復活への期待

2022年4月17日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカの福音書24章1~12節
【新改訳2017】
24:1 週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。
24:2 見ると、石が墓からわきに転がされていた。
24:3 そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。
24:4 そのため途方に暮れていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。
24:5 彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。
24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。
24:7 人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」
24:8 彼女たちはイエスのことばを思い出した。
24:9 そして墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した。
24:10 それは、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たちであった。彼女たちはこれらのことを使徒たちに話したが、
24:11 この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。
24:12 しかしペテロは立ち上がり、走って墓に行った。そして、かがんでのぞき込むと、亜麻布だけが見えた。それで、この出来事に驚きながら自分のところに帰った。

<要約>

死を打ち破る復活:

女たちは死人のイエス様を求めていたと言えます。しかし、死人のイエス様はそこにはいないとの天使のメッセージです。すなわち、死んだイエス様はもういない、復活したイエス様が生きておられるのだ、というのです。もし、死んでしまったイエス様を信じお頼りしてもそれはむなしいことです。死んだままのイエス様には救いはなく、なおまだ、女たちも弟子たちも、そして信者である私たちも罪の中で滅びる者たちです。ここで現れた天使たちは、「ここにはおられません。よみがえられたのです。」「死人の内にはいません。生きておられるからです。」と宣言しています。ここに勝利の宣言があります。アダムの罪により、生まれながらに人はすべて罪人で神のいのちを失っています。しかし、キリストの義の行動によりすべての人が罪赦されて復活のいのちに生かされるのです。イエス様を信じる者は肉体の死にあうがそれは大きな力を及ぼさず、復活のいのちに生きることができます。永遠のいのちが与えられて、死に勝利しています。

最後のときを期待と希望に生きる:

女たちは、天使のみ告げを聞いて、「イエス様が十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない」というみことばを思い出しました。そして、墓から戻って、十一人の弟子たちに報告しました。ところが使徒たちはこの話がたわごとであるとして信じなかったのです。復活という事実を理解できなかったのです。クリスチャンは、やがて、世の終わりにラッパの音とともに復活するのです。その時には、顔と顔を合わせてキリストを見るようになります。私が神に完全に知られているように、わたしも神を完全に知るようになるのです。何と素晴しい約束でしょうか。ペテロは空の墓を見て、帰り道、彼の心には、何か素晴らしいことが起こるという予感で満たされていたのではと想像します。「私たち信者も、やがて復活の主に顔と顔を合わせてお会いするのです。やがて復活の主にお会いする時が必ず来ます。ですから、失望と落胆の中にあっても、心が熱くなったペテロのように、あなたも、あなたの人生に素晴らしい期待と希望をもって生きるのです。

渇きをいやす礼拝

2022年3月27日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨハネの福音書4章3~26節
【新改訳2017】
4:3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
4:4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。
4:5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。
4:7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
4:9 そのサマリアの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。
4:10 イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
4:11 その女は言った。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。
4:12 あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」
4:13 イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
4:15 彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
4:17 彼女は答えた。「私には夫がいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。
4:18 あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」
4:19 彼女は言った。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。
4:20 私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
4:21 イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。
4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
4:23 しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
4:25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
4:26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

<要約>

渇くことのない生ける水:

イエス様は、彼女の行動を問題にするよりも、そのような行動をとってしまっている彼女の魂の悩み、苦しみに着目しています。イエス様は、なぜ人がそのような行いに走っていくのか?そこに人間の満たされない心の渇き、を見ているのです。それが霊的渇きです。人間は最初に地のちりで作られて、神からの霊のいのちを吹き込まれて生きるものになったとあります。しかし、最初の人アダムの罪以来、心から神を追い出してしまった人間は、霊のいのちを失い、人格の中心に空洞ができてしまいました。以来、人はむなしくなって、それを何かで満たそうとしています。それが霊的渇きです。しかし、その空洞は永遠なるもの、絶対なるもの、そして決して変わらないもの、すなわち神でしか満たすことができないのです。すべての人は、人格の中心にある霊の渇きを満たす生ける水が必要なのです。この女性と同様に、私たちにも心と魂を満たす生ける水が必要です。そして、世の中のどんなものもあなたの魂を満たし続けることはできません。その空洞を満たす方は神です。生ける水はイエス様ご自身を表し、すべての人の人格の中心にあるこの空洞を満たしてくださいます。人格の中心にイエス様が住んでくださり神のいのちとつながり、永遠のいのちにあずかるのです。

