地の塩、世の光

2022年1月9日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書5:13~16
【新改訳2017】
5:13 あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。
5:14 あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
5:15 また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

<要約>

塩気を保つ生活とは

塩気を失った塩とは、みことばを失ったクリスチャン、みことばに立たないクリスチャンといえます。聖書のみことばに立たなければ、クリスチャンが世の人々と同化して、世の人々の中に埋没してしまいます。皆さんは、もし、一か月、説教も聞かない、聖書を読まないということであれば、危機的な状態であると思います。一年、教会を離れて、聖書から離れるならば、世の中に埋没してしまい、クリスチャンとしてのアイデンティティーを失ってしまうでしょう。塩気を失ったクリスチャンは、役に立たず、外に捨てられて人々に踏みつけられるとあります。みことばから離れて信仰を棄てた者には、神の厳しさがその上に臨むのです。クリスチャンが塩気を保つことは難しいことではありません。あなたが塩気を保つ 生活をするためには聖書のみことばに立って生活することです。

世の光として輝くために

イエス様は、地の塩、世の光となりなさいといっているのではなく、もうすでにあなた方は、地の塩、世の光であると断言しておられます。私たちはイエス様を信じたから地の塩、世の光なのです。聖書に、私たちは、以前は罪の中に死んでいたものであると書かれています。御怒りを受けるべき子らでした。神がわからない、神を知ることができないという私たちの心の状態。それは、心の目をふさいでいるものがあるからです。それは、すべての人の心に巣食う癌、罪です。罪によって、心の目がふさがれて、神を認めることができないのです。イエス・キリストの十字架により、たましいの癌である罪を取り除かれて、私たちは光の子、世の光とされたのです。世の光として輝くために、私たちは、信仰に励むことです。すなわち、神との関係に生きることです。自分を神に明け渡すことです。神との関係が正されると、行いは自然と出てきます。火があるところには必ず光が生じます。そのように信仰がある人は必ずよい影響を周りに及ぼしていくのです。

クリスマスのインパクト

2021年12月26日クリスマス礼拝ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書2章1~12節
2:1 イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」
2:3 これを聞いてヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった。
2:4 王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
2:5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。
2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」
2:7 そこでヘロデは博士たちをひそかに呼んで、彼らから、星が現れた時期について詳しく聞いた。
2:8 そして、「行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言って、彼らをベツレヘムに送り出した。
2:9 博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。
2:10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
2:11 それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2:12 彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。

<要約>

闇にとどまることに甘んじる人間社会

ヘロデ王は命じてベツレヘムとその周辺の2歳以下の男子をすべて殺しました。ヘロデが、自分の王位を脅かす存在を恐れて、それを抹殺しようと思う事は想像に難くないことです。しかし、ヘロデ王ばかりでなくエルサレムにいた多くのユダヤ人たちもキリストの誕生を聞いて動揺しました。多くのユダヤ人は、救い主がユダヤ人の王として来られ、社会が不安定になるのを恐れていたのです。現状にあまんじ、変化を恐れていたのです。「私たちにはキリストは必要がない」と表明したのです。そこに当時のユダヤ人を含めて人間の罪の姿があります。私にはキリストは必要がないという声を聞くのです。結果的に、私たちの罪を取り除いてくださるキリストを拒むのです。最初のクリスマスは、それは小さな灯でした。荒野で夜番をしていた羊飼いたちと異邦人の博士たちに最初のクリスマスは届けられました。そして、羊飼いたちと異邦人博士たちによって、小さな灯はやがて大きな光となって、全世界に広がっていったのです。闇にとどまることに甘んじる人間社会と題して話しました。しかし、あなたが小さなともし火でも灯し続けていれば、神がそれを用いてくださるのです。

クリスマスはこの上もない良い知らせ

キリストはご自分の民に拒絶されました。そのお姿は、最も低くなってこられたキリストです。私たちを支配するのではなく、人々に仕えるものの姿で来られました。貧しい無防備な幼子でした。貧しいものとなって心の貧しい人々を救うために来られたのです。また、ご自身を拒絶する、「救いはいらない」、「私にはキリストは必要がない」、と言う人々に対しても、忍耐を持って待っておられます。それは、私たち罪びとの身代わりとなって十字架でご自身の命をお捨てになったこと。また、ご自身を害するもののために祈られたことからもわかります。キリストは私たちの罪を背負って十字架に付けられるために来て下さり、私たちに代わって死んでくださいました。そして、私たちの命の為に復活して下さったのです。このように、クリスマスはすべての人に罪の赦しと永遠の命を与える、この上もない良い知らせなのです。

