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福音は神の力

2023年10月1日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ローマ人への手紙1章8~17節
【新改訳2017】
1:8 まず初めに、私はあなたがたすべてについて、イエス・キリストを通して私の神に感謝します。全世界であなたがたの信仰が語り伝えられているからです。
1:9 私が御子の福音を伝えつつ心から仕えている神が証ししてくださることですが、私は絶えずあなたがたのことを思い、
1:10 祈るときにはいつも、神のみこころによって、今度こそついに道が開かれ、何とかしてあなたがたのところに行けるようにと願っています。
1:11 私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたいからです。
1:12 というより、あなたがたの間にあって、あなたがたと私の互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。
1:13 兄弟たち、知らずにいてほしくはありません。私はほかの異邦人たちの間で得たように、あなたがたの間でもいくらかの実を得ようと、何度もあなたがたのところに行く計画を立てましたが、今に至るまで妨げられてきました。
1:14 私は、ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です。
1:15 ですから私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。
1:16 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。
1:17 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

<要約>

信じる者に働く神の力:

神の力の力は、ドミナス、ダイナマイトと同じ語源で、その力は敵の要塞をも爆破する力です。最強の力と言えます。福音は神の力であり、最強の力です。それは悪魔の力、罪の力、死の力にも打ち勝ちます。それこそ、全知全能の神の力だからです。その神の力をもって、どんな状況の中にあるあなたをも救うことができるのです。パウロは行いによって、神の前で正しい者とされようと一生懸命に神の命令である十戒を守ろうと頑張りました。しかし、それは、無駄であることがわかったのです。反って、自分の足りなさや罪深さを示されたのです。そしてついに、神が与えてくださる義は、神ご自身が無償でくださるものであることに気づいたのです。神の義は信仰によって受け取るものであることがわかったのです。「福音は信じる者に働く神の力」であると言いました。福音は、罪と死と滅びからの救いです。さらに、誰でも、それに代えて、永遠のいのちと決して消えない希望が与えられるのです。ですから、福音はすべての人に提供された救いで、何にも勝る神の力なのです。それを自分のものとするためには、信仰が必要です。すなわち、神の力、福音を私のものと信じることです。

福音の力を体験して生きる:

もともと 人は神に似せて作られました。それは神と交わり、神に従うことによって、神の栄光を現す幸せな生活を送るためでした。ところが、人間は神に背を向け、良心の命令に従う能力を失ってしまいました。しかし、神は人を 罪の生活、罪の奴隷から救い出すためにひとり子イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。罪なき神が人のすべての罪の重荷を負い十字架で身代わりの死を遂げたのです。あなたが、神が提供する福音を空の両手を広げて、ただ信じ受け入れるだけで良いのです。福音の力を体験して生きるとき、今の試練や困難、苦難は後の栄光につながることが分かります。クリスチャンライフには困難や苦難はつきものです。しかし、そのことを通して、私たちは、神に近づきます。神の祝福は苦難と言うラップに包まれてやって来ることがあります。苦難の覆いの下に祝福が待っています。そしてそれは、決してしぼまない希望、復活のいのち、永遠のいのちの祝福につながっているからです。私たちも、イエス様の福音の力を日々体験してクリスチャンライフを感謝と喜びをもって生きていくのです。

パウロに見るイエスの愛ととりなし

2023年9月24日主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ピレモンへの手紙1~19節
【新改訳2017】
1:1 キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、私たちの愛する同労者ピレモンと、
1:2 姉妹アッピア、私たちの戦友アルキポ、ならびに、あなたの家にある教会へ。
1:3 私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。
1:4 私は祈るとき、いつもあなたのことを思い、私の神に感謝しています。
1:5 あなたが主イエスに対して抱いていて、すべての聖徒たちにも向けている、愛と信頼について聞いているからです。
1:6 私たちの間でキリストのためになされている良い行いを、すべて知ることによって、あなたの信仰の交わりが生き生きとしたものとなりますように。
1:7 私はあなたの愛によって多くの喜びと慰めを得ました。それは、兄弟よ、あなたによって聖徒たちが安心を得たからです。
1:8 ですから、あなたがなすべきことを、私はキリストにあって、全く遠慮せずに命じることもできるのですが、
1:9 むしろ愛のゆえに懇願します。このとおり年老いて、今またキリスト・イエスの囚人となっているパウロが、
1:10 獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。
1:11 彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても役に立つ者となっています。
1:12 そのオネシモをあなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。
1:13 私は、彼を私のもとにとどめておき、獄中にいる間、福音のためにあなたに代わって私に仕えてもらおうと思いました。
1:14 しかし、あなたの同意なしには何も行いたくありませんでした。それは、あなたの親切が強いられたものではなく、自発的なものとなるためです。
1:15 オネシモがしばらくの間あなたから離されたのは、おそらく、あなたが永久に彼を取り戻すためであったのでしょう。
1:16 もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、愛する兄弟としてです。特に私にとって愛する兄弟ですが、あなたにとっては、肉においても主にあっても、なおのことそうではありませんか。
1:17 ですから、あなたが私を仲間の者だと思うなら、私を迎えるようにオネシモを迎えてください。
1:18 もし彼があなたに何か損害を与えたか、負債を負っているなら、その請求は私にしてください。
1:19 私パウロが自分の手で、「私が償います」と書いています。あなたが、あなた自身のことで私にもっと負債があることは、言わないことにします。

