「未分類」カテゴリーアーカイブ

ヨセフの生涯からキリストを見る

2022年6月26日主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>創世記39:1~8、20~23、41:1~16、25~32

【新改訳2017】
39:1 一方、ヨセフはエジプトへ連れて行かれた。ファラオの廷臣で侍従長のポティファルという一人のエジプト人が、ヨセフを連れ下ったイシュマエル人の手からヨセフを買い取った。
39:2 【主】がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり、そのエジプト人の主人の家に住んだ。
39:3 彼の主人は、【主】が彼とともにおられ、【主】が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た。
39:4 それでヨセフは主人の好意を得て、彼のそば近くで仕えることになった。主人は彼にその家を管理させ、自分の全財産を彼に委ねた。
39:5 主人が彼にその家と全財産を管理させたときから、【主】はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を祝福された。それで、【主】の祝福が、家や野にある全財産の上にあった。
39:6 主人はヨセフの手に全財産を任せ、自分が食べる食物のこと以外は、何も気を使わなかった。しかもヨセフは体格も良く、顔だちも美しかった。
39:7 これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、「一緒に寝ましょう」と言った。
39:8 しかし彼は拒んで、主人の妻に言った。「ご覧ください。ご主人は、家の中のことは何でも私に任せ、心配せずに全財産を私に委ねられました。

39:20 ヨセフの主人は彼を捕らえ、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた。こうして彼は監獄に置かれた。
39:21 しかし、【主】はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。
39:22 監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手に委ねた。ヨセフは、そこで行われるすべてのことを管理するようになった。
39:23 監獄の長は、ヨセフの手に委ねたことには何も干渉しなかった。それは、【主】が彼とともにおられ、彼が何をしても、【主】がそれを成功させてくださったからである。


41:1 それから二年後、ファラオは夢を見た。見ると、彼はナイル川のほとりに立っていた。
41:2 すると、ナイル川から、つやつやした、肉づきの良い雌牛が七頭、上がって来て、葦の中で草をはんだ。
41:3 するとまた、その後を追って、醜く痩せ細った別の雌牛が七頭、ナイル川から上がって来て、その川岸にいた雌牛のそばに立った。
41:4 そして、醜く痩せ細った雌牛が、つやつやした、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くしてしまった。そのとき、ファラオは目が覚めた。
41:5 彼はまた眠り、再び夢を見た。見ると、一本の茎に、よく実った七つの良い穂が出て来た。
41:6 すると、その後を追って、しなびた、東風に焼けた七つの穂が出て来た。
41:7 そして、しなびた穂が、よく実った七つの穂を?み込んでしまった。そのとき、ファラオは目が覚めた。それは夢だった。
41:8 朝になって、ファラオは心が騒ぎ、人を遣わして、エジプトのすべての呪法師とすべての知恵のある者たちを呼び寄せた。ファラオは彼らに夢のことを話したが、解き明かすことのできる者はいなかった。
41:9 そのとき、献酌官長がファラオに告げた。「私は今日、私の過ちを申し上げなければなりません。
41:10 かつて、ファラオがしもべらに対して怒って、私と料理官長を侍従長の家に拘留されました。
41:11 私と彼は、同じ夜に夢を見ました。それぞれ意味のある夢でした。
41:12 そこには、私たちと一緒に、侍従長のしもべで、ヘブル人の若者がいました。私たちが彼に話しましたところ、彼は私たちの夢を解き明かしてくれました。それぞれの夢に応じて、解き明かしてくれたのです。
41:13 そして、彼が私たちに解き明かしたとおりになり、ファラオは私を元の地位に戻され、料理官長は木につるされました。」
41:14 ファラオは人を遣わして、ヨセフを呼び寄せた。人々は急いで彼を地下牢から連れ出した。ヨセフはひげを剃り、着替えをして、ファラオの前に出た。
41:15 ファラオはヨセフに言った。「私は夢を見たが、それを解き明かす者がいない。おまえは夢を聞いて、それを解き明かすと聞いたのだが。」
41:16 ヨセフはファラオに答えた。「私ではありません。神がファラオの繁栄を知らせてくださるのです。」

