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ぶどう園の例え

2022年2月20日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書20章1~16節
【新改訳2017】
20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。
20:2 彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。
20:3 彼はまた、九時ごろ出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。
20:4 そこで、その人たちに言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。』
20:5 彼らは出かけて行った。主人はまた十二時ごろと三時ごろにも出て行って同じようにした。
20:6 また、五時ごろ出て行き、別の人たちが立っているのを見つけた。そこで、彼らに言った。『なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。』
20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』主人は言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。』
20:8 夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』
20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。
20:10 最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。
20:11 彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。
20:12 『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』
20:13 しかし、主人はその一人に答えた。『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。
20:14 あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。
20:15 自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』
20:16 このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」

<要約>

人の正義と神の正義の違い:

最初にブドウ園に来た人たちは、主人に不満をもらしたと、書いています。人の正義は、状況によって変わるものといえるでしょう。裁判用語で、情状酌量という言葉があります。情状酌量を広辞苑で調べると、「刑事裁判において、同情すべき犯罪の情状を汲み取って、裁判官の裁量により、刑を減刑すること」と書いてありました。すなわち、人間の正義は、相対的であり、事情によって変わってくるということです。それに対して神の正義は絶対です。それは神の清さから来ています。一点の汚れも妥協もない清さです。その清さのゆえに、一点の汚れも受け入れることができないのです。4節で、「相当の賃金を払うから」といっています。この「相当」は、英語ではjust rightのjustです。ふさわしい報酬、ちょうどで正しい賃金、とでも言います。この相当の賃金の「相当」はギリシャ語、原語ではディカイオスで、神の義の「義」という言葉と同義語です。ぶどう園の主人が働きの長い短いに関係なく、全員同じものを与えたように、父なる神も御国に来るものには働きの大小に関係なく「義」という賜物、プレゼントをお与えになることを示しています。

ありえない神の愛:

最初の人アダムの罪以来、その子孫であるすべての人は、アダムの罪の性質を受け継いでいます。そしてその罪により、罪と死と滅びに定められています。人の内側から出てくるものが人を汚すのです。心に浮かぶ悪い考え、情欲、貪欲、よこしまなどが人に罪を犯させるのです。すべての人は、神から遠く離れているというのです。ですから、真の神を知らないのです。また、知ろうともしないのです。神は人の心をご覧になっております。神の義は徹底的に人を裁くのです。しかし、それに反して、神の愛は徹底的に人を罪の裁きから救うことです。そこで、その二つの矛盾する思いに筋を通したのが、御子キリストの十字架です。すべての人は、イエス・キリストの十字架の贖いを信じる時、完全に罪赦されて神の前に義とされます。それが「神の与える義です」。それは私たち人間には理解できない「ありえない神の愛」なのです。そして、神から義とされた人は、罪赦されて永遠のいのちを持ちます。行いや私たちの人間的な努力ではありません。

神を愛する者に及ぶ二倍の祝福

2022年2月13日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書25章14~30節
25:14 天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。
25:15 彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。するとすぐに、
25:16 五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。
25:17 同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた。
25:18 一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。
25:19 さて、かなり時がたってから、しもべたちの主人が帰って来て彼らと清算をした。
25:20 すると、五タラント預かった者が進み出て、もう五タラントを差し出して言った。『ご主人様。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、私はほかに五タラントをもうけました。』
25:21 主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
25:22 二タラントの者も進み出て言った。『ご主人様。私に二タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、ほかに二タラントをもうけました。』
25:23 主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
25:24 一タラント預かっていた者も進み出て言った。『ご主人様。あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。
25:25 それで私は怖くなり、出て行って、あなた様の一タラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください、これがあなた様の物です。』
25:26 しかし、主人は彼に答えた。『悪い、怠け者のしもべだ。私が蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集めると分かっていたというのか。
25:27 それなら、おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してもらえたのに。
25:28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、十タラント持っている者に与えよ。
25:29 だれでも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っている物までも取り上げられるのだ。
25:30 この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』