礼拝は神との出会い;

御霊と真実によって、礼拝するのです。真理は、イエス・キリストです。つまり、聖霊とキリストによって神を礼拝しなさいと言うのです。礼拝式には、三位一体の神のそれぞれのお姿が、そこに現れます。聖霊はみことばと一緒におられ、みことばをもってお語りになります。また、聖霊は、キリストの身体と血によって信者の罪を赦し、すべての悪からきよめてくださいます。礼拝者はイエス様の御名によって、祈り賛美をささげます。万物の創造者である父なる神をほめたたえ、栄光をたたえます。ですから、礼拝式では、信者は三位一体の神と一つとなるのです。三位一体の強固な神の交わりの中に招かれるのです。それは、どんなにか祝福に満ちたときでしょうか。礼拝は神との出会いです。そして、礼拝は神との関係回復の道です。私たちも心にその生ける水をいただくことができます。それは、真の救い主イエス・キリストを心の内にお迎えすることなのです。

山上の説教の結論

2022年3月20日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書7章15~29節
【新改訳2017】
7:15 偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。
7:16 あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。
7:17 良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。
7:18 良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。
7:19 良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。
7:20 こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。
7:21 わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
7:22 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』
7:23 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』
7:24 ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。
7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。
7:26 また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。
7:27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」
7:28 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。
7:29 イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。

<要約>

幸いな人生の土台:

聖書の中心メッセージは、神の御子キリストによる救いです。それが福音です。福音とは、神があなたを愛して、イエス・キリストにより、あなたを罪と死と悪魔から救ってくださったということです。聞いて行うということは、信じて従うということです。その福音を聞く者が最終的にとる応答はこの二通りに分かれるのです。すなわち福音を信じて受け止める人と、それを信じないで受け止めない人です。受け止めなければ、福音はその人のところには届きません。そこで、イエス様は、みことばを聞いて行う人は岩の上に家を建てた賢い人のようだ、といわれたのです。岩の上の岩とは、神を信じる信仰ということができます。みことばを聞いて行うというのは、信じてみことばに従うことです。真に幸いな人生の土台とは、信仰に立って、みことばを実践することです。

幸せな人生のガイドライン:

信仰に励みなさいと言われても、具体的にはどうすればよいでしょうか。何を指針として歩んだらよいというのでしょうか。ガイドラインが必要です。それが十戒です。十戒は私たちと神との正しい関係、そしてそれに基づく隣人(自分以外のすべての人)との正しい関係を教えています。十戒は関係のルールと言えます。信仰を土台として、私たちがまず励むことは、十戒の第一戒から第三戒であるといえます。まず、神との関係をただし、神との関係を最も大切にしていくことです。それが礎となって、第四戒、父と母を敬いなさい、から第五戒、殺してはならない、第六戒、姦淫してはならない、と、隣人との関係に続いていくのです。つまり、第四から第十までは、隣人関係についてのガイドラインです。十戒は、人間のあらゆる罪を指摘します。同時に、人間のあらゆる行いの勧めが書かれています。だから、十戒は神の御心と言うことができます。神様が十戒をお与えになった理由は、私たちが、十戒に表わされた神の要求を満たすことのできない存在であることに気づくことです。つまり、神様の思いから遠く離れている自分に気づくことです。自分が罪びとであることを悔いてキリストの十字架で示された愛を受け入れることなのです。そのうえで、罪赦されたものとして、十戒を人生のガイドラインとして歩みなさいというのです。

真に幸いな人生とは

2022年3月13日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書5章1~12節
【新改訳2017】
5:1 その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。
5:2 そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。
5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。

