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神と向き合いいのちに生きる

8月7日(日)主日礼拝ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカの福音書10章25~37節
【新改訳2017】
10:25 さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
10:27 すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
10:29 しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」
10:30 イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。
10:34 そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」

<要約>

神と向き合わず永遠のいのちを失った人間:

永遠のいのちというのは、私たちの今のいのちが天国で永遠に続くというのではありません。いのちの質が全く違います。それは、神のいのちです。ですから、朽ちることもしぼむことのないいのちです。死も、苦しみも、悲しみも、悩みもない永遠の祝福の中で喜びと賛美に満ち溢れるいのちです。永遠のいのちは、行いによって得るのではなく、信仰によって恵みによって与えられるのです。隣人を愛する前に、第1番目に、あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。それは別の言い方だと、神としっかり向き合いなさいということです。神は人をご自身の形に似せてつくられました。最初の人間の心は神を理解し、神を知り、神のみ心を行うことができたのです。しかし、人間は神と向き合うことをやめて、神の思いより自分の思いを優先し、自分を神の上に置きました。そして、神から遠く離れてしまい、いのちを失ったのです。ですから、神を知ろうともせず、神と向き合うということもわからないのです。本来あるべき関係から大きくずれているのです。それを罪といいます。永遠のいのちを失っているのです。

あなたと向き合って永遠のいのちをくださる神:

イエスさまは、そのような人間の本質をご存じです。私たちに向き合って下さるのです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という言葉は重いのです。自分の家族や愛する人のために自分のいのちを犠牲にする人はいるでしょう。しかし、誰でも敵であり憎んでいる人のために自分のいのちを捨てることはできません。神は、私たち人間がそのままでは自らの罪によって滅んでしまうのを惜しみ、独り子であるイエス・キリストを私たちの身代わりとして十字架におかけになりました。長谷川少年はその先生が自分と最後まで向き合ってくれると、信じたかったのです。そのような愛を信じたかったのです。しかし、誰も人間にそのような愛を要求することは無理と考えます。その先生が、長谷川与志充を愛するために、自分の子どものいのちを犠牲にするなどということは、起こりえません。その起こりえないことを父なる神は、してくださったのです。それが、キリストの十字架です。

人の罪深さと神の愛

2022年7月24日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨハネの福音書2章13~25節
【新改訳2017】
2:13 さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
2:14 そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、
2:15 細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、
2:16 鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」
2:17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。
2:18 すると、ユダヤ人たちがイエスに対して言った。「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか。」
2:19 イエスは彼らに答えられた。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」
2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか。」
2:21 しかし、イエスはご自分のからだという神殿について語られたのであった。
2:22 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた。
2:23 過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。
2:24 しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。すべての人を知っていたので、
2:25 人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。

<要約>

深刻で悲惨な人の罪の現状:

イエス様はご自身のご計画を遂行するために人間に心を赦さなかったのです。イエス様は人間の心にある罪の深い闇を知っていました。それゆえに来てくださったのです。闇は光に打ち勝たなかった、と。イエス様は、ご自身の主導で十字架の道を目指しておられました。私たちも、知らなければなりません。人間というものはいかなるものであるかを。人間を知ると言っても、人は自分がわからないものです。人のことは見えるのですが、自分が見えないのが人間の罪の性質です。過信してはいけません。私たち人間を死と滅びに誘うものが三つあると小教理で教えています。それは、サタンとこの世と私たちの罪の性質の三つです。サタンやこの世は自分の外のものですから、警戒しやすいのです。が、自分の罪の性質については聖霊による照らしによるしかわかりません。現代社会を見ても、世の中には悪いことが多すぎます。ロシアのウクライナ侵攻、安部前首相殺害事件、統一教会の霊感商法の犠牲者、これらの原因は、神から離れた人間の腐敗した私の中にある罪の性質です。このように、深刻で悲惨な人の罪が世界を覆っています。しかし、神は、その覆いを打ち破り光となって来てくださったのです。

十字架と復活は神の愛の極み:

不信仰はしるしを求めます。信仰は目に見えないことを確信することです。「あなたが神ならば、しるしを見せろ」と人々は言いました。しかし、主は、不信仰なものにはしるしを見せませんでした。あくまでも、主は、あなたに信仰を求めておられるからです。神は、あなたが信仰によって近づく時、ご自身を表されるのです。ユダヤ人たちの問いに対して、イエス様は、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは三日でそれを よみがえらせる」と言われました。後で、弟子たちは、イエス様の復活を見て、イエス様は、ご自身の身体の神殿のことを言われたことに気付いたのです。エルサレムの神殿は、イエス・キリストのひな型であると言えます。神は三日目にイエス様を復活させて、悪魔と罪にとらわれている人類そして、あなたを救う道を用意なさったのです。神の動機は、何でしょうか。それは愛です。神の愛の極みが、あなたのいのちのために、ご自身のいのちを捨ててくださったことです。

喜びと希望の時代

2022年7月17日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨハネの福音書2章1~11節
【新改訳2017】
2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。
2:3 ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 母は給仕の者たちに言った。「あの方が言われることは、何でもしてください。」
2:6 そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二あるいは三メトレテス入りのものであった。
2:7 イエスは給仕の者たちに言われた。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
2:9 宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。それで、花婿を呼んで、
2:10 こう言った。「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」
2:11 イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

<要約>

人の願いと神の最善:

母マリヤはイエス様に「ぶどう酒がありません」と言いました。イエス様がその力を表して、ご自分を世に表すことをひそかに期待していたのです。それに対して、イエス様が「わたしの時はまだ来ていません」と母マリヤに言われました。イエス様の母マリヤも兄弟たちも、イエス様の時が、十字架を意味するとは思わなかったのです。私たち人間の思いと神の思いとは違うということです。私たちは現状を憂えて、何とかしてほしいと考えます。しかし、神の御心はそこにはないということがよくあります。イエス様の心にあったのは、すべての人の救いです。神が人となって来てくださったことの意味です。マリヤはイエス様が、母の願いを何とかしてくださることを信じていました。これはマリヤの立派な信仰の態度です。私たちも、祈りがその時、聞かれなくても神のみ旨を求め続け願いが聞かれる時を待たなければなりません。私たちは目先のことしかわからない存在です。自分の思う通りに状況が開けなくても、神を信頼していくことです。 神のご計画は、私たちの願いと違っても、神のなさることは最善です。

罪の責めから解放され前向きに生きる:

この6つの石瓶は律法の時代を象徴しています。律法を追求しても義と認められない、すなわち、律法は罪から救えない。反って罪の意識が生じるというのです。しかし今や、律法とかかわりなく、イエス・キリストを信じることにより罪から救われます。律法の中心は、十戒と言ってよいでしょう。本来、十戒は、神のみこころですので、良いものです。それを守れば幸せになります。しかし、十戒の一つ一つを守ろうとすると、思いと心において、守ることができない自分に気が付くのです。すなわち、思いにおいて、御心に沿わない自分を知るのです。自らの弱さや罪を認め、神の前でへりくだり、神を仰ぎ見るのです。これが信仰です。どんな人も、イエス様の十字架により罪が完全に取り除かれて、神との完全な交わりに入ることができます。これが福音です。クリスチャンは律法の責め、罪の呪いから解放されています。すなわち、ああしてはいけない、こうしてはいけないという、消極的な思いから解放されて、むしろああすることができる、こうすることもできると、積極的に失敗を恐れず、前向きに進んでいくのです。

ヨセフの生涯からキリストを見る

2022年6月26日主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>創世記39:1~8、20~23、41:1~16、25~32

【新改訳2017】
39:1 一方、ヨセフはエジプトへ連れて行かれた。ファラオの廷臣で侍従長のポティファルという一人のエジプト人が、ヨセフを連れ下ったイシュマエル人の手からヨセフを買い取った。
39:2 【主】がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり、そのエジプト人の主人の家に住んだ。
39:3 彼の主人は、【主】が彼とともにおられ、【主】が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た。
39:4 それでヨセフは主人の好意を得て、彼のそば近くで仕えることになった。主人は彼にその家を管理させ、自分の全財産を彼に委ねた。
39:5 主人が彼にその家と全財産を管理させたときから、【主】はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を祝福された。それで、【主】の祝福が、家や野にある全財産の上にあった。
39:6 主人はヨセフの手に全財産を任せ、自分が食べる食物のこと以外は、何も気を使わなかった。しかもヨセフは体格も良く、顔だちも美しかった。
39:7 これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、「一緒に寝ましょう」と言った。
39:8 しかし彼は拒んで、主人の妻に言った。「ご覧ください。ご主人は、家の中のことは何でも私に任せ、心配せずに全財産を私に委ねられました。