41:25 ヨセフはファラオに言った。「ファラオの夢は一つです。神が、なさろうとしていることをファラオにお告げになったのです。
41:26 七頭の立派な雌牛は七年のことで、七つの立派な穂も七年のことです。それは一つの夢なのです。
41:27 その後から上がって来た七頭の痩せた醜い雌牛は七年のことで、痩せ細り東風に焼けた七つの穂も同様です。それは飢饉の七年です。
41:28 これは、私がファラオに申し上げたとおり、神が、なさろうとしていることをファラオに示されたのです。
41:29 今すぐ、エジプト全土に七年間の大豊作が訪れようとしています。
41:30 その後、七年間の飢饉が起こり、エジプトの地で豊作のことはすべて忘れられます。飢饉が地を荒れ果てさせ、
41:31 この地の豊作は、後に来る飢饉のため、跡も分からなくなります。その飢饉が非常に激しいからです。
41:32 夢が二度ファラオに繰り返されたのは、このことが神によって定められ、神が速やかにこれをなさるからです。

<要約>

イエスが共にいてくださる人生:

家の主人ポティファルはヨセフには主がついておられてすべてのことを主が成功させておられるのを見ていました。これはクリスチャンの証といえます。主イエス様の約束は何でしょうか。「見よ。私は世の終わりまでいつも、あなた方と共にいます」です。「主よ。お助け下さい。私とともにいてください」とヨセフは何百回、何千回も祈っていたと思います。その度に、父祖から伝えられた神の約束を思い出していたことでしょう。あるいは夢で神の御声を聞いていたことでしょう。その度に、彼は、信仰を強めたのです。主がともにいてくださるということを信じて疑わない、ことは何と幸いなことでしょうか。ジョン・ウエスレーは臨終のとき、「自分の人生で一番幸いだったことは、神がともにいてくださったことだ」と証を残しています。なぜなら神がともにいてくださることほどすばらしい祝福はないからです。

すべてのことを益と変え救ってくださる神:

ファラオは夢を見ました。それは、七年の豊作のあと七年の飢きんが来るという意味でした。ファラオの夢を解き明かしたヨセフは、そのことにより徴用され、ファラオに次ぐ第二の権威をあたえられました。ヨセフは七年間の豊作の間にできる限りの蓄えをしました。倉を各地にたてました。それぞれの町々に食糧を蓄えさせました。七年間の食糧備蓄という大事業を推進したのです。そのようなヨセフの資質はどこで身についたのでしょうか。それは、ポティファルの家で主人の家財や土地や資産を管理運用し、使用人の労務など扱った経験が生かされたのです。神は信じる者に最善な道を備えて下さるということです。神は苦しみ重荷を一緒に、担って下さっているということです。ヨセフはエジプトを救いました。イスラエル民族を救いました。ここにもキリストのひな型としてのヨセフがあります。ヨセフは不当に扱われ、無実の罪を着せられて、苦難の道を歩かせられました。そして、エジプトを救いに導いたのです。イエスさまは十字架で私たちの罪をになって苦しみ私たちを救い出してくださいました。イエス様の救いは、罪と死と悪魔からの救いです。人間の最後の敵である死からもお救いくださるのです。その救いのもたらすものは永遠のいのちです。

神の祝福を受け継ぐ

2022年6月19日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>創世記27章1~10、26~31節
【新改訳2017】
27:1 イサクが年をとり、目がかすんでよく見えなくなったときのことである。彼は上の息子エサウを呼び寄せて、「わが子よ」と言った。すると彼は「はい、ここにおります」と答えた。
27:2 イサクは言った。「見なさい。私は年老いて、いつ死ぬか分からない。
27:3 さあ今、おまえの道具の矢筒と弓を取って野に出て行き、私のために獲物をしとめて来てくれないか。
27:4 そして私のために私の好きなおいしい料理を作り、ここに持って来て、私に食べさせてくれ。私が死ぬ前に、私自ら、おまえを祝福できるように。」
27:5 リベカは、イサクがその子エサウに話しているのを聞いていた。それで、エサウが獲物をしとめて父のところに持って来ようと野に出かけたとき、
27:6 リベカは息子のヤコブに言った。「今私は、父上があなたの兄エサウにこう言っておられるのを聞きました。
27:7 『獲物を捕って来て、私においしい料理を作ってくれ。食べて、死ぬ前に、【主】の前でおまえを祝福しよう。』
27:8 さあ今、子よ、私があなたに命じることを、よく聞きなさい。
27:9 さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎを二匹取って私のところに来なさい。私はそれで、あなたの父上の好きな、おいしい料理を作りましょう。
27:10 あなたが父上のところに持って行けば、食べて、死ぬ前にあなたを祝福してくださるでしょう。」