<要約>

神との幸いな関係:

心の貧しい人は傍におられる神に飢え渇きのために求め続けている人です。次に、この悲しむ者と言うのは最大級の悲しみを指します。最愛の人を失った悲しみも含まれます。そればかりでなく、自分の罪深さを悲しみ、悔い改めに至る悲しみもあります。次に柔和な人は幸いです。これは、優しさと粘り強さともいえます。義に飢え渇く者は幸いです。この義とは神との関係において正しいと言うことです。全ての人は罪を犯した、と聖書は指摘します。しかし完全な義をお持ちの方がいらっしゃいます。それは神であり人であるキリストです。キリストの生涯には一点の罪も汚れもありませんでした。そのキリストがあなたの罪の汚れの一切を背負って十字架で死んでくださったのです。ですから、キリストにあって、あなたの罪の一切は取り除かれ、神の御前で完全な義をいただいたと言えます。神と幸な関係にある人は、自分の弱さを覚え、心へりくだり、神に全面的におすがりする人です。心に神への叫びを常に持っている人です。そして、神に信頼を置く従順な人です。そのような人は、どんなことにも前向きに進んでいく人です。

人との幸いな関係:

心のきよい者は罪赦されたクリスチャンであるといえます。彼らは既に心と霊で神を見ているからです。そして、彼らは人の背後におられるキリストを見ています。平和は赦すことによって、やってきます。クリスチャンは神との平和を得ています。それはキリストが人と神との隔ての壁となっていた罪を取り除いてくださったからです。神との平和を持っている人は、人との平和を作ることができます。神の前に正しく生きようとするとき、信仰を守ろうとすると、迫害を受けることがあります。しかしイエス様は「あなた方は幸いです。喜び踊りなさい。」と、勧めています。山上の説教のはじめは、イエス様は八つの祝福についてです。まず「心の貧しい者は幸いです」で始まる祝福の教えです。これは クリスチャンライフの基本です。なぜなら、へりくだり、心を貧しくして、神にすがることから始まります。自分の無力を認め、罪を悲しみ、悔い改めるのです。そして、神との関係を正すことです。そうすれば、神と幸いな関係に入ります。神との幸いな関係は、人との関係にも及びます。人間関係も祝福されるのです。

祈り続ける信仰

2022年2月20日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカによる福音書18章1~8節
18:1 いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。
18:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。
18:3 その町に一人のやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私を訴える人をさばいて、私を守ってください』と言っていた。
18:4 この裁判官はしばらく取り合わなかったが、後になって心の中で考えた。『私は神をも恐れず、人を人とも思わないが、
18:5 このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよう。そうでないと、ひっきりなしにやって来て、 私は疲れ果ててしまう。』」
18:6 主は言われた。「不正な裁判官が言っていることを聞きなさい。
18:7 まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。
18:8 あなたがたに言いますが、神は彼らのため、速やかにさばきを行ってくださいます。だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」

<要約>

絶望の中でも信仰により希望に生きる:

今、世界を襲っている疫病、コロナウイルスは変異をして、今はオミクロン株ですが、次はどのように変異して再び襲ってくるかわかりません。現代も、人類の未来は楽観できない状況です。日本も戦争に巻き込まれる危険を抱えています。ソ連のウクライナ侵攻はもう直前です。また、中国の台湾進攻も現実味を帯びています。さて、歴史を振り返って、イスラエル王国は北と南に分裂し、大国により滅ぼされ、民はバビロニアに捕囚され、失意のどん底にありました。その様な時代に神はイスラエルに、エレミヤを通して、将来と希望のメッセージを送ってくださいました。そして、神は、バビロンの地にあっても主の民として落ち着いた生活をし、真の神に祈り礼拝しなさいと勧めるのでした。その時から70年後、ペルシャの王クロスの時代に入って、イスラエルは祖国帰還そして神殿再建を果たすのです。神の将来と希望を与えるご計画は、見事に成就したのです。私たちが置かされている今も、将来と希望が閉ざされているような時代です。だからこそ、神は希望の約束を送ってくださっているのです。失望しないで祈り続けなさいとイエス様は繰り返し教えておられます。なぜなら、神はすでに私たちに将来と希望の計画を持っているからです。