39:20 ヨセフの主人は彼を捕らえ、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた。こうして彼は監獄に置かれた。
39:21 しかし、【主】はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。
39:22 監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手に委ねた。ヨセフは、そこで行われるすべてのことを管理するようになった。
39:23 監獄の長は、ヨセフの手に委ねたことには何も干渉しなかった。それは、【主】が彼とともにおられ、彼が何をしても、【主】がそれを成功させてくださったからである。


41:1 それから二年後、ファラオは夢を見た。見ると、彼はナイル川のほとりに立っていた。
41:2 すると、ナイル川から、つやつやした、肉づきの良い雌牛が七頭、上がって来て、葦の中で草をはんだ。
41:3 するとまた、その後を追って、醜く痩せ細った別の雌牛が七頭、ナイル川から上がって来て、その川岸にいた雌牛のそばに立った。
41:4 そして、醜く痩せ細った雌牛が、つやつやした、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くしてしまった。そのとき、ファラオは目が覚めた。
41:5 彼はまた眠り、再び夢を見た。見ると、一本の茎に、よく実った七つの良い穂が出て来た。
41:6 すると、その後を追って、しなびた、東風に焼けた七つの穂が出て来た。
41:7 そして、しなびた穂が、よく実った七つの穂を?み込んでしまった。そのとき、ファラオは目が覚めた。それは夢だった。
41:8 朝になって、ファラオは心が騒ぎ、人を遣わして、エジプトのすべての呪法師とすべての知恵のある者たちを呼び寄せた。ファラオは彼らに夢のことを話したが、解き明かすことのできる者はいなかった。
41:9 そのとき、献酌官長がファラオに告げた。「私は今日、私の過ちを申し上げなければなりません。
41:10 かつて、ファラオがしもべらに対して怒って、私と料理官長を侍従長の家に拘留されました。
41:11 私と彼は、同じ夜に夢を見ました。それぞれ意味のある夢でした。
41:12 そこには、私たちと一緒に、侍従長のしもべで、ヘブル人の若者がいました。私たちが彼に話しましたところ、彼は私たちの夢を解き明かしてくれました。それぞれの夢に応じて、解き明かしてくれたのです。
41:13 そして、彼が私たちに解き明かしたとおりになり、ファラオは私を元の地位に戻され、料理官長は木につるされました。」
41:14 ファラオは人を遣わして、ヨセフを呼び寄せた。人々は急いで彼を地下牢から連れ出した。ヨセフはひげを剃り、着替えをして、ファラオの前に出た。
41:15 ファラオはヨセフに言った。「私は夢を見たが、それを解き明かす者がいない。おまえは夢を聞いて、それを解き明かすと聞いたのだが。」
41:16 ヨセフはファラオに答えた。「私ではありません。神がファラオの繁栄を知らせてくださるのです。」

41:25 ヨセフはファラオに言った。「ファラオの夢は一つです。神が、なさろうとしていることをファラオにお告げになったのです。
41:26 七頭の立派な雌牛は七年のことで、七つの立派な穂も七年のことです。それは一つの夢なのです。
41:27 その後から上がって来た七頭の痩せた醜い雌牛は七年のことで、痩せ細り東風に焼けた七つの穂も同様です。それは飢饉の七年です。
41:28 これは、私がファラオに申し上げたとおり、神が、なさろうとしていることをファラオに示されたのです。
41:29 今すぐ、エジプト全土に七年間の大豊作が訪れようとしています。
41:30 その後、七年間の飢饉が起こり、エジプトの地で豊作のことはすべて忘れられます。飢饉が地を荒れ果てさせ、
41:31 この地の豊作は、後に来る飢饉のため、跡も分からなくなります。その飢饉が非常に激しいからです。
41:32 夢が二度ファラオに繰り返されたのは、このことが神によって定められ、神が速やかにこれをなさるからです。

<要約>

イエスが共にいてくださる人生:

家の主人ポティファルはヨセフには主がついておられてすべてのことを主が成功させておられるのを見ていました。これはクリスチャンの証といえます。主イエス様の約束は何でしょうか。「見よ。私は世の終わりまでいつも、あなた方と共にいます」です。「主よ。お助け下さい。私とともにいてください」とヨセフは何百回、何千回も祈っていたと思います。その度に、父祖から伝えられた神の約束を思い出していたことでしょう。あるいは夢で神の御声を聞いていたことでしょう。その度に、彼は、信仰を強めたのです。主がともにいてくださるということを信じて疑わない、ことは何と幸いなことでしょうか。ジョン・ウエスレーは臨終のとき、「自分の人生で一番幸いだったことは、神がともにいてくださったことだ」と証を残しています。なぜなら神がともにいてくださることほどすばらしい祝福はないからです。