27:25 そこでイサクは言った。「私のところに持って来なさい。わが子の獲物を食べたい。そうして私自ら、おまえを祝福しよう。」そこでヤコブが持って来ると、イサクはそれを食べた。またぶどう酒を持って来ると、それも飲んだ。
27:26 父イサクはヤコブに、「近寄って私に口づけしてくれ、わが子よ」と言ったので、
27:27 ヤコブは近づいて、彼に口づけした。イサクはヤコブの衣の香りを嗅ぎ、彼を祝福して言った。「ああ、わが子の香り。【主】が祝福された野の香りのようだ。
27:28 神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒を与えてくださるように。
27:29 諸国の民がおまえに仕え、もろもろの国民がおまえを伏し拝むように。おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子がおまえを伏し拝むように。おまえを呪う者がのろわれ、おまえを祝福する者が祝福されるように。」
27:30 イサクがヤコブを祝福し終わり、ヤコブが父イサクの前から出て行くとすぐに、兄のエサウが猟から戻って来た。
27:31 彼もまた、おいしい料理を作って、父のところに持って来た。そして父に言った。「お父さん。起きて、息子の獲物を召し上がってください。あなた自ら、私を祝福してくださるために。」

<要約>

みことばと祈りを軽視する悲惨:

イサクは年を取り、目がよく見えなくなったときに長男エソウを呼びました。自分が死ぬ前にエソウを祝福し、後継ぎにしようとしました。しかし、それに気づいたリベカはそれを阻止しようとします。リベカとヤコブは共謀して父イサクをだますのです。これは、十戒の4戒「あなたの父母を敬いなさい」と第8戒「うそをついてはいけません」の律法違反ですね。悲しいことに、イサク家の誰も、どうすべきかを神に祈り、知恵を求めることはなかったのです。その結果、父の祝福を横取りされたエソウは、ヤコブに対して殺意を抱くようになりました。イサク家は分裂してしまったのです。ここに家族の人間関係のもろさが見えます。それぞれが、神に窺うこともなく自分の考えをそのまま通すことで、主のみ心を排除してしまったのです。家族の危機はどのような家庭にも起こりうるのです。大切なことは、私たちの家庭に神様をお迎えして常に祈りみ心を求めることです。

神と祈りの格闘をして前進する:

ヤコブは、失敗や苦しみを通して、神に祈り、神と格闘して、神の約束を握り進んでいきました。また、ヤコブにはイスラエルと言う名前が与えられました。イスラエルと言うのは、「神と戦う」と言う意味です。ヤコブは、祝福をもらうまで神の人を離さなかったからです。それは、熱心であきらめない祈りです。また、イスラエルという名前には「神の王子」という意味があります。この「お前を呪うものは呪われ、お前を祝福するものは祝福される。」という言葉の背後にある思いは、丁度、王様がその最愛のこどもである王子を愛する愛と似ています。王は王子に悪さをする者を赦しません。逆に王子に良いことをする者を王は喜び宮廷に招きごちそうします。そして、この言葉は、アブラハム、イサク、ヤコブの信仰による子孫の私たちクリスチャンに与えられています。ヤコブは、執拗な祈りで神と戦ったのです。また、長子の権利をめぐってヤコブは兄エソウと戦って勝利を得ました。ヤコブは目に見えない神との関係を第一に求めました。私たちも、神との関係を第一として歩みたいと思います。受け継いだものは次に渡さなければなりません。私たちは隣人にこの祝福を伝達する役目も与えられているのです。また、ヤコブのように神に執拗な祈りをして、前進したいと願います。

アブラハムの信仰に倣う

2022年6月12日主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>創世記13章1~18節
【新改訳2017】
13:1 そこで、アブラムはエジプトを出て、ネゲブに上った。妻と、所有するすべてのものと、ロトも一緒であった。
13:2 アブラムは家畜と銀と金を非常に豊かに持っていた。
13:3 彼はネゲブからベテルまで旅を続けて、ベテルとアイの間にある、最初に天幕を張った場所まで来た。
13:4 そこは、彼が以前に築いた祭壇の場所であった。アブラムはそこで【主】の御名を呼び求めた。
13:5 アブラムと一緒に来たロトも、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。
13:6 その地は、彼らが一緒に住むのに十分ではなかった。所有するものが多すぎて、一緒に住めなかったのである。
13:7 そのため、争いが、アブラムの家畜の牧者たちと、ロトの家畜の牧者たちの間に起こった。そのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。
13:8 アブラムはロトに言った。「私とあなたの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちの間に、争いがないようにしよう。私たちは親類同士なのだから。
13:9 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れて行ってくれないか。あなたが左なら、私は右に行こう。あなたが右なら、私は左に行こう。」
13:10 ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、【主】がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったので、その地はツォアルに至るまで、【主】の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
13:11 ロトは、自分のためにヨルダンの低地全体を選んだ。そしてロトは東へ移動した。こうして彼らは互いに別れた。
13:12 アブラムはカナンの地に住んだ。一方、ロトは低地の町々に住み、ソドムに天幕を移した。
13:13 ところが、ソドムの人々は邪悪で、【主】に対して甚だしく罪深い者たちであった。
13:14 ロトがアブラムから別れて行った後、【主】はアブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいるその場所から北、南、東、西を見渡しなさい。
13:15 わたしは、あなたが見渡しているこの地をすべて、あなたに、そしてあなたの子孫に永久に与えるからだ。
13:16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのように増やす。もし人が、地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えることができる。
13:17 立って、この地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに与えるのだから。」
13:18 そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに【主】のための祭壇を築いた。

