいのちを支えることはできません。なぜなら、魂と心の満足は人格の満たしから来るからです。人は人と、そして神とのつながりの中で喜び、充実、希望、平安、感謝を感じることができる存在だからです。人は人格的な触れ合いによって癒され、人として成長するのです。それでも、真の神を信じない、生まれながらの人間にはなお、人格の中心に満たされない空洞があります。それは、霊のいのちをお与えになっておられる神によってしか満たすことができません。この金持ちは、物質的には富んでいましたが、神の前では富まない人でした。神の前に富むことのない人間に対して、神の方から働きかけて富む者にしてくださるのです。

富む者としてくださる神:

神は、恵みにより私たち信じる者を富む者としてくださいます。どのくらい富む者としてくださるのでしょうか。キリストは、天の富を捨てて貧しくなり、もっとも貧しい人のひとりとしてこの世に来てくださいました。イエス様は天の富を信じる者にお与えになり、その代わりとして、私たちの貧しさを担われたというのです。すなわち、「私のすべての罪の負債はキリストのもの、キリストが持っている天にあるすべての富と祝福は私のもの」となったのです。これを喜びの交換といいます。私たちがすることはその罪のゆるしと永遠のいのちの祝福を信仰によって受けとめることなのです。「わたしの望みはあなたです」と神に望みを置く人生こそ、信仰に富む人生です。外面的に悲しくて不幸に見えても、この世の富に代えられない最も大切な事は信仰に富むことです。信仰の富は信じるあなた方にもうすでに与えられています。ですから、これからは使うのみです。天の宝をどのように使いますか。それは自分のためだけに使ってもむなしいものです。それをあなたの隣人のために用いましょう。

もう一度神と向き合うために

2019年08月04日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>ルカによる福音書10章25~37節

10:25 さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
10:27 すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
10:29 しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」
10:30 イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。
10:34 そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」

<要約>

向き合うことのできない人間:

彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』」これは、律法の戒めを包括する教えであり、的を得た答えです。イエス様は「その通りです。それを実行しなさい。」と言われました。しかし彼は自分の正しさを示そうとして「隣人とはだれですか」とイエスに問いました。イエス様は、「良きサマリヤ人のたとえ」のお話をされました。このたとえ話で、イエス様は、隣人はユダヤ人ばかりでなく異邦人も敵をも含んでいることを示されたのです。隣人愛を実践する前に「心を尽くして、思いを尽くして、知性を尽くして神を愛しなさい」というのです。それは別の言い方では、神としっかり向き合いなさいとの勧めです。人間は神と向き合うことをやめて、神の思いより自分の思いを優先し、神から遠く離れてしまっています。ですから、神を知ろうともせず、神と向き合うということもわからないのです。そのような人間は自分とも向き合えない家族とも向き合えない、ましてや隣人とどうして向き合えるでしょうか。

向き合ってくださる神:

中学生の時にいじめにあった長谷川少年は金八先生のような熱血教師と出会いました。その先生は、いじめにあっていた長谷川少年と向き合ってくれました。ある時、長谷川少年はこういう手紙を書いたそうです。仮に、町が大火事になり、先生はヘリコプターに助けられて上空に出ました。その時、下の方で、先生の息子さんが、逃げ惑っていました。すぐに助けようとヘリコプターは下降しました。そうしたら、その息子のそばに逃げ惑う長谷川少年を発見したのです。ヘリコプターにはあと一人しか乗せられません。先生はどうしますか?という内容です。「自分も人間だから、息子の方を助けると思う」という返事でした。長谷川少年はその先生が自分と最後まで向き合ってくれると、信じたかったのです。しかし、人間が自分の子どものいのちを犠牲にして他人のいのちを救うことはありません。その起こりえないことを父なる神は、してくださったのです。それが、キリストの十字架です。その神が、ここにおられる皆さん一人一人と向き合ってくださいます。

祝福を下さらなければ引き下がりません

2019年07月28日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>創世記32章1~5、22~32節

32:1 さて、ヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが彼に現れた。
32:2 ヤコブは彼らを見たとき、「ここは神の陣営だ」と言って、その場所の名をマハナイムと呼んだ。
32:3 ヤコブは、セイルの地、エドムの野にいる兄のエサウに、前もって使いを送った。
32:4 ヤコブは彼らに命じた。「私の主人エサウにこう伝えなさい。『あなた様のしもべヤコブがこう申しております。私はラバンのもとに寄留し、今に至るまでとどまっていました。
32:5 私には牛、ろば、羊、それに男女の奴隷がおります。それで私の主人であるあなた様にお知らせして、ご好意を得ようと使いをお送りしました。』」


32:22 その夜、彼は起き上がり、二人の妻と二人の女奴隷、そして十一人の子どもたちを連れ出し、ヤボクの渡し場を渡った。
32:23 彼らを連れ出して川を渡らせ、また自分の所有するものも渡らせた。
32:24 ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
32:25 その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。
32:26 すると、その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」
32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」
32:29 ヤコブは願って言った。「どうか、あなたの名を教えてください。」すると、その人は「いったい、なぜ、わたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。
32:30 そこでヤコブは、その場所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。
32:31 彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に昇ったが、彼はそのもものために足を引きずっていた。
32:32 こういうわけで、イスラエルの人々は今日まで、ももの関節の上の、腰の筋を食べない。ヤコブが、ももの関節、腰の筋を打たれたからである。