十字架に示された神の愛:

 聖書が教える希望は何に裏付けられているのでしょうか。信者は神の絶対的な愛に結び付けられています。ですから、どんな困難や試練、絶望と思われるようなことの中にでも、信者は希望を持つことができるのです。さらに、死も命もそのほかどんなものも主イエス・キリストにある神の愛から引き離すことはないと書いています。では、私たちは神の愛をどこに見ることができますか?それは十字架です。十字架で示された神の愛は、あなたに将来と希望をお与えになっています。まだ、祈りの結果を見ていないこともたくさんあると思います。けれど、神が あなたをそして私を、愛してくださっていることは動かしようもない確かな事実です。そして、信じる者は、その父御子御霊の三位一体の神の愛の交わりに入れられています。ですから、あきらめないで祈り続けるのです。そうすれば、あなたはどんな苦難や困難の中にあっても、もうすでに圧倒的な勝利者となっているのです。

ぶどう園の例え

2022年2月20日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書20章1~16節
【新改訳2017】
20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。
20:2 彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。
20:3 彼はまた、九時ごろ出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。
20:4 そこで、その人たちに言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。』
20:5 彼らは出かけて行った。主人はまた十二時ごろと三時ごろにも出て行って同じようにした。
20:6 また、五時ごろ出て行き、別の人たちが立っているのを見つけた。そこで、彼らに言った。『なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。』
20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』主人は言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。』
20:8 夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』
20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。
20:10 最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。
20:11 彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。
20:12 『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』
20:13 しかし、主人はその一人に答えた。『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。
20:14 あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。
20:15 自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』
20:16 このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」

<要約>

人の正義と神の正義の違い:

最初にブドウ園に来た人たちは、主人に不満をもらしたと、書いています。人の正義は、状況によって変わるものといえるでしょう。裁判用語で、情状酌量という言葉があります。情状酌量を広辞苑で調べると、「刑事裁判において、同情すべき犯罪の情状を汲み取って、裁判官の裁量により、刑を減刑すること」と書いてありました。すなわち、人間の正義は、相対的であり、事情によって変わってくるということです。それに対して神の正義は絶対です。それは神の清さから来ています。一点の汚れも妥協もない清さです。その清さのゆえに、一点の汚れも受け入れることができないのです。4節で、「相当の賃金を払うから」といっています。この「相当」は、英語ではjust rightのjustです。ふさわしい報酬、ちょうどで正しい賃金、とでも言います。この相当の賃金の「相当」はギリシャ語、原語ではディカイオスで、神の義の「義」という言葉と同義語です。ぶどう園の主人が働きの長い短いに関係なく、全員同じものを与えたように、父なる神も御国に来るものには働きの大小に関係なく「義」という賜物、プレゼントをお与えになることを示しています。

ありえない神の愛:

最初の人アダムの罪以来、その子孫であるすべての人は、アダムの罪の性質を受け継いでいます。そしてその罪により、罪と死と滅びに定められています。人の内側から出てくるものが人を汚すのです。心に浮かぶ悪い考え、情欲、貪欲、よこしまなどが人に罪を犯させるのです。すべての人は、神から遠く離れているというのです。ですから、真の神を知らないのです。また、知ろうともしないのです。神は人の心をご覧になっております。神の義は徹底的に人を裁くのです。しかし、それに反して、神の愛は徹底的に人を罪の裁きから救うことです。そこで、その二つの矛盾する思いに筋を通したのが、御子キリストの十字架です。すべての人は、イエス・キリストの十字架の贖いを信じる時、完全に罪赦されて神の前に義とされます。それが「神の与える義です」。それは私たち人間には理解できない「ありえない神の愛」なのです。そして、神から義とされた人は、罪赦されて永遠のいのちを持ちます。行いや私たちの人間的な努力ではありません。