<要約>

神から離れ役立たなくなった人間:

オネシモは、以前ピレモンにとって役に立たないものであった。それは、罪を犯し、ピレモンの元を離れていた状態を指します。オネシモはかつての私たちの姿を表しています。罪によって真の神から離れている人間の姿です。また、生まれながらの人間の姿でもあります。オネシモは、自由を得ようとして、反って不自由になりました。それどころか、見つけられたら殺されるという死の恐れを抱きながらの隠れた生活です。そこには何の平安も喜びもありません。ピレモンから逃げて遠ざかったオネシモは、神から離れて、神を否定して生きる人間の姿を現しています。神を心の中から追い出すのです。神なんかいないというのです。そのように多くの人は神を否定して自らを滅びの道を歩んでいます。当時のオネシモが死刑に定められているのと同じです。そのような神に敵対するような私たち人類に対して神は何をしてくださったのでしょうか。

愛と信頼のまなざしが人を変える:

オネシモは逃亡奴隷として、ローマ帝国の雑踏の中に身を隠していました。ローマでの逃亡生活に疲れ、心に平安はなく苦しんでいたと考えられます。道でパウロの同労者テキコに偶然にあったのかもしれません。それとも、囚人となっていたパウロの噂を聞いて彼自らがパウロを訪れたのかもしれません。パウロを通してイエス様が彼に働いてくださった。そのお心を表し、やさしい視線を向けてくださったのです。オネシモは癒され、そして十字架による罪の赦しを自分のものとしたのです。悔い改めてイエス・キリストを主と信じたのです。人はどのようにして変わるのでしょうか。それは、愛と赦しによるのです。あるいは愛と信頼によるといえます。愛と信頼のまなざしによって人は変えられるのです。そして、神と人に役立つものとなるのです。人との出会いの背後にはイエス様がおられます。私たちもかつては、真の神がおられるのに、神を離れて、神を認めず、自分中心で自分を神の上において歩んでいました。神の前に役に立たないものでした。しかし、一方的な神の恵みによって、主イエスに捕らえられて、今は神に役立つものと変えられました。遣わされたところで、隣人愛の実践と福音宣教に励もうではありませんか。

主の再臨を前にした生き方

2023年9月3日主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>Ⅱテサロニケ2章1~17節
【新改訳2017】
2:1 さて兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの来臨と、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いします。
2:2 霊によってであれ、ことばによってであれ、私たちから出たかのような手紙によってであれ、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いても、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。
2:3 どんな手段によっても、だれにもだまされてはいけません。まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。
2:4 不法の者は、すべて神と呼ばれるもの、礼拝されるものに対抗して自分を高く上げ、ついには自分こそ神であると宣言して、神の宮に座ることになります。
2:5 私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話していたのを覚えていませんか。
2:6 不法の者がその定められた時に現れるようにと、今はその者を引き止めているものがあることを、あなたがたは知っています。
2:7 不法の秘密はすでに働いています。ただし、秘密であるのは、今引き止めている者が取り除かれる時までのことです。
2:8 その時になると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御口の息をもって殺し、来臨の輝きをもって滅ぼされます。
2:9 不法の者は、サタンの働きによって到来し、あらゆる力、偽りのしるしと不思議、
2:10 また、あらゆる悪の欺きをもって、滅びる者たちに臨みます。彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです。
2:11 それで神は、惑わす力を送られ、彼らは偽りを信じるようになります。
2:12 それは、真理を信じないで、不義を喜んでいたすべての者が、さばかれるようになるためです。
2:13 しかし、主に愛されている兄弟たち。私たちはあなたがたのことについて、いつも神に感謝しなければなりません。神が、御霊による聖別と、真理に対する信仰によって、あなたがたを初穂として救いに選ばれたからです。
2:14 そのために神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光にあずからせてくださいました。
2:15 ですから兄弟たち。堅く立って、語ったことばであれ手紙であれ、私たちから学んだ教えをしっかりと守りなさい。
2:16 どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、永遠の慰めとすばらしい望みを恵みによって与えてくださった方ご自身が、
2:17 あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。

<要約>

神から離れて混迷する人間社会:

聖書は、キリストの救いは、人間を罪による滅びから救うために神が備えてくださった唯一の方法である、と訴えています。この恵みの救いは、あなたが受け取っても受け取らなくても良い、あるいは信じても信じなくても良いというものではありません。現代、背教は進んでいると思います。たくさんの異端と言われる教えも出てきています。統一教会、エホバの証人、摂理、新天地など。新聞紙上でも取り上げられています。信仰も冷えていき、日本の教会は苦戦しています。信者の数もあまり増えていません。また、世界は混迷を深めています。国家は、専制主義の国々と民主主義の国々と分断しています。戦争と殺戮は繰り返されています。地球温暖化からか自然災害も増加しています。聖書には、「私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。―――自分たちの集まりをやめたりせず―――その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」お互いに愛と善行に励みましょう。また、礼拝をないがしろにしないで、励まし合って主日礼拝を守りましょう。

永遠の慰めと素晴らしい希望を与えてくださる神:

聖霊はみことばと共に働いて、私たちのうちなる人をキリストに似たものに変えてくださるのです。キリストの似姿とはなんでしょう。それは、十字架上の主イエスの姿に凝集されています。父なる神への完全な従順。彼を十字架につけて嘲笑する人々に対して「彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか分からないからです。」と祈ったのです。ここに私たちが目標とする姿があるのです。人を赦すことによって平和をもたらす主イエスの姿を見るのです。また、「あなたがたを初穂として救いに選ばれた」と書いています。この「初穂」ということばは、新改訳聖書では「初めから」と書いています。教会に集いみことばを信じるあなたや私は、世界の創造の初めから救いに選ばれているということです。しかし、私たちは傷つき、また、気落ちし、落ち着きを失い、心を騒がす者たちです。神は永遠の慰めと素晴らしい希望を与えてくださると、約束してくださっております。常に父なる神を信じ、聖霊がいつも助けてくださる事を信じましょう。そこに必ず勝利があります。そして、神は永遠のいのちの祝福と死で終わることのないしぼむことのない希望を信じるものすべてに与えてくださるからです。

目が開かれ神の栄光を見る

2023年8月20日(日)礼拝ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨハネの福音書9章1~12、35~38節
【新改訳2017】
9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
9:2 弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
9:4 わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。
9:5 わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」
9:6 イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、
9:7 「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。
9:8 近所の人たちや、彼が物乞いであったのを前に見ていた人たちが言った。「これは座って物乞いをしていた人ではないか。」
9:9 ある者たちは、「そうだ」と言い、ほかの者たちは「違う。似ているだけだ」と言った。当人は、「私がその人です」と言った。
9:10 そこで、彼らは言った。「では、おまえの目はどのようにして開いたのか。」
9:11 彼は答えた。「イエスという方が泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」
9:12 彼らが「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と答えた。

9:35 イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
9:36 その人は答えた。「主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。」
9:37 イエスは彼に言われた。「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」
9:38 彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。

<要約>

夜が来る前に神のわざを受けとる:

心の目の盲目というのは、罪が分からない、救いが分からない、真の神を認めることができない、真理が見えない、という状態を指しています。この盲目の人の肉体の目を開くという神のわざを通して、神は、私たちの心の目を開いてくださいます。具体的には、私たちが心の目を開いて、主イエス・キリストを信じることです。信じて救いを得ることです。救いとは、罪と死と悪魔からの救いです。それは一方的に提供される神のわざです。そして、神のわざがあなたや私に届けられるのに期限があるのです。誰も働くことができない夜が来る、それはこの身体のいのちが終わる時までです。すべての人は、死後神の前に立たされて、裁きを受けることになります。罪の報酬は死ですと書いてある通り、罪のしみが少しでもある人は、裁かれ永遠の滅びに落とされるのです。神は一人の御子を世に送り、罪のない神の御子にすべての人の罪をその方に背負わせて、あなたの罪の身代わりに御子を裁き死に至らせたのです。まだ信じていない方々は、今あなたに届けられているこの救いの福音を今受け取ることです。まだ、先があると思ってはいけません。

神を信じ従うとき主の栄光を見る:

この男は信仰で応答し、イエス様の言われた、そのおことばとおりに行動し、目が見えるようになり帰って行きました。みことばを信じるという事は人間的には愚かに見え、さらに、侮辱を受けるような体験であるかもしれません。しかし、神の業が現れる時なのです。彼は、当時のコミュニティから追放されたのです。そこでイエス様は彼を見つけ出して、イエス様の面前で信仰告白へと導きました。イエス様は、時には私たちには、心地よいことではなく試練と思われるようなことをなさり、それでも、従いますか、信じますか、と迫っておられます。ここでの大原則は、信じて従ったときに想像も絶する神の御業、神のご栄光を見ることができるということです。クリスチャンの皆さん、また、まだ信仰を持っておられない方々も気づいていただきたいと思います。今皆さんが抱えている、困難や苦難、あるいは労苦は神が、必要があってあなたに与えられているということです。信じて従う者には、やがて、神はその後に栄光を見せてくださいます。必要なのは信じて忍耐してキリストに従っていくことです。