<要約>

信仰の正のサイクルに生きる:

信仰者はすべての事柄において、礼拝で始まり礼拝で終わるサイクルに生きます。毎週の礼拝で神に立ち返り、また、みことばをいただいて出発します。それが、クリスチャンが成長していくサイクルです。エジプトでの失敗は、神のアブラハムに対する信仰の訓練でした。罪を犯したことのない人はいないのと同じように失敗したことのない人はいません。そのたびに、反省したり、苦しんだりするのが人間です。しかし、どんな時でも、クリスチャンは神の前に出るのです。祭壇を築き、神を礼拝するのです。私たちは最終的には神の身元しか逃れる場所はありません。そしてそこにこそ平安といのちの約束があるのです。悔い改めて信仰の原点に戻るのです。み心を信じて従うのです。そして、みことばの約束をいただきます。そして、信仰によって歩み出すのです。試練、祈り、礼拝、みことば、従順、約束、前進と進むのです。アブラハムは、その成長のサイクルに乗って進んでいきました。そして、アブラハムの信仰を受け継いでいる現代のクリスチャンも、復活を信じ永遠のいのちを信じています。これは、なんと大きな慰めであり希望であることでしょうか。

天の都を目指し旅人として生きる:

カナンの地は、アブラハムには、子孫への相続の地となるとの神の約束をいただきましたが、そこではアブラハムは寄留者でした。アブラハムは、カナンで他国人のように彼の子孫とともに住みました。すなわち彼は、「カナン人の間にあってカナン人ではない。」それは神の民の姿です。アブラハムの信仰の子孫であるクリスチャンも「世にあって、世のものではない」のです。また、「アブラハムは堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいた。」とあります。クリスチャンは、イエス・キリストが土台となって築かれた神の国に属しています。アブラハムのカナンの地での寄留者としての歩みは、私たち信者の歩みでもあります。約束のものをはるかに待ち望んで地上では旅人であり寄留者である一生を過ごしたのです。私たちも、この世にあっては旅人であり寄留者です。天の都を目指して今を生きるのです。

バッドニュースとグッドニュース

2022年5月29日主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>エペソ人への手紙2章1~10節
【新改訳2017】
2:1 さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、
2:2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。
2:3 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。
2:6 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。
2:7 それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。
2:8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
2:10 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

<要約>

バッドニュース(1~3節):

人間は神によってつくられ、神によって存在させられている者たちです。従って神を離れて生きることなどできません。ですから、肉体的には生きていてもそれは本当のいのちから離れた状態で、あたかも糸の切れた凧と同じで、どこへ行ってしまうかわからないのです。どうしてそんなことになってしまうのでしょうか。それが、「自分が犯した背きと罪」なのです。「背き」は、背を向けるという意味ですね。あなたを愛しあなたに関心をもって見つめておられる神に背中を向けていることです。また、「罪」は的外れという意味です。やがて、神から完全に離れ、人生の意味や価値が失われているのです。神から離れている人生のもう一つのことは、「それらの罪の中にあって、この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って歩んでいる」ということです。悪魔、サタンのことです。聖書は、悪魔はこの世の支配者であると教えています。神から離れた人生のさらにもう一つのことは、「自分の肉欲に生き、肉と心の望むままを行っている」ということです。これ以上のバッドニュースはこの世界にはありません。

グッドニュース(4~10節):