<要約>

祝福倍増の法則に生きる:

かれは、5タラント受け取ると「すぐに行って」商売をしました。そして、預かったお金を二倍にしました。彼は、主人の信頼を受けていたので、喜んで出ていき、勇気をもって商売に取り掛かったのです。しかし、5タラントをいただいた人は、それだけ強い誘惑に会います。持っていれば持っているほど誘惑も強いといえます。また、富や才能がその人を高慢にしてしまします。しかし、この5タラント預かった人は、それらの戦いに勝利しました。これこそ、神を信頼し愛し、恐れている者の姿です。神からの報酬は何と大きな喜びであったでしょう。彼は、5タラントを10タラントにして、その後、主からさらに与えられました。次に、2タラントを預けられたしもべです。それを用いて二倍にしました。彼も主の信頼を受けていたので喜んで出ていき、勇気をもってチャレンジしたのです。主の信頼にこたえて一歩踏み出すとき、何が起こるのでしょうか。それぞれが倍々の祝福を受けるのです。「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。」

罪と死と滅びの原理からの救い:

次に、この二人とは対照的に1タラントを預かったしもべについて、見てみましょう。なぜ彼は、主人に心を閉ざして、不信の罪を犯したのでしょうか。それを知るためには、天地創造で人が創られたときからの人類の歴史をみる必要があります。神は天地万物をおつくりなって、そのわざを終えられたとき、すべては非常に良かったといわれました。神は人とすべての被造物を祝福しました。アダムは罪を犯す前は、神への信頼と愛により忠実に神に従っていました。そのルールにしたがう時にアダムには倍々の祝福がもたらされていました。世界は祝福と喜びに満ち溢れていたと思います。それが、「天の御国」のルール、法則です。しかし、アダムが神の戒めを破って罪を犯してしまいました。それにより、人も自然界も一挙に堕落して呪いの世界へと道を外したのです。それが現代の状況です。すなわち、1タラントの人は、アダムの罪を背負った人間の姿です。かくして、人は神との関係を失って、死と滅びに向かっているのです。その罪と死と滅びの原理から救ってくださったのが、イエス・キリストの十字架です。

あなたの罪を赦すために来られた神

2022年1月30日主日説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカの福音書5章17~26節
【新改訳2017】
5:17 ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人たちと律法の教師たちが、そこに座っていた。彼らはガリラヤとユダヤのすべての村やエルサレムから来ていた。イエスは主の御力によって、病気を治しておられた。
5:18 すると見よ。男たちが、中風をわずらっている人を床に載せて運んで来た。そして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとした。
5:19 しかし、大勢の人のために病人を運び込む方法が見つからなかったので、屋上に上って瓦をはがし、そこから彼の寝床を、人々の真ん中、イエスの前につり降ろした。
5:20 イエスは彼らの信仰を見て、「友よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
5:21 ところが、律法学者たち、パリサイ人たちはあれこれ考え始めた。「神への冒?を口にするこの人は、いったい何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」
5:22 イエスは彼らがあれこれ考えているのを見抜いて言われた。「あなたがたは心の中で何を考えているのか。
5:23 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
5:24 しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、中風の人に言われた。「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」
5:25 すると彼はすぐに人々の前で立ち上がり、寝ていた床を担ぎ、神をあがめながら自分の家に帰って行った。
5:26 人々はみな非常に驚き、神をあがめた。また、恐れに満たされて言った。「私たちは今日、驚くべきことを見た。」

<要約>

罪と病いと死の原理:

イエス様は彼らの信仰を見て、中風の人に「友よ。あなたの罪は赦された。」と宣言されました。当時の社会は、因果応報が一般的で、病は罪のためであると考えていたようです。現代でも、罪と病いは全く無関係とはいえません。罪からくる悪習慣による病気もあります。暴飲暴食からくる健康被害、喫煙がもたらす健康障害、性病などもそうかもしれません。しかし、多くの病は罪と無関係であるといえます。イエス様は、生まれつきの盲人に道でお会いになりました。そして、彼が生まれついたのは罪のためではなく、神の御業があらわされるためであると言って、彼の眼を開かれました。かたや、病と死は創造の初めからあったものではなく、アダムの罪によって人類に入ってきたものです。ですから、根元的には、病気や死は罪の結果ともいえます。そのように罪と病いと死は密接に関係しているといえます。イエス様はその根元的な罪を取り除くために来られました。あなたを罪と死と、そして、悪魔から救うために来られたのです。聖書は、人の罪は心から出ているといいます。もし、あなたが、罪のリストの一つにでも該当したらあなたにはイエス様の十字架の赦しが必要です。そのままでは神の怒りの下にあるからです。

罪を赦すための主の十字架:

神であるイエス様が地上に来られた目的は、罪の赦しの権威を行使するためでした。つまり、人の罪を赦すために来られたのです。それは、実は、イエス・キリストは、十字架にかかるために来られたといえます。十字架とは何でしょうか。それは、死刑の道具です。無実の神が人の身代わりとなって罪の罰を負ってくださった。無実の神があなたの身代わりとなってあなたが受けるべき罰を受けてくださったのです。イエス様はあなたの罪のために来てくださった。それは、あなたの罪を赦し、新しい人としての再生させるために生まれてくださったのです。イエス・キリストの罪の赦しによって、それを受け取るものは、罪の束縛から解放されて自由にされます。死からも自由にされます。そして、むしろ神に喜ばれることを積極的に行うことができるようになります。それは、隣人を愛するという行為となって表れるのです。

百人隊長の信仰から学ぶ

2022年1月23日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカの福音書7章1~10節
【新改訳2017】
7:1 イエスは、耳を傾けている人々にこれらのことばをすべて話し終えると、カペナウムに入られた。
7:2 時に、ある百人隊長に重んじられていた一人のしもべが、病気で死にかけていた。
7:3 百人隊長はイエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、自分のしもべを助けに来てくださいとお願いした。
7:4 イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。
7:5 私たちの国民を愛し、私たちのために自ら会堂を建ててくれました。」
7:6 そこで、イエスは彼らと一緒に行かれた。ところが、百人隊長の家からあまり遠くないところまで来たとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスにこう伝えた。「主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません。あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。
7:7 ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください。
7:8 と申しますのは、私も権威の下に置かれている者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」
7:9 イエスはこれを聞いて驚き、振り向いて、ついて来ていた群衆に言われた。「あなたがたに言いますが、わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。」
7:10 使いに送られた人たちが家に戻ると、そのしもべは良くなっていた。

<要約>

「みことばをください」とへりくだる信仰:

百人隊長は、結局のところ、イエス様を直接見ることなく、イエス様を信じました。現代の私たちクリスチャンも、イエス様をこの目で見ることなく信じています。そのように 彼は、その後、見ないで信じるすべての信者の初穂と言えるかもしれません。百人隊長は、自分のしもべの癒しのために、イエス様のおことばをいただきたいと言いました。かれは、イエス様の言葉を握って、信仰の通りになりました。神の言葉を全身全霊をもって信頼したのです。神のことばは力があり、無から有を作り出すのです。聖霊が、預言者や使徒や福音書記者らに働いて、聖書が書かれました。聖書全体は、誤りのない神のことばです。聖書は、イエス・キリストによる全人類の救いが書かれています。試練や困難に直面する私たちの人生ですが、この百人隊長のように、私たちにとって大切な神への日々の訴え、祈りがあります。それこそが、「みことばをください」ということではないでしょうか。みことばを求めへりくだる者に、神は近づいてくださいます。神のことばは生きています。日々、体験して歩んでいただきたいと願います。

神のみことばの権威と力を信じる信仰:

イエス様は「これほどの信仰を見たことがない」と言って、百人隊長の信仰を褒めました。イエス様は、「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」とおっしゃいました。隊長の権威に裏付けられた命令には兵士はその通り従うことを例に挙げて、権威に裏付けられた言葉には力があることを百人隊長は述べました。まして、病を癒し、人のいのちを保っておられる全能の神の権威による神の言葉があれば、しもべはいやされると信じたのです。神のみことばの権威は絶対です。イエス様のことばは、決して消えさらないとおっしゃいます。ですから、私たちは、百人隊長のように神のみことばの権威と力を信じ切って行きましょう。そして、百人隊長のように、神のみことばを常に待ち望むものでありたいと思います。死にかけていたしもべは百人隊長の信仰のとおりにいやされました。もし、あなたが信仰に生きるなら、後に、自分の人生を振り返るときにあなたの人生は信仰のとおりになっていることに気づくのです。

勝利の希望

2022年1月16日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ローマ書8章18~25節
【新改訳2017】
8:18 今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。
8:19 被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。
8:20 被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。
8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。
8:22 私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。
8:23 それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。
8:24 私たちは、この望みとともに救われたのです。目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを、だれが望むでしょうか。
8:25 私たちはまだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます。

<要約>

今の苦難は後の栄光にのまれる:

私たちの周りの見える世界、万物は本来の姿から大きく逸脱して空虚でむなしい状態にさせられて、滅ぶべきものとなって、今にいたるまで、うめき、苦しみを味わっています。最初の人アダムは、神の前で堕落し罪を犯し、呪われた者となりました。その結果、人に死が入りました。そして、すべての被造物も呪われました。やがて現在の世界は滅びるでしょう。罪によって人類も自然界も滅びに定められたのです。ところが、神は罪のない神の独り子キリストを送ってくださいました。神は彼に、あなたや私、そして人類の全ての罪の呪いを背負わせました。そして、身代わりとして十字架で裁いたのです。キリストは、罪の報酬である死を身代わりとなって味わい、死んでくださったのです。そして、三日後に復活し、キリストを信じる者に罪の赦しと復活のいのちをお与えくださるのです。イエス・キリストを信じるものは、死んでも生きるとある通り、復活のいのち、永遠のいのちが与えられます。ゆえに今の苦難は取るに足らないというのです。今の様々な苦難は驚くべき神の栄光の光の中に吞み込まれて跡形もなくなります。

忍耐して祈り、勝利を得る:

私たちが、イエス・キリスト信じて洗礼を受けたときに与えられた聖霊が保証してくださいます。やがて、完全にされて、完成の時を迎えることを。しかし、この地上にある間は、うめいており、生みの苦しみがあると言っています。そして、聖霊は信じるあなたの内に住んでくださり、うめきをもってあなたを神にとりなしておられます。自然界も含めて、被造物全体も、あなたが、やがて、この地上のいのちを終え、復活のいのちによみがえるのを待ち望んでいます。今目に見ることはできませんが 神が約束してくださった確かな希望です。まだ、その希望を受け取っていない方は、是非、その希望を自分のものにしてください。私たちの希望は、復活のいのち、永遠のいのち、それを今見ることができません。地上のさまざまなことがらに動揺することなく、神のみことばにしっかりたち、信仰の確信に忍耐し留まることです。そして御霊によって祈り、待ち望むのです。それが勝利の道です。

地の塩、世の光

2022年1月9日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書5:13~16
【新改訳2017】
5:13 あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。
5:14 あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
5:15 また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

<要約>

塩気を保つ生活とは

塩気を失った塩とは、みことばを失ったクリスチャン、みことばに立たないクリスチャンといえます。聖書のみことばに立たなければ、クリスチャンが世の人々と同化して、世の人々の中に埋没してしまいます。皆さんは、もし、一か月、説教も聞かない、聖書を読まないということであれば、危機的な状態であると思います。一年、教会を離れて、聖書から離れるならば、世の中に埋没してしまい、クリスチャンとしてのアイデンティティーを失ってしまうでしょう。塩気を失ったクリスチャンは、役に立たず、外に捨てられて人々に踏みつけられるとあります。みことばから離れて信仰を棄てた者には、神の厳しさがその上に臨むのです。クリスチャンが塩気を保つことは難しいことではありません。あなたが塩気を保つ 生活をするためには聖書のみことばに立って生活することです。

