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敬虔な人コルネリオ

2021年4月25日主日礼拝 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き10章1~17,34~43節
10:1 さて、カイサリアにコルネリウスという名の人がいた。イタリア隊という部隊の百人隊長であった。
10:2 彼は敬虔な人で、家族全員とともに神を恐れ、民に多くの施しをし、いつも神に祈りをささげていた。
10:3 ある日の午後三時ごろ、彼は幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。その御使いは彼のところに来て、「コルネリウス」と呼びかけた。
10:4 彼は御使いを見つめていたが、恐ろしくなって言った。「主よ、何でしょうか。」すると御使いは言った。「あなたの祈りと施しは神の御前に上って、覚えられています。
10:5 さあ今、ヤッファに人を遣わして、ペテロと呼ばれているシモンという人を招きなさい。
10:6 その人は、シモンという皮なめし職人のところに泊まっています。その家は海辺にあります。」
10:7 御使いが彼にこう語って立ち去ると、コルネリウスはしもべたちのうち二人と、彼の側近の部下のうち敬虔な兵士一人を呼び、
10:8 すべてのことを説明して、彼らをヤッファに遣わした。
10:9 翌日、この人たちが旅を続けて、町の近くまで来たころ、ペテロは祈るために屋上に上った。昼の十二時ごろであった。
10:10 彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。ところが、人々が食事の用意をしているうちに、彼は夢心地になった。
10:11 すると天が開け、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来るのが見えた。
10:12 その中には、あらゆる四つ足の動物、地を這うもの、空の鳥がいた。
10:13 そして彼に、「ペテロよ、立ち上がり、屠って食べなさい」という声が聞こえた。
10:14 しかし、ペテロは言った。「主よ、そんなことはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」
10:15 すると、もう一度、声が聞こえた。「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」
10:16 このようなことが三回あってから、すぐにその入れ物は天に引き上げられた。
10:17 ペテロが、今見た幻はいったいどういうことだろうか、と一人で思い惑っていると、なんと、コルネリウスから遣わされた人たちがシモンの家を捜し当てて、その門口に立ち、


10:34 そこで、ペテロは口を開いてこう言った。「これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、
10:35 どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。
10:36 神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。このイエス・キリストはすべての人の主です。
10:37 あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事柄をご存じです。
10:38 それは、ナザレのイエスのことです。神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスとともにおられたからです。
10:39 私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムで行われた、すべてのことの証人です。人々はこのイエスを木にかけて殺しましたが、
10:40 神はこの方を三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。
10:41 民全体にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちに現れたのです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられた後、一緒に食べたり飲んだりしました。
10:42 そしてイエスは、ご自分が、生きている者と死んだ者のさばき主として神が定めた方であることを、人々に宣べ伝え、証しするように、私たちに命じられました。
10:43 預言者たちもみなイエスについて、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられると、証ししています。」

<要約>

へりくだり神を求めて祈る人に主は顕れる

この敬虔なという意味は、神を恐れるという意味です。コルネリオは天地万物の創り主である神を信じていました。ですから、ユダヤ人が救い主を待ち望んでいたことも理解していました。コルネリオはなぜ、全世界の造り主であるユダヤ教の神を信じるに至ったかは何も書いていません。しかし、ローマの百人隊長という職業からも推し量ることができます。百人隊長も含めてローマ軍の兵士は短命で死と隣り合わせに生きていた人々でありました。コルネリオはカイザリヤでローマから派遣された総督に仕えていました。彼らは気まぐれで不完全な人間ですから、どんな命令が下りてくるかもわかりません。ですから、コルネリオは確かなものを求めていました。揺るがないものを求めていました。そして、万物の創り主である神と出会ったのです。このように死と隣り合わせに生きていた兵士たちにも福音は届いたのです。逆に、彼らは死を見つめるところから、本当の生を求めて、それを見出したのかもしれません。コルネリオは打算のない真心を主に捧げていました。そのようなコルネリオに聖霊がお降りになりました。聖霊は、自分を主に明け渡し、従う人におくだりになるのです。

