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最後の晩餐

2018年03月 11日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書26:17~29
26:17 さて、種なしパンの祝いの第一日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越の食事をなさるのに、私たちはどこで用意をしましょうか。」
26:18 イエスは言われた。「都に入って、これこれの人のところに行って、『先生が「わたしの時が近づいた。わたしの弟子たちといっしょに、あなたのところで過越を守ろう」と言っておられる』と言いなさい。」
26:19 そこで、弟子たちはイエスに言いつけられたとおりにして、過越の食事の用意をした。
26:20 さて、夕方になって、イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた。
26:21 みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」
26:22 すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう」とかわるがわるイエスに言った。
26:23 イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。
26:24 確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」
26:25 すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ」と言われた。
26:26 また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
26:27 また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
26:28 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。
26:29 ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

<要約>

傷のない神の子としてくださる:

ここの記事にあるイエス様と弟子たちによる過越しの食事は、キリストによる独自の過越しの食事と言えます。これは新しいパンとぶどう酒による聖餐式の制定であると言えます。エジプト脱出の最後の夜に神はエジプト全土を裁かれました。エジプトにいるパロの家から奴隷の家に至るすべての家の初子、長男を人から家畜までも打たれたのです。しかし、イスラエルの家では、その夜、子羊の血を家の門の鴨居に塗っておくことによって、死の天使がその血を見てその家の初子を打つことなく過ぎ越していったのです。その過越しの時から1500年を経て、今度は全人類の過越しとなってイエス様が「神の子羊」として来てくださったのです。過ぎ越しの子羊となったイエス様を信じる者が罪の裁きを受けることのないようにされました。イエス様の「わたしの時」はイエス様があなたの身代わりとなって十字架で血を流された時を示します。過越しの夜は、イスラエルの各家庭では、家族が全員集まり、その血を流した子羊を焼いて苦菜と種入れないパンと一緒に食べました。種入れないパンというのはイーストを入れないパンです。それは後に、律法にも記されて、純潔の象徴となりました。新約でパウロが言う種の入らないパンは、信者を指します。過ぎ越しの子羊となったキリストによって罪が取り除かれた信者を指します。また、一緒に食べた苦菜は、エジプトでの400年間の奴隷生活の苦痛を象徴しています。それは、エジプトの奴隷であった過去、罪に縛られ自由を失っていた過去を清算して新しい人生を始めることを意味します。罪の奴隷であった過去の時代を捨てて、傷のない神の子どもとして生きること、それがクリスチャンライフです。

砕かれたときが信仰と救いのとき:

過越しの食事をとっているときにイエス様は言われました。「あなた方の内一人が、わたしを裏切ります」弟子たちは非常に悲しんで「主よ。まさか、わたしのことではないでしょう」とかわるがわるにイエスに言いました。どんな人でも、「自分だけは大丈夫。そんなことはしない。」と言いうることはできません。人は自分に過信して失敗するものです。ペテロはイエス様の一番弟子と言える人物でした。「ご一緒に死ななくてはならなくなっても、あなたのことを知らない」などと決して言わないと言った人物です。この後、イエス様がとらえられた時、ペテロは主イエスを裏切ってしまいました。しかし、自分の力に頼り高慢になっていたことに気づき、悔い改めて、まことにキリストに従う者と変えられました。一方ユダは、イエス様を裏切り、敵の手に銀貨30枚で売ってしまったという大罪を犯しました。そして、イエス様が裁判にかけられて、有罪になったことを知って、自分のしたことを後悔して、自害してしまいました。著者マタイは、悔い改めてキリストに従う者と変えられたペテロと後悔して自害したユダとを対照的に描いています。ペテロもユダも同じイエスの弟子として、同じ釜の飯を食べた人々です。同じようにイエス様から愛された人たちです。しかし、悔いただけの人と悔い改めた人とは天地の差があります。どちらも自分の失敗や罪のために心に痛みと悲しみをもちました。しかし、その次に来る心の態度が大切です。痛み悲しんで上を向くか下を向くかです。ペテロは上を向きました。ユダは下を向きました。ユダは悲しんだまま自暴自棄になって自害してしまいました。ペテロは痛み悲しんで、高慢になっていた自我が砕かれました。砕かれる経験によって、ペテロは謙遜にされて、自分に頼らずますます神に御頼りするものと変えられました。自我が砕かれ信仰に生きる者とされたのです。すべてを主の主権と神の栄光に置くことができたのです。

アダム、サウロ、ユダのように自分の罪や失敗を悔いて心の痛みを経験します。そして、下を向いてそれだけで終わってしまうのでしょうか。それとも、ダビデやペテロのように悔いて心の痛みや悲しみを覚えても、それから豊かに赦してくださる神を仰いで救われるのでしょうか。前者と後者との違いは信仰があるかないかです。失敗や罪は誰にでも来ます。しかし、そのあとに神を見上げて信仰に進むかどうかが問われます。ユダを特別な人と見るべきではありません。どの信者の中にもユダの心はあります。私たちは時に、切り捨てられたと感じてしまうような厳しい言葉を神から直接的にあるいは人から間接的に受けるかもしれません。そして、悲しむかもしれません。知ってください。その時こそ神は御顔をあなたに向けているのです。自分の前にある影が深いほど、太陽はあなたの後ろを強く照らしています。失敗や挫折、罪の責めが深いほどに神はあなたに御顔を向けあなたを照らしているのです。ダビデやペテロのように主を見上げて罪赦されたことを日々確認しましょう。

キリストのいのちをいただく聖餐式:

イエス様は、聖餐式を弟子たちに世の終わりまで、イエス様が再び来られる時まで守り行うように命じられました。聖餐は主の晩餐とも言われています。これも、過越しと深く関係しています。イエス様はイスラエルの民の罪を贖った過ぎ越しの子羊となって、今度は信じるすべての人の罪の贖いの代価として十字架でご自身をささげられました。聖餐式にあずかることにより、私たちは、イエス様がわたしのために十字架で肉を割き、血を流してくださったことを覚えるのです。また、過越しで、屠られ血を鴨居に塗られた子羊は焼いて食されました。それと同様に、ご自身のいのちのすべてを与えつくされたイエス様をクリスチャンはパンとぶどう酒という形でいただくのです。イエス様が最後の晩餐で、弟子たちに、「これはわたしの体です。これはわたしの血です」と言われた通り、パンとぶどう酒にイエス様は実在なさっています。イエス様を信じて心にお迎えしたクリスチャンの皆さんは、最も愛する主イエスを思い、再び来られることを待ち望んでいますか?愛する人に会うこと、愛する人が来られるのを待つこと、それは心喜ぶことではないでしょうか。イエス様を思う時、心に喜びと何かしら熱いものを感じるのです。ですから、聖餐式を単なる儀式としてはいけません。心よりキリストを覚えて、目に見えないが生きて働かれているキリストが今見えるパンとぶどう酒として実在してくださるのです。聖餐式は、キリストに触れ、キリストを味わい、キリストのいのちをいただくことと言えます。

いのちのパン

2018年03月 04日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書6:22~35
6:25 そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに言った。「先生。いつここにおいでになりましたか。」
6:26 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
6:27 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」
6:28 すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。」
6:29 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」
6:30 そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。
6:31 私たちの父祖たちは荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
6:32 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。
6:33 というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」
6:34 そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」
6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