マリアの信仰から学ぶ

2021年12月19日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカの福音書1章31~56節
【新改訳2017】
1:31 見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
1:32 その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
1:33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」
1:34 マリアは御使いに言った。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」
1:35 御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。
1:36 見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。
1:37 神にとって不可能なことは何もありません。」
1:38 マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。
1:39 それから、マリアは立って、山地にあるユダの町に急いで行った。
1:40 そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。
1:41 エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた。
1:42 そして大声で叫んだ。「あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。
1:43 私の主の母が私のところに来られるとは、どうしたことでしょう。
1:44 あなたのあいさつの声が私の耳に入った、ちょうどそのとき、私の胎内で子どもが喜んで躍りました。
1:45 主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」
1:46 マリアは言った。「私のたましいは主をあがめ、
1:47 私の霊は私の救い主である神をたたえます。
1:48 この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。
1:49 力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。その御名は聖なるもの、
1:50 主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。
1:51 主はその御腕で力強いわざを行い、心の思いの高ぶる者を追い散らされました。
1:52 権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられました。
1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返されました。
1:54 主はあわれみを忘れずに、そのしもべイスラエルを助けてくださいました。
1:55 私たちの父祖たちに語られたとおり、アブラハムとその子孫に対するあわれみをいつまでも忘れずに。」
1:56 マリアは、三か月ほどエリサベツのもとにとどまって、家に帰った。

<要約>

信じ切る信仰とは?

マリヤも、自分自身をさして、「今から後、どの時代の人々も私を幸いなものと呼ぶでしょう」と神からの祝福を宣言しています。マリヤは主によって語られた事は必ず実現すると信じきることができました。一言で言うと簡単のように見えますが、実際には、私たちには、先のことが分からないがゆえに、信じ切ることができないのです。私たちはもう一度信じて信仰を持って心を定めて歩む必要があるのではないでしょうか。神は私を祝福してくださると信じ、神を信頼し歩むのです。それこそクリスチャン人生の醍醐味です。未婚の母となったことに対する非難やそしり、やがてわが子に臨む十字架に至るまでの苦難、そのようなものすべてを乗り越える力がマリヤのこの「信じ切る」という信仰から来るのです。信じきることは、どんなに周りの状況が変わって、よくない方向に行っているように見えても、みことばに留まり、信じ続けることです。

インマヌエルともにいてくださる神

マリヤの信仰は、歴史を通して、すべてのクリスチャンに称えられています。なぜ、ただの田舎娘がそれほどまでの偉業をなしえたのでしょうか。そうです。マリヤには、インマヌエルなるイエス様が彼女の胎内に宿っていてくださったのです。インマヌエルなるキリスト、イエス様が文字通り共にいてくださったのです。マリヤには、みことばは必ずなると信じきる信仰とインマヌエルなるキリストが与えられていたのです。マリヤはあらゆる困難や苦難を乗り越えて、神に感謝し神をほめたたえました。それは私たちとともにいてくださるキリストによって与えられた信仰です。私たちのうちに住んでくださるイエス様を覚えましょう。イエス様に心の王座についていただきましょう。神は、そのあわれみは尽きることがありません。また、変わることなく、私たちに注がれているのです。心低くして受け取るのです。それは、御子イエスの十字架による贖いによる罪の赦しです。イエス様を信じる者は罪赦されて、永遠のいのちをいただくのです。神の命につながるのです。

喜びの人生への招き

2021年12月12日(日)礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカによる福音書2章1~14節
【新改訳2017】
2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。
2:2 これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。
2:3 人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。
2:4 ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5 身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。
2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、
2:7 男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
2:8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」
2:13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
2:14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」

<要約>

救い主がわからず拒絶してしまう人間

救い主は、生まれた時からご自分の民であるユダヤ人から拒絶されました。そして、最後は、何の罪も見いだせないのに彼らはイエス様を十字架刑にかけたのです。拒絶して抹殺したのです。しかし、神はイエス様を復活させました。その時から二千年以上もたった現代でも、多くの人々が救い主を受け入れていません。神の御子は惨めな場所で惨めな姿でお生まれになりました。それだからこそイエス様はすべての人の救い主となられたのです。最も弱く貧しく小さな者たちの救い主として来て下さったのです。神の力や権利を持って治めることを好まず、へりくだってしもべの姿になり、仕えるものとなって世に来て下さったのです。そのように、多くの人は、救い主は隠れておられることが分からず、この世が価値としていることばかりに目を留めています。結果的に救い主を拒絶してしまうのです。もしあなたがへりくだり あなたの行くところ何処にでもキリストを認めるならば、あなたはまことの幸を得ることができるのです。