世の光として輝くために

イエス様は、地の塩、世の光となりなさいといっているのではなく、もうすでにあなた方は、地の塩、世の光であると断言しておられます。私たちはイエス様を信じたから地の塩、世の光なのです。聖書に、私たちは、以前は罪の中に死んでいたものであると書かれています。御怒りを受けるべき子らでした。神がわからない、神を知ることができないという私たちの心の状態。それは、心の目をふさいでいるものがあるからです。それは、すべての人の心に巣食う癌、罪です。罪によって、心の目がふさがれて、神を認めることができないのです。イエス・キリストの十字架により、たましいの癌である罪を取り除かれて、私たちは光の子、世の光とされたのです。世の光として輝くために、私たちは、信仰に励むことです。すなわち、神との関係に生きることです。自分を神に明け渡すことです。神との関係が正されると、行いは自然と出てきます。火があるところには必ず光が生じます。そのように信仰がある人は必ずよい影響を周りに及ぼしていくのです。

クリスマスのインパクト

2021年12月26日クリスマス礼拝ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書2章1~12節
2:1 イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」
2:3 これを聞いてヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった。
2:4 王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
2:5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。
2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」
2:7 そこでヘロデは博士たちをひそかに呼んで、彼らから、星が現れた時期について詳しく聞いた。
2:8 そして、「行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言って、彼らをベツレヘムに送り出した。
2:9 博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。
2:10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
2:11 それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2:12 彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。

<要約>

闇にとどまることに甘んじる人間社会

ヘロデ王は命じてベツレヘムとその周辺の2歳以下の男子をすべて殺しました。ヘロデが、自分の王位を脅かす存在を恐れて、それを抹殺しようと思う事は想像に難くないことです。しかし、ヘロデ王ばかりでなくエルサレムにいた多くのユダヤ人たちもキリストの誕生を聞いて動揺しました。多くのユダヤ人は、救い主がユダヤ人の王として来られ、社会が不安定になるのを恐れていたのです。現状にあまんじ、変化を恐れていたのです。「私たちにはキリストは必要がない」と表明したのです。そこに当時のユダヤ人を含めて人間の罪の姿があります。私にはキリストは必要がないという声を聞くのです。結果的に、私たちの罪を取り除いてくださるキリストを拒むのです。最初のクリスマスは、それは小さな灯でした。荒野で夜番をしていた羊飼いたちと異邦人の博士たちに最初のクリスマスは届けられました。そして、羊飼いたちと異邦人博士たちによって、小さな灯はやがて大きな光となって、全世界に広がっていったのです。闇にとどまることに甘んじる人間社会と題して話しました。しかし、あなたが小さなともし火でも灯し続けていれば、神がそれを用いてくださるのです。

クリスマスはこの上もない良い知らせ

キリストはご自分の民に拒絶されました。そのお姿は、最も低くなってこられたキリストです。私たちを支配するのではなく、人々に仕えるものの姿で来られました。貧しい無防備な幼子でした。貧しいものとなって心の貧しい人々を救うために来られたのです。また、ご自身を拒絶する、「救いはいらない」、「私にはキリストは必要がない」、と言う人々に対しても、忍耐を持って待っておられます。それは、私たち罪びとの身代わりとなって十字架でご自身の命をお捨てになったこと。また、ご自身を害するもののために祈られたことからもわかります。キリストは私たちの罪を背負って十字架に付けられるために来て下さり、私たちに代わって死んでくださいました。そして、私たちの命の為に復活して下さったのです。このように、クリスマスはすべての人に罪の赦しと永遠の命を与える、この上もない良い知らせなのです。

