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神をお父さんと呼ぶ祝福

2020年1月5日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>ルカの福音書2章39~52節
2:39 両親は、主の律法にしたがってすべてのことを成し遂げたので、ガリラヤの自分たちの町ナザレに帰って行った。
2:40 幼子は成長し、知恵に満ちてたくましくなり、神の恵みがその上にあった。
2:41 さて、イエスの両親は、過越の祭りに毎年エルサレムに行っていた。
2:42 イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習にしたがって都へ上った。
2:43 そして祭りの期間を過ごしてから帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかずに、
2:44 イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを進んだ。後になって親族や知人の中を捜し回ったが、
2:45 見つからなかったので、イエスを捜しながらエルサレムまで引き返した。
2:46 そして三日後になって、イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
2:47 聞いていた人たちはみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。
2:48 両親は彼を見て驚き、母は言った。「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」
2:49 すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」
2:50 しかし両親には、イエスの語られたことばが理解できなかった。
2:51 それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。
2:52 イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。

<要約>

神を父と呼べない人の姿:

この神をご自分の父と呼んだのはイエス様が初めてです。それまでは父祖の神と言っていました。神を父と呼ぶことは誰もありませんでした。信仰によりイエス様の者とされた私たちは、「天の父なる神様」といのります。本来、被造物である私たち人間は創造主なる神に近づくことも向き合うこともできません。その神を私たちが「お父さん」と呼べる近い存在に、イエス様が、縮めてくださったのです。人は神から遠く離れていて、生まれながらのままでは創造主なる神を認めることも、信じることもできません。依然、罪と死と悪魔の支配下にあるのです。それが、神と出会うまでの私たち人間のありのままの姿です。それは、大きな断絶です。その断絶は、人間の努力や力では埋め合わすことのできない溝です。その溝にご自身が横たわり架け橋となってくださったのがキリストです。罪のない神のひとり子が、すべての人の罪をその身に受けて十字架で裁かれ死んでくださいました。御子を信じる者はその罪が赦されて、断絶は取り除かれます。

神を父とする祝福の人生:

イエス様は13歳を前にして、父母の神、父祖の神ではなく、ご自分の父であると宣言したのです。その後、ナザレに帰って両親に仕えられた、と書いています。聖書は、イエス・キリストを模範として生きるように勧めています。しかし、イエス様のようになることはできないでしょう。イエス様は神と人に愛され、最後まで神に従いとおしました。十字架さえも従いとおしたのです。その友のために命を捨てるほど大きな愛はないと言われました。しかし、友ばかりではなく、敵をも愛し、敵のために自分の命をも差し出したのです。私たちはいつも自分を優先して物事を考え進めています。また、自分に対してよい思いを持っていない人は避けます。しかし、イエス様はご自分に危害を与える人々とも向き合いました。また、イエス様は私たちに自分の十字架を負ってついてきなさいと命じています。それは、私たちを祝福にあずからせたいからです。天にあるあらゆる祝福を信じる者に与えたいのです。私たちが、感謝と喜びから献身するときに、神の栄光、真実、祝福の中に置かれていることに気づかせられるのです。

和解をもたらすクリスマス

2019年12月15日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>コロサイ人への手紙1章13~23節
1:13 御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
1:14 この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。
1:15 御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。
1:16 なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。
1:17 御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。
1:18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。
1:19 なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、
1:20 その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。
1:21 あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、
1:22 今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。
1:23 ただし、あなたがたは信仰に土台を据え、堅く立ち、聞いている福音の望みから外れることなく、信仰にとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられており、私パウロはそれに仕える者となりました。

<要約>

神と敵対する人間:

アダムの子孫である人類は皆サタンの支配下にあると聖書は語っています。私たちがイエス様を信じる前の状態が書かれています。人は神と敵対関係にあり、かつ悪い行いの中にあったというのです。そのままでは私たちは誰一人として天国へいけないのです。そこで、キリストは敵対関係にある者を和解させるために来られたということが書いています。「その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させる」と。万物と和解と書いています。人間ばかりでなく、万物です。すべての被造物です。自然界の動植物はどのような状況にあるのでしょうか。創世記には、「大地はあなたのゆえに呪われる」と書いています。アダムの罪により、すべての被造物は罪の呪いの下に置かれ、和解されることを待ち望んでいると言えます。被造物も苦しんでいるのです。

聖なる傷のない者となるために:

キリストが私たちの受けるべき罪の刑罰を十字架の上で身代わりに受けてくださったことにより、キリストを信じる者は罪赦されて、神との和解を得ることができます。サタンの支配からキリストの支配に移されたのです。御子は見えない神のかたち、見えない神の姿であるとあります。キリストは神の本質そのものであるとはっきり語られています。万物はキリストによって創られたということとさらにはキリストによって、今万物は保たれ成り立っている事、最終的にはキリストが万物の存在の目的であるということです。だからこそ、キリストは万物を神と和解させることがお出来になるのです。今日のコロサイ書には、キリストがもたらしてくださった和解の内容が書かれています。「聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前にたたせてくださる」と。あなたを聖なる者としてくださるのは聖霊です。聖霊はあなたの内側に働き、あなたにきよい神の思いを知らせてくださいます。わたしたちがこころの王座に聖霊をお迎えして聖霊に聞き従うなら、人生は限りない、無限の祝福を得ます。次に、傷のない者、責められることのない者としてくださるということです。神は、キリストのうち傷によってあなたを癒し、御前で聖なる者として立たせてくださるのです。クリスマスは和解の時です。イエス様を信じて神との和解を受けてください。


布にくるまれた救い主

2019年12月8日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明


<聖書>ルカの福音書2章1~7節 ヨハネの福音書3章16節
ルカ
2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。
2:2 これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。
2:3 人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。
2:4 ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5 身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。
2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、
2:7 男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

<要約>

救い主を拒む人の罪:

イエス様を布にくるんで飼い葉桶に寝かせた、とあります。飼い葉桶は石灰岩を削って作ったものです。神の御子は惨めな場所で惨めな姿でお生まれになりました。それだからこそイエス様はすべての人の救い主となられたのです。最も弱く貧しく小さな者たちの救い主として来て下さったのです。神の力や権利を持って治めることを好まず、へりくだってしもべの姿になり、仕えるものとなって世に来て下さったのです。神はご自身の栄光や御力を見せつけて人々の注目を集めようとはなさりません。また、神は人を力で支配し従えようとなさらない、力や権力で人を振り向かせようとはなさりません。それは私たち人間の思いを尊重しておられるからです。人の自由意思を大切にしてくださっています。あなたを縛りあなたを支配しようとはなさいません。神はそういうお方です。ヘロデも東方の博士たちもユダヤの王としてお生まれになる方は一角の人物と想像したでしょう。東方の博士たちは星に導かれてユダヤに来ました。そして、「ユダヤ人の王としてお生まれになる方は、どこにおられますか」と王の宮殿のあるエルサレムに尋ねて来たのです。貧しい大工のヨセフとマリヤの子どもとしてお生まれになるとは誰も想像だにしなかったのです。イスラエルの民は、救い主の到来を待ち望んでいました。民が期待していたのはかつて周辺諸国を制圧してイスラエル国家を統一したダビデ王の再来です。しかし、イエス様はそのような期待をよそに、「民を罪から救ってくださる方」として世に来られたのです。神は、世の罪、そして人の罪を取り除くために来られたといえます。それが私たち人間を最も苦しめ、滅びに至らせる問題であるからです。人の罪とは何でしょうか。それは、人をお創りになりいのちを与えておられる創造者である神を無視していることです。自分を優先して神を後ろに置いていることです。そこに救い主を拒み続ける人間の罪があります。

闇から光へ移してくださる救い主:

そのような人間を神は黙ってみていられなくて、イエス・キリストをお与えくださいました。神は世の人々を愛しました。神の愛の最大の表れは何だったでしょうか。それは十字架の上でご自身のいのちをお捧げになったことです。私たち人間の罪の代価をご自身のひとり子の命で払ってくださったということです。世にはそれを受ける資格も価値もありませんでした。ただ神が私たちを惜しんでくださっているのです。私たちを救い、命を与え、永遠の御住まいに招いてくださっています。救い主キリストを心にお迎えしてください。そうすれば、決してなくならない、尽きることのないいのちの希望と喜びに生きるこができます。死は肉体の死ばかりではありません。霊と魂の死も含まれます。人には肉体の死の向こうに魂の永遠の滅びが待っています。そして、すべての人は闇である「罪と死と永遠の滅び」の世界に閉じ込められていると言えます。その闇の世界から光の世界に移してくださったのが、キリストです。罪は赦され、死から救われ、永遠の滅びから永遠のいのちに移されるのです。すなわち「罪と死と永遠の滅び」が、「赦しと救いと永遠のいのち」に代えられました。どうすればよいのでしょうか。そうです。イエス・キリストを信じて、あなたの心にお迎えするのです。その時、あなたは闇から光へ移されるのです。