神を愛する者に及ぶ二倍の祝福

2022年2月13日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書25章14~30節
25:14 天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。
25:15 彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。するとすぐに、
25:16 五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。
25:17 同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた。
25:18 一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。
25:19 さて、かなり時がたってから、しもべたちの主人が帰って来て彼らと清算をした。
25:20 すると、五タラント預かった者が進み出て、もう五タラントを差し出して言った。『ご主人様。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、私はほかに五タラントをもうけました。』
25:21 主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
25:22 二タラントの者も進み出て言った。『ご主人様。私に二タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、ほかに二タラントをもうけました。』
25:23 主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
25:24 一タラント預かっていた者も進み出て言った。『ご主人様。あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。
25:25 それで私は怖くなり、出て行って、あなた様の一タラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください、これがあなた様の物です。』
25:26 しかし、主人は彼に答えた。『悪い、怠け者のしもべだ。私が蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集めると分かっていたというのか。
25:27 それなら、おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してもらえたのに。
25:28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、十タラント持っている者に与えよ。
25:29 だれでも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っている物までも取り上げられるのだ。
25:30 この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』

<要約>

祝福倍増の法則に生きる:

かれは、5タラント受け取ると「すぐに行って」商売をしました。そして、預かったお金を二倍にしました。彼は、主人の信頼を受けていたので、喜んで出ていき、勇気をもって商売に取り掛かったのです。しかし、5タラントをいただいた人は、それだけ強い誘惑に会います。持っていれば持っているほど誘惑も強いといえます。また、富や才能がその人を高慢にしてしまします。しかし、この5タラント預かった人は、それらの戦いに勝利しました。これこそ、神を信頼し愛し、恐れている者の姿です。神からの報酬は何と大きな喜びであったでしょう。彼は、5タラントを10タラントにして、その後、主からさらに与えられました。次に、2タラントを預けられたしもべです。それを用いて二倍にしました。彼も主の信頼を受けていたので喜んで出ていき、勇気をもってチャレンジしたのです。主の信頼にこたえて一歩踏み出すとき、何が起こるのでしょうか。それぞれが倍々の祝福を受けるのです。「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。」

罪と死と滅びの原理からの救い:

次に、この二人とは対照的に1タラントを預かったしもべについて、見てみましょう。なぜ彼は、主人に心を閉ざして、不信の罪を犯したのでしょうか。それを知るためには、天地創造で人が創られたときからの人類の歴史をみる必要があります。神は天地万物をおつくりなって、そのわざを終えられたとき、すべては非常に良かったといわれました。神は人とすべての被造物を祝福しました。アダムは罪を犯す前は、神への信頼と愛により忠実に神に従っていました。そのルールにしたがう時にアダムには倍々の祝福がもたらされていました。世界は祝福と喜びに満ち溢れていたと思います。それが、「天の御国」のルール、法則です。しかし、アダムが神の戒めを破って罪を犯してしまいました。それにより、人も自然界も一挙に堕落して呪いの世界へと道を外したのです。それが現代の状況です。すなわち、1タラントの人は、アダムの罪を背負った人間の姿です。かくして、人は神との関係を失って、死と滅びに向かっているのです。その罪と死と滅びの原理から救ってくださったのが、イエス・キリストの十字架です。

あなたの罪を赦すために来られた神

2022年1月30日主日説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカの福音書5章17~26節
【新改訳2017】
5:17 ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人たちと律法の教師たちが、そこに座っていた。彼らはガリラヤとユダヤのすべての村やエルサレムから来ていた。イエスは主の御力によって、病気を治しておられた。
5:18 すると見よ。男たちが、中風をわずらっている人を床に載せて運んで来た。そして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとした。
5:19 しかし、大勢の人のために病人を運び込む方法が見つからなかったので、屋上に上って瓦をはがし、そこから彼の寝床を、人々の真ん中、イエスの前につり降ろした。
5:20 イエスは彼らの信仰を見て、「友よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
5:21 ところが、律法学者たち、パリサイ人たちはあれこれ考え始めた。「神への冒?を口にするこの人は、いったい何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」
5:22 イエスは彼らがあれこれ考えているのを見抜いて言われた。「あなたがたは心の中で何を考えているのか。
5:23 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
5:24 しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、中風の人に言われた。「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」
5:25 すると彼はすぐに人々の前で立ち上がり、寝ていた床を担ぎ、神をあがめながら自分の家に帰って行った。
5:26 人々はみな非常に驚き、神をあがめた。また、恐れに満たされて言った。「私たちは今日、驚くべきことを見た。」