すべてのことを益と変え救ってくださる神:

ファラオは夢を見ました。それは、七年の豊作のあと七年の飢きんが来るという意味でした。ファラオの夢を解き明かしたヨセフは、そのことにより徴用され、ファラオに次ぐ第二の権威をあたえられました。ヨセフは七年間の豊作の間にできる限りの蓄えをしました。倉を各地にたてました。それぞれの町々に食糧を蓄えさせました。七年間の食糧備蓄という大事業を推進したのです。そのようなヨセフの資質はどこで身についたのでしょうか。それは、ポティファルの家で主人の家財や土地や資産を管理運用し、使用人の労務など扱った経験が生かされたのです。神は信じる者に最善な道を備えて下さるということです。神は苦しみ重荷を一緒に、担って下さっているということです。ヨセフはエジプトを救いました。イスラエル民族を救いました。ここにもキリストのひな型としてのヨセフがあります。ヨセフは不当に扱われ、無実の罪を着せられて、苦難の道を歩かせられました。そして、エジプトを救いに導いたのです。イエスさまは十字架で私たちの罪をになって苦しみ私たちを救い出してくださいました。イエス様の救いは、罪と死と悪魔からの救いです。人間の最後の敵である死からもお救いくださるのです。その救いのもたらすものは永遠のいのちです。

神の祝福を受け継ぐ

2022年6月19日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>創世記27章1~10、26~31節
【新改訳2017】
27:1 イサクが年をとり、目がかすんでよく見えなくなったときのことである。彼は上の息子エサウを呼び寄せて、「わが子よ」と言った。すると彼は「はい、ここにおります」と答えた。
27:2 イサクは言った。「見なさい。私は年老いて、いつ死ぬか分からない。
27:3 さあ今、おまえの道具の矢筒と弓を取って野に出て行き、私のために獲物をしとめて来てくれないか。
27:4 そして私のために私の好きなおいしい料理を作り、ここに持って来て、私に食べさせてくれ。私が死ぬ前に、私自ら、おまえを祝福できるように。」
27:5 リベカは、イサクがその子エサウに話しているのを聞いていた。それで、エサウが獲物をしとめて父のところに持って来ようと野に出かけたとき、
27:6 リベカは息子のヤコブに言った。「今私は、父上があなたの兄エサウにこう言っておられるのを聞きました。
27:7 『獲物を捕って来て、私においしい料理を作ってくれ。食べて、死ぬ前に、【主】の前でおまえを祝福しよう。』
27:8 さあ今、子よ、私があなたに命じることを、よく聞きなさい。
27:9 さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎを二匹取って私のところに来なさい。私はそれで、あなたの父上の好きな、おいしい料理を作りましょう。
27:10 あなたが父上のところに持って行けば、食べて、死ぬ前にあなたを祝福してくださるでしょう。」

27:25 そこでイサクは言った。「私のところに持って来なさい。わが子の獲物を食べたい。そうして私自ら、おまえを祝福しよう。」そこでヤコブが持って来ると、イサクはそれを食べた。またぶどう酒を持って来ると、それも飲んだ。
27:26 父イサクはヤコブに、「近寄って私に口づけしてくれ、わが子よ」と言ったので、
27:27 ヤコブは近づいて、彼に口づけした。イサクはヤコブの衣の香りを嗅ぎ、彼を祝福して言った。「ああ、わが子の香り。【主】が祝福された野の香りのようだ。
27:28 神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒を与えてくださるように。
27:29 諸国の民がおまえに仕え、もろもろの国民がおまえを伏し拝むように。おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子がおまえを伏し拝むように。おまえを呪う者がのろわれ、おまえを祝福する者が祝福されるように。」
27:30 イサクがヤコブを祝福し終わり、ヤコブが父イサクの前から出て行くとすぐに、兄のエサウが猟から戻って来た。
27:31 彼もまた、おいしい料理を作って、父のところに持って来た。そして父に言った。「お父さん。起きて、息子の獲物を召し上がってください。あなた自ら、私を祝福してくださるために。」

<要約>

みことばと祈りを軽視する悲惨:

イサクは年を取り、目がよく見えなくなったときに長男エソウを呼びました。自分が死ぬ前にエソウを祝福し、後継ぎにしようとしました。しかし、それに気づいたリベカはそれを阻止しようとします。リベカとヤコブは共謀して父イサクをだますのです。これは、十戒の4戒「あなたの父母を敬いなさい」と第8戒「うそをついてはいけません」の律法違反ですね。悲しいことに、イサク家の誰も、どうすべきかを神に祈り、知恵を求めることはなかったのです。その結果、父の祝福を横取りされたエソウは、ヤコブに対して殺意を抱くようになりました。イサク家は分裂してしまったのです。ここに家族の人間関係のもろさが見えます。それぞれが、神に窺うこともなく自分の考えをそのまま通すことで、主のみ心を排除してしまったのです。家族の危機はどのような家庭にも起こりうるのです。大切なことは、私たちの家庭に神様をお迎えして常に祈りみ心を求めることです。

神と祈りの格闘をして前進する:

ヤコブは、失敗や苦しみを通して、神に祈り、神と格闘して、神の約束を握り進んでいきました。また、ヤコブにはイスラエルと言う名前が与えられました。イスラエルと言うのは、「神と戦う」と言う意味です。ヤコブは、祝福をもらうまで神の人を離さなかったからです。それは、熱心であきらめない祈りです。また、イスラエルという名前には「神の王子」という意味があります。この「お前を呪うものは呪われ、お前を祝福するものは祝福される。」という言葉の背後にある思いは、丁度、王様がその最愛のこどもである王子を愛する愛と似ています。王は王子に悪さをする者を赦しません。逆に王子に良いことをする者を王は喜び宮廷に招きごちそうします。そして、この言葉は、アブラハム、イサク、ヤコブの信仰による子孫の私たちクリスチャンに与えられています。ヤコブは、執拗な祈りで神と戦ったのです。また、長子の権利をめぐってヤコブは兄エソウと戦って勝利を得ました。ヤコブは目に見えない神との関係を第一に求めました。私たちも、神との関係を第一として歩みたいと思います。受け継いだものは次に渡さなければなりません。私たちは隣人にこの祝福を伝達する役目も与えられているのです。また、ヤコブのように神に執拗な祈りをして、前進したいと願います。

アブラハムの信仰に倣う

2022年6月12日主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>創世記13章1~18節
【新改訳2017】
13:1 そこで、アブラムはエジプトを出て、ネゲブに上った。妻と、所有するすべてのものと、ロトも一緒であった。
13:2 アブラムは家畜と銀と金を非常に豊かに持っていた。
13:3 彼はネゲブからベテルまで旅を続けて、ベテルとアイの間にある、最初に天幕を張った場所まで来た。
13:4 そこは、彼が以前に築いた祭壇の場所であった。アブラムはそこで【主】の御名を呼び求めた。
13:5 アブラムと一緒に来たロトも、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。
13:6 その地は、彼らが一緒に住むのに十分ではなかった。所有するものが多すぎて、一緒に住めなかったのである。
13:7 そのため、争いが、アブラムの家畜の牧者たちと、ロトの家畜の牧者たちの間に起こった。そのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。
13:8 アブラムはロトに言った。「私とあなたの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちの間に、争いがないようにしよう。私たちは親類同士なのだから。
13:9 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れて行ってくれないか。あなたが左なら、私は右に行こう。あなたが右なら、私は左に行こう。」
13:10 ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、【主】がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったので、その地はツォアルに至るまで、【主】の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
13:11 ロトは、自分のためにヨルダンの低地全体を選んだ。そしてロトは東へ移動した。こうして彼らは互いに別れた。
13:12 アブラムはカナンの地に住んだ。一方、ロトは低地の町々に住み、ソドムに天幕を移した。
13:13 ところが、ソドムの人々は邪悪で、【主】に対して甚だしく罪深い者たちであった。
13:14 ロトがアブラムから別れて行った後、【主】はアブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいるその場所から北、南、東、西を見渡しなさい。
13:15 わたしは、あなたが見渡しているこの地をすべて、あなたに、そしてあなたの子孫に永久に与えるからだ。
13:16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのように増やす。もし人が、地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えることができる。
13:17 立って、この地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに与えるのだから。」
13:18 そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに【主】のための祭壇を築いた。

<要約>

信仰の正のサイクルに生きる:

信仰者はすべての事柄において、礼拝で始まり礼拝で終わるサイクルに生きます。毎週の礼拝で神に立ち返り、また、みことばをいただいて出発します。それが、クリスチャンが成長していくサイクルです。エジプトでの失敗は、神のアブラハムに対する信仰の訓練でした。罪を犯したことのない人はいないのと同じように失敗したことのない人はいません。そのたびに、反省したり、苦しんだりするのが人間です。しかし、どんな時でも、クリスチャンは神の前に出るのです。祭壇を築き、神を礼拝するのです。私たちは最終的には神の身元しか逃れる場所はありません。そしてそこにこそ平安といのちの約束があるのです。悔い改めて信仰の原点に戻るのです。み心を信じて従うのです。そして、みことばの約束をいただきます。そして、信仰によって歩み出すのです。試練、祈り、礼拝、みことば、従順、約束、前進と進むのです。アブラハムは、その成長のサイクルに乗って進んでいきました。そして、アブラハムの信仰を受け継いでいる現代のクリスチャンも、復活を信じ永遠のいのちを信じています。これは、なんと大きな慰めであり希望であることでしょうか。

天の都を目指し旅人として生きる:

カナンの地は、アブラハムには、子孫への相続の地となるとの神の約束をいただきましたが、そこではアブラハムは寄留者でした。アブラハムは、カナンで他国人のように彼の子孫とともに住みました。すなわち彼は、「カナン人の間にあってカナン人ではない。」それは神の民の姿です。アブラハムの信仰の子孫であるクリスチャンも「世にあって、世のものではない」のです。また、「アブラハムは堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいた。」とあります。クリスチャンは、イエス・キリストが土台となって築かれた神の国に属しています。アブラハムのカナンの地での寄留者としての歩みは、私たち信者の歩みでもあります。約束のものをはるかに待ち望んで地上では旅人であり寄留者である一生を過ごしたのです。私たちも、この世にあっては旅人であり寄留者です。天の都を目指して今を生きるのです。

バッドニュースとグッドニュース

2022年5月29日主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>エペソ人への手紙2章1~10節
【新改訳2017】
2:1 さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、
2:2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。
2:3 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。
2:6 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。
2:7 それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。
2:8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
2:10 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

<要約>

バッドニュース(1~3節):

人間は神によってつくられ、神によって存在させられている者たちです。従って神を離れて生きることなどできません。ですから、肉体的には生きていてもそれは本当のいのちから離れた状態で、あたかも糸の切れた凧と同じで、どこへ行ってしまうかわからないのです。どうしてそんなことになってしまうのでしょうか。それが、「自分が犯した背きと罪」なのです。「背き」は、背を向けるという意味ですね。あなたを愛しあなたに関心をもって見つめておられる神に背中を向けていることです。また、「罪」は的外れという意味です。やがて、神から完全に離れ、人生の意味や価値が失われているのです。神から離れている人生のもう一つのことは、「それらの罪の中にあって、この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って歩んでいる」ということです。悪魔、サタンのことです。聖書は、悪魔はこの世の支配者であると教えています。神から離れた人生のさらにもう一つのことは、「自分の肉欲に生き、肉と心の望むままを行っている」ということです。これ以上のバッドニュースはこの世界にはありません。

グッドニュース(4~10節):

そのような、希望もなく、喜びもなく、滅びに向かっていた人間に対して、神は何をしてくださったでしょうか。人の「罪」のために、神が用意してくださった解決が、イエス・キリストです。私たちの罪にために死なれて、葬られ、三日目によみがえられました。それを信じ罪赦された者は、キリストと同じ復活のいのちが与えられます。神は私たち人間に、二つの相反する御思いを抱いておられます。一つは、私たち人間の罪のゆえに私たちを怒っておられるということ。もう一つは、私たちをご自身のいのちを捨てるほどに愛しておられるということ。罪に沈む人間を何とか救いたいという神の愛。神はその両方に筋を通されました。神の怒りはキリストの十字架に落ちたので、信じるものの上には神の怒りはなく、もう一方のいのちの祝福のみが注がれるのです。それは、イエス様を信じて受け入れ、信仰を持って神の救いをいただくことです。そして罪と死と悪魔の力から救い出していただく。これ以上のグッドニュースは どこを探してもありません。

私は教会の何?