あふれる喜びを得るために

2019年11月24日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>ルカの福音書1章5~23節
1:5 ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。
1:6 二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。
1:7 しかし、彼らには子がいなかった。エリサベツが不妊だったからである。また、二人ともすでに年をとっていた。
1:8 さてザカリヤは、自分の組が当番で、神の前で祭司の務めをしていたとき、
1:9 祭司職の慣習によってくじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。
1:10 彼が香をたく間、外では大勢の民がみな祈っていた。
1:11 すると、主の使いが彼に現れて、香の祭壇の右に立った。
1:12 これを見たザカリヤは取り乱し、恐怖に襲われた。
1:13 御使いは彼に言った。「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。
1:14 その子はあなたにとって、あふれるばかりの喜びとなり、多くの人もその誕生を喜びます。
1:15 その子は主の御前に大いなる者となるからです。彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ母の胎にいるときから聖霊に満たされ、
1:16 イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。
1:17 彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。」
1:18 ザカリヤは御使いに言った。「私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。」
1:19 御使いは彼に答えた。「この私は神の前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この良い知らせを伝えるために遣わされたのです。
1:20 見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じなかったからです。」
1:21 民はザカリヤを待っていたが、神殿で手間取っているので、不思議に思っていた。
1:22 やがて彼は出て来たが、彼らに話をすることができなかった。それで、彼が神殿で幻を見たことが分かった。ザカリヤは彼らに合図をするだけで、口がきけないままであった。
1:23 やがて務めの期間が終わり、彼は自分の家に帰った。

<要約>

神はあなたを特別に選び愛しておられる:

ゼカリヤ夫妻は、高齢になっており、エリザベツは不妊の女性でした。神はゼカリヤ夫妻の願いをかなえ彼らを祝福する時を待っておられたと言えます。神の人類救済のご計画を発動するこの時のために。神はゼカリヤ夫妻を前もって選んでおられました。そして、彼らを愛しておられました。彼らを祝福しようと待っておられたのです。同様に、キリストを愛しキリストに来るものを必ず祝福してくださいます。それが、私たち信者の確信です。神は愛であるといわれているとおりです。皆さん、一人ひとりを愛してくださっています。どのくらいかというと、あなたのためならご自身のいのちを捨てても惜しくないほどにです。その愛は、選びの愛であります。選びの愛、それは独占的な愛です。神はその他大勢の一人としてあなたを愛しているのではありません。神は信じるものに最善を用意していてくださいます。今は分からなくても忍耐を持って神を信じていきましょう。

神の確かな約束を待ち望む喜び:

ザカリヤ夫妻に、一生に一度しか与えられない光栄がやってきました。主の神殿の聖所に入って朝夕に香をたくという任務です。すると、予期しないことが起こりました。香壇の右に誰かが立っていたのです。天使ガブリエルは祝福のことばをかけました。「あなたの願いが聞き入れられたのです。エリサベツは男の子を生みます。」しかし、ザカリヤはガブリエルの告知を素直に受け入れる事ができなかったようです。子どもが与えられる、それも将来エリヤの霊と力を帯びてイスラエルの民に悔い改めを起こす偉大な人物。その親となる祝福です。信仰によって受け止めることができずに、神の大いなる恵と哀れみと祝福に気付かないのです。信仰が硬直化していたのです。人生の変化を求めず、つつがなく過ごすことに執着していた彼に、予期しなかったことが起こったのです。話せなくなったのは、呪いではなく祝福でした。ザカリヤは、その後数カ月間黙想の時を過ごすのです。神の約束を待ち望むとき、彼にとって忍耐をもって待ち望む幸いな時であったと思います。私たちも、マイナスと思える状況にあるとき、それは忍耐の訓練の時です。神の約束は変わりません。神の確かな約束を待ち望むとき、それは幸いな時なのです。そして、その約束は、あふれるばかりの喜びとなるのです。

悔い改めてイエスを信じる

2019年11月17日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>マルコの福音書1章1~11節
1:1 神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。
1:2 預言者イザヤの書にこのように書かれている。「見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える。
1:3 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、
1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
1:5 ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
1:6 ヨハネはらくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
1:7 ヨハネはこう宣べ伝えた。「私よりも力のある方が私の後に来られます。私には、かがんでその方の履き物のひもを解く資格もありません。
1:8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」
1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。
1:10 イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。
1:11 すると天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」