信者は罪の赦しの福音を届けるために召されている

コルネリオもペテロも共通点は、自分に与えられた賜物や才能を隣人のために用いていたということです。私たちクリスチャンも神の恵み、祝福を受けた者たちです。それを他の人の祝福のために用いていくのです。賜物は、時間であったり、財であったり、才能であったり、それぞれに違います。しかし、それを自分のためだけに用いる時、むしろ貧しくなります。逆に、隣人のために用いるなら、さらに恵みを受けるのです。そこに霊的法則があります。イエス様は私たちの罪を赦すために来られました。道徳教育のために来られたのではありません。自ら私たちの罪を背負って、身代わりとなって死ぬために来られたのです。私たちの罪を取り除くために来られたのです。それによる罪の赦しは完全です。なぜ、罪の赦しがそんなに重要なのでしょうか。なぜなら、罪の赦しがなければ、私たちは誰も救われません。罪と死の中に依然閉じ込められているのです。この罪の赦しの福音と神の祝福はクリスチャンであるあなたを通して隣人へ届けられます。

もう一人の助け主、聖霊

2021年4月18日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書14章16~27節
14:16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。
14:17 この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。
14:18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。
14:19 あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。
14:20 その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。
14:21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」
14:22 イスカリオテでないほうのユダがイエスに言った。「主よ。私たちにはご自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、どうしてですか。」
14:23 イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
14:24 わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。
14:25 これらのことを、わたしはあなたがたと一緒にいる間に話しました。
14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
14:27 わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。

<要約>

あなたの内に住んでくださる聖霊

父がもう一人の助け主、聖霊をあなた方にお与えになります。その方は真の神、三位一体の第三位格の神です。聖霊はあなたのために十字架の贖いを適用し、あなたの無罪を代弁してくださいます。聖霊は、聖書を用いて語っておられます。クリスチャンを通して働かれています。現在は聖霊の時代ともいえます。聖霊は、ペンテコステの聖霊降臨のとき以来、信じる人を通して働かれ、教会を生み育てられています。人は信仰を通して聖霊を見ることができます。その聖霊があなたの内に同居してくださるのです。もし、あなたがそのお方をあなたの家の中心におらせるならばあなたは無限の祝福にあずかることができます。あなたはいつも聖霊に助けを求めてよいのです。聖霊はあなたに応えたいといつも耳を傾けておられるからです。聖霊降臨の日、聖霊が炎のような分かれた舌となって エルサレムで集まっていた弟子たちの上に下りました。そして、同じ聖霊が今もクリスチャンのうちに住んでいてくださいます。信じて洗礼を受けると真理の御霊はあなたのうちに住まわれるのです。

三位一体の神が保証されるいのちと平安:

神を愛するというのは、神の戒めを守ることです。すなわち、みことばを守ることです。イエス様は、繰り返し、共にいてくださる、共に住んでくださる、決して見捨てない、とおっしゃられます。しかも、それはイエス様だけでなく、父もそして聖霊も神の全存在をかけてあなたを愛し祝福するというのです。キリストの救いのみわざは十字架と復活によって完成しました。それは、キリストによりあなたを罪と死と悪魔から救ってくださったことです。もはやあなたの罪は裁かれることなく赦され永遠のいのちが与えられています。信じる者には復活のいのちがあります。イエス様は、弟子たちに「平安」を残しました。それは世が与えるのとは違う平安です。キリストの愛からあなたを引き離せるものは何もないのです。キリストの愛のうちに留まれば、どんなことからも守られて平安を持てるのです。それが神の約束で最も確かなことなのです。そして三位一体の神は父子聖霊が総力をあげて、あなたに永遠のいのちを保証しています。そして同時に、あなたに平安を保証しているのです。


イエスの御名の力

2021年4月11日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き3章1~16節
3:1 ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
3:2 すると、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来た。この人は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門に置いてもらっていた。
3:3 彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
3:4 ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
3:5 彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。
3:6 すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
3:7 そして彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
3:8 躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。
3:9 人々はみな、彼が歩きながら神を賛美しているのを見た。
3:10 そしてそれが、宮の美しの門のところで施しを求めて座っていた人だと分かると、彼の身に起こったことに、ものも言えないほど驚いた。
3:11 この人がペテロとヨハネにつきまとっているうちに、非常に驚いた人々がみな、「ソロモンの回廊」と呼ばれる場所にいた彼らのところに、一斉に駆け寄って来た。
3:12 これを見たペテロは、人々に向かって言った。「イスラエルの皆さん、どうしてこのことに驚いているのですか。どうして、私たちが自分の力や敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。
3:13 アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたはこの方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。
3:14 あなたがたは、この聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、
3:15 いのちの君を殺したのです。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。
3:16 このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。