2022年5月22日主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>Ⅰコリント12章12~27節
【新改訳2017】
12:12 ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
12:13 私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。
12:14 実際、からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています。
12:15 たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
12:16 たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。
12:18 しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。
12:19 もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。
12:20 しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。
12:21 目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。
12:22 それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。
12:23 また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、
12:24 格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。
12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。
12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。

<要約>

教会はキリストのからだ:

教会はキリストのからだであり、信者はそれぞれがその部分であり器官です。聖霊は信者に賜物、すなわち才能や役割をお与えになります。その賜物によって、信者が教会の中で様々な働きを担うのです。そして、教会は活動し成長していくのです。それらの能力や働きには違いがありますが、優劣がないのです。神はそれぞれに違った才能やたまもの与えてくださっています。人体の器官に優劣をつけることはできません。教会も、同様に多様な人々で構成されていてキリストによって一つにされた統一体です。ここで、クリスチャンの方々には、知っていただきたいと思います。聖霊はあなたに何らかの賜物をお与えになっているということです。だから、自分は何の働きもないと言わないでください。むしろ、キリストのからだのために自分にできることはないだろうか、と自分に問うていただきたいと思います。人のからだにはもう一つ注目すべきことがあります。身体のそれぞれの器官は互いに助け合い、調和しています。私たちクリスチャンは教会のために遣わされており、教会は世の人々のために遣わされていると言えます。そして、キリストは教会の頭です。キリストの思いを思いとしていくところです。

教会はキリストの花嫁:

聖書は、「教会そして、クリスチャンである私たちは、キリストの妻あるいは花嫁」であるとも言っております。キリストが教会のためにご自身を捧げられたというのは何でしょうか。それは、人間のために天のみ位を捨てて、聖なる神としての身分を捨て、最も卑しい人間となり、来てくださったのです。そして、人類のすべての罪を負われて十字架で極悪の罪人として裁きを受けて死んでくださったことです。そして、それとは反対に、罪により滅びに向かっていく人間を清く、傷のないものとして、栄光の神の子としての身分をお与えくださったのです。これを喜びの交換と言います。ジョイフル・エックスチェンジ。私たちの罪から来る苦しみをイエス様はすべて飲み干してくださいました。その代わりに、御国の世継ぎとしての神の子の身分を与えられました。クリスチャンの皆さんは、神の子です。ボロボロの罪の奴隷であった私たちは、光り輝く王冠ときらびやかな意匠がこらされた王服を着て、清められて神の前に立っているのです。

教会は誰?

2022年5月8日主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マタイの福音書16章13~19節
【新改訳2017】
16:13 さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。
16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」
16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
16:17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
16:18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。
16:19 わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」

<要約>

イエス・キリストは誰?:

私たちクリスチャンは、「わたしの主、私の神、あなたこそ生ける神、救い主キリストです」と告白しました。そして、キリストにつく洗礼を受けました。しかし、これは私たち人間の力ではありません。神の特別な祝福であり、選びだったのです。さらに「あなたはペテロ(岩)です。 わたしはこの大きな岩の上にわたしの教会を建てます。よみの門も教会に勝つことはできない」とはどういうことでしょうか。よみの門、それは私たちの最後の敵である人間の死です。なぜなら、キリストがその復活によって死を滅ぼされたからです。教会はこの信仰告白の上に建っています。それは大きな岩であり、勝利を保証してくださっています。キリストは誰?と言う問いは、歴史を通して失われることはありませんでした。この問いは、あなたの生死を決定する問いです。殉教者たちはこの世のいのちは失いました。しかし、代わりにそれより素晴らしい永遠のいのちを得たのです。まだの方々は、この告白をもって、キリストの救いを自分のものにしてください。

幸いと勝利を保証する教会:

「あなたに天国のかぎをあげましょう。あなたが地上でかぎをつなぐなら、天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます」ペテロは教会あるいはクリスチャンのリーダーとしてキリストの言葉を受けました。これを神学用語では「鍵の権威」と言います。キリストの代理者としての権威です。教会は天に通じる場所です。そこには、天国への扉があり、その鍵があります。では、鍵の権威の行使の第一番は何でしょうか。それは、罪の赦しです。世界中、どこを探しても教会以外に罪の赦しを受けることのできるところはありません。罪の赦しは教会にしかありません。キリストの十字架によりあなたのすべての罪は赦されるのです。さらにそれを通してその人をキリストにつなぐことです。私たちクリスチャンは天国と地上に国籍があります。イエス様に代わって、当教会は、信じる皆さんお一人お一人に幸いと勝利を保証しています。ですからハレルヤチャペル滝沢は幸いと勝利の教会です。そして、神はあなたに人生の幸いと勝利を保証してくださいます。