<要約>

罪を悔いてへりくだる:

多くのイスラエルの民がヨルダン川に来て、ヨハネから洗礼を受けました。ヨハネは、人々に罪を呼び起こして、それに気づかせます。そして、罪を悔いて、心に救い主を受け入れる準備をするのです。ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出て来た群衆に言いました。「まむしの末たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。」と。ヨハネが叫んでいたのは律法による罪の指摘でした。素直にヨハネのことばを聞いた人々は、自らの罪に気づき、神の怒りに気づき、神を恐れ、このままではいけないと思うのです。もう少し、心が清くなってから信仰しようというのは間違いです。人は自分で努力しても清くなれません。身体の中にできた癌を自分で取り除けないのと同じです。外科医によって、取り除いてもらうのです。人の罪も、自分で取り除くことできません。医者であるキリストがあなたの罪をすっかり取り除いてくださるのです。

キリストを仰いで罪赦される;

もし、あなたが、神の前に自らの罪を認めて、へりくだるなら、あなたがこれまでの人生で積み重ねてきたすべての罪はイエス・キリストによって赦されます。なぜなら、神は罪のない御子キリストに人のすべての罪を背負わせて、十字架で断罪しました。それは、あなたが罪の刑罰を受ける代わりにキリストが刑罰を受けてくださったことです。あなたは、思いを変えて、神を見上げるのです。そうすれば、イエス様は罪の赦しをあなたにお与えになります。ヨハネはこう宣べ伝えました。「私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方キリストは聖霊によってバプテスマをお授けになります。」人が、洗礼を受ける時に聖霊を受けるのです。聖霊は生ける神です。生ける神が私たち一人ひとりの中に入り住んでくださるというのです。その時、古い人は死んで新しい人に生きるのです。私たちは生まれ変わるのです。今日、バプテスマのヨハネは皆さん一人ひとりの心に当時のように呼び掛けています。「悔い改めなさい」そして、「キリストを信じなさい」と。

メシヤ来臨の預言

2019年11月10日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>ミカ書5章1~9節
5:1 今、軍勢をなす娘よ、勢ぞろいせよ。包囲網が私たちに対して設けられた。彼らは、イスラエルをさばく者の頬を杖で打つ。
5:2 「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」
5:3 それゆえ、彼らはそのままにしておかれる。産婦が子を産む時まで。そのとき、彼の兄弟のほかの者はイスラエルの子らのもとに帰る。
5:4 彼は立って、【主】の力と、彼の神、【主】の御名の威光によって群れを飼う。そして彼らは安らかに住まう。今や彼の威力が、地の果ての果てまで及ぶからだ。
5:5 平和は次のようにして来る。アッシリアが私たちの国に来て、私たちの宮殿を踏みにじるとき、私たちはこれに対抗して七人の牧者、八人の指導者を立てる。
5:6 彼らはアッシリアの地を剣で、ニムロデの地を抜き身の剣で飼いならす。アッシリアが私たちの国に来て、私たちの領土に踏み込んで来るとき、彼は、私たちをアッシリアから救い出す。
5:7 そのとき、ヤコブの残りの者は、多くの国々の民のただ中で、【主】のもとから降りる露、青草に降り注ぐ夕立のようだ。彼らは人に望みを置かず、人の子らに期待をかけない。
5:8 ヤコブの残りの者は異邦の民の中、多くの国々の民のただ中で、森の獣の中の獅子、羊の群れの中の若い獅子のようだ。通り過ぎるときには、踏みにじり、かみ裂けば、助け出す者はいない。
5:9 あなたが敵対する者に向けて御手を上げると、あなたの敵はみな絶ち滅ぼされる。

<要約>

平和を勝ち取り与えてくださる救い主:

「イスラエルを治める者が出る」とは、まさしくメシヤの預言です。イエス様がお生まれになった時代も、イスラエルの民はローマの圧政のもとに非情な困難の中にありました。イザヤの預言の通り、民は闇の中を歩んでいたと言えます。このように、救い主は、混迷とやみが覆う時代に来られました。個人レベルでも民族レベルでも国家レベルでも、困難や試練で絶望することはあるかもしれません。しかし、その中でこそ、私たちは救い主をお迎えするにふさわしく整えられるのです。イエス・キリストは主の威光を帯びて、彼の民を羊飼いが羊を飼うように養い、今も信じる私たちに平安を与えつづけておられます。現在の私たちにとって、敵対する勢力、アッシリヤとは何でしょうか。病気や困難や死を象徴しているかもしれません。あるいは、不破や仲たがい、分裂、分派であるかもしれません。あるいは、自分の内側にある利己的な思い、支配欲なども敵と言えるでしょう。私たちはそれに立ち向かおうと戦います。しかし、その時にこそ、救い主キリストは信じる者を救ってくださるのです。