<要約>

御名の力を信じて受けるとき

ペテロから、金銀はないが、「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」主イエスの御名が、この男の心に信仰を芽生えさせた瞬間です。信じない者が信じる者へと変えられたときです。御名の力は彼を変えました。今までは目に見える金銭や物品にしか興味がなかったのです。しかし、今は、目には見えないがいのちを与え生きる力を与えてくださる方、真の神であるキリストを心の目で見たのです。イエス様の御名の力は人の思いを変える力です。そして、この生まれつき足に障害があった人は、完全に癒されました。御名の力は癒す力です。また、イエス様の御名の力は、復活の力であると言えます。それは、死んでいたものが生き返ったからです。肉体のいのちは朽ちます。しかし、神の癒しは完全で、魂が癒されて永遠のいのちにつなげていただくのです。それは、ひとえにキリストの御名の力を信じることによります。

御名の力で立ち上がり前進する

ペテロは彼の右手を取って立たせると、たちまち彼の足とくるぶしが強くなり躍り上がってまっすぐに立ち、歩き出しました。主イエスを信じる者は、どんなことがあっても立ち上がり前進することができるのです。それは、イエスの御名が与えるしぼむことのない希望だからです。神が私たちに用意されている希望はどのようでしょうか。彼は歩くことができるなど考えたことがなかったので、歩けるようになったのは、彼の思いを超えた希望でした。障がいがあるかないかに係らず、行く先に希望を持つことをできない人生があります。これは、現代の多くの人が抱える問題なのです。聖書の中心メッセージは、「神はあなた愛している」と言うことです。神は、あなたを大切な存在として愛しています。そのような神が、あなたを失望と孤独から買い戻すために御子イエス・キリストを世にお与えくださいましたキリストはあなたのすべての負債である罪を背負って十字架で死んでくださいました。もし、あなたがその事を信じるなら、神はこの世で希望と喜びをお与えくださるばかりではなく、神は永遠を保障してくださいます。それは復活のいのち、永遠のいのちです


人手によらない一つの石

2021年3月21日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<要約>

祈りとみことばは世界を救う:

ネブカドネザル王は、ある夜、夢を見て、そのために心が騒ぎ眠れませんでした。そこで王は、カルデヤ人の呪術師や知者たちを呼び寄せました。しかし、彼らはその夢を解き明かすことができず、全員処刑されることになりました。その時ダニエルは立ち上がり、使者である王の侍従長アルヨクに知恵をもって対処するのです。ダニエルそして私たちが信じる神がどういう方であるかをまとめてみますと。第1に天地万物を支配し保っておられる方です。第2に、歴史を支配される方です。第3に、絶対的主権を持っておられる方で、全知全能の神です。第4に、私たちを選んで、ご自身の子としてくださる契約の神です。このような信仰に立って、ダニエルは3人の信仰の友と一緒に天の神に祈りました。神は彼らの祈りに耳を傾けてくださいました。御心にかなう祈りは聞かれるのです。神は、クリスチャンを祈り手として立て、世界が滅びて滅びに向かうのを食い止めようとしておられるのではないでしょうか。すなわち、あなたの祈りが 神を動かすのです

キリストによって建てられる永遠の王国:

ネブカデネザル王が見た夢の巨人は、頭から足まで、バビロンとこれから起こる国々を表しています。そして、足の部分は、鉄と粘土が混じりあっていました。それはローマ帝国の後に起こる国々です。それらの国々の時代に天の神は一つの国をおこされます。これは そこにあった人手によらず切り出された一つの石です。その石が、その巨大な像を粉々に打ち砕いたのです。すなわち人手によらずできた大きな石は、イエス・キリストを王とする神の国、神の王国ということができます。キリストの御国に入る条件はただ一つ。キリストを信じて罪を清めていただくことです。福音は、全世界に宣べ伝えられて、すべての国民に届けられようとしています。そこに神の国の勝利があります。これから後に来るキリストが支配する国は永遠です。私たちはその永遠のいのちにあずかる者たちです。そこに、この世の中では決して味わえない希望があります。