<要約>

罪と病いと死の原理:

イエス様は彼らの信仰を見て、中風の人に「友よ。あなたの罪は赦された。」と宣言されました。当時の社会は、因果応報が一般的で、病は罪のためであると考えていたようです。現代でも、罪と病いは全く無関係とはいえません。罪からくる悪習慣による病気もあります。暴飲暴食からくる健康被害、喫煙がもたらす健康障害、性病などもそうかもしれません。しかし、多くの病は罪と無関係であるといえます。イエス様は、生まれつきの盲人に道でお会いになりました。そして、彼が生まれついたのは罪のためではなく、神の御業があらわされるためであると言って、彼の眼を開かれました。かたや、病と死は創造の初めからあったものではなく、アダムの罪によって人類に入ってきたものです。ですから、根元的には、病気や死は罪の結果ともいえます。そのように罪と病いと死は密接に関係しているといえます。イエス様はその根元的な罪を取り除くために来られました。あなたを罪と死と、そして、悪魔から救うために来られたのです。聖書は、人の罪は心から出ているといいます。もし、あなたが、罪のリストの一つにでも該当したらあなたにはイエス様の十字架の赦しが必要です。そのままでは神の怒りの下にあるからです。

罪を赦すための主の十字架:

神であるイエス様が地上に来られた目的は、罪の赦しの権威を行使するためでした。つまり、人の罪を赦すために来られたのです。それは、実は、イエス・キリストは、十字架にかかるために来られたといえます。十字架とは何でしょうか。それは、死刑の道具です。無実の神が人の身代わりとなって罪の罰を負ってくださった。無実の神があなたの身代わりとなってあなたが受けるべき罰を受けてくださったのです。イエス様はあなたの罪のために来てくださった。それは、あなたの罪を赦し、新しい人としての再生させるために生まれてくださったのです。イエス・キリストの罪の赦しによって、それを受け取るものは、罪の束縛から解放されて自由にされます。死からも自由にされます。そして、むしろ神に喜ばれることを積極的に行うことができるようになります。それは、隣人を愛するという行為となって表れるのです。

百人隊長の信仰から学ぶ

2022年1月23日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカの福音書7章1~10節
【新改訳2017】
7:1 イエスは、耳を傾けている人々にこれらのことばをすべて話し終えると、カペナウムに入られた。
7:2 時に、ある百人隊長に重んじられていた一人のしもべが、病気で死にかけていた。
7:3 百人隊長はイエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、自分のしもべを助けに来てくださいとお願いした。
7:4 イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。
7:5 私たちの国民を愛し、私たちのために自ら会堂を建ててくれました。」
7:6 そこで、イエスは彼らと一緒に行かれた。ところが、百人隊長の家からあまり遠くないところまで来たとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスにこう伝えた。「主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません。あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。
7:7 ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください。
7:8 と申しますのは、私も権威の下に置かれている者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」
7:9 イエスはこれを聞いて驚き、振り向いて、ついて来ていた群衆に言われた。「あなたがたに言いますが、わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。」
7:10 使いに送られた人たちが家に戻ると、そのしもべは良くなっていた。

<要約>

「みことばをください」とへりくだる信仰:

百人隊長は、結局のところ、イエス様を直接見ることなく、イエス様を信じました。現代の私たちクリスチャンも、イエス様をこの目で見ることなく信じています。そのように 彼は、その後、見ないで信じるすべての信者の初穂と言えるかもしれません。百人隊長は、自分のしもべの癒しのために、イエス様のおことばをいただきたいと言いました。かれは、イエス様の言葉を握って、信仰の通りになりました。神の言葉を全身全霊をもって信頼したのです。神のことばは力があり、無から有を作り出すのです。聖霊が、預言者や使徒や福音書記者らに働いて、聖書が書かれました。聖書全体は、誤りのない神のことばです。聖書は、イエス・キリストによる全人類の救いが書かれています。試練や困難に直面する私たちの人生ですが、この百人隊長のように、私たちにとって大切な神への日々の訴え、祈りがあります。それこそが、「みことばをください」ということではないでしょうか。みことばを求めへりくだる者に、神は近づいてくださいます。神のことばは生きています。日々、体験して歩んでいただきたいと願います。

神のみことばの権威と力を信じる信仰:

イエス様は「これほどの信仰を見たことがない」と言って、百人隊長の信仰を褒めました。イエス様は、「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」とおっしゃいました。隊長の権威に裏付けられた命令には兵士はその通り従うことを例に挙げて、権威に裏付けられた言葉には力があることを百人隊長は述べました。まして、病を癒し、人のいのちを保っておられる全能の神の権威による神の言葉があれば、しもべはいやされると信じたのです。神のみことばの権威は絶対です。イエス様のことばは、決して消えさらないとおっしゃいます。ですから、私たちは、百人隊長のように神のみことばの権威と力を信じ切って行きましょう。そして、百人隊長のように、神のみことばを常に待ち望むものでありたいと思います。死にかけていたしもべは百人隊長の信仰のとおりにいやされました。もし、あなたが信仰に生きるなら、後に、自分の人生を振り返るときにあなたの人生は信仰のとおりになっていることに気づくのです。

勝利の希望

2022年1月16日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ローマ書8章18~25節
【新改訳2017】
8:18 今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。
8:19 被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。
8:20 被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。
8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。
8:22 私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。
8:23 それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。
8:24 私たちは、この望みとともに救われたのです。目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを、だれが望むでしょうか。
8:25 私たちはまだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます。

<要約>

今の苦難は後の栄光にのまれる:

私たちの周りの見える世界、万物は本来の姿から大きく逸脱して空虚でむなしい状態にさせられて、滅ぶべきものとなって、今にいたるまで、うめき、苦しみを味わっています。最初の人アダムは、神の前で堕落し罪を犯し、呪われた者となりました。その結果、人に死が入りました。そして、すべての被造物も呪われました。やがて現在の世界は滅びるでしょう。罪によって人類も自然界も滅びに定められたのです。ところが、神は罪のない神の独り子キリストを送ってくださいました。神は彼に、あなたや私、そして人類の全ての罪の呪いを背負わせました。そして、身代わりとして十字架で裁いたのです。キリストは、罪の報酬である死を身代わりとなって味わい、死んでくださったのです。そして、三日後に復活し、キリストを信じる者に罪の赦しと復活のいのちをお与えくださるのです。イエス・キリストを信じるものは、死んでも生きるとある通り、復活のいのち、永遠のいのちが与えられます。ゆえに今の苦難は取るに足らないというのです。今の様々な苦難は驚くべき神の栄光の光の中に吞み込まれて跡形もなくなります。

忍耐して祈り、勝利を得る:

私たちが、イエス・キリスト信じて洗礼を受けたときに与えられた聖霊が保証してくださいます。やがて、完全にされて、完成の時を迎えることを。しかし、この地上にある間は、うめいており、生みの苦しみがあると言っています。そして、聖霊は信じるあなたの内に住んでくださり、うめきをもってあなたを神にとりなしておられます。自然界も含めて、被造物全体も、あなたが、やがて、この地上のいのちを終え、復活のいのちによみがえるのを待ち望んでいます。今目に見ることはできませんが 神が約束してくださった確かな希望です。まだ、その希望を受け取っていない方は、是非、その希望を自分のものにしてください。私たちの希望は、復活のいのち、永遠のいのち、それを今見ることができません。地上のさまざまなことがらに動揺することなく、神のみことばにしっかりたち、信仰の確信に忍耐し留まることです。そして御霊によって祈り、待ち望むのです。それが勝利の道です。