<要約>

人は神に何を求めるか?:

彼らは、湖を渡り、カぺナウムにイエス様を探してやってきました。ついに彼らはイエス様を見つけました。「先生、いつここにおいでになったのですか」と尋ねます。それに対して、イエス様はその質問にはお答えにならないで、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」と言いました。これはどういう意味でしょうか。イエス様の行ったしるしは、イエス様が神の子であること、父が遣わした神であることを証明するものでした。しかし、人々は、イエス様が神の救い主であることより、自分たちの生活を立て直してくださる、政治的な救い主と考えたようです。群衆は、イエス様を自分たちのお腹を満たしてくれる、あるいは生活を立て直してくれる人物、ローマの圧政から民を解放する世的な救い主と考えていました。ですから、彼らは、イエス様が行ったしるしを見て、イエス様が罪と死から救ってくださる真の神であり救い主であるというところまでは理解できませんでした。彼らにはイエス様は目先の救い主でありました。私たちはイエス様に何を求めているのでしょうか。日々の必要を求めて祈ることは大切です。主の祈りにもあります。しかし、イエス様は私たちの根元的な救い主です。罪と死と悪魔から救ってくださいます。このままでは、自らの罪によって裁かれ滅びに落とされるところから救出してくださったのです。そして、永遠のいのちを与えてくださる主であることを覚えましょう。

永遠のいのちに至る食物とは?:

食べればなくなる食物のために働く、というのは、人間の日常の営みです。それは大切なことですが、ただ食べるためにだけに働くのはむなしいことです。動物は生きるために自己存続のために食を得て、子孫を増やし生きています。それだけで彼らは満足しています。しかし、人間は違います。ギリシャ語で人間を、アンスローポスと言います。これは上を向いて歩くものという意味です。すなわち、向上心をもって、よりよく生きたい、そのために、さらに優れた何かを求めて生きています。イエス様は、なくなる食物のためでなく、いつまでも消えない永遠のいのちに至る食物のために働きなさいと言いました。そしてそれを、人の子であるイエス様があなたに与えると言われます。父なる神がキリストにゆだねられた朽ちない食物です。それは、キリストのいのちと言ってもよいでしょう。彼らは「神のわざを行うために何をなすべきでしょうか」とイエス様に問います。この世の中のほとんど物は、何かをしなければ得られないものばかりでしょう。それに対して、イエス様は神のわざは律法の行為ではなく、神が遣わされたイエス・キリストを信じることだというのです。イエス様は言いました。「このわたしこそいのちのパンです」と。イエス様を信じて、イエス様をいただくものは、飢えることがなく、渇かない、なぜなら、尽きない永遠のいのちが与えられているからです。永遠のいのちに至る食物とは、いのちのパンであるイエス様です。平たく言えば、イエス様を信じ続けることです。また、もう一つは、目に見える形では、いのちのパンであるイエス様をいただくことです。それは聖餐の恵みです。イエス様のからだと血をパンとぶどう酒という形でいただくのです。

永遠のいのちに生きるとは?:

永遠のいのちは、イエス様を信じる者に今与えられています。今、イエス様を信じている者は永遠のいのちを持っています。また、地上のいのちが終わった後に与えられるものでもあります。「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」永遠のいのちは今、与えられているばかりでなく、終わりの日には復活によって、完全無欠な状態とされるということです。クリスチャンは、イエス様を信じた時から永遠のいのちに生きています。今信じた人は今から永遠のいのちが始まっています。後期高齢者も前期高齢者もありません。高齢者も老い先短いと言って苦にすることはありません。喜んでできることを楽しみ、今を生きることです。それがクリスチャンライフです。また、年若い人もまだ先が長いと思って、今の時を無駄に過ごしてはいけません。今が人生です。永遠の中の今です。永遠の中では地上のいのちは、ほんの一瞬です。年齢は問題になりません。今が最善、今がベストで生きることです。今を生きるのです。それがクリスチャンライフです。三木清という方は、人生論ノートの孤独の章の冒頭に「この無限の空間の永遠の沈黙は、わたしを戦慄させる」と書いています。宇宙の時間と空間を考えると、永遠、無限という響きがあります。永遠、無限を考えると、自分の存在はあまりにも小さく、無きに等しく、深い孤独に引きずりこまれます。神を失っている人間は永遠のそして無限の孤独にいるのです。だからサルトルは「人間の存在は本質的に無意味である」と言いました。人間はもともと神に造られ、神のいのちとつながって生きる存在でした。神とともに神のいのちにつながって生きるときに生きる目的や使命があるのです。しかし、罪により神から遠く離れてしまいました。その様な人間は、命綱が切れて暗黒の宇宙に漂う飛行士のように全くの孤独な存在です。それは、人の罪がもたらした断絶と言えます。イエス様は神と人の間に立って人の罪を取り除き、和解となってくださったのです。それが、十字架です。イエス様は、信じるすべての者をご自身の所有として、誰一人失うことなくやがて復活させます。お一人お一人にそのことを約束されています。ですから、孤独は全くありません。主がいつも一緒です。やがて、復活を迎えてあなたのいのちは完全無欠となります。救いが完成します。永遠のいのちに生きるとは、今を生きることです。今を喜び、感謝して、捧げて生きることです。決して揺るぐことのない平安と喜びが皆さん一人一人にありますように祈ります。

タリタ クミ

2018年02月 25日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マルコの福音書5章21~24、35~43節
5:21 イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。
5:22 すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、
5:23 いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」
5:24 そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。

5:35 イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」
5:36 イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」
5:37 そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。
5:38 彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、
5:39 中に入って、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」
5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へ入って行かれた。
5:41 そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい」という意味である。)

<要約>

無力と失望の時こそ神のチャンス:

会堂管理者のヤイロはイエス様のうわさを聞いていたのでしょう。近くに来られたのを知って、自分の娘の病状が大変なので、イエス様にあって、癒していただくために来てくださるようにお願いしようと思ったのです。「私の小さなひとり娘が死にかけています。どうか、おいでください。娘の上に手を置いてやってください。娘が治って助かるようにしてください。」ヤイロは切実な思いでイエス様に会うのでした。信仰は難しいことではありません。キリストのもとへ来る。そして、願う、ことです。父親が愛する子どもの願いを聞いてかなえてあげたいと思うのと同様に、神はあなたの願いを聞きたいのです。イエス様は、その願いを聞いて、彼と一緒に出掛けられました。しかし、出かけようとすると群衆が押し迫ってきて、思うように足を進めることができなかったようです。私たちの周囲には妨げとなることもしばしば起こります。しかし、神の時を忍耐して待ちましょう。ヤイロは、「急いでいかないと手遅れになってしまう」と内心、不安と焦りで苛立っていたでしょう。その様なときに、「あなたのお嬢さんはなくなりました。なせ、この上先生を煩わすことがありましょう」という知らせを受けたのです。ヤイロは絶望感で、倒れそうになったでしょう。人間が無力になって、失望する時こそ神の好機が訪れるということです。ここで、イエス様はいのちの創り主で、生と死の主であることをお示しになられようとされていました。復活の奇跡は、イエス・キリストの復活の序曲のようであり、また、福音書の中心であります。そして、人間にとって絶対的な希望であります。イエス様は、その話をそばで聞いてすぐに会堂管理者ヤイロに言いました。「恐れないで、ただ信じていなさい。」これは、神が働かれる一つの条件です。神を信頼するということです。私たちは神を信じてお頼りするしかないのです。神の全能の力を信じ、自分の無力を認めて、また、神は愛のお方であることを覚えて、すがるのです。神を愛し、信頼し、恐れるのです。