<要約>

マハナイム、背後で守る神:

ヤコブはここに来て、多くの神の使いを見たのです。そこをマハナイムと呼びました。それは「二つの陣営、または二つの宿営」という意味です。神はマハナイムを用意されました。それは、神の二つの陣営がヤコブの二つの宿営を守ることを暗示しています。神はヤコブに生まれ故郷である約束の地に彼が入る前に、すなわち、今ここで、ヤコブが、イスラエルの父となるための必要な最初の関門を通過するために、神が導いてくださったのです。それは兄エソウとの和解でした。そして次の日の朝、プレゼントを用意するのです。兄エソウの怒りを和らげようと考えたのです。ヤコブは不安でした。恐れました。そして神に祈りました。神が背後で働かれ、十分な準備をしました。神は、私たちに祈り求めるように命令しております。苦難の中で祈り続けます。そうすれば、最後に「神は真実なかたである」という確信に行きつくのです。それが祈りの力です。

貪欲に神を求める祝福:

ヤコブは一人ヤボク川の渡しに残って再び祈り始めました。その時、神の陣営から一人の人がヤコブのところに近づいてきました。それは主の使いでした。彼が通り過ぎて行こうとするので、ヤコブは力づくで彼を引き留めました。何とか自分と自分の家族を守ってほしいと力ずくで迫ったのです。そこで、二人は取っ組み合いとなりました。一晩中戦いましたが、勝負がつきません。するとその人は、ヤコブの腿を打ってから、やっと口を開いて私を去らせなさいと云いました。ヤコブは、いいえ、私を祝福してくださらなければ放しません、と必死にしがみついたのです。その人は言いました。「あなたはこれからイスラエルと呼ばれる。あなたは神と戦い、人と戦い勝利したからだ。」その人は、ヤコブを祝福して立ち去りました。み使いは、彼の腿のつがいを打ったら腿のつがいが外れた、とあります。それはヤコブの自我ということができるでしょう。自分が自分がという、自分中心に気付き勝利したのです。ヤコブは神様の祝福を貪欲に求め見事にそれを得たのです。神は、あなたの悩みにこたえ、あなたに祝福の雨をそそぎたいのです。ヤコブはエソウと会い、和解がなされました。実はこの和解こそイエス様が十字架にお掛りになった目的です。十字架の目的は人が神と和解することです。

救いの計画の始動と展望

2019年07月21日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>創世記28章10~22節
28:10 ヤコブはベエル・シェバを出て、ハランへと向かった。
28:11 彼はある場所にたどり着き、そこで一夜を明かすことにした。ちょうど日が沈んだからである。彼はその場所で石を取って枕にし、その場所で横になった。
28:12 すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。
28:13 そして、見よ、【主】がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、【主】である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。
28:14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。
28:15 見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
28:16 ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに【主】はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」
28:17 彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」
28:18 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを立てて石の柱とし、柱の頭に油を注いだ。
28:19 そしてその場所の名をベテルと呼んだ。その町の名は、もともとはルズであった。
28:20 ヤコブは誓願を立てた。「神が私とともにおられて、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る衣を下さり、
28:21 無事に父の家に帰らせてくださるなら、【主】は私の神となり、
28:22 石の柱として立てたこの石は神の家となります。私は、すべてあなたが私に下さる物の十分の一を必ずあなたに献げます。」

<要約>

救いの計画の始動:

ヤコブは、旅の疲れもあって、いつの間にか眠り夢をみました。不思議な夢を見ました。天まで届く梯子のようなものが地面に立ち、天使たちがそれを上ったり下りたりしているのです。ふと気づくと、何と神がヤコブのそばに立っていらっしゃいました。神は、わたしはアブラハム、イサクの神である。わたしはあなたが横たわっている土地をあなたにあげる。目の前に現れてくださった神は、責めることも咎めることもなく、ただ、アブラハムとイサクにお与えになった祝福の約束を伝えただけでした。神は、私たちの罪を責めるためではなく、罪を悔いているものを赦し立たせてくださるお方なのです。神は赦しの神です。十字架は赦しのシンボルです。ヤコブは聖なる神と出会い、同時に愛の神を知って、真のおそれに至ったのです。梯子が天から地上に降りて、そこを天使が上がり降りしている情景です。この時をもって、神の救いのご計画がいよいよ動き始めたのです。その梯子は、イエス・キリストを表しています。

神の救いの計画の完成と展望:

この時の天からの梯子は、神がこれから人間の歴史の中に介入することを示しています。イスラエル民族を起こし、その民族を通して人類を祝福するために、立ち上がられたことを示しています。ヤコブは言いました。「ここは神の家に他ならない。ここは天の門だ」と。そして、ヤコブは枕にした石で柱を作り、それに油を注いだ、とあります。この「油を注ぐ」というのは、ここでは「聖別する」という意味です。この神の家、天の門は何を指しているのでしょうか。それは、現代における教会です。教会は天国の出張所、天国の領事館です。教会はイエス・キリストを土台として建てあげられています。キリストは教会の頭です。教会では、天国のルールがそれを治めています。そこは、神の一方的な愛によって治められています。教会では、誰にでも無条件に、キリストの十字架による罪の赦しと永遠のいのちが提供されています。そしてそれは、信仰によってのみ受け取ることができます。その為に、神は4千年も前に人類救済計画を始動されたのです。この救いは、すべての人に提供されています。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。」書いている通りです。