勝利と祝福の伝達者;

最後まで忠実な信仰者は二つのものを持っています。一つは、周囲の人々を潤し、神の祝福を届ける働きです。それは、神の祝福の器であると言えます。周りの人々に祝福を届ける働きです。簡単に言えば、あなたによってあなたの周りの人々家族も祝福されるということです。もう一つは、圧倒的な勝利者であるということです。ヤコブの残りの者は、信仰者は森の獣の中の獅子、百獣の王ライオンです。圧倒的な勝利です。サタンも踏みにじられます。教会の勝利と言えます。聖書によると神には二通りのお姿があります。一つは怒りの神です。罪に対する怒りです。その怒りはどこから来ているのでしょうか。それは神が聖い正義の神であるところから来ています。もう一つのお姿は、愛の神です。人が自らの罪で滅びてしまうことを惜しまれております。そして、人の罪を何とか赦したいと思っておられます。この二つの矛盾するお姿に筋を通したのが御子イエス様の十字架です。ですから、御子を信じる者は、十字架のゆえにすべての罪が赦されます。そして代わりに死んで三日目に復活したキリストの勝利と祝福を受け継ぐのです。

にもかかわらずの十字架

2019年10月27日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>エズラ記9章1~9節、15節
9:1 これらのことが終わった後、指導者たちが私のところに近づいて来て次のように言った。「イスラエルの民、祭司、レビ人は、カナン人、ヒッタイト人、ペリジ人、エブス人、アンモン人、モアブ人、エジプト人、アモリ人など異国の忌み嫌うべき習慣と縁を絶つことなく、
9:2 かえって、彼らも息子たちも、これらの国々の娘を妻にし、聖なる種族がもろもろの地の民と混じり合ってしまいました。しかも、指導者たち、代表者たちがこの不信の罪の張本人なのです。」
9:3 私はこのことを聞いて、衣と上着を引き裂き、髪の毛とひげを引き抜き、茫然として座り込んでしまった。
9:4 捕囚から帰って来た人々の不信の罪のことで、イスラエルの神のことばを恐れかしこむ者はみな、私のところに集まって来た。私は夕方のささげ物の時刻まで、茫然としてそこに座っていた。
9:5 夕方のささげ物の時刻になって、打ちのめされていた私は立ち上がり、衣と上着を引き裂いたまま、ひざまずき、自分の神、【主】に向かって手を伸べ広げて、
9:6 こう言った。「私の神よ。私は恥じています。私の神よ。私はあなたに向かって顔を上げることを恥ずかしく思います。私たちの咎は増し、私たちの頭より高くなり、私たちの罪過は大きく、天にまで達したからです。
9:7 私たちの先祖の時代から今日まで、私たちは大きな罪過の中にありました。私たちのその咎のため、私たちや、私たちの王、祭司たちは、諸国の王たちの手に渡され、剣にかけられ、捕虜にされ、かすめ奪われ、面目を失って、今日あるとおりです。
9:8 しかし今、しばらくの間、私たちの神、【主】はそのあわれみによって、私たちに逃れの者を残し、私たちのためにご自分の聖なる所に一本の杭を与えてくださいました。これは、私たちの神が私たちの目を明るくし、奴隷の身の私たちを少しでも生き延びさせてくださるためでした。
9:9 事実、私たちは奴隷です。しかし私たちの神は、この奴隷の身の私たちを見捨てることなく、かえって、ペルシアの王たちによって恵みを施し、私たちを生かして、私たちの神の宮を建て直させ、その廃墟を元に戻し、ユダとエルサレムに石垣を下さいました。

9:15 イスラエルの神、【主】よ、あなたは正しい方です。まことに、今日あるとおり、私たちは逃れの者として残されています。ご覧ください。私たちは罪過を負ってあなたの御前におります。このような状態で、だれもあなたの御前に立つことはできないにもかかわらず。」

<要約>

みことばから離れる人間;