万民の救いのためへりくだられた救い主

神の愛が最も明らかにされたのは何だったでしょうか。それは十字架の上でご自身のいのちをお捧げになったことです。全人類の罪を背負い私たちの罪を取り除くため、私たちのすべての罪を赦すためにキリストは来られました。罪のない神が、へりくだりすべての人の罪を背負い、極悪人の一人に数えられることを良しとされたのです。それが、万民の救いのためへりくだられた救い主です。神は最も小さなヨセフとマリヤの家庭に来てくださいました。そして、布に包まれ飼葉桶に寝かされたイエス様は、世には最も小さな存在に見えたでしょう。神も小さなものとして、世の中では最小の存在として現れてくださいました。それは、天のみ位を捨てて最もヘリくだられた神の姿です。異邦人の博士たちに救い主の誕生が届けられたのは、イエス・キリストの救いがイスラエルの民ばかりでなく、万民の救いであることを物語っています。彼らは、素直に信じました。素直に信じた人は人生が変わるのです。本当の喜びを自分のものにすることができるのです。

主の熱心が成し遂げたこと

2021年12月5日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>イザヤ書9章1~7節
9:1 しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。
9:2 闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。
9:3 あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられる。彼らは、刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜ぶ。
9:4 あなたが、彼が負うくびきと肩の杖、彼を追い立てる者のむちを、ミディアンの日になされたように打ち砕かれるからだ。
9:5 まことに、戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食となる。
9:6 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。

<要約>

闇と死の陰を歩む人間社会

国際社会では国家間で緊張が高まっています。戦争の危機も常にあると言えます。地球環境では地球温暖化も歯止めがかからない状況です。コロナウイルスのパンデミックは全世界を覆っています。これらは、世界を覆う闇ということができるのではないでしょうか。日本社会を見ても、少子高齢化の波は凄まじく、数年前から人口減に入っております。このように闇はいたるところにあります。そして、人間社会はいずれ、この闇の中に埋もれていきます。個人としては、やがて必ず死がやってきます。今まで人類が歩んできた歴史を見ると二通りの世界観があります。一つは、人間中心の世界観です。もう一つは、神中心の世界観です。人間中心の世界観では、万物をそして人間をおつくりになった神は蚊帳の外に置かれています。神は無視されています。しかし、人間が中心の歴史は先ほど述べたように、もう筋書きが見えています。死と滅びで終わる歴史です。しかし、神中心、すなわち、神が導いておられるという歴史は、真実の歴史と言えます。聖書が示している通り、死と滅びではなく、回復と永遠のいのち、すなわち救いの歴史です。

死の陰から永遠のいのちに移してくださる神

パウロはエペソの教会の信徒に向けて、手紙を書きました。これを私たちに当てはめて読むと、私たちは自分の罪のために死んでいました。神が分からない、自分の罪が分からないのです。しかし、キリストは私たちの罪を取り除くためにお生まれになりました。イエス様は私たちのすべての罪を背負い十字架で身代わりとなって神の裁きを受け死ぬためにお生まれになりました。そして、死んで葬られて、三日目に復活し、信じる者に永遠のいのちをお与えくださるのです。私たちは神のいのち、永遠のいのちをいただいています。神は、死と滅びに向かう人間社会、そして、すべての個人を憐れんで救おうとしてくださいます。そして、キリストを信じる者に死と滅びに代えて、回復と永遠のいのちを与えてくださいます。すべての人、すなわちすべての個人、そして、あなたを、死の影から永遠の命に移してくださるのです。

失われた者を探し求める神の熱心

2021年11月21日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書18章1~14節
18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」
18:2 イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
18:3 こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。
18:4 ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。
18:5 また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。
18:6 わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。
18:7 つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。
18:8 あなたの手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろったままで永遠の火に投げ込まれるよりよいのです。
18:9 また、もしあなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろったままゲヘナの火に投げ込まれるよりよいのです。
18:10 あなたがたは、この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい。あなたがたに言いますが、天にいる、彼らの御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。
18:11 ☆
18:12 あなたがたはどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
18:13 まことに、あなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。
18:14 このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。