そのような、希望もなく、喜びもなく、滅びに向かっていた人間に対して、神は何をしてくださったでしょうか。人の「罪」のために、神が用意してくださった解決が、イエス・キリストです。私たちの罪にために死なれて、葬られ、三日目によみがえられました。それを信じ罪赦された者は、キリストと同じ復活のいのちが与えられます。神は私たち人間に、二つの相反する御思いを抱いておられます。一つは、私たち人間の罪のゆえに私たちを怒っておられるということ。もう一つは、私たちをご自身のいのちを捨てるほどに愛しておられるということ。罪に沈む人間を何とか救いたいという神の愛。神はその両方に筋を通されました。神の怒りはキリストの十字架に落ちたので、信じるものの上には神の怒りはなく、もう一方のいのちの祝福のみが注がれるのです。それは、イエス様を信じて受け入れ、信仰を持って神の救いをいただくことです。そして罪と死と悪魔の力から救い出していただく。これ以上のグッドニュースは どこを探してもありません。

私は教会の何?

2022年5月22日主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>Ⅰコリント12章12~27節
【新改訳2017】
12:12 ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
12:13 私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。
12:14 実際、からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています。
12:15 たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
12:16 たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。
12:18 しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。
12:19 もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。
12:20 しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。
12:21 目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。
12:22 それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。
12:23 また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、
12:24 格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。
12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。
12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。

<要約>

教会はキリストのからだ:

教会はキリストのからだであり、信者はそれぞれがその部分であり器官です。聖霊は信者に賜物、すなわち才能や役割をお与えになります。その賜物によって、信者が教会の中で様々な働きを担うのです。そして、教会は活動し成長していくのです。それらの能力や働きには違いがありますが、優劣がないのです。神はそれぞれに違った才能やたまもの与えてくださっています。人体の器官に優劣をつけることはできません。教会も、同様に多様な人々で構成されていてキリストによって一つにされた統一体です。ここで、クリスチャンの方々には、知っていただきたいと思います。聖霊はあなたに何らかの賜物をお与えになっているということです。だから、自分は何の働きもないと言わないでください。むしろ、キリストのからだのために自分にできることはないだろうか、と自分に問うていただきたいと思います。人のからだにはもう一つ注目すべきことがあります。身体のそれぞれの器官は互いに助け合い、調和しています。私たちクリスチャンは教会のために遣わされており、教会は世の人々のために遣わされていると言えます。そして、キリストは教会の頭です。キリストの思いを思いとしていくところです。

教会はキリストの花嫁:

聖書は、「教会そして、クリスチャンである私たちは、キリストの妻あるいは花嫁」であるとも言っております。キリストが教会のためにご自身を捧げられたというのは何でしょうか。それは、人間のために天のみ位を捨てて、聖なる神としての身分を捨て、最も卑しい人間となり、来てくださったのです。そして、人類のすべての罪を負われて十字架で極悪の罪人として裁きを受けて死んでくださったことです。そして、それとは反対に、罪により滅びに向かっていく人間を清く、傷のないものとして、栄光の神の子としての身分をお与えくださったのです。これを喜びの交換と言います。ジョイフル・エックスチェンジ。私たちの罪から来る苦しみをイエス様はすべて飲み干してくださいました。その代わりに、御国の世継ぎとしての神の子の身分を与えられました。クリスチャンの皆さんは、神の子です。ボロボロの罪の奴隷であった私たちは、光り輝く王冠ときらびやかな意匠がこらされた王服を着て、清められて神の前に立っているのです。

教会は誰?

2022年5月8日主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書16章13~19節
【新改訳2017】
16:13 さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。
16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」
16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
16:17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
16:18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。
16:19 わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」

<要約>

イエス・キリストは誰?:

私たちクリスチャンは、「わたしの主、私の神、あなたこそ生ける神、救い主キリストです」と告白しました。そして、キリストにつく洗礼を受けました。しかし、これは私たち人間の力ではありません。神の特別な祝福であり、選びだったのです。さらに「あなたはペテロ(岩)です。 わたしはこの大きな岩の上にわたしの教会を建てます。よみの門も教会に勝つことはできない」とはどういうことでしょうか。よみの門、それは私たちの最後の敵である人間の死です。なぜなら、キリストがその復活によって死を滅ぼされたからです。教会はこの信仰告白の上に建っています。それは大きな岩であり、勝利を保証してくださっています。キリストは誰?と言う問いは、歴史を通して失われることはありませんでした。この問いは、あなたの生死を決定する問いです。殉教者たちはこの世のいのちは失いました。しかし、代わりにそれより素晴らしい永遠のいのちを得たのです。まだの方々は、この告白をもって、キリストの救いを自分のものにしてください。

幸いと勝利を保証する教会:

「あなたに天国のかぎをあげましょう。あなたが地上でかぎをつなぐなら、天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます」ペテロは教会あるいはクリスチャンのリーダーとしてキリストの言葉を受けました。これを神学用語では「鍵の権威」と言います。キリストの代理者としての権威です。教会は天に通じる場所です。そこには、天国への扉があり、その鍵があります。では、鍵の権威の行使の第一番は何でしょうか。それは、罪の赦しです。世界中、どこを探しても教会以外に罪の赦しを受けることのできるところはありません。罪の赦しは教会にしかありません。キリストの十字架によりあなたのすべての罪は赦されるのです。さらにそれを通してその人をキリストにつなぐことです。私たちクリスチャンは天国と地上に国籍があります。イエス様に代わって、当教会は、信じる皆さんお一人お一人に幸いと勝利を保証しています。ですからハレルヤチャペル滝沢は幸いと勝利の教会です。そして、神はあなたに人生の幸いと勝利を保証してくださいます。

恵みにとどまることの勧め

2022年4月24日主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>申命記28章1~19節
【新改訳2017】
28:1 もし、あなたが、あなたの神、【主】の御声に確かに聞き従い、私が今日あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、【主】は、地のすべての国々の上にあなたを高く上げられる。
28:2 あなたが、あなたの神、【主】の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたについて行く。
28:3 あなたは町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。
28:4 あなたの胎の実も大地の実りも、家畜が産むもの、群れの中の子牛も群れの中の子羊も祝福される。
28:5 あなたのかごも、こね鉢も祝福される。
28:6 あなたは入るときにも祝福され、出て行くときにも祝福される。
28:7 【主】は、あなたに向かい立つ敵どもをあなたの前で敗走させる。彼らは一つの道からあなたを攻めて来るが、あなたの前で七つの道に逃げ去る。
28:8 【主】はあなたのために、あなたの穀物倉とあなたのすべての手のわざが祝福されるように命じられる。あなたの神、【主】があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される。
28:9 あなたが、あなたの神、【主】の命令を守り主の道を歩むなら、【主】はあなたに誓われたとおり、あなたをご自分の聖なる民として立ててくださる。
28:10 地上のあらゆる民はあなたに【主】の名がつけられているのを見て、あなたを恐れるであろう。
28:11 【主】があなたに与えるとあなたの父祖たちに誓われたその地で、【主】はあなたの胎の実、家畜が産むもの、大地の実りを豊かに恵んでくださる。
28:12 【主】はその恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それで、あなたは多くの国々に貸すが、借りることはない。
28:13 私が今日あなたに命じる、あなたの神、【主】の命令に聞き従い、守り行うなら、【主】はあなたをかしらとし、尾とはされない。あなたはただ上になり、下になることはない。
28:14 私が今日あなたがたに命じるこのすべてのことばから右や左に外れ、ほかの神々に従い、それに仕えてはならない。
28:15 しかし、もしあなたの神、【主】の御声に聞き従わず、私が今日あなたに命じる、主のすべての命令と掟を守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたをとらえる。
28:16 あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。
28:17 あなたのかごも、こね鉢ものろわれる。
28:18 あなたの胎の実も大地の実りも、群れの中の子牛も群れの中の子羊ものろわれる。
28:19 あなたは入るときにものろわれ、出て行くときにものろわれる。

<要約>

祝福とのろいのメッセージ:

神の恵みにとどまれば祝福される。しかし恵みから外れれば、あらゆる不条理と悲惨があると言うのです。祝福の反対はのろいですが、誤解していただきたくない事は、神は私たち人間に対して悪意を持って取り扱う事はなさりません。悪いことを企んだり悪いことをなさったりすることは決してありません。ここでは、もし、この恵みにとどまる事をしなければ、罪の世、この不条理の世界がたちまちあなたを飲み込み、あなたはここでいうのろいに置かれるのだということを言っているのです。それは、神に敵対する勢力です。三つあります。一番目は、私たち人間の罪の性質です。二番目は世です。世の誘惑は、人が自分自身のために生きるように仕向けることです。三番目はサタン、悪魔です。かれは私たちと神との関係を破壊しようと誘惑するのです。このように私たちは自分の内面にある罪の誘惑とこの世の誘惑と悪魔の誘惑を常に受けているのです。その結果、神の恵みから落ちてしまうのです。私たちは、神の恵みにとどまらなければ、私たちは呪いと滅びの道を歩むことになるのです。恵みにとどまることは難しいことではありません。神の恵みは神の一方的な愛と哀れみです。私たちはへりくだり自分の罪を悔いて神を仰ぐことです。すなわち信じる信仰です。

呪いを祝福に代えたキリストの十字架:

イエス様は十字架で人間のすべてののろいを受けて死んでくださいました。呪いの代わりに、信じる者に無代価で祝福を与えてくださったのです。そして、神は、キリストを信じる者を、罪と世とサタンののろいから永遠のいのちの祝福へと移してくださるのです。神の恵みとは神の一方的なあわれみです。クリスチャンが、「神の恵みにとどまる」ということは具体的にどのようなことでしょうか。神を信じ、どんなことがあっても神に信頼していくことです。また、日々の生活の中に、イエス様が共にいてくださることを認め、聖書を読んで祈る生活を持つことです。主日礼拝を守り、聖餐式を通してキリストの体と血に与り、罪の赦しといのちの祝福を味わい続けることです。信仰は神の恵みを受け止める空の手です。あなたのために、のろいを祝福に代えてくださったイエス様をあなたの救い主として受け止め、信じましょう。

復活への期待

2022年4月17日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカの福音書24章1~12節
【新改訳2017】
24:1 週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。
24:2 見ると、石が墓からわきに転がされていた。
24:3 そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。
24:4 そのため途方に暮れていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。
24:5 彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。
24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。
24:7 人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」
24:8 彼女たちはイエスのことばを思い出した。
24:9 そして墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した。
24:10 それは、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たちであった。彼女たちはこれらのことを使徒たちに話したが、
24:11 この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。
24:12 しかしペテロは立ち上がり、走って墓に行った。そして、かがんでのぞき込むと、亜麻布だけが見えた。それで、この出来事に驚きながら自分のところに帰った。

<要約>

死を打ち破る復活:

女たちは死人のイエス様を求めていたと言えます。しかし、死人のイエス様はそこにはいないとの天使のメッセージです。すなわち、死んだイエス様はもういない、復活したイエス様が生きておられるのだ、というのです。もし、死んでしまったイエス様を信じお頼りしてもそれはむなしいことです。死んだままのイエス様には救いはなく、なおまだ、女たちも弟子たちも、そして信者である私たちも罪の中で滅びる者たちです。ここで現れた天使たちは、「ここにはおられません。よみがえられたのです。」「死人の内にはいません。生きておられるからです。」と宣言しています。ここに勝利の宣言があります。アダムの罪により、生まれながらに人はすべて罪人で神のいのちを失っています。しかし、キリストの義の行動によりすべての人が罪赦されて復活のいのちに生かされるのです。イエス様を信じる者は肉体の死にあうがそれは大きな力を及ぼさず、復活のいのちに生きることができます。永遠のいのちが与えられて、死に勝利しています。

最後のときを期待と希望に生きる:

女たちは、天使のみ告げを聞いて、「イエス様が十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない」というみことばを思い出しました。そして、墓から戻って、十一人の弟子たちに報告しました。ところが使徒たちはこの話がたわごとであるとして信じなかったのです。復活という事実を理解できなかったのです。クリスチャンは、やがて、世の終わりにラッパの音とともに復活するのです。その時には、顔と顔を合わせてキリストを見るようになります。私が神に完全に知られているように、わたしも神を完全に知るようになるのです。何と素晴しい約束でしょうか。ペテロは空の墓を見て、帰り道、彼の心には、何か素晴らしいことが起こるという予感で満たされていたのではと想像します。「私たち信者も、やがて復活の主に顔と顔を合わせてお会いするのです。やがて復活の主にお会いする時が必ず来ます。ですから、失望と落胆の中にあっても、心が熱くなったペテロのように、あなたも、あなたの人生に素晴らしい期待と希望をもって生きるのです。

渇きをいやす礼拝

2022年3月27日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨハネの福音書4章3~26節
【新改訳2017】
4:3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
4:4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。
4:5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。
4:7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
4:9 そのサマリアの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。
4:10 イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
4:11 その女は言った。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。
4:12 あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」
4:13 イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
4:15 彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
4:17 彼女は答えた。「私には夫がいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。
4:18 あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」
4:19 彼女は言った。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。
4:20 私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
4:21 イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。
4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
4:23 しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
4:25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
4:26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

<要約>

渇くことのない生ける水:

イエス様は、彼女の行動を問題にするよりも、そのような行動をとってしまっている彼女の魂の悩み、苦しみに着目しています。イエス様は、なぜ人がそのような行いに走っていくのか?そこに人間の満たされない心の渇き、を見ているのです。それが霊的渇きです。人間は最初に地のちりで作られて、神からの霊のいのちを吹き込まれて生きるものになったとあります。しかし、最初の人アダムの罪以来、心から神を追い出してしまった人間は、霊のいのちを失い、人格の中心に空洞ができてしまいました。以来、人はむなしくなって、それを何かで満たそうとしています。それが霊的渇きです。しかし、その空洞は永遠なるもの、絶対なるもの、そして決して変わらないもの、すなわち神でしか満たすことができないのです。すべての人は、人格の中心にある霊の渇きを満たす生ける水が必要なのです。この女性と同様に、私たちにも心と魂を満たす生ける水が必要です。そして、世の中のどんなものもあなたの魂を満たし続けることはできません。その空洞を満たす方は神です。生ける水はイエス様ご自身を表し、すべての人の人格の中心にあるこの空洞を満たしてくださいます。人格の中心にイエス様が住んでくださり神のいのちとつながり、永遠のいのちにあずかるのです。

礼拝は神との出会い;

御霊と真実によって、礼拝するのです。真理は、イエス・キリストです。つまり、聖霊とキリストによって神を礼拝しなさいと言うのです。礼拝式には、三位一体の神のそれぞれのお姿が、そこに現れます。聖霊はみことばと一緒におられ、みことばをもってお語りになります。また、聖霊は、キリストの身体と血によって信者の罪を赦し、すべての悪からきよめてくださいます。礼拝者はイエス様の御名によって、祈り賛美をささげます。万物の創造者である父なる神をほめたたえ、栄光をたたえます。ですから、礼拝式では、信者は三位一体の神と一つとなるのです。三位一体の強固な神の交わりの中に招かれるのです。それは、どんなにか祝福に満ちたときでしょうか。礼拝は神との出会いです。そして、礼拝は神との関係回復の道です。私たちも心にその生ける水をいただくことができます。それは、真の救い主イエス・キリストを心の内にお迎えすることなのです。

山上の説教の結論

2022年3月20日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書7章15~29節
【新改訳2017】
7:15 偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。
7:16 あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。
7:17 良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。
7:18 良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。
7:19 良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。
7:20 こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。
7:21 わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
7:22 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』
7:23 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』
7:24 ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。
7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。
7:26 また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。
7:27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」
7:28 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。
7:29 イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。

<要約>

幸いな人生の土台:

聖書の中心メッセージは、神の御子キリストによる救いです。それが福音です。福音とは、神があなたを愛して、イエス・キリストにより、あなたを罪と死と悪魔から救ってくださったということです。聞いて行うということは、信じて従うということです。その福音を聞く者が最終的にとる応答はこの二通りに分かれるのです。すなわち福音を信じて受け止める人と、それを信じないで受け止めない人です。受け止めなければ、福音はその人のところには届きません。そこで、イエス様は、みことばを聞いて行う人は岩の上に家を建てた賢い人のようだ、といわれたのです。岩の上の岩とは、神を信じる信仰ということができます。みことばを聞いて行うというのは、信じてみことばに従うことです。真に幸いな人生の土台とは、信仰に立って、みことばを実践することです。

幸せな人生のガイドライン:

信仰に励みなさいと言われても、具体的にはどうすればよいでしょうか。何を指針として歩んだらよいというのでしょうか。ガイドラインが必要です。それが十戒です。十戒は私たちと神との正しい関係、そしてそれに基づく隣人(自分以外のすべての人)との正しい関係を教えています。十戒は関係のルールと言えます。信仰を土台として、私たちがまず励むことは、十戒の第一戒から第三戒であるといえます。まず、神との関係をただし、神との関係を最も大切にしていくことです。それが礎となって、第四戒、父と母を敬いなさい、から第五戒、殺してはならない、第六戒、姦淫してはならない、と、隣人との関係に続いていくのです。つまり、第四から第十までは、隣人関係についてのガイドラインです。十戒は、人間のあらゆる罪を指摘します。同時に、人間のあらゆる行いの勧めが書かれています。だから、十戒は神の御心と言うことができます。神様が十戒をお与えになった理由は、私たちが、十戒に表わされた神の要求を満たすことのできない存在であることに気づくことです。つまり、神様の思いから遠く離れている自分に気づくことです。自分が罪びとであることを悔いてキリストの十字架で示された愛を受け入れることなのです。そのうえで、罪赦されたものとして、十戒を人生のガイドラインとして歩みなさいというのです。