2021年10月10日ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明
<聖書>Ⅰペテロの手紙2章1~10節
【新改訳2017】
Ⅰペテ
2:1 ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、
2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
2:3 あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました。
2:4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。
2:5 あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。
2:6 聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」
2:7 したがってこの石は、信じているあなたがたには尊いものですが、信じていない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった」のであり、
2:8 それは「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからであり、また、そうなるように定められていたのです。
2:9 しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。
2:10 あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。
<要約>
みことばを慕い求める生活:
純粋な霊的な乳、それはみ言葉です。みことばを熱心にしたい求めること。クリスチャンはみことばを読むこと、みことばを聞くことにより、成長して救いを得るのです。生まれたばかりの乳飲み子は貪欲に乳を慕い求めます。それと同じように私たちも神のみことばを慕い求めることを生活の中心に置いていきたいと願います。3節では、「あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました」と書いています。赤ちゃんは自分の欲求に応えてくれる母親に対して愛と信頼の心を培っています。私たち生まれながらの人間が、もしみことばを熱心に慕い求めるならば、主は応えてくださいます。この味わうという言葉の中に繰り返し、繰り返し、何度も何度も、み言葉を読み説教を聞くという行為が含まれています。私たちはそれによって、主のいつくしみ深い養いのみ言葉を自らの心に受け取ることができます。
神の民とされている自覚に生きる:
私たちクリスチャンは心も身体もすべてを主に捧げて、生きていくのです。それがクリスチャンライフです。自分の欲望を追求するのではなく、神のみこころを追求して行く生き方です。そう言うと何か堅苦しい、自由のない生き方のように聞こえるかもしれません。しかし、 そこにこそ本当の自由な生き方があるのです。人間の欲望は、限りがありません。「真理があなたがたを自由にする」とあります。真理はイエス・キリストを指します。今イエス様を信じる者は神の民であり、憐みを受けて、神の栄誉と祝福を約束された民であるということができます。ペテロは、そのように私たちに神の民としての生き方を示したのです。この方に信頼するものは決して失望されることはない。さまざまな困難苦難に出会うで会う事でありますが、私たちは、最後の勝利者です。そして私たちは、驚くべき光の中に召された者達です。この素晴らしい福音をあなた方が告げ知らせるためです、とある通り、私たちは周りの方々にこの素晴らしい救いの福音を宣べ伝えるのです。そのために召されているということができます。