<要約>

神の国のVIP

天の御国では誰が一番偉いのか?の弟子たちの問いに対して、イエス様は一番偉い人は子どものように自分を低くするものであると言われました。幼き子が親を信頼して身を寄せている姿勢こそ、私たちの父なる神へのあるべき姿勢です。クリスチャンは何事も自分の力に頼らずして、主にすがって主に委ねて乗り切ることです。子どもたちにはイエス様の愛が注がれています。小さいものを受け入れるというのは実際には小さい人に仕えることです。教会はそのようにして兄弟姉妹を受け入れお互いに仕えあっていくところです。弱い力のないものを通して神の力が現されていくという霊的法則があるのです。この後に迫害の時代がやってきます。多くの信者たちは信仰をとるか、さもなくば、死を取るかを迫られてきました。歴史を通して無数のクリスチャンたちは、殺されることを顧みずに、信仰をとったのです。永遠の火に投げ込まれることを免れ、信仰により永遠のいのちに至ったのです。この世では最も取るに足りないと思われる人でも信仰に生きた人は神の国では VIPなのです。

不条理なほどにあなたを愛する神の愛

一人の人を救おうとされる神の熱心さは、99匹を残して一匹を救おうとします。神のみ思いは滅びに至るその一匹、その一人の人を救いたいという熱い思いと深いあわれみを持っておられるのです。神はそのひとりの人を救いに導くという働きを私たちに託しているのです。天のみ国に入る資格は、神との正しい関係にあることです。神から義とされていることです。罪赦されている者のみが入ることができるのです。つまり、イエス・キリストがあなたの身代わりとなってあなたの罪を十字架で贖ったことを認め信じることです。不条理と見える神の愛はどこに現れているでしょうか。そうです。それは十字架に表された神の愛です。神を敬わない、神を認めない、神の敵として歩んできたそのような者のためにキリストは十字架で死んで下さったのです。そのことによって、神は私たちに対するご自身の愛を示してくださいました。今日も、神は迷子の羊であるあなたをさがし求めておられます。

走り寄る神

2021年11月14日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書15章17~32節
15:17 しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。
15:18 立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。
15:19 もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』
15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。
15:21 息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。
15:23 そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。
15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。
15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。
15:26 それで、しもべの一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
15:27 しもべは彼に言った。『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。』
15:28 すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。
15:29 しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。
15:30 それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』
15:31 父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。
15:32 だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」

<要約>

悔い改めて帰るのを待つ神;

彼は回心しました。我に返ったのです。自分の思いに方向転換が起きたのです。自分のどうしようもない状態から父を思い出したのです。心の貧しい者の幸いがあります。天を見上げるからです。神に助けを求めるからです。そして、神が救ってくださるのです。走り寄る神、それは深い哀れみと愛を表しています。それは、ご自身の御子キリストを与えて罪びとの私たちに近づいてくださるご愛です。そして抱いて口づけをしました。そして、あなたを忘れたことのない、来る日も来る日も待っておられる神を表しています。あなたがいくら遠くにいようとも見つけ出そうと目を凝らしているのです。また、あなたがその神を忘れて、苦しんでいるのをかわいそうに思い、あなたを心配して哀れに思っておられるのです。そして、あなたが帰ってきたら、この上ない喜びであなたを迎える方です。そのようなたとえで表された神です。ですから、あなたの父である神のもとに立ち返ってください。

神に帰って始まる幸いな人生;

最後に、放蕩息子の兄が登場します。兄は畑から帰ってきて、父が帰ってきた弟を歓待しているのを見て、怒って、家に入ろうともしませんでした。この兄は、「この人は、罪人たちを受け入れて、食事まで一緒にする」とイエス様を非難したパリサイ人、律法学者を指していると言えます。彼らは神と愛と信頼の関係を築こうとはしません。行いによって、神や人に自分の正しさを主張する者たちです。それは、道徳的律法的な生き方です。自分は正しい人間だと自画自賛している人には、神の恵みは届きません。あるいは、自分には罪がわからない、自分には罪は関係ないと思っている人には、神の恵みは届きません。罪の自覚がある人は、神の恵み、赦しの恩寵を体験できるのです。兄は素直に喜べないところに不幸があります。弟の方がはるかに幸福です。人は、自分の罪が分かり、赦しの中で神の愛と神の恵みに生きることこそ幸せなのです。兄のように、お金があっても道徳があっても人は幸福になれません。このように、真に幸福な人生は神のもとに立ち帰ったときにはじまります。