前向きに従う者の祝福:

イエス様は、ペテロとヤコブとヨハネ以外は誰をも同行させなかったとあります。イエス様はこの三人を特別に見ておられたようです。イエス様が高い山に上られて、御姿が変わられたときもこの三人を連れられました。また、十字架の前日、ゲッセマネで祈られたときもイエス様の近くにいるように命じられたのもこの三人です。如何してかということは書かれていません。この三人とも、人格者ではありませんでした。何が違っていたのでしょうか。おそらく、この三人は主のお言葉に前向きに良く応答したことでしょう。その反応の良さのために主の信頼を得たのです。ここに霊的な法則があります。「あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。 持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます。」種まきのたとえにもみられるように、みことばを聞いて応答する人は、祝福倍増にあずかります。「人に量ってあげる量り」というのは、人に良く盛ってあげることです。人を良く評価して、気前良くしている人はそれが自分にも帰ってくるということです。豊かに与える人はますます豊かにされるのです。また、けちな人はますます貧しくなるという法則です。これは、人に対してばかりでなく神に対してもその通りです。神に明け渡して、神は良い方であると信頼してみことばに前向きに積極的に聞き従う人は、ますます、霊的にも世的にも祝福されるという法則です。逆に、みことばを信ぜず、神を信頼するより自分の経験にしがみついている人は、それ以上の霊的祝福を経験することなく、ますます、貧しくなるのです。ペテロとヤコブとヨハネは、その通り前向きに主のお言葉に従いイエス様から信頼を得ていたのです。前向きに従う者の祝福は、神に喜ばれ用いられるということです。この会堂管理者ヤイロも「ただ信じていなさい」というイエス様の言葉を受け止めました。そして、娘がよみがえるという最大の奇跡を見ることができました。そして、神の栄光を拝することができたのです。彼にあったのは前向きの信仰です。

復活のいのちに生きるとは:

「死んだように眠っていた」という言葉は時々耳にします。眠りは、必ず目覚めが来るので、外から見て死んでいるように見えても死んでいることとは全く違います。イエス様が、眠りという言葉を使ったのは、すべての人は肉体の死の後、世の終わりによみがえることを表しています。後に、キリストの十字架の贖いを信じて御国に招かれる人と信じないで罪により永遠の滅びに落とされる人があることを聖書が述べています。ですから、すべての人は世の終わりに目覚めるのです。そして、神の裁きに会うのです。この出来事で、死がすべての終わりであるとする私たちの固定観念を、今、取り去ろうとされているイエス様を見ることができます。この福音の最大の希望である復活は永遠に続く感謝と喜びと賛美です。家に着いて、イエス様は娘の手をとりいわれました。「タリタ、クミ(アラム語)」、これは特別な呪文のような言葉ではなく、アラム語です。訳すと「少女よ。起きなさい。」という日常的な言葉です。霊が戻って、死んだ娘は生き返り、起き上がったのです。そして、食事を取らせるようになさいました。アラム語で、「タリタ」は「少女よ」です。「クミ」は「起きなさい」です。当時のローマ社会では公用語はギリシャ語です。しかし、当時のユダヤ人の家では、アラム語が日常語であったようです。この少女にとって、「クミ」という言葉は、毎日聞く当たり前の言葉でした。内心「もう朝、良く寝た、お腹がすいた」と思ったかもしれません。もし、死という事実が無かったら、これは全く日常的なことです。主にある者たちは、イエス様にあっては死ぬということは次に「起きる」(復活)ということとつながっているのです。やがて、肉体のいのちが終わった時、この眠りにつきます。そして、「起きなさい」という主の声を聞いて朝を迎えるのです。イエス様が私たちの一人ひとりの手をとって、おきなさい、と声をかけてくださる、そのときがくるのです。そして、「さあ、天国の祝宴ですよ。来なさい。」と招きの声があるのです。イエス様が私たちの罪の報酬を十字架の上で代わりに払ってくださったので、私たちは信仰によって、永遠の命が与えられるのです。すなわち、復活のいのちをいただいています。イエス様の十字架の贖いを信じる者は皆この希望に生きるのです。

安息日の主

2018年02月 18日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書12章1~14節
12:1 そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。
12:2 すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」
12:3 しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。
12:4 神の家に入って、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。
12:5 また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。
12:6 あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。
12:7 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。
12:8 人の子は安息日の主です。」
12:9 イエスはそこを去って、会堂に入られた。
12:10 そこに片手のなえた人がいた。そこで彼らはイエスに質問して「安息日にいやすのは正しいことでしょうか」と言った。イエスを訴えるためであった。
12:11 イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。
12:12 人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」
12:13 それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。
12:14 パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。

<要約>

神のお心を失った人間:

民の指導者であった律法学者やパリサイ人は、安息日にイエス様の弟子たちが麦の穂を積んで食べていたのを、安息日には仕事をしてはいけないので律法違反だと訴えました。当時、律法の専門家は律法をより詳しく解釈して、生活に当てはめることを人々に勧めていました。十戒の第三戒は、「安息日を聖なる日として、どんな仕事もしてはならない」とあります。「どんな仕事もしてはならない」というのはどういうことかをより詳細に解釈して、様々な決まりをつくったのです。それらの多くは、規則のための規則です。意味のない規則です。もう一つの訴えは、片手のなえた人の癒しです。安息日に病気の人を治すのは、律法違反だという考えから出たことです。安息日は人のためにあるのに、逆に安息日が人を苦しめたらどうでしょうか。人が安息日の奴隷、あるいは人が規則の奴隷になってしまいます。当時の宗教指導者たちは、自分は律法を守っているから正しい人間であると主張し、他人を裁くのです。それを律法主義と言います。神は奴隷状態で休みのない生活を送っていた民に、休息と自由を与えるために安息日を定めました。律法学者やパリサイ人を含む宗教指導者人たちは、その神のお心を失いました。代わり規則に規則を作り、民の自由を奪ったのです。さて、私たちは、神のお心を覚えて主の日を過ごしているでしょうか。休息と自由を得ているでしょうか。主日は、神が私たちに仕えてくださる日です。神が私たちのためにその時を定め、休息を与え、聖なるものに触れさせ、みことばを与え、罪を赦してくださる日です。また、同時に、私たちクリスチャンは、王である祭司ですので、日曜日に、祭司の務めとして伝道したり、愛の奉仕をしたりするのも良いことです。以前、あるクリスチャンが、日曜日が一番疲れる、と言っていました。それは神のお心ではありません。日曜日は、魂の安息、自由と喜びの日です。私たちは神のお心を失わないようにしたいものです。

神のお心を取り戻したキリスト:

安息日は、神が人間のために設けてくださった日です。今日の箇所を見ると、逆に安息日が、人間を苦しめているということがわかります。そこで、イエス様はかれらに神が大切にされていることは何かをお示しになったのです。イエス様はホセヤ書のみことばを引用して、『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』と言われました。ここでイエス様はご自身があわれみの神であることを示されました。一匹の羊を持っている人が、その羊が穴に落ちたら、安息日でも引き上げてあげるでしょう。しかし、羊よりはるかに価値のある人間にはあわれみのない対応をするというのは、何かおかしくないか、よく考えてみなさい、と問われているのです。そして、男の手をいやしてあげました。イエス様は、愛とあわれみが優先することを示されました。安息日に病人を癒してあげてもいいのだよ、それが安息日の規則を破っていることにはならないのだよ、と教えられたのです。イエス様のお心は、「わたしにはあなたは高価で貴いのだよ。あなたの代わりに裁かれ死に定められてもかまわないと思うほどにあなたを愛しているよ。」というものです。それは敵をも愛する愛です。その憐れみと愛の大きさをイエス様は十字架で示されたのです。これまで、旧約の民は神殿、つまり宮に折々に行き、神の臨在に触れ、また、動物や穀物の犠牲の贖いにより罪の赦しを、祭司を通して受けていました。イエス様は、「ここに宮よりも大きなものがいる」とご自分を指して言われました。これからは、私たちはイエス様のところへ行き、イエス様を信じて、罪の赦しを受け、神との正しい関係に入るのです。神はあなたを哀れみ、罪と死の束縛から解き放ち、救うために御子イエス・キリストを送られました。キリストは安息日の主としてご自身を提供されました。キリストを通して信じる者は永遠の安息に入れるのです。

御心を選び自由にされる:

イエス様を心にお迎えして、神のお心を知った者は、心に自由があります。神は私たちを幸せにするために律法を与え、安息日を定められました。神は私たちに十戒を守って幸せになりなさい、と命じています。特に第三戒の「安息日を聖なる日として守る」については、イスラエルの民は歴史を通しても守ってきたことです。彼らは真の神を礼拝することにより、自分たちが神の民であることの自覚を持ち続けました。神様のみ心は、「安息日を聖としなさい」です。すなわち、全世界を創り私たちをおつくりになった神を礼拝しなさいということです。聖書には、「安息日には、仕事をしてはいけない」と書いています。すなわち、「仕事に支配されてはいけない」ということです。優先順位をつけて、生活を律しなさいというのです。「時間に振り回されるのではなく、時間を支配しなさい」ということです。安息日を守り、あなたの神を礼拝しなさいという神の強い意志を見ます。私たちクリスチャンも毎週教会の礼拝に来ます。主日を守るという自己選択によって、あなたは自由であることを証明しているのです。神様の真意は、私たちが主日を守ることにより、時間にコントロールされるのではなく、私たち自身が時間に対する決定権を握っていることをわからせることです。礼拝は神様が準備して私たちを招いてくださっているのです。礼拝では、神様はあなたにみ言葉を与え、イエスご自身を与えてくださいます。時間からの解放と自由、それはとりもなおさず、やがて来る死からも自由にされることで永遠のいのちといえるでしょう。

召しに応えて

2018年02月 11日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ルカの福音書5章1~11節
5:1 群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、
5:2 岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
5:3 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。
5:4 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。
5:5 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
5:6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。
5:7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。
5:8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。
5:9 それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。
5:10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
5:11 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。

<要約>

現代人に届く神の国の福音:

イエス様は群衆に押し迫られて、ゲネサレ湖(ガリラヤ湖)の岸辺に立っておられました。それから、シモン・ペテロの船に乗り、岸から少し離れてから、船にお座りになりました。そして、岸に向かって群衆にお話をなさいました。イエス様が語られたのは「神の国の福音」です。イエス様は、旧約聖書に預言されたメシヤがご自分であることを伝えたことでしょう。そして、神のあわれみと恵みにより、人々を罪と死と悪魔から解放するためにこられたことを伝えたでしょう。現代人に当てはめて言うならば、悩みと苦しみにある人や心傷つき悲しみにある人、そして将来に不安のある人、そのような人々は安心しなさい。イエス・キリストがあなたに平安と慰めと癒しをもたらしてくださったから。また、真のいのちを失って、むなしい日々を過ごしている人や、人生の終わりの向こうにある永遠をあきらめている人、イエス様はそういう人を高価で貴いとみておられます。そして、喜びと感謝、驚きと感動の人生を約束してくださいます。なぜなら、イエス・キリストは永遠のいのちだからです。彼を持つものは祝福の尽きることないいのちの泉を持つからです。また反対に、自らの罪の裁きを恐れている人、その人たちは罪赦されているのです。なぜなら、イエス様があなたの罪を背負って十字架に身代わりとなって死んでくださったからです。あなたはキリストを信じて罪赦されます。イエス・キリストは、罪の赦しを信じなさい、そして、永遠のいのちを得なさいと勧めているのです。

砕かれた心に神を迎える:

お話が終わって、イエス様は、ペテロに「深みに漕ぎ出して、網を下ろしなさい」と言われました。かれは、漁師としての経験から「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。」とイエス様に返答しました。人間は自分のわずかな経験に頼り、イエス様の言葉をそのまま受け入れません。私たちも自分の経験や常識といわれるものによって第一歩を踏み出せないでいることはないでしょうか。み言葉はわかっている、しかし、そんなことは信じられないといってないでしょうか。しかし、幸いなことに、ペテロは「お言葉ですから」と言って、深みに漕ぎ出し、網を下ろしました。ペテロは主のお言葉に従って大いなる祝福を得ました。二艘の船がいっぱいになって沈みそうになったのです。人間の経験や常識では推し量ることができない神のわざが起こったのです。ペテロはイエス様が神であることを確信しました。それは、同時に彼の誇り、プライドが砕かれた瞬間でした。ペテロは言いました。「主よ。わたしのようなものから離れてください。私は罪深い人間ですから」そして、主の足元にひれ伏しました。神の聖さに触れて、自分の罪が鏡のように映しだされるのです。聖霊が心に触れるとその聖さのために自分の汚れに気付くのです。ペテロはイエス様の足元にひれ伏しました。圧倒的な神の力を経験したのです。今まで、しがみついてきた自分自身、そこによりどころを失ったのです。ここで初めて、彼は、自分の心の王座から降りました。そして、イエス様に座っていただいたのです。これが、神との関係が正される瞬間です。人は自分の無力に気付き、神などいらないと言っていた自我が砕かれます。すなわち、心の王座を占めていた自我が砕かれて、代わって、キリストの霊があなたの生かすのです。

神が召してくださる祝福:

ペテロは、これまで経験したことのないような大漁の奇跡を見て、驚き、そして恐れ、イエス様の前にひれ伏しました。「これから後、あなたは人間をとる漁師になるのです」と言われました。この一連のペテロのイエス様との体験は、ペテロが人間をとる漁師となるためのイエス様による実物教育でした。ペテロが人間をとる漁師としての働きをなしたのが、使徒の働きの記事にあります。ペテロが受けたのは伝道師への召命と言えます。「船を陸につけると、何もかも捨ててイエスに従った」のです。「これからあなたは、人間を取りようになる」というのは、伝道者、牧師など献身者として、召されるときに与えられるみことばです。「何もかも捨てて、イエスに従った」というのは、生活において、イエス様を第一優先とするということです。しかし、神の召しは伝道者、牧師、宣教師になるためだけではありません。神の召しはすべてのクリスチャンに及んでいます。イエス様を信じるときに、だれもが、イエス様に召されるのです。イエス様は、クリスチャンになろうとするすべての人に当てて、「自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私についてきなさい」というのです。これは、イエス様に従いなさい、ということです。優先順位をイエス様にするということです。イエス様は、「悔い改めて神を信じなさい。そして、新しく生まれなさい」といいます。生まれるためには一旦死ななければなりません。それは、イエス様が十字架で死んで復活されたように、私たちも、古い自分に死んで新しい人によみがえることを意味しています。悔い改めて神を信じ、新しく生まれたひとには、神の子とされる特権が与えられます。天国の相続人になります。天国の祝宴に招かれています。そこで、永遠の安息と尽きることのない喜びに満たされて過ごすのです。それはこの上もない祝福です。