偶像礼拝の罪

2023年8月6日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>出エジプト記32:1~14
【新改訳2017】
32:1 民はモーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」
32:2 それでアロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪を外して、私のところに持って来なさい。」
32:3 民はみな、その耳にある金の耳輪を外して、アロンのところに持って来た。
32:4 彼はそれを彼らの手から受け取ると、のみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にした。彼らは言った。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」
32:5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼びかけて言った。「明日は【主】への祭りである。」
32:6 彼らは翌朝早く全焼のささげ物を献げ、交わりのいけにえを供えた。そして民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた。
32:7 【主】はモーセに言われた。「さあ、下りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。
32:8 彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道から外れてしまった。彼らは自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえを献げ、『イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ』と言っている。」
32:9 【主】はまた、モーセに言われた。「わたしはこの民を見た。これは実に、うなじを固くする民だ。
32:10 今は、わたしに任せよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がり、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とする。」
32:11 しかしモーセは、自分の神、【主】に嘆願して言った。「【主】よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。
32:12 どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。
32:13 あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。」
32:14 すると【主】は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。

<要約>

見える神(偶像)を持ちたがる人間:

金の子牛は、民が持っていた金の耳輪を元にできました。霊的な意味を当てはめると、金の耳輪は欲望です。欲望が神となった。偶像は人間の欲望から生まれるのです。偶像の背後にあるのが悪魔、サタンです。人間が神を造るという大きな過ちでした。さらにそれに祭壇を築いていけにえを捧げるという礼拝行為をしたのです。これを、聖書は淫行と言っています。すなわち夫や妻を裏切って結婚外の人と関係を持つことと同じだと言っています。私たち人間は、罪と弱さのために、目に見える神を求めてしまいます。目に見える神は偽りです。それは、人が造った神です。偶像礼拝の罪は恐ろしい結果をもたらします。イスラエルは、モレクと言う偶像に自分の子どもを火に入れてささげることもしました。偶像礼拝は、偶像の背後にいるサタンを礼拝していると言えます。私たちは目に見えない神を信じています。モーセ率いるイスラエルの民がしたように、荒野で不信の罪犯すことが無いようにしようではありませんか。偶像礼拝者になってはいけません。あなたの欲望を神にしてはいけません。不品行を避け、聖い生き方を追い求めましょう。不平を言ってキリストを試みてはいけません。神を畏れ、愛し、信頼しましょう。

神を動かすとりなしの祈り:

神の怒りとさばきに対して、モーセはとりなしの祈りをします。神の怒りの右の手が挙げられました。イスラエルの民の上に落とされようとしていました。モーセはとりなしの祈りを始めます。これは人類史上で、イスラエルを救った最大のとりなしの祈りです。謙遜なモーセですが、かなりはっきりと叱責するがごとく神に訴えております。モーセはみことばと約束に立って大胆に祈りました。とりなしの祈りのポイントは、みことばと約束に立って祈るということです。神は、聖霊と主キリストを私たちクリスチャンのためのとりなし手としてくださり、まどろむことも眠ることもなく祈っていてくださいます。イエス様と聖霊様が、一緒になってあなたや私のために個人的にとりなしてくださっています。ですから、自分のことは心配しなさんな、というのです。私たちクリスチャンは、モーセがとりなしたように、このままでは罪のため滅んでしまう家族や知人のために真剣に祈らなければなりません。神の約束を握って、神に訴えるのです。