当時のイスラエルの民は神のことばから遠く離れてしまっていたのです。みことばから離れると、神を恐れることもなくなります。神に対する恐れを持っているでしょうか。神のことば、聖書に重きを置かない生活になっていることはないでしょうか。私たちは、黙っていれば、神のことばを失ってしまいます。絶えず、心に刻み込まなければなりません。イスラエルの民は、神に対する恐れを失い、神のことばを守らなかったのです。そのために、当然の結果として、罪の結実を刈り取らなければならなかったのです。神の民であるクリスチャンも神を畏れて、愛し、信頼するように求められています。この世は、神のことばを知りません。また、神のことば、十字架のことばを愚かなこととします。しかし、イエス・キリストの十字架は、救いを受ける私たちには神の力です。そのままでは私たちを含めてすべての人間は、自らの罪のために滅んでしまう存在であり、地上の命が終わった後、神の御前に出ることさえできないのです。

にもかかわらず御前に立たせてくださる神:

そのように繰り返し犯した不信の罪により、滅ぼされても仕方がないイスラエルの民でした。しかし、神は、エズラを通してメシヤ預言を語られました。そして、神はペルシア王を通して民に恵みを施し、民を生かしてくださいました。私たち、すべての人は、そのままでは、自らの罪のために御前に立つことも許されない者たちです。にもかかわらず、キリストの十字架によって立たせてくださるというのです。歴史を支配しておられる神は、現代も、哀れみによりイスラエルの民を祖国に立たせていてくださっています。また、私たちをも忍耐をもって、今、立たせてくださっているのです。私たちは、終わりの日に義の衣であるキリストを着て、神の御前に立つことができるというのです。キリストを着るときに、私たちの全ての罪もそれによる傷も覆われて聖いものとみなしてくださるからです。なぜでしょうか。それは、罪のない神のひとり子が私たちの代わりになって罪を飲んで十字架で刑罰を受けてくださったからです。私たちにできる事は何でしょうか。空の両手を差し出して、神からの贈り物であるキリストを救い主として受け取ることです。

将来と希望

2019年10月20日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>エレミヤ29章1~11節

29:1 預言者エレミヤは、ネブカドネツァルがエルサレムからバビロンへ引いて行った捕囚の民、すなわち、長老で生き残っている者たち、祭司たち、預言者たち、および民全体に、エルサレムから次のような手紙を送った。
29:2 この手紙は、エコンヤ王、王母、宦官たち、ユダとエルサレムの首長たち、職人、鍛冶がエルサレムを去った後、
29:3 ユダの王ゼデキヤが、バビロンの王ネブカドネツァルのもと、バビロンへ遣わした、シャファンの子エルアサとヒルキヤの子ゲマルヤの手に託したもので、そのことばは次のとおりである。
29:4 「イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。
29:5 家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。
29:6 妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えよ。減ってはならない。
29:7 わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために【主】に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。』
29:8 まことに、イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『あなたがたのうちにいる預言者たちや、占い師たちにごまかされるな。また、あなたがたが見ている夢に聞き従ってはならない。
29:9 なぜなら、彼らはわたしの名を使って、偽りをあなたがたに預言しているからだ。わたしは彼らを遣わしていない──【主】のことば。』
29:10 まことに、【主】はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。
29:11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

<要約>

闇が深いほど背後の光は強い:

彼らは、エルサレムから異教のバビロンに連れて行かれました。ですから、神殿中心の信仰生活は絶たれました。宗教的枠組みを失っていたと言えます。イスラエル国家は消滅の危機にありました。先の見通しがつかないというのは、個人的にも、国家的にも、世界的にも、とてもつらいことです。現代に生きる私たちクリスチャンにおいても、教会統合や閉鎖するところも出て、霊的暗黒に包まれようとしています。思えば、イエス様のご降誕のときもイスラエルはローマの支配にあり、屈辱と困難、苦しみの中にありました。その「暗やみと死の世界」に「光といのちであるイエス・キリスト」を神は送ってくださったのです。今の時代にも、神は希望の約束を送ってくださっています。自分の前に映された自分の影、その闇が深いほど背後を照らす太陽の光は強いということです。同様に、もし皆さんが、個人的にも困難を覚え、あるいは行き詰まりを経験しているならば、今のピンチこそチャンスであることを知りましょう。

二つの領域でベストを尽くし希望に生きる:

彼らは、律法に則って生活していました。それがバビロンでは全くできなくなっていたので、絶望と無気力に陥っていました。その様な民に、神はエレミヤを通して、異郷の地でどのように生きて行ったらよいのかを、具体的に指示なさいました。その一つは、民がバビロニヤにいてもエルサレムに住んでいた時と同じように今を生きることです。そして、もう一つは、どんな状況にあっても主を礼拝しなさいというのです。そして、バビロンの町のために主に祈れと命じます。これは信者の二国論に通じます。信者は神の国に属して、教会では礼拝の民として礼拝を守ります。また、地上の国に属して、今を生きることです。つまり、遣わされた所で隣人愛の実践に励むのです。人々は教会で福音を聞きます。そして、クリスチャンを通して、背後のキリストを見るのです。聖書のみことばは、将来と希望を与えています。それは、主が再び来られること、そして、すべてのクリスチャンが新天新地に招き入れられるということです。信じるすべての人は、罪の赦しと永遠のいのちをいただいています。復活の命です。想像も絶する素晴らしい、栄光と喜びと賛美にあふれる御国でいつまでも主と共に生きるのです。

王の祝宴でキリストを着る

2019年10月06日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>マタイの福音書22章1~14節
22:1 イエスは彼らに対し、再びたとえをもって話された。
22:2 「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。
22:3 王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった。
22:4 それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」と。』
22:5 ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、
22:6 残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。
22:7 王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った。
22:8 それから王はしもべたちに言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。
22:9 だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。』
22:10 しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。
22:11 王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。
22:12 王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。
22:13 そこで、王は召使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』
22:14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」

<要約>

神の招きを拒絶する人間:

この例えで、王は神です。王子はキリストです。結婚の披露宴は神の国です。前もって、祝宴の招待状を差し上げていました。ところが、客は王の招待であるにもかかわらず、誰も来たがらなかった。今度は、王は別のしもべをつかわして、丁寧に再度招いたのです。王の驚くべき忍耐と寛容にもかかわらず、彼らは王の申し出に対してそれを気にもかけずに畑に行ったり、商売に行ったりしていました。また、他の者たちは王の使いに恥をかかせて、殺してしまったのです。これは、ひどい話だと思います。この例えは、メシヤを拒絶して、選民のくらいを取り上げられたイスラエル民族を指しています。これは一見イスラエル民族だけの問題のようですが、私たちすべての人間の問題でもあります。私たちは目先のことに心を奪われて、心で見えるはずの創り主の神を見ることができなくなっています。イエス様がお話をした狙いは何でしょうか。それは、神を無視することはとんでもない愚かなことですよ。それに気づきなさいということです。

来る者にキリストを着せてくださる神:

神は御子イエス・キリストの祝宴にすべての人を招いています。祝宴、それはキリストが支配する神の国です。神の国は、教会に現れています。教会には、罪の赦しとそれに伴う永遠のいのちが提供されています。全世界に福音が述べ伝えられて、大勢の人々が福音を受け入れております。キリストを信じて、礼服であるキリストを着て天国に入れられている人々であふれています。福音はすべての民族に届けられようとしています。そこで、王は礼服を着ていない一人の人を見つけました。本来ここに来た人々は大通りで連れてこられた人々ですので、礼服は王が準備し、一人ひとりに支給されたものです。ですから、この人が礼服を着ていなかったというのはすごくおかしな話です。不思議な話ですが、これは神のせっかくの申し出を拒絶する人間の姿を現しています。この人は、自分の姿が分からない人間を表します。礼服は、キリストを表しています。クリスチャンは、神様からいただいたイエス様という礼服を着ているということです。無代価で提供される天国への招きです。ただ、キリストを受け取ってそれを着ればよいのです。キリストを信じて心の内にお迎えすることです。