最初の奇跡

2018年02月 04日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書2章1~11節
2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
2:3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
2:6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
2:7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
2:9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、──しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた──彼は、花婿を呼んで、
2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
2:11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

<要約>

自由と喜びの時代の到来:

バプテスマのヨハネは律法を守るものにふさわしい禁欲的な生活をしていました。イエス・キリストの到来により、律法を守らなければ裁かれるという禁欲の時代は終わりました。そして、結婚式の祝宴に象徴される喜びと楽しみそして希望の時代が来たのです。自分の内面の罪に責められて、神の裁きに悩む律法の束縛の時代は終わって、罪の赦しと律法からの解放を喜ぶ時代が来たのです。私たちは、ああしていけないこうしてはいけないという生き方から、ああすることもこうすることもできるという生き方になっているのです。失敗を恐れて退くのではなく、失敗を益に代えてくださるイエス様にゆだねて前に進むのです。それが、クリスチャンライフです。

人の思いを超えた神のご計画:

さて、婚宴の席でぶどう酒がなくなってしまいました。イエス様の母は「ぶどう酒がありません」とイエス様に訴えました。彼女は、イエス様が特別な人であること、神の子であること認めていました。イスラエルを救うために来られたことを信じていました。そのイエス様が、ヨハネからバプテスマを受け、そして、弟子たちをも得て、ガリラヤに帰ってきたのです。マリヤはイエス様が民の救いのために立ち上がる時が来たのだ、とみていたと考えます。

母マリヤはイエス様に「ぶどう酒がありません」と言いました。イエス様がその力を表して、ご自分を世に表すことをひそかに期待していたのです。それに対して、イエス様が「わたしの時はまだ来ていません」と母マリヤに言われました。この後7章で、同様に「わたしの時はまだ来ていません」と、イエス様はご自分の兄弟たちにも言いました。イエス様の母マリヤも兄弟たちも、イエス様の時が、十字架を意味するとは思わなかったのです。私たち人間の思いと神の思いとは違うということです。私たちは現状を憂えて、何とかしてほしいと考えます。しかし、神の御心はそこにはないということがよくあります。この時点では、母マリヤも弟子たちもイエス様に別の期待を持っていたでしょう。イスラエルの民の願いは、ローマの圧政から、自分たちを解放するダビデの再来である王を願っていました。しかし、イエス様の心にあったのは、すべての人の救いです。神が人となって来てくださったことの意味です。バプテスマのヨハネが言ったように「世の罪を取り除く、神の子羊」となることです。人を滅びから救い出すためです。神と人間の和解となるために来られた。神との関係回復です。それにより人は人として回復するのです。現代社会に生きる人々は、神を無視して、神から遠く離れています。それが罪の元となっています。万物は神によって造られ、神によって存続し、神の栄光のために存在しています。ですから、歴史も世界も神中心に動いています。神から離れた人間は、世界は人間中心に動いていると思っています。否、自分中心に動いていると思っています。それは神のおつくりになった秩序に反した歩みです。だから、人間は目的を失っています。あなたが、自分中心から神中心で、神の栄光のために生きるなら、自由と喜び、感謝と賛美の人生を送ることができるのです。マリヤは、イエス様から拒絶の言葉をもらいました。しかし、マリヤはイエス様が、母の願いを何とかしてくださることを信じていました。それで、手伝いの人たちに「あの方が言われることは何でもしてあげてください」といったのです。これはマリヤの立派な信仰の態度です。私たちも、祈りがその時聞かれなくても神のみ旨を求め続け願いが聞かれる時を待たなければなりません。神は愛ですから、あなたの願いを必ずお聞きになるのです。私たちは目先のことしかわからない存在です。自分の思う通りに状況が開けなくても、神を信頼していくことです。神のなさることは最善であるということです。

恵みによって変えてくださる神:

無味な水を豊かで味わいの深い良質のぶどう酒に変えてくださったように、イエス様に来るものを、イエス様は、役に立たないしもべから高価で貴いものへとつくり変えてくださるのです。宴会の世話役は「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだ」と言いました。これは、最初はぶどう酒のおいしさがわかっても、飲んでいるうちに味覚はマヒしてきます。だから、後から質の落ちたぶどう酒をだしてもわからないというのです。そして、普通はそうするというのです。これが世の常だというのです。人間は、相手によって対応を変えます。身分の高い人やお金持ちにはそれなりの対応、貧しい人には質の低い対応をします。しかし、神の御子は人間のようではなく、だれにでも一貫して、最初から最後まで最も良いものをお与えくださるのです。キリストの福音は、だれにでも、どんなに罪深くても、重罪を犯した死刑囚に対しても最高のプレゼントとして提供されています。そして、私たちがどのような状況にあっても、病気であと一日しか命がないとしても、イエス様の救いの福音は届いています。信じれば救われます。どんな人も、イエス様の十字架により罪が完全に取り除かれて、神との完全な交わりに入ることができるのです。これが福音です。福音は、私たちを罪の奴隷状態から解放し、自由の身とするのです。イエス様は、あなたの人生を味わい深い良質なぶどう酒にたとえられるような豊かな人生にしてくださるのです。もし、信じるなら、あなたはキリストに結び合わされて、天に国籍を持つ、神の子どもとされるのです。

キリストの弟子となる

2018年01月 28日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書1章35~51節
1:35 その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、
1:36 イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊」と言った。
1:37 ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
1:38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」
1:39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は第十時ごろであった。
1:40 ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。
1:41 彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った」と言った。
1:42 彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」
1:43 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい」と言われた。
1:44 ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。
1:45 彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」
1:46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」
1:47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」
1:48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」
1:49 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
1:50 イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」
1:51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」

<要約>

世の罪を取り除く救い主:

バプテスマのヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」とイエス様を紹介しています。これはイエス様の働きそのものです。「神の子羊」というと、ユダヤ人が誰でも連想するのは、「過ぎ越しの子羊」です。かつて神は全エジプトを裁かれました。死の天使を派遣して、すべての家にいる人間から動物に至る最初の子ども、初子のいのちをとられました。しかし、鴨居に子羊の血がついているイスラエルの家は、その血を見て、死の天使はその家を過ぎ越したのです。そのように、罪の裁きが全エジプトに及んだのですが、子羊の血によって民への裁きが回避されたのです。過ぎ越しの子羊は型でした。それはイエス様の十字架によって成就しました。イエス様は神が用意してくださったすべての人の罪を贖うための子羊となりました。十字架で流された血が信じる者の罪を取り除き、神の裁きは過ぎ越していくのです。人の罪の問題は、神との隔ての壁となって、すべての人に及んでいます。十字架によってあなたのすべての罪が赦されていると確信しているならば、神を思うと心が温かくなり、喜びがわいてきます。もしあなたが、神を思う時喜びと感謝が来ないのなら、あなたは悔い改めてもう一度すべての罪が赦されていることを確認しましょう。