主は私の羊飼い

2021年11月7日ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

ヨハネの福音書10章1~15節
10:1 「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。
10:2 しかし、門から入るのは羊たちの牧者です。
10:3 門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。
10:4 羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。
10:5 しかし、ほかの人には決してついて行かず、逃げて行きます。ほかの人たちの声は知らないからです。」
10:6 イエスはこの比喩を彼らに話されたが、彼らは、イエスが話されたことが何のことなのか、分からなかった。
10:7 そこで、再びイエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。
10:8 わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした。
10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。
10:10 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。
10:11 わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。
10:12 牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。
10:13 彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。
10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。
10:15 ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。

<要約>

背後で悪魔が働き聖書が、神が、キリストが、わからない;

聖書は罪についてさばきについて滅びについて警告を与えています。それと同時に、罪と死と滅びからの救いを提供しております。そして、すべての人はこの素晴らしい救いに招かれています。聖書は神からの手紙です。聖書に表される神は、天地万物の造り主です。その神が、私たち人類に、否、私たちひとりひとりにお語り下さっているのです。ですから、その内容はいかに重要なものか、想像することができるでしょう。神は、イエス・キリストをとおして、ご自身を現わし、また、聖書をとおして、今も、読者ひとりひとりにお語りになっています。私たちの敵は背後にいるサタン、悪魔と言うことができます。悪魔は、私たち人間が真理を知って、救われることのないように、知恵を働かせているのです。聖書がわかる読み方、あるいは、 聞き方の一つは聖書のメッセージを自分のこととして受け止めることです。自分に当てはめて聞くことです。もう一つは、素直な心で耳を傾けるのです。聖霊により頼んで、「神様、教えてください」と内なる叫び思って聞くことです。

あなたがいのちを得て豊に生きるためにいのちを捨てたキリスト;

イエス様は、ご自身が良い羊飼いであるという例えから、さらに話を展開していきます。「わたしは羊の門です」と言われました。そして、イエス様を通って入るなら救われると言いました。また、イエス様は、わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり救われない、と言います。これは、イエス様ご自身が神であることの宣言でもあります。聖書は、人は教えである律法、十戒を守っても、救いに至らないことを何度も言っています。人は良い行いによってはよい人間にはなれません。かえって、高慢になってしまうのです。良い人間が良い行いをするのです。自分でよい人間になることはできません。三位一体の神である聖霊によって、良い人間に作り変えていただくのです。羊であるあなたや私が真のいのちを得るために、イエス様がいのちを捨てるということです。それは、私たち罪人のために、イエス様が十字架でご自身のいのちを捨ててくださった事により、私たちはいのちを得るのだという真理です。

赦し赦される

2021年10月31日ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

マタイの福音書18章21~35節
18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」
18:22 イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。
18:23 ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。
18:24 清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。
18:25 彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。
18:26 それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。
18:27 家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。
18:28 ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
18:29 彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。
18:30 しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。
18:31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。
18:32 そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。
18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』
18:34 こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。
18:35 あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」

<要約>

自分の罪がわからないので人を赦せない

私たちが神の赦しを実感するためにはまず、自分の罪がわからなければなりません。罪は人に、罪責感を呼び起こします。それは 悲しみであり、後悔であり、心の痛みです。しかし、罪を認めることは、必ずしも悔いや心の痛みや悲しみを呼び起こすことではありません。自分は罪深い人間であるということを認めること、認知することです。私たちは、み言葉を求めるときに、み言葉は鏡のように、私たちの心を映し出します。そして、自分の罪に気づきます。感情が動かされることもあるかもしれませんが、むしろ、自分が罪深い人間であること認めていくという作業じゃないかと思います。「何の罪もないイエス・キリストを十字架につけたのはこのわたしである」と応えることは、聖書が読者のすべてに求めている応答です。あなたは、その事実を認め信じることです。それが信仰です。2000年前のキリストを十字架につけたなんて、現代に生きる私の責任でない、と言いますか?それでは、あなたはキリストと何の関係もない人間となります。