歴史を通して明かされた救い主

2023年7月23日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>使徒の働き28章16~31節
【新改訳2017】
28:16 私たちがローマに入ったとき、パウロは、監視の兵士が付いてはいたが、一人で生活することを許された。
28:17 三日後、パウロはユダヤ人のおもだった人たちを呼び集めた。そして、彼らが集まったとき、こう言った。「兄弟たち。私は、民に対しても先祖の慣習に対しても、何一つ背くことはしていないにもかかわらず、エルサレムで囚人としてローマ人の手に渡されました。
28:18 彼らは私を取り調べましたが、私に死に値する罪が何もなかったので、釈放しようと思いました。
28:19 ところが、ユダヤ人たちが反対したため、私は仕方なくカエサルに上訴しました。自分の同胞を訴えようとしたわけではありません。
28:20 そういうわけで、私はあなたがたに会ってお話ししたいと願ったのです。私がこの鎖につながれているのは、イスラエルの望みのためです。」
28:21 すると、彼らはパウロに言った。「私たちは、あなたについて、ユダヤから何の通知も受け取っていません。また、ここに来た兄弟たちのだれかが、あなたについて何か悪いことを告げたり、話したりしたこともありません。
28:22 私たちは、あなたが考えておられることを、あなたから聞くのがよいと思っています。この宗派について、いたるところで反対があるということを、私たちは耳にしていますから。」
28:23 そこで彼らは日を定めて、さらに大勢でパウロの宿にやって来た。パウロは、神の国のことを証しし、モーセの律法と預言者たちの書からイエスについて彼らを説得しようと、朝から晩まで説明を続けた。
28:24 ある人たちは彼が語ることを受け入れたが、ほかの人たちは信じようとしなかった。
28:25 互いの意見が一致しないまま彼らが帰ろうとしたので、パウロは一言、次のように言った。「まさしく聖霊が、預言者イザヤを通して、あなたがたの先祖に語られたとおりです。
28:26 『この民のところに行って告げよ。あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。
28:27 この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように。そして、わたしが癒やすこともないように。』
28:28 ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らが聞き従うことになります。」
28:29 【本節欠如】
28:30 パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねて来る人たちをみな迎えて、
28:31 少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。

<要約>

聞いても見ても悟らない人間社会:

聞いてもわからない、見ても見えない、心が鈍い、というのは内向きであって外で起きていることが心に入っていかない、結局、耳は聞こえず、目も見えていない状況です。当時のイスラエルの民はそのような状況になっていたのです。その姿勢は、現代社会に住む人々の内にも見られます。神から遠く離れているので、みことばを聞いても心に入らないのです。人は生まれながら「律法主義者」であると言われます。すなわち、だれでも自分の成績、実績に自分自身の存在意義を置くのです。どこまでも、人間は自己の中にある何物かを誇ろうとするのです。それが人間の本質です。その延長線上にあるのが、自分を誇り他人を見下す生き方です。それが私たちの罪の姿です。それは現代の日本人にも見られることです。日本人は遵法精神に富んでいて、善い行いに励む人々です。 善い行いをたくさんする人は、行いのない人々に不満を持つようになります。「私はこんなにしているのにあの人たちは何もしない。ずるいのでは」と、心に思うからです。これが行いを誇る生き方です。これは信仰ではなく、律法主義の生き方です。行いは、信仰から出るべきです。謙遜と感謝から出てくるのです。

全世界へ広がるイスラエルの希望:

ユダヤ人は歴史を通して、「希望」を持ち続けようとしました。ユダヤ民族には選民思想というのがあります。彼らは、神に選ばれた民であり、神はユダヤ民族を祝福し救ってくださると信じています。それが、時至って、神がイスラエル、そしてすべての国民に救い主を送って下さいました。ベツレヘムの田舎に、最も弱い小さなものとして来られました。不潔な家畜小屋でお生まれになったのです。クリスマスです。「全世界に広がるイスラエルの希望」と題してお話ししています。それは、神が人となって来られたということです。ここに希望があります。救いがあります。私たちは誰も自分で自分を救うことはできません。なぜなら、私たち全ての人は自らの罪により死んでいるからです。私たちはそのままでは、罪により永遠の滅びに至らざるを得ないのですが、キリストは あなたを罪と死と悪魔から救うために世に来てくださいました。現在、キリストの救いは全世界に届けられようとしております。聖書の預言が成就するのです。ですから、私たちは今、希望の時代に生きています。

教会を産み育てる聖霊

2023年7月16日(日)ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>使徒の働き11章19~26節
【新改訳2017】
11:19 さて、ステパノのことから起こった迫害により散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで進んで行ったが、ユダヤ人以外の人には、だれにもみことばを語らなかった。
11:20 ところが、彼らの中にキプロス人とクレネ人が何人かいて、アンティオキアに来ると、ギリシア語を話す人たちにも語りかけ、主イエスの福音を宣べ伝えた。
11:21 そして、主の御手が彼らとともにあったので、大勢の人が信じて主に立ち返った。
11:22 この知らせがエルサレムにある教会の耳に入ったので、彼らはバルナバをアンティオキアに遣わした。
11:23 バルナバはそこに到着し、神の恵みを見て喜んだ。そして、心を堅く保っていつも主にとどまっているようにと、皆を励ました。
11:24 彼は立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大勢の人たちが主に導かれた。
11:25 それから、バルナバはサウロを捜しにタルソに行き、
11:26 彼を見つけて、アンティオキアに連れて来た。彼らは、まる一年の間教会に集い、大勢の人たちを教えた。弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。

<要約>

人、状況を用いて宣教する聖霊:

エルサレム教会の執事をしていたステパノは、ユダヤ人たちから石打の刑に処せられ、殺されました。そして、他のエルサレム教会の信者たちにも迫害の手が迫っていました。信者にとっては苦境であり、マイナスの状況でした。しかし、その状況を聖霊は逆用して、福音を異邦人にも広げたのです。聖霊はこのように人を用いて働かれるのです。現状では、人は罪に捕らわれているために、自分が救われなければならない存在であることにも気づきません。罪の報酬は死です。そして、「人間には一度死ぬことと死後裁きを受けることが定まっている」と書いてある通り、罪の結果は死後のさばきと永遠の滅びです。イエス・キリストは自らの罪のために死と滅びに閉じ込められている人を救うために来られました。そして、すべての人の罪を背負って、身代わりとなって、十字架で自らの命を捨ててくださいました。それは、あなたが信じて神に立ち返り、真の命に生きるようになるためです。私たちが先に救われたのは、私たちの周りの家族、友人、知人にイエス・キリストの救いを届けるためです。

聖霊は教会を通して働かれる:

聖霊は教会を産み育て、教会でイエス・キリストの救い、イエス・キリストによる罪の赦しと永遠のいのちを提供しています。バルナバは、生活習慣が違う、ユダヤ人と異邦人との問題を取り上げてうんぬんするのではなく、ポジティブなものの見方をしています。バルナバの視点は、「神の恵みを見て喜んだ」ことです。そして、みな心を固く保って、常に主にとどまるようにと励ましています。違いがあっても、そこに神の恵みを見ています。これは、聖霊のみ思いです。私たちは、教会においてもその他の社会生活においても様々な問題に直面しながら生活しています。反対、つまずき、困難、苦難はつきものです。しかし、神の恵は変わらずに注がれています。聖霊は教会を通して、またその一員であるあなたを通して働いておられます。あなたは教会の身体の一部です。愛し合い、仕え合い、キリストの身体を立ち上げていくのです。まだ信じていない方は、是非キリストの罪の赦しといのちを自分のものとしてください。空の手を差し出して、キリストの赦しといのちを受け取ってください。身体の死の向こうにある復活のいのち、永遠のいのちをいただくことができるのです。

罪と世と悪魔からの解放

2023年7月2日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>出エジプト記2:23~3:10
【新改訳2017】
2:23 それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた。
2:24 神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。
2:25 神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。

3:1 モーセは、ミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の奥まで導いて、神の山ホレブにやって来た。
3:2 すると【主】の使いが、柴の茂みのただ中の、燃える炎の中で彼に現れた。彼が見ると、なんと、燃えているのに柴は燃え尽きていなかった。
3:3 モーセは思った。「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう。」
3:4 【主】は、彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の茂みの中から彼に「モーセ、モーセ」と呼びかけられた。彼は「はい、ここにおります」と答えた。
3:5 神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」
3:6 さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。
3:7 【主】は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。
3:8 わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。
3:9 今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。
3:10 今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」

<要約>

苦しみ叫び痛みをみこころに留める神:

現代社会を見るときに、侵略戦争、災害、殺人、窃盗、自殺などが全世界のどこかで起こっています。大勢の人々がそのために悲惨を味わい、命を落としています。また、私たちは、平和をつくりたい、皆が仲良く暮らしたい、赦し合い愛し合う世界にしたいという願いを持っていながら、争いやいざこざをなくすことができません。そして、せっかく造った建造物も皆がれきにしています。罪と世と悪魔の力が働いているのです。それは、個人レベルでも民族レベルでも国家レベルでも同じです。神はイスラエルの叫びに耳を傾け、みこころに止められたと書いています。信者の叫びは届いています。すぐに答えが出ないから、聞いておられないというのではありません。神は最善の時を待っておられ、最善の方法で祈りを聞いてくださるのです。苦しみ叫び痛みをみこころを留める神と題してお話ししています。神は、あなたの苦しみ、叫び、悩み、痛みに向き合ってくださっているのです。イエス様は、十字架の上でこの「苦しみ、叫び、痛み」をあなたの救いのために担われました。ですから、向き合うことができるのです。

あなたを召し働きにつかせてくださる神:

信者はみな、神から呼び出された者たちです。ですから、すべての信者には多かれ少なかれモーセが体験したように、三つのステップで召命ないし使命を受けるといえます。第一番目が神の臨在に触れるということです。これは、現在の私たちに当てはめると、聖霊がみことばを用いてあなたの心に語りかけることです。第二番目は、聖別です。神は、神はモーセを聖別しました。イエス様を信じたとき、神が私達を聖め分かって、神の子どもとし、聖なる民に加えてくださったことです。それは、神はあなたに働きと使命を持っておられることです。第三は派遣です。神はモーセを呼び出して、使命を与えて、エジプトへ派遣しました。同様に、神はあなたを必要としている人々に派遣なさるのです。私たちすべての信者に与えられている使命は、福音を周りの人々に伝えることです。また、お一人お一人、それぞれに与えられている使命は、それぞれの力に応じて隣人にお仕えすることです。隣人愛の実践と言えます。人は自分のためにだけ生きていてもむなしくなるのです。隣人のために生きるときにこそ人は心に充足感を得るのです。人は、人のため神のために生きるときにこそ、豊かで充足した人生があるのです。

ベン・オニからベニヤミンへ

2023年6月25日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>創世記35章1~19節
【新改訳2017】
35:1 神はヤコブに仰せられた。「立って、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウから逃れたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」
35:2 それで、ヤコブは自分の家族と、自分と一緒にいるすべての者に言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、衣を着替えなさい。
35:3 私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこに、苦難の日に私に答え、私が歩んだ道でともにいてくださった神に、祭壇を築こう。」
35:4 彼らは、手にしていたすべての異国の神々と、耳につけていた耳輪をヤコブに渡した。ヤコブはそれらを、シェケムの近くにある樫の木の下に埋めた。
35:5 彼らが旅立つと、神からの恐怖が周りの町々に下ったので、だれもヤコブの息子たちの後を追わなかった。
35:6 ヤコブは、カナンの地にあるルズ、すなわちベテルに来た。彼とともにいた人たちもみな一緒であった。
35:7 彼はそこに祭壇を築き、その場所をエル・ベテルと呼んだ。それは、彼が兄から逃れたとき、神がそこで彼に現れたからである。
35:8 リベカの乳母デボラが死に、ベテルの下手にある樫の木の下に葬られた。それで、その木の名はアロン・バクテと呼ばれた。
35:9 ヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再び彼に現れ、彼を祝福された。
35:10 神は彼に仰せられた。「あなたの名はヤコブである。しかし、あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルが、あなたの名となるからだ。」こうして神は彼の名をイスラエルと呼ばれた。
35:11 神はまた、彼に仰せられた。「わたしは全能の神である。生めよ。増えよ。一つの国民が、国民の群れが、あなたから出る。王たちがあなたの腰から生まれ出る。
35:12 わたしは、アブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与える。あなたの後の子孫にも、その地を与えよう。」
35:13 神は彼に語ったその場所で、彼を離れて上って行かれた。
35:14 ヤコブは、神が自分に語られた場所に、柱を、石の柱を立て、その上に注ぎのぶどう酒を注ぎ、さらにその上に油を注いだ。
35:15 ヤコブは、神が自分と語られたその場所をベテルと名づけた。
35:16 彼らはベテルから旅立った。エフラテに着くまでまだかなりの道のりがあるところで、ラケルは出産したが、難産であった。
35:17 彼女が大変な難産で苦しんでいたとき、助産婦は彼女に、「恐れることはありません。今度も男のお子さんです」と告げた。
35:18 彼女が死に臨み、たましいが離れ去ろうとしたとき、その子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた。
35:19 こうしてラケルは死んだ。彼女はエフラテ、すなわちベツレヘムへの道で葬られた。

<要約>

あなたに注がれる一方的な神の選びと祝福:

ヤコブは、品行方正で正しい人だから選ばれたのでしょうか。そうではありませんね。彼は、名前の通り、「押しのけるもの」として、エソウから長子の権利をだまし取り、エソウから恨みを買いました。また、ラバンのもとでは、ラバンからその財産を得るために上手に振る舞ったのです。そのことは、ラバンとラバンの息子達からは 恨みを買うほどでした。ヤコブは功利的な人物ということができるかもしれません。しかし、これらすべてのことにあっても神は一方的な憐れみと恵みによって、ヤコブを引き上げ、その名を神の王子と言う意味もあるイスラエルと命名されたのです。そこには私たちの如何にかかわらず、主は、「哀れものを憐れみ、祝福する者を祝福される」お方であることを見ることができます。神の選びについては、神の一方的な主権があります。皆さんは、この教会に集っています。ですから、皆さんは神に選ばれてここに集っておられるのです。そして、神はあなたを祝福しようと招いておられるのです。イエス様の十字架による罪の赦しは、すべての人に等しく注がれる神の恵みです。

マイナスをプラスに変えて前向きに生きる:

カナンの地ヘブロンへと向かう途中、ラケルが出産しいのち落としました。そして、ヤコブに12番目の男の子があたえられました。出産で「彼女が死に臨み、たましいが離れ去ろうとしたとき、その子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた」と書いています。ベン・オニと言うのは「苦しみの子」と言う意味です。しかし、ヤコブは、その子をベニヤミン「右手の子」と名付けたとあります。右手は、権威とか力を意味します。苦しみの子から右手の子に命名したのでした。ここに、ヤコブの前向きな人生観をうかがい知ることができます。キリストは、十字架を目指して、苦難の生涯でした。すなわち苦しみの子です。しかし、復活し天に挙げられて、神の右の座についておられます。右手の子です。キリストは、実に、罪に沈む私たちを、罪と死と悪魔から救うためにお生まれになり、十字架の上で苦しみを受けてくださいました。それは信じる者に死と滅びに代えて、永遠のいのちを与えるためでした。そして、今キリストはすべての権威と力をもって神の右についておられます。キリストは信じるあなたの困難や苦難をプラスに変えてくださるのです。


いと高き神の祭司メルキゼデク

2023年6月18日主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>創世記14章1~2,10~24節
【新改訳2017】
14:1 さて、シンアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアルの時代のことである。
14:2 これらの王たちは、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アデマの王シンアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラすなわちツォアルの王と戦った。


14:10 シディムの谷には瀝青の穴が多くあり、ソドムの王とゴモラの王は逃げたとき、その穴に落ちた。そして、残りの王たちは山の方に逃げた。
14:11 四人の王たちは、ソドムとゴモラのすべての財産とすべての食糧を奪って行った。
14:12 また彼らは、アブラムの甥のロトとその財産も奪って行った。ロトはソドムに住んでいた。
14:13 一人の逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムは、アモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。
14:14 アブラムは、自分の親類の者が捕虜になったことを聞き、彼の家で生まれて訓練された者三百十八人を引き連れて、ダンまで追跡した。
14:15 夜、アブラムとそのしもべたちは分かれて彼らを攻め、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで追跡した。
14:16 そして、アブラムはすべての財産を取り戻し、親類のロトとその財産、それに女たちやほかの人々も取り戻した。
14:17 アブラムが、ケドルラオメルと彼に味方する王たちを打ち破って戻って来たとき、ソドムの王は、シャベの谷すなわち王の谷まで、彼を迎えに出て来た。
14:18 また、サレムの王メルキゼデクは、パンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。
14:19 彼はアブラムを祝福して言った。「アブラムに祝福あれ。いと高き神、天と地を造られた方より。
14:20 いと高き神に誉れあれ。あなたの敵をあなたの手に渡された方に。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。
14:21 ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」
14:22 アブラムはソドムの王に言った。「私は、いと高き神、天と地を造られた方、【主】に誓う。
14:23 糸一本、履き物のひも一本さえ、私はあなたの所有物から何一つ取らない。それは、『アブラムを富ませたのは、この私だ』とあなたが言わないようにするためだ。
14:24 ただ、若い者たちが食べた物と、私と一緒に行動した人たちの取り分は別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの取り分を取らせるように。」

<要約>

成功に続く祝福と誘惑:

二人の全く違う王の訪問は何を意味しているのでしょうか。それは、何か一大事を成し遂げた後に来る神からの祝福と悪魔の誘惑です。私たちも一つの事業なり、計画なりを実行した後、それがうまくいったときに二通りのことがやってきます。それは、一つは神からの祝福です。そして私たちは、神に栄光と誉をお返しするのです。そして、神に献身するのです。アブラムはメルキゼデクを通して、十分に一を捧げました。もう一つは自分の手柄を覚えて高慢になり、自分に栄誉を帰そうとする誘惑です。ソドムの王の申し出は悪魔の誘いでした。ソドムの王の申し出をきっぱり断り戦争で戻したすべての者を彼に返しました。よく言われるのは、霊的に一番危ないときは、何かを成し遂げた時だと言います。悪魔はあなたの心にささやきます。よくやったじゃないか。もっと自慢してもいいよ。もっと評価されてもいいはずじゃないのか、と。その時、私たちは神に申し上げましょう。みことばにある通り、「私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです」と。

贖いの代価となられた王・祭司キリスト:

メルキゼデクは、系図もなく出生もわからないサレムすなわち平和の王であり、いと高き神の祭司であったのです。メルキゼデクは、キリストではありませんが、キリストのひな形であります。キリストは、罪のない神が人となって来られた歴史上ただ一人の人物です。処女マリヤが聖霊によって身籠り生まれた神の独り子です。ですから、全く罪を犯したことがなく罪のない人でした。普通の男女間で生まれた人は、罪をもって生まれてきたので、他の人間の罪の身代わりとなることはできません。無罪のキリストのみが身代わりとなることができたのです。「キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった」と書いている通りです。ですから、キリストはご自身をすべての人の罪の贖いの代価として、ご自身のいのちを提供することができたのです。十字架で死にましたが、復活して今も生きておられます。そして、今も、キリストに来るものを神に執り成し、罪の赦しをご自身の十字架の贖いにより宣言しているのです。クリスチャンは、周りの人々のために執り成し祈る人々です。わたしたちも家族友人知人が、真の神に立ち返れるようとりなし、祈りましょう。