イエスは教えではなくいのちを与える:

ヨハネの弟子の二人が、ついていきました。イエス様はついてくる彼らに振り向いて、「あなたは何を求めているのですか?」と問いました。イエス様は、「誰を」と言わずに、「何を」と言って問いかけています。彼らは、イエス様に自分たちの必要を満たし、自分たちの夢をかなえてくれる何かを期待していました。そのような彼らの心を見透かしたイエス様は、この質問によってもう一度彼らの思いを正そうとなさいました。キリスト教は、キリストの教えを学び、キリストを模範として生きることではありません。イエス様そのものが、罪を赦す救いであり、いのちです。イエス・キリストは救いの本質です。キリストがあなたのうちに住まわれてキリストのいのちがあなたを生かすのです。もし、私たちが神から問題解決や自分の利となることばかりを求めて、キリストと人格的な交わりを持たなければ、神を利用していることにならないでしょうか。私たちは自分の利益を追及しているだけで、神を求めていない、と言うことがあるのではないかと問うのです。そこには、神との人格的な交わりはありません。神はあなたと人格的な交わりを求めておられます。愛と信頼の交わりです。彼らは、バプテスマのヨハネが証言しているとおり、この方こそ聖書が約束していたメシヤ、救い主であることを確信しました。イエス様の救いは個人個人に及ぶものです。イエス様は目には見えませんが、生きて働かれて、私たち一人一人の心の扉をたたいておられます。そして、あなたが内側から開くなら、イエス様はあなたに入ってこられます。そして、あなたを祝福しあなたとともにあゆみあなたにいのちをあたえられるのです。これは、イエス様の教えがあなたを変えるのではありません。イエス様そのものがあなたを救い、命を与えるのです。

天国と地上を結ぶ祝福のはしご:

イエス様は、創世記のヤコブの見た夢「一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。」の言葉を引用しております。イエス様は天と地をわたすはしごとなられて、天使たちがイエス様の上を上り下りしているという情景です。これは、イエス様が神と人間の橋渡しとなり和解となることを表しています。はしごは地から上に向けて建てられるのが普通です。しかし、「ヤコブのはしご」は天から降りているものでした。ここにおいても、人の子と言われたイエス様がはしごとなって天から地に降りてこられました。ですから、キリストは、天国と地上を結ぶ祝福のはしごです。それは、やがてイエス様が受難の十字架の死とその後に来る復活によって、神と人類の和解を達成して、天国を地上にもたらしたことを意味します。イエス様は神の子羊として、人類の罪の贖いをなしてくださいました。そしてまた、天のはしごとなり、天国を地上にもたらしたのです。地上にもたらされた天国は、どこにあるのでしょうか。それは、信者の交わりである教会にあると言えます。また信じる者のうちにあるともいえます。すなわち、クリスチャンであるあなた自身が天国を持っているということです。すなわち、あなたは救いと祝福の伝達者です。

荒野に試み

2018年01月 21日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書4章1~11節
4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
4:2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」
4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」
4:11 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。

<要約>

苦難を神からの鍛錬ととらえる:

神は悪魔の試みを許されて、御霊がイエス様を荒野に導きました。イエス様は、そこで苦しみに会われたのです。人が苦しみにあった時、その苦難を神からのものとして用いるなら、それは、神の鍛錬あるいは訓練となります。「耐え抜いて良しとされた人には、いのちの冠を受ける」とあります。代表的には、アブラハムです。かれは、100歳まで世継ぎを与えられず苦しみました。しかし、彼はそれにより忍耐を身に着けました。また、ひとり子、イサクをモリヤの山でささげるように命じられた時、苦しんだでしょう。しかし、復活の希望が与えられて従いました。逆に、人の苦難が悪魔に利用されると、信仰を捨てさせて、破壊や滅亡へと向かわせるのです。これが、悪魔の誘惑ないし試みと言えます。悪魔は、人の罪の性質に働きかけて、不平、不満、つぶやき、非難、恨み、復讐心、疑い恐れ、などを引き出し、ついには不信仰に貶め、教会から離れ、神から離れさせるのです。代表的人物は、イエス様の弟子のユダでしょう。最後は自害してしましました。私たちが、苦しみや困難にあった時、それをどのようにとらえるかが分かれ目となります。それを神が許された試練として用いれば、神の栄光のみわざを見るものとなります。神をどこまでも信頼して、神の最善がなることを信じていくことです。私たちがイエス様に祈るとき勝利があります。なぜなら、イエス様は今日の聖書箇所で証明なされたように悪魔に対して勝利されたからです。イエス様があなたに代わって戦ってくださいます。私たちは苦難を神が許されてお与えくださっていると考えることが大切です。私たちは、病や不幸と思われる災い、様々な困難、に遭遇します。信者はそれを神からの試練として受け止めて、悔い改め、神により頼み、み言葉に耳を傾け、祈りに専心します。自分の力の限界を感じ、ただ、神により頼み、神にすがるからです。その時、信仰の勝利を経験します。依然困難は目の前に立ちはだかっていても、神がご介入して、イエス様がその荷を共に負ってくださっていることを体験し心に平安が来ます。

イエス様の受けた試みの意味:

イエス様の試練の意味は、イエス様ご自身が神であることを証明するためのものです。悪魔の試みは三つありました。一つ目は、空腹を覚えられたイエス様に「石をパンに代えて食べなさい」というものでした。悪魔は最初の二つの誘惑では、「あなたが神の子なら」という言葉で迫りました。『メシヤで神の権力を持っているなら、飢える必要はないでしょう。空腹なら奇跡を起こしてパンを得なさい』と誘惑します。しかし、この空腹は神が御霊により荒野へ導かれたとあるように神がご計画のうちに定めたことなのです。悪魔はイエス様が神に従わないようにさせようとしました。それに対して、イエス様は、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」という、申命記のみことばを引用して反撃しました。二つ目は、悪魔はイエス様を、神殿の頂に立たせて、飛び降りてみなさい、神が「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』といいました。これは神を試みるという罪に当たります。信頼を裏切る行為です。イエス様は、「あなたの神である主を試みてはいけない」を引用して反撃しました。三つめは、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」いよいよ悪魔は本音を出しました。イエス様は、「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と」を引用して反撃しました。イエス様が用いた三つの言葉は、みなモーセが言った言葉の引用でした。この申命記6から8章は、イスラエルの民が出エジプトして、荒野で様々な試みを受けた経験が書かれています。それは、民が約束の地に入ろうとする前に、荒野での40年の歴史を思い出させて、モーセが民を諭した記録です。イエス様の荒野での40日は、モーセ率いるイスラエルの民の荒野での40年間を思い出させます。現在、神の民であるクリスチャンがやがて入ろうとしている約束の地、それは天のみ国といえます。イスラエルの民は荒野の40年間で神を信頼しとおすことができずに様々な失敗をしました。民のつもり積もった不信の罪をよいことに、悪魔は神と民の関係を引き裂いたのです。このようにして、イスラエルの民を悪魔はうまく陥れたと言えます。イエス様は、かつてイスラエルの民が悪魔に負けたことにリベンジなさったのです。そればかりでなく、この悪魔への勝利は、アダムの罪以来悪魔の支配下にあった全人類を解放したのです。悪魔は人の罪によって人を縛り、自分の支配下に置いています。人は自分の力では、悪魔の支配から抜け出ることはできません。解放者が必要です。それがイエス・キリストです。