ピンチがチャンスに変わるとき

2019年09月29日
説教者:ハレルヤチャペル滝沢牧師  森田友明

<聖書>エステル記4章1~17節

4:1 モルデカイは、なされたすべてのことを知った。モルデカイは衣を引き裂き、粗布をまとい、灰をかぶり、大声で激しくわめき叫びながら都の真ん中に出て行った。
4:2 そして王の門の前のところまで来た。王の門の中には、粗布をまとったままでは入ることができなかったのである。
4:3 王の命令とその法令が届いたどの州においても、ユダヤ人の間には大きな悲しみがあり、断食と泣き声と嘆きが起こり、多くの人たちは粗布をまとって灰の上に座った。
4:4 エステルの侍女たちとその宦官たちが入って来て、彼女にこのことを告げたので、王妃は非常に痛み苦しんだ。彼女はモルデカイに衣服を送り、それを着せて、粗布を脱がせようとしたが、彼はそれを受け取らなかった。
4:5 エステルは、王の宦官の一人で、王が彼女に仕えさせるために任命していたハタクを呼び寄せ、モルデカイのところへ行って、これはどういうわけか、また何のためかと聞いて来るように命じた。
4:6 ハタクは王の門の前の、町の広場にいるモルデカイのところに出て行った。
4:7 モルデカイは自分の身に起こったことをすべて彼に告げ、ハマンがユダヤ人を滅ぼすために王の宝物庫に納めると約束した、正確な金額も告げた。
4:8 また、ユダヤ人を根絶やしにするためにスサで発布された法令の文書の写しを彼に渡した。それは、エステルに見せて事情を知らせ、そして彼女が王のところに行って、自分の民族のために王からのあわれみを乞い求めるように、彼女に命じるためであった。
4:9 ハタクは帰って来て、モルデカイの伝言をエステルに告げた。
4:10 エステルはハタクに命じて、モルデカイにこう伝えた。
4:11 「王の家臣たちも王の諸州の民も、だれでも知っているように、召されないのに奥の中庭に入って王のところに行く者は、男でも女でも死刑に処せられるという法令があります。ただし、王がその人に金の笏を差し伸ばせば、その人は生きながらえます。私はこの三十日間、まだ王のところへ行くようにと召されていません。」
4:12 彼がエステルのことばをモルデカイに告げると、
4:13 モルデカイはエステルに返事を送って言った。「あなたは、すべてのユダヤ人から離れて王宮にいるので助かるだろう、と考えてはいけない。
4:14 もし、あなたがこのようなときに沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。しかし、あなたも、あなたの父の家も滅びるだろう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない。」
4:15 エステルはモルデカイに返事を送って言った。
4:16 「行って、スサにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食してください。三日三晩、食べたり飲んだりしないようにしてください。私も私の侍女たちも、同じように断食します。そのようにしたうえで、法令に背くことですが、私は王のところへ参ります。私は、死ななければならないのでしたら死にます。」
4:17 モルデカイは出て行って、エステルが彼に頼んだとおりにした。

<要約>

勇気ある決断が状況を変える:

エステルはモルデカイに再び返事を送ります。エステルの決心は、次のみことばに現れています。「たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」信仰の決断は、先がわかってするものではありません。先は見えなくても、神は最善のことをしてくださる。王は内庭に立つエステルを見ると金の笏を差し伸べて、謁見を赦しました。王は言います。「どうしたのだ。王妃エステル。何がほしいのか。国の半分でも、あなたにやれるのだが。」王はエステルが法令を犯してまでも王の前に来たのにはそれなりの用件があったに違いないと思いました。王は、エステルのなぞめいた応答に、その夜はなかなか眠れませんでした。そして、過去の記録である年代記を読ませて、モルデカイの功績に気付くのです。モルデカイが以前、王の暗殺計画を未然に察知して王をその危機から救ったことに対して、王はモルデカイにまだ、報いを与えていなかったことにも気づいたのです。王は栄誉をモルデカイに与えるようにハマンに命じます。モルデカイに対する計画は見事に頓挫しました。そこではじめて、エステルは、民族の救いを願い、ハマンの策略を王に述べるのです。ハマンはモルデカイを木にかけて処刑するために準備したその木に自らかけられて殺されてしまいました。私たちは勇気をもってみことばに則って歩むとき、現時点で死に瀕していても必ず、神の与える勝利を手にすることができるのです。

不安の中でも踏み出す一歩が現状を開く:

エステルは不安の中で、主を呼び求めます。そして、ユダヤ人たちに祈りの要請をしたのです。それが、信仰者の姿です。スサにいるユダヤ人を集めて三日三晩断食をして祈ることを願いました。その時には、どのように王に取り入るか、まだ、わからなかったと思います。しかしまず、決断したのです。それは、神の民として最善を尽くすということです。そして、信仰者としてまず祈りの中に備えるということです。今まで歩んできたところを思い浮かべましょう。問題を抱えていました。そして、その時は、ピンチだったかもしれませんが、今それがチャンスに変えられたから今があるのではないでしょうか。神様は一人ひとり、クリスチャンの人生を責任もって導いてくださっていると確信をもって言えます。