回復と再生への徹底した赦し

王は、彼をかわいそうに思って、赦し、借金を免除した、というのです。全部負債を赦し、無しにしてくれたのです。天のみ国では、地上と違って、負債すなわち罪の免除があるということ、完全に罪を赦すというのです。父なる神は、罪びとを「かわいそうに思って」おられるということです。父なる神は、哀れみのゆえに人間が持つ途方もない罪の負債を赦すことを決めました。そのために、罪の負債を身代わりに罪のない神の御子に支払わせたのです。その払うべき代価が御子イエス・キリストの十字架の死でした。キリストの十字架の贖いを信じる者を神は無条件で赦してくださいます。赦されたものは人を赦すことができます。人を赦すことで、自分も赦されていることに気づき神に感謝するのです。私たちは、主の十字架の贖いによって、永遠に返済不能、不可能を赦されたのです。これを認識できるでしょうか。これを実感できるでしょうか。聖霊によるのでなければ、罪について、義について、裁きについて、私たちの目は開かれることはないのです。

永遠を見据えて今を生きる

2021年10月17日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢 森田友明

<聖書>Ⅱペテロ3章1~18節
3:1 愛する者たち、私はすでに二通目となる手紙を、あなたがたに書いています。これらの手紙により、私はあなたがたの記憶を呼び覚まして、純真な心を奮い立たせたいのです。
3:2 それは、聖なる預言者たちにより前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちにより伝えられた、主であり救い主である方の命令を思い出させるためです。
3:3 まず第一に、心得ておきなさい。終わりの時に、嘲る者たちが現れて嘲り、自分たちの欲望に従いながら、
3:4 こう言います。「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。」
3:5 こう主張する彼らは、次のことを見落としています。天は大昔からあり、地は神のことばによって、水から出て、水を通して成ったのであり、
3:6 そのみことばのゆえに、当時の世界は水におおわれて滅びました。
3:7 しかし、今ある天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるために取っておかれ、不敬虔な者たちのさばきと滅びの日まで保たれているのです。
3:8 しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
3:9 主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
3:10 しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。
3:11 このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。
3:12 そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
3:13 しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
3:14 ですから、愛する者たち。これらのことを待ち望んでいるのなら、しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力しなさい。
3:15 また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。愛する、私たちの兄弟パウロも、自分に与えられた知恵にしたがって、あなたがたに書き送ったとおりです。
3:16 その手紙でパウロは、ほかのすべての手紙でもしているように、このことについて語っています。その中には理解しにくいところがあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の箇所と同様、それらを曲解して、自分自身に滅びを招きます。
3:17 ですから、愛する者たち。あなたがたは前もって分かっているのですから、不道徳な者たちの惑わしに誘い込まれて、自分自身の堅実さを失わないよう、よく気をつけなさい。
3:18 私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。イエス・キリストに栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。

<要約>

神を認めない人間中心主義の生き方

この世界は「義と愛の神」によって創られました。「義と愛の神」のご性質がこの世界、全宇宙に反映させられています。まったく正しく正義の神、つまり罪のない神、そして、私たち罪びとをご自身の独り子イエスの命に代えて、救おうとなさる愛の神であるということです。不敬虔な者たちとは、神を認めず、恐れず、神を無視し、嘲る人々のことを指します。 不敬虔な者は自らの罪により裁かれ滅びに落とされるのです。この宇宙万物は、神の創造によって始まり、そしてやがて終焉を迎えます。神のご計画が実行されていくのです。被造物である私達には、全てを理解することはできません。しかし、 神は人をご自身の目的のためにお造りになりました。ですから、だれでも人には、神から与えられた生きる目的があるのです。しかし、多くの人々は真の神を無視するためにこの目的を失っています。キリストは、そのような人々を救うために、神が人となって、世に来てくださったのです。さばきと滅びの日が来る前に、すべての人を天の御国に招くために、罪びとを招くために来てくださったのです。

神の日を待ち望む生き方

それに対してペテロは、「愛する者たち」と異邦人クリスチャンに向けて言います。そして、主は、ある人たちが遅れていると思っているように約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。神は、誰も滅びることがなく全ての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。天地は滅び、私たちの地上の命は失われるでしょう。しかし、神の約束に従って義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。これは、神が約束される天のみ国です。これから試練の時代に入る異邦人クリスチャンに向けて、ペテロは、み言葉を慕い求めること、救い主キリストの教えにとどまること、しみも傷もない純真なものとして信仰と祈りによる堅実な生き方を勧めているのです。そのような恵を覚えて、忍耐深く、今の時を敬虔に生きることこそ、神の日を待ち望む生き方であると思います。その上で、イエス様が私たちに勧めています。神を愛し、人を愛しなさいと。