<聖書>ダニエル書2章24~45節
2:24 それでダニエルは、王がバビロンの知者たちを滅ぼすために任じたアルヨクのもとに行き、彼にこう言った。「バビロンの知者たちを滅ぼしてはなりません。私を王の前に連れて行ってください。私が王に夢の意味をお示しします。」
2:25 そこで、アルヨクは急いでダニエルを王の前に連れて行き、王にこう言った。「ユダからの捕虜の中に、王に夢の意味を告げることができる男を見つけました。」
2:26 それで王は、ベルテシャツァルという名のダニエルに言った。「私が見た夢とその意味を、本当に私に告げることができるのか。」
2:27 ダニエルは王に答えた。「王が求めておられる秘密を王にお示しすることは、知者や、呪文師、呪法師、占星術師などにはできません。
2:28 しかし天に秘密を明らかにするひとりの神がおられます。この方が終わりの日に起こることをネブカドネツァル王に示されたのです。あなたの夢、寝床であなたの頭に浮かんだ幻は次のとおりです。
2:29 王よ。あなたが寝床で思い浮かべていたのは、これから起こることです。秘密を明らかにされる方が、これから起こることをお示しになったのです。
2:30 この秘密が私に明らかにされたのは、すべての生ける者にまさって私に知恵があるからではなく、その意味が王に告げられることによって、あなたの心の思いをご自身がお知りになるためです。
2:31 王よ。あなたが見ておられると、なんと、一つの巨大な像が現れました。この像は巨大で、異常な輝きを放って、あなたの前に立っていました。その姿は恐ろしいものでした。
2:32 その像は、頭は純金、胸と両腕は銀、腹とももは青銅、
2:33 すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。
2:34 あなたが見ておられると、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを粉々に砕きました。
2:35 そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金も、みなともに砕け、夏の脱穀場の籾殻のようになり、風がそれを運んで跡形もなくなりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土をおおいました。
2:36 これがその夢でした。私たちはその意味を王の前に申し上げましょう。
2:37 王の王である王よ。天の神はあなたに国と権威と力と栄誉を授け、
2:38 また人の子ら、野の生き物、空の鳥がどこに住んでいても、これをことごとくあなたの手に与えて、治めさせられました。あなたはあの金の頭です。
2:39 あなたの後に、あなたより劣るもう一つの国が起こり、その次の第三の青銅の国が全地を治めるようになります。
2:40 そして第四の王国ですが、それは鉄のように強い国です。鉄はすべてのものを砕いてつぶしますが、その国は、打ち砕く鉄のように、先の国々をすべて粉々に砕いてしまいます。
2:41 あなたがご覧になった足と足の指は、その一部が陶器師の粘土、一部が鉄でしたが、それは分裂した国のことです。その国にはある程度までは鉄の強さもありますが、あなたがご覧になったように、その鉄は粘土と混じり合っています。
2:42 その足の指が一部は鉄、一部は粘土であったように、その国は一部は強く、一部はもろいでしょう。
2:43 鉄と粘土が混じり合っているのをあなたがご覧になったように、それらは子孫の間で互いに混じり合うでしょう。しかし鉄が粘土と混じり合わないように、それらが互いに団結することはありません。
2:44 この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国はほかの民に渡されず、反対にこれらの国々をことごとく打ち砕いて、滅ぼし尽くします。しかし、この国は永遠に続きます。
2:45 それは、一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのを、あなたがご覧になったとおりです。大いなる神が、これから後に起こることを王に告げられたのです。その夢は正夢で、その意味も確かです。」