恵みにとどまることの勧め

2022年4月24日主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>申命記28章1~19節
【新改訳2017】
28:1 もし、あなたが、あなたの神、【主】の御声に確かに聞き従い、私が今日あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、【主】は、地のすべての国々の上にあなたを高く上げられる。
28:2 あなたが、あなたの神、【主】の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたについて行く。
28:3 あなたは町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。
28:4 あなたの胎の実も大地の実りも、家畜が産むもの、群れの中の子牛も群れの中の子羊も祝福される。
28:5 あなたのかごも、こね鉢も祝福される。
28:6 あなたは入るときにも祝福され、出て行くときにも祝福される。
28:7 【主】は、あなたに向かい立つ敵どもをあなたの前で敗走させる。彼らは一つの道からあなたを攻めて来るが、あなたの前で七つの道に逃げ去る。
28:8 【主】はあなたのために、あなたの穀物倉とあなたのすべての手のわざが祝福されるように命じられる。あなたの神、【主】があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される。
28:9 あなたが、あなたの神、【主】の命令を守り主の道を歩むなら、【主】はあなたに誓われたとおり、あなたをご自分の聖なる民として立ててくださる。
28:10 地上のあらゆる民はあなたに【主】の名がつけられているのを見て、あなたを恐れるであろう。
28:11 【主】があなたに与えるとあなたの父祖たちに誓われたその地で、【主】はあなたの胎の実、家畜が産むもの、大地の実りを豊かに恵んでくださる。
28:12 【主】はその恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それで、あなたは多くの国々に貸すが、借りることはない。
28:13 私が今日あなたに命じる、あなたの神、【主】の命令に聞き従い、守り行うなら、【主】はあなたをかしらとし、尾とはされない。あなたはただ上になり、下になることはない。
28:14 私が今日あなたがたに命じるこのすべてのことばから右や左に外れ、ほかの神々に従い、それに仕えてはならない。
28:15 しかし、もしあなたの神、【主】の御声に聞き従わず、私が今日あなたに命じる、主のすべての命令と掟を守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたをとらえる。
28:16 あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。
28:17 あなたのかごも、こね鉢ものろわれる。
28:18 あなたの胎の実も大地の実りも、群れの中の子牛も群れの中の子羊ものろわれる。
28:19 あなたは入るときにものろわれ、出て行くときにものろわれる。

<要約>

祝福とのろいのメッセージ:

神の恵みにとどまれば祝福される。しかし恵みから外れれば、あらゆる不条理と悲惨があると言うのです。祝福の反対はのろいですが、誤解していただきたくない事は、神は私たち人間に対して悪意を持って取り扱う事はなさりません。悪いことを企んだり悪いことをなさったりすることは決してありません。ここでは、もし、この恵みにとどまる事をしなければ、罪の世、この不条理の世界がたちまちあなたを飲み込み、あなたはここでいうのろいに置かれるのだということを言っているのです。それは、神に敵対する勢力です。三つあります。一番目は、私たち人間の罪の性質です。二番目は世です。世の誘惑は、人が自分自身のために生きるように仕向けることです。三番目はサタン、悪魔です。かれは私たちと神との関係を破壊しようと誘惑するのです。このように私たちは自分の内面にある罪の誘惑とこの世の誘惑と悪魔の誘惑を常に受けているのです。その結果、神の恵みから落ちてしまうのです。私たちは、神の恵みにとどまらなければ、私たちは呪いと滅びの道を歩むことになるのです。恵みにとどまることは難しいことではありません。神の恵みは神の一方的な愛と哀れみです。私たちはへりくだり自分の罪を悔いて神を仰ぐことです。すなわち信じる信仰です。

呪いを祝福に代えたキリストの十字架:

イエス様は十字架で人間のすべてののろいを受けて死んでくださいました。呪いの代わりに、信じる者に無代価で祝福を与えてくださったのです。そして、神は、キリストを信じる者を、罪と世とサタンののろいから永遠のいのちの祝福へと移してくださるのです。神の恵みとは神の一方的なあわれみです。クリスチャンが、「神の恵みにとどまる」ということは具体的にどのようなことでしょうか。神を信じ、どんなことがあっても神に信頼していくことです。また、日々の生活の中に、イエス様が共にいてくださることを認め、聖書を読んで祈る生活を持つことです。主日礼拝を守り、聖餐式を通してキリストの体と血に与り、罪の赦しといのちの祝福を味わい続けることです。信仰は神の恵みを受け止める空の手です。あなたのために、のろいを祝福に代えてくださったイエス様をあなたの救い主として受け止め、信じましょう。