救いは十字架の死以外にない:

神と悪魔とイエス様と人間の四者の関係構図を思い浮かべてみましょう。神と人は、罪によって断絶しています。人は自らの罪によって、死と永遠の滅びに定められていると言えます。その罪を取り除くために来られたのが、神の御子キリストです。人であり神である無実のキリストがすべての人の罪を背負って身代わりとなって十字架で死んでくださったのです。そして、すべての人に罪の赦しを宣言なさっています。そのことを信じて罪の赦しを受け取る人は、罪赦されて、亡ぶことなく永遠のいのちにあずかれるのです。キリストにより罪を取り除かれた人間は、神との和解を得たのです。神と人との関係を断絶させている罪によって、悪魔にとらわれている人間を贖い、買い戻してくださったのです。和解を得させてくださるのは、キリストの十字架の死以外にないのです。また、イエス様が全人類の代表として、悪魔と戦ったと言えます。最終的には、十字架で悪魔からかかとを噛みつかれましたが、そのかかとで悪魔の頭を踏み潰したのです。ですから、私たち人間は悪魔からキリストの支配に移されたのです。神の国の一員とされたのです。それは、私たち人間の努力や力で得た者ではなく、すべて神が用意してくださった救いです。私たちは、空の手で神からその救いを受け取るだけでいいのです。

イエスのバプテスマ

2018年01月 14日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明音声プレーヤー00:0000:00ボリューム調節には上下矢印キーを使ってください。

<聖書>マタイの福音書3章1~6,13~17節
3:1 そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。
3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
3:3 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われたその人である。
3:4 このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
3:5 さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、
3:6 自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。

3:13 さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。
3:14 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
3:15 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
3:16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
3:17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

<要約>

神との正しい関係に生きるとは:

「荒野で叫ぶ者の声」としてバプテスマのヨハネは聖書に紹介されています。彼は荒野で、悔い改めを説いていました。そして、当時、大勢の人々がユダヤ全土からヨルダン川の彼のところに来て、悔い改めのバプテスマを受けていました。悔い改めというのは、神との正しい関係を取り戻すことです。イスラエル中が、罪を悔い改めて救い主イエスを迎えようと準備を整えていたともいえます。聖書は言います。人は生まれながら罪の性質を持って生まれ、現に罪を犯すものだと。聖書は、すべての人は罪を犯したから、神の栄誉を受けることができない、と書いています。人の罪が、神との関係を断絶させています。そもそも人が創り主である神を認めないことが最大の罪であり、様々な罪の根元です。さて、イエス様は本来神の子で、生まれながら罪のないお方です。そして、一度も罪を犯したことがありません。ですから、悔い改める必要はないはずです。しかし、主イエスは「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」とお答えになりました。この「すべて正しい」の「正しい」は、原語で「義」という言葉が使われています。義人は信仰によって生きるの「義」です。すなわち、「神との関係で正しい」ということを表しています。悔い改めのバプテスマを受けることは、道徳的に、あるいは法的に正しい行いというのではなく、神との関係において正しいことだからです。悔い改めは、思いを変えて、神を見上げるという心の姿勢から出てきます。イエス様が、「すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」というのは、御心に従う行為であり、信仰から出た行為だからです。まだ、神との正しい関係に入っていない人は信じて洗礼を受けること、聖餐式を守ることです。それは、神との正しい関係に入ることを意味します。同様に私たちもいつも悔い改めて神との関係を正して生きることです。そして、イエス様のようにみことばと神の立てた秩序に従順であることです。みことばに従うこと、神に遣わされたところで最善を尽くすこと、教会とその秩序に従うことです。それが、神との正しい関係に生きることです。

キリストの任命の背後にある神の愛:

天が開けて聖霊が鳩のように下ってきました。これは、主イエスがメシヤとして任命されたことを意味します。神が長い間準備をしてこられたことが実行に移されるのです。神はイエス様がヨハネのバプテスマを受けて、これから救いのわざ、人類の贖いのわざに立ち上がったことを喜ばれました。そして、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と声をかけられました。30歳になるまで、イエス様は父なる神との親しい交わりの中にありました。これまでの期間をかけて、イエス・キリストの使命を確認し、心と体と思いを人類救済の大事業に向けて整えてきたと言えます。いよいよその時が来たのです。それでも、イエス様ご自身は、人々の罪の贖いの代価として、十字架で苦しみ命を捨てなければならないと決意しておられたでしょう。また、イエス様は神に愛されて喜ばれている子です。それゆえこの大きな使命を与えられ、神の御心を成し遂げるのです。このあと約3年後に十字架が待っていました。父なる神の絶大なる信任を受けていました。しかし、愛と喜びの子どもとされていたイエス様の人としての苦しみはどんなだったでしょうか。また、父なる神の苦しみはどんなであったでしょうか。十字架以外の他の選択肢はなかったのでしょうか。神は人の救いのためにそれが最善の道であることをご存じで用意されたのです。その動機は、神の愛です。一言神の愛です。神は惜しんで世の人々を愛されたのです。御子と神ご自身の苦しみをも凌駕してしまうほどに、神の愛は大きなものであるということです。私たちはもっとそのことに感動して、感謝と喜びで満たされてもいいのではないでしょうか。

主イエスとともに来た神の国:

この後、イエス様は40日間の荒野での悪魔の誘惑に勝利されて、ガリラヤで宣教活動を始められました。イエス様は、イスラエルの民の救い主であるばかりでなく、万民の救い主であります。イザヤの預言は、罪と死と悪魔にとらえられていた人間に解放を告げるときが来たことを知らせています。イエス様は、その時から、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と宣言されました。それは、神の国がイエス様と一緒に降りてきてくださるということです。悔い改めれば誰でも神の国に入ることができます。イエス様はこの後、約3年間、ガリラヤ、ユダヤ地方を回り、宣教しました。そして、多くの奇跡をなし、悪魔にとらわれている人々を解放しました。また、病気の人をいやしました。また、神との関係を正すように当時の宗教指導者たちにも恐れることなく語りました。そして、ついに、宗教指導者たちの妬みにより十字架刑に処せられたのです。結果、イエス様が、一度死なれることにより、私たち人類の罪の贖いをなしてくださいました。無罪の神がすべての人の罪を背負って身代わりとなって十字架で裁かれいのちを落としてくださったのです。信じる者は誰一人罪によって裁かれることなく、神のいのちにあずかり、復活の希望に生きるのです。同時にイエス様は、この地上に神の国をもたらしてくださいました。キリストが支配する国を打ち立ててくださいました。そして、キリストを信じる者は、神の国に属するのです。神の国とは、地上で神が信じる者の心と生活を支配されることです。そこは愛と赦しの世界です。救われた者たちはキリストとともに永遠に完全な幸いの中にいます。キリストが私の人生の主となり、わたしにかかわる一切を統治してくださいます。国のトップが変わると国が変わります。キリストが主となると人生が変わります。そして、悔い改めて信じれば、神の国はあなたのものになるのです。

イスラエルの選びと救い

2018年01月 07日(日)主日礼拝
ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ローマ人への手紙11章13~29節
11:13 そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。
11:14 そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。
11:15 もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。
11:16 初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。
11:17 もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、
11:18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。
11:19 枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。
11:20 そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。
11:21 もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。

<要約>

行いではなく信仰によって救われる:

聖書が示している罪は根元的で、根深く、人間性の腐敗と言えるものです。マルコの福音書には、具体的な罪が書かれています。悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみなどです。その腐敗である罪は心から発しているというのです。私たちは、行いにおいてはそのようなことをしないと言っても、心においては、犯してしまう無数の罪があります。そして、その罪に対して、私たちはどんなに良い行いを積んでも、それで神は罪を帳消しにしてはくださらないのです。それは、神は正義の神だからです。神は一点の汚れもシミもないきよい神です。まったく正しい神です。ですから、人のどんなに小さな罪も受け入れることはできません。さらに、罪からくる報酬は死と聖書に書いている通り、罪の結果は死です。ですから、人は生まれながら罪により、死に定められて、永遠の滅びへと向かっています。では、人はどこに救いがあるのでしょうか。そこで、神が人を救うために用意してくださったのが、キリストの十字架です。人を救うために神が人となって来てくださった。罪なきキリストがすべての人の罪をその身に受けて十字架で身代わりとなって死んでくださいました。十字架で死ぬことで私たちが払うべき罪の代価を支払ってくださいました。それを十字架の贖いと言います。その十字架の贖いを信じた者は、義と認められます。キリストの十字架のゆえにすべての罪は赦されます。罪の赦しをただ信じて受け取るだけでよいのです。良い行いもお金もいらない、ただ空の手で受け取ればよいのです。わたしたちは、キリストの十字架を信じるとき、罪の赦しによる永遠のいのちをいただきます。それは、神からの大いなる祝福と喜びです。キリストの救いは、罪と死と悪魔からの救いです。悪魔から救われてキリストの支配に移されます。つまり、神の民に移籍されるのです。それでは、信じれば救われると言って、行いはいらないのかという質問です。罪が赦され救われるためには行いはいりません。しかし、信じて罪赦された人は、赦された結果としてよい行いに励む人になります。救いの結果としての善行です。そこを間違えないようにしましょう。

神の約束と選びは変わらない:

神は罪によって滅びに向かっている人を救うために人類救済のご計画を遂行なさいました。ひとりの人を選び、その人の子孫である一民族を選び、その民族を通して他のすべての民族に救いと祝福を届けようとなさいました。そのひとりの人がアブラハムです。その人の子孫がユダヤ民族あるいはイスラエル民族です。アブラハムが選ばれたのは神の一方的な選びです。アブラハムは、行いではなく、信仰により救われました。彼の罪を贖うために、やがて子孫に現われるメシヤ、キリストをはるかに仰いで救われたのです。そのアブラハムへの選びはイスラエル民族に継承され、イスラエルは神の民となりました。彼らには律法が与えられました。聖なる国民として他の民族とは自らを区別するようにということです。また、王である祭司として、他の国々へ真の神の恵みを伝達していく働きを与えられました。約束の土地も与えられました。しかし、彼らは他の神々、すなわち偶像に心惹かれてしましました。十戒の第一戒の「わたし以外に神々を持ってはいけない」の戒めを破り、真の神でない偶像を拝むようになり、霊的姦淫を犯したのです。神はたびたび預言者を送り、イスラエルが悔い改めて神のもとに帰ってくるようにいつも手を差し伸べておられたにもかかわらず、立ち返らず神から離れてしまったのです。そして、自らの罪のために、非常に弱くなり大国に支配されて、痛めつけられたのです。さらに、彼らは、律法を信仰によって追い求めないで、行いによって追い求めました。ついには、神がお送りになった神のひとり子イエス・キリストを十字架につけて殺してしまいました。彼らはメシヤを待ち望んでいたのですが、イエス・キリストをそれと認めることができずにつまずいてしまいました。キリストは彼らにとってつまずきの石となったのです。つまずいて彼らは倒れてしまったのです。そのために、この救いは異邦人へ届けられるようになりました。異邦人への使徒として立てられたパウロはアジア、ギリシャ、ローマへと異邦人の地へイエス・キリストの救いを届けたのです。それでは、神はイスラエルをお見捨てになったのでしょうか?イスラエルはキリストを十字架で殺し呪われたものとなってしまったのでしょうか?否です。イスラエルに与えられた神の約束は破棄され、クリスチャンたちに置き換わったという考えがあります。しかし、それは間違いです。パウロは異邦人への使徒としての召しを受けてその勤めに命を懸けていました。しかし、それはまた、異邦人が救われて神の民に加えられることにより、ユダヤ人がねたみを起こして、幾人かでも救いに入ることを願ってのことです。ここでのパウロの狙いは、福音が異邦人に届けられて、彼らが救われて祝福されるのを見たユダヤ人にねたみを起こさせることです。ユダヤ人たちにこう思わせたいのです。「どうして異邦人がこのような祝福を受けるのだろうか。どうして、この祝福が私たちを飛び越えて異邦人に行ってしまったのだろうか?」と。イスラエルが神に捨てられることで、福音が異邦人に伝えられました。そして、彼らが信じることで、神と世界との和解が実現しました。しかし、イスラエルが悔い改めて救われるなら、霊的に死んでいたイスラエルは、死者の中から生き返ることになります。イスラエルが捨てられたのは一時的なことであり、彼らはやがて悔い改めて救われるのです。福音が異邦人の間に広がり、異邦人世界に福音がいきわたったとき、その福音の波がイスラエルに戻ってくるのです。そしてついに、イスラエルに救いが届き民族的救いが成就するというのです。現在、異邦人世界にすさまじい勢いで福音は届いています。すべての国民に福音が証されて世の終わりが来ると書いています。神が言い送ったことは必ずなります。約束は必ず行われます。そのことを信じて待ち望む者でありましょう。

恵みの接ぎ木に恐れと謙遜で留まる:

野生種のオリーブの枝は異邦人です。栽培種のオリーブはイスラエルです。栽培種の枝、イスラエルは不信仰によって折られて野生種の枝、異邦人が信仰によって接がれました。そして、オリーブの根から豊かな養分を受けているのなら、あなた方、枝である異邦人は自分を誇ってはいけない、根があなた方を支えているからです。高ぶらないで、謙遜でいなさい。恐れなさい。もともと、私たち異邦人は、受けるに値のない、優先権のない、資格のない者であったからです。ただ、神のあわれみと恵みによって救っていただき、神の民に加えられたのです。しかし、神に留まらない、信仰に留まらない、教会を離れ、聖書も読まない、祈らない、ということになれば、あなた方は切り落とされるとパウロは言います。逆に信仰に留まり続けるなら救いの完成を見るのです。神の選びも約束もキリストも、もとはと言えばイスラエルのものです。落としてしまったこの素晴らしい恵みを私たちは彼らにお返しするのです。私たち異邦人クリスチャンは神の一方的な恵みで接ぎ木された者たちです。神の民とされたのはイスラエルであり、今もそれは変わりありません。ですから、神を恐れつつ、謙遜になり、自分を誇ることを戒めましょう。また、イスラエルに対しては、彼らを軽蔑したり裁いたりしてはいけません。彼らを尊敬して、イスラエルが悔い改めて神に立ち返ることを祈り続けましょう。