哀歌、神に見捨てられた悲しみ

2021年3月14日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>哀歌3章1~26節
3:1 私は、主の激しい怒りのむちを受けて苦しみにあった者。
3:2 主は、私を連れ去り、光のない闇を歩ませ、
3:3 御手をもって一日中、繰り返し私を攻められた。
3:4 主は、私の肉と皮をすり減らし、私の骨を砕き、
3:5 私に対して陣を敷き、苦味と苦難で私を取り巻き、
3:6 私を暗い所に住まわせられた。はるか昔に死んだ者のように。
3:7 主は私を囲いに入れて出られなくし、私の青銅の足かせを重くされた。
3:8 私が助けを求めて叫んでも、主は私の祈りを聞き入れず、
3:9 私の道を切り石で囲み、私の通り道をねじ曲げられた。
3:10 主は、私には待ち伏せる熊、隠れたところにいる獅子。
3:11 主は私を道から外れさせ、私を引き裂き、無残な姿にされた。
3:12 弓を引き絞り、私を矢の的のようにして、
3:13 矢筒の矢を、私の腎臓に射込まれた。
3:14 私は一日中、民全体の笑いもの、彼らの嘲りの歌となった。
3:15 主は私を苦菜で満腹にし、苦よもぎで酔わせ、
3:16 私の歯を砂利で砕き、灰の中で私を踏みつけられた。
3:17 私のたましいは平安から見放され、私は幸せを忘れてしまった。
3:18 私は言った。「私の誉れと、【主】から受けた望みは消え失せた」と。
3:19 私の苦しみとさすらいの思い出は、苦よもぎと苦味だけ。
3:20 私のたましいは、ただこれを思い出しては沈む。
3:21 私はこれを心に思い返す。それゆえ、私は言う。「私は待ち望む。
3:22 【主】の恵みを。」実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。
3:23 それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は偉大です。
3:24 【主】こそ、私への割り当てです」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。
3:25 【主】はいつくしみ深い。主に望みを置く者、主を求めるたましいに。
3:26 【主】の救いを静まって待ち望むのは良い。

<要約>

罪により神に見捨てられた悲しみ

エレミヤそしてイスラエルの民の悲しみと嘆きは罪から来るものでした。神は何度も預言者を送り、真の神に立ち返るように、悔い改めて神を信じるように迫ったのですが、彼らは悔い改めることなく、偶像の神に身をやつし、神から離れていったのです。ついに神は、ご自分の民を見捨て、敵の手に渡されました。エレミヤは民の代表として、罪の結果である悲惨な状況を神に訴えます。聖書によると人間の罪の深さははかりしれないと言えます。罪の深みからイスラエルの民を救い出すために、神は見捨てる、契約を破棄するという行動に出られました。すなわち、私たち人間は、捨てられないと悔い改めない、捨てられないと神に立ち返ることができない。そのような者たちであります。すべての人は、自らの罪のために滅び失せても仕方がない存在です。しかし、神の哀れみは尽きることがありません。

主が代わりに見捨てられ悲しみを喜びに

エレミヤは、ここで、イスラエルに神のみ手が伸ばされていることに気づきます。そして、その悲しみを通して悔い改めに導かれ、主に立ち返ります。そしてそれが、やがて喜びと平安と希望へつながるのです。「神のみこころに添った悲しみは後悔のない救いに至る悔い改めを生じます」とみことばにありますように、イスラエルの民が経験したこの悲しみは、救いのために必要な試練であったということができます。神から捨てられる経験をしなければ、神に立ち返ることができなかったのです。イエス様も父なる神から見捨てられました。それは、十字架上でのことです。イエス様は十字架上で見捨てられた経験をしました。わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか、と叫ばれました。それは、神から見捨てられ、引き離された悲しみの叫びでした。罪に閉じ込められた人々を救うための悲しみの叫びです。イスラエルの民は自らの罪のために 見捨てられました。しかし、イエス様は、私たちすべての人の罪のために身代わりとなって、見捨てられ、裁かれたのです。ゆえに、私たちの苦しみ悲しみは喜びに変えられるのです。