マリアの信仰から学ぶ

2021年12月19日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカの福音書1章31~56節
【新改訳2017】
1:31 見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
1:32 その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
1:33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」
1:34 マリアは御使いに言った。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」
1:35 御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。
1:36 見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。
1:37 神にとって不可能なことは何もありません。」
1:38 マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。
1:39 それから、マリアは立って、山地にあるユダの町に急いで行った。
1:40 そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。
1:41 エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた。
1:42 そして大声で叫んだ。「あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。
1:43 私の主の母が私のところに来られるとは、どうしたことでしょう。
1:44 あなたのあいさつの声が私の耳に入った、ちょうどそのとき、私の胎内で子どもが喜んで躍りました。
1:45 主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」
1:46 マリアは言った。「私のたましいは主をあがめ、
1:47 私の霊は私の救い主である神をたたえます。
1:48 この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。
1:49 力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。その御名は聖なるもの、
1:50 主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。
1:51 主はその御腕で力強いわざを行い、心の思いの高ぶる者を追い散らされました。
1:52 権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられました。
1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返されました。
1:54 主はあわれみを忘れずに、そのしもべイスラエルを助けてくださいました。
1:55 私たちの父祖たちに語られたとおり、アブラハムとその子孫に対するあわれみをいつまでも忘れずに。」
1:56 マリアは、三か月ほどエリサベツのもとにとどまって、家に帰った。

<要約>

信じ切る信仰とは?

マリヤも、自分自身をさして、「今から後、どの時代の人々も私を幸いなものと呼ぶでしょう」と神からの祝福を宣言しています。マリヤは主によって語られた事は必ず実現すると信じきることができました。一言で言うと簡単のように見えますが、実際には、私たちには、先のことが分からないがゆえに、信じ切ることができないのです。私たちはもう一度信じて信仰を持って心を定めて歩む必要があるのではないでしょうか。神は私を祝福してくださると信じ、神を信頼し歩むのです。それこそクリスチャン人生の醍醐味です。未婚の母となったことに対する非難やそしり、やがてわが子に臨む十字架に至るまでの苦難、そのようなものすべてを乗り越える力がマリヤのこの「信じ切る」という信仰から来るのです。信じきることは、どんなに周りの状況が変わって、よくない方向に行っているように見えても、みことばに留まり、信じ続けることです。

インマヌエルともにいてくださる神

マリヤの信仰は、歴史を通して、すべてのクリスチャンに称えられています。なぜ、ただの田舎娘がそれほどまでの偉業をなしえたのでしょうか。そうです。マリヤには、インマヌエルなるイエス様が彼女の胎内に宿っていてくださったのです。インマヌエルなるキリスト、イエス様が文字通り共にいてくださったのです。マリヤには、みことばは必ずなると信じきる信仰とインマヌエルなるキリストが与えられていたのです。マリヤはあらゆる困難や苦難を乗り越えて、神に感謝し神をほめたたえました。それは私たちとともにいてくださるキリストによって与えられた信仰です。私たちのうちに住んでくださるイエス様を覚えましょう。イエス様に心の王座についていただきましょう。神は、そのあわれみは尽きることがありません。また、変わることなく、私たちに注がれているのです。心低くして受け取るのです。それは、御子イエスの十字架による贖いによる罪の赦しです。イエス様を信じる者は罪赦されて、永遠のいのちをいただくのです。神の命につながるのです。

喜びの人生への招き

2021年12月12日(日)礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカによる福音書2章1~14節
【新改訳2017】
2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。
2:2 これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。
2:3 人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。
2:4 ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5 身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。
2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、
2:7 男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
2:8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」
2:13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
2:14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」

<要約>

救い主がわからず拒絶してしまう人間

救い主は、生まれた時からご自分の民であるユダヤ人から拒絶されました。そして、最後は、何の罪も見いだせないのに彼らはイエス様を十字架刑にかけたのです。拒絶して抹殺したのです。しかし、神はイエス様を復活させました。その時から二千年以上もたった現代でも、多くの人々が救い主を受け入れていません。神の御子は惨めな場所で惨めな姿でお生まれになりました。それだからこそイエス様はすべての人の救い主となられたのです。最も弱く貧しく小さな者たちの救い主として来て下さったのです。神の力や権利を持って治めることを好まず、へりくだってしもべの姿になり、仕えるものとなって世に来て下さったのです。そのように、多くの人は、救い主は隠れておられることが分からず、この世が価値としていることばかりに目を留めています。結果的に救い主を拒絶してしまうのです。もしあなたがへりくだり あなたの行くところ何処にでもキリストを認めるならば、あなたはまことの幸を得ることができるのです。