涙の預言者エレミヤ

2021年3月7日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>エレミヤ書24章1~10節
24:1 バビロンの王ネブカドネツァルが、ユダの王、エホヤキムの子エコンヤと、ユダの高官たち、職人、鍛冶をエルサレムから捕らえ移してバビロンに連れて行った後のこと、【主】は私にこのように示された。見よ、【主】の神殿の前に、二かごのいちじくが置かれていた。
24:2 一つのかごにあるのは非常に良いいちじくで、初なりのいちじくの実のようであり、もう一つのかごにあるのは非常に悪いいちじくで、悪くて食べられないものであった。
24:3 そのとき、【主】が私に、「エレミヤ、あなたは何を見ているのか」と言われたので、私は言った。「いちじくです。良いいちじくは非常に良く、悪いほうは非常に悪く、悪くて食べられないものです。」
24:4 すると、私に次のような【主】のことばがあった。
24:5 「イスラエルの神、【主】はこう言う。わたしは、この場所からカルデア人の地に送ったユダの捕囚の民を、この良いいちじくのように、良いものであると見なそう。
24:6 わたしは、彼らを幸せにしようと彼らに目をかける。彼らをこの地に帰らせ、建て直して、壊すことなく、植えて、引き抜くことはない。
24:7 わたしは、わたしが【主】であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心のすべてをもってわたしに立ち返るからである。
24:8 しかし、悪くて食べられないあの悪いいちじくのように──まことに【主】は言われる──わたしはユダの王ゼデキヤと、その高官たち、エルサレムの残りの者と、この地に残されている者、およびエジプトの地に住んでいる者を、このようにする。
24:9 わたしは彼らを、地のすべての王国にとって、おののきのもと、悪しきものとする。また、わたしが追い散らす、すべての場所で、そしりと嘲りの的、物笑いの種、ののしりの的とする。
24:10 わたしは彼らのうちに、剣と飢饉と疫病を送り、彼らとその先祖に与えた地から彼らを滅ぼし尽くす。」

<要約>

みことばに従うとき敗北に見えても勝利がある

バビロンに捕え移された神の民にとって、敵国に支配され、郷里をはなれ、他国に移り住むことは大きな試練であり敗北でありました。神殿中心の信仰生活は絶たれました。新しい土地と環境になかなかなじめず、不安と絶望の中にいました。しかし、主は、捕囚の民に目をかけて、幸せにするとおっしゃいました。そして、この地に帰らせ、立て直し、壊すことなく、植えて、引き抜かないとおっしゃいました。これは、この時をくだる70年後に、ペルシャの王クロスによって、成就しました。捕囚の民は祖国帰還を果たすのです。彼らは、自分たちには、マイナスと思えること、敗北と思われることでも、神の御言葉に従ったのです。ですから、良いイチジクに例えられたのです。ここには神の主権があります。あわれみと恵があります。私たちは、先のことはわからなくても、神に信頼し、み言葉に従うことです。みことばに従うとき、今、敗北に見えても勝利があるのです。

悔い改めて立ち返るのを待つ神:

それに対して、エレミヤの警告に耳を傾けず、かたくなにその地に残った者たち、そしてユダの王ゼデキヤと、その高官たちに対する審判がありました。そこに教訓があります。私たちは、神を侮ってはいけません。私たちの罪に対して、神の審判はくだるのです。神の御心は、私たちを良いイチジクとみなしたいのです。聖書によると、私たち人間の罪は非常に大きいのです。にもかかわらず、人が自らの罪によって滅ぶことを神は惜しまれ、その独り子イエス・キリストを人の罪を取り除くために、送ってくださいました。「わたしは彼らの神となる。彼らが心のすべてを持ってわたしに立ち返るからである。」ここに、神の民であるイスラエルに、そしてすべての人に対する神の願いが隠されています。悔い改めて立ち返るとは、思いを変えて、心から神を信じることです。神に信頼を置くことです。あなたの人生を神に委ねることです。これからのあなたの人生を神にお任せすることです。神はあなたに最善をなしてくださいます。

ペテロの召命

2021年2月28日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>ヨハネの福音書21章15~22節
21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」
21:16 イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
21:17 イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
21:18 まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」
21:19 イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
21:20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」と言った者である。
21:21 ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。
21:22 イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」

<要約>
「自分がする」から「イエス様がなさる」人生:

ペテロには、「自分はこう思う、自分はこうする」というような、あくまでも自分が主人となって、イエス様についてきたと言えます。しかし、イエス様を裏切るという失敗をして、復活のイエス様にお会いしました。その後は、イエス様がペテロの主人となり、自分に頼らず内におられるイエス様に頼る人生が始まりました。私の羊を飼いなさい、とのお言葉により、イエス様から召命と任命をいただいて、ペテロはその後、教会のリーダー、初代の牧師あるいは神父、教会の偉大な牧者、として活躍していくのです。復活のイエス様は、今も生きて働かれています。イエス様をあなたの人格の中心にお招きするならば、自分がしなければならないと頑張らなくてもよくなります。なぜなら、イエス様があなたの内で事をなしてくださるからです。「自分がする」から「イエス様がなさる」人生に変えられるのです。

イエス様をこの上もなく大事にする人生:

復活のイエス様にお取り扱われる前は、弟子たちにはライバル意識がありました。この後、ペテロは初代教会の牧者として、使徒の中のリーダーとして活躍するのです。ペテロの説教で一日3千人が救われて、弟子に加えられた、とあります。ヨハネは思索し旧約聖書を紐解きイエス様の御わざと預言の成就を結びつけ、第4福音書とも言われるヨハネの福音書を著わしました。イエス様の福音を後世に伝える大きな役割を果たしました。ペテロもヨハネも、キリスト中心の人生を歩み始めてからは自分の名声や名誉にとらわれることなく、自分を他者と比較して悩んだりすることもなく自分の使命に生きたのです。神はあなたの人生に深く関わってくださいます。神は、それぞれの人にあった、適切な役割をお与えくださいます。それは、他の人と同じではありません。一人ひとりの 賜物や人格にふさわしい役割あるいは使命をお与えくださいます。イエス様を愛する事は、イエス様をこの上もなく大事にする事です。その愛を全うする時に、それらの犠牲以上に栄光の喜びを味わう事ができるのです。

こんなに素晴らしい救い

2021年2月21日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>へブル2:1~10、14、15
2:1 こういうわけで、私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留め、押し流されないようにしなければなりません。
2:2 御使いたちを通して語られたみことばに効力があり、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたのなら、
2:3 こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう。この救いは、初めに主によって語られ、それを聞いた人たちが確かなものとして私たちに示したものです。
2:4 そのうえ神も、しるしと不思議と様々な力あるわざにより、また、みこころにしたがって聖霊が分け与えてくださる賜物によって、救いを証ししてくださいました。
2:5 というのも、神は、私たちが語っている来たるべき世を、御使いたちに従わせたのではないからです。
2:6 ある箇所で、ある人がこう証ししています。「人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたがこれを顧みてくださるとは。
2:7 あなたは、人を御使いよりもわずかの間低いものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、
2:8 万物を彼の足の下に置かれました。」神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。
2:9 ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
2:10 多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。

2:14 そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、
2:15 死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。

<要約>

救いの信仰にとどまれば世に押し流されない:

世の流れは、私たちクリスチャンを神から、そして信仰から、引き離そうと強い勢いで臨んでいます。そして、この世の背後で働く悪しき霊のことを聖書は教えています。この世の支配者です。悪い方向に、滅びと死に向かって世の流れを作っているといえます。日本は災害列島です。なぜそれらの災害があるのでしょうか。神が、災害をお与えになるでしょうか?そうではありません。サタンの訴えが聞き入れられ、神はその災害が送られることをお許しになったのです。病気や苦難、災難と思われることは避けられないことかもしれません。試練や困難は、マイナスな事ばかりではありません。神は、試練や困難や苦難を用いてくださいます。マイナスはプラスに変えられるのです。ですから、試練や困難があっても、それに押し流されるのではなく、ますますキリストの福音にしっかりととどまろうではありませんか。

罪と死と滅びから救うキリストの福音:

聖書の死には、霊の死、肉体の死、永遠の滅びである死、があります。神を信じない人は、神のいのちにつながっていないので霊の死の状態です。肉体の死は、誰もが経験する普通の死です。永遠の滅びの死は、肉体の死後、罪に対する報酬である滅びに落とされることです。キリストの十字架の贖いを受け入れないすべての人に臨む死です。キリストは肉体の死を経験なさいました。兵士が槍でわき腹を刺して、死を確認したのでした。しかし、大いなる逆転がありました。キリストは十字架の死にまで従ったが故に、神は彼をよみがえらせて高くあげられたのです。悪魔の持つ死の力をキリストは完全に飲み