万民の救いのためへりくだられた救い主

神の愛が最も明らかにされたのは何だったでしょうか。それは十字架の上でご自身のいのちをお捧げになったことです。全人類の罪を背負い私たちの罪を取り除くため、私たちのすべての罪を赦すためにキリストは来られました。罪のない神が、へりくだりすべての人の罪を背負い、極悪人の一人に数えられることを良しとされたのです。それが、万民の救いのためへりくだられた救い主です。神は最も小さなヨセフとマリヤの家庭に来てくださいました。そして、布に包まれ飼葉桶に寝かされたイエス様は、世には最も小さな存在に見えたでしょう。神も小さなものとして、世の中では最小の存在として現れてくださいました。それは、天のみ位を捨てて最もヘリくだられた神の姿です。異邦人の博士たちに救い主の誕生が届けられたのは、イエス・キリストの救いがイスラエルの民ばかりでなく、万民の救いであることを物語っています。彼らは、素直に信じました。素直に信じた人は人生が変わるのです。本当の喜びを自分のものにすることができるのです。

主の熱心が成し遂げたこと

2021年12月5日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>イザヤ書9章1~7節
9:1 しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。
9:2 闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。
9:3 あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられる。彼らは、刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜ぶ。
9:4 あなたが、彼が負うくびきと肩の杖、彼を追い立てる者のむちを、ミディアンの日になされたように打ち砕かれるからだ。
9:5 まことに、戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食となる。
9:6 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。

<要約>

闇と死の陰を歩む人間社会

国際社会では国家間で緊張が高まっています。戦争の危機も常にあると言えます。地球環境では地球温暖化も歯止めがかからない状況です。コロナウイルスのパンデミックは全世界を覆っています。これらは、世界を覆う闇ということができるのではないでしょうか。日本社会を見ても、少子高齢化の波は凄まじく、数年前から人口減に入っております。このように闇はいたるところにあります。そして、人間社会はいずれ、この闇の中に埋もれていきます。個人としては、やがて必ず死がやってきます。今まで人類が歩んできた歴史を見ると二通りの世界観があります。一つは、人間中心の世界観です。もう一つは、神中心の世界観です。人間中心の世界観では、万物をそして人間をおつくりになった神は蚊帳の外に置かれています。神は無視されています。しかし、人間が中心の歴史は先ほど述べたように、もう筋書きが見えています。死と滅びで終わる歴史です。しかし、神中心、すなわち、神が導いておられるという歴史は、真実の歴史と言えます。聖書が示している通り、死と滅びではなく、回復と永遠のいのち、すなわち救いの歴史です。

死の陰から永遠のいのちに移してくださる神

パウロはエペソの教会の信徒に向けて、手紙を書きました。これを私たちに当てはめて読むと、私たちは自分の罪のために死んでいました。神が分からない、自分の罪が分からないのです。しかし、キリストは私たちの罪を取り除くためにお生まれになりました。イエス様は私たちのすべての罪を背負い十字架で身代わりとなって神の裁きを受け死ぬためにお生まれになりました。そして、死んで葬られて、三日目に復活し、信じる者に永遠のいのちをお与えくださるのです。私たちは神のいのち、永遠のいのちをいただいています。神は、死と滅びに向かう人間社会、そして、すべての個人を憐れんで救おうとしてくださいます。そして、キリストを信じる者に死と滅びに代えて、回復と永遠のいのちを与えてくださいます。すべての人、すなわちすべての個人、そして、あなたを、死の影から永遠の命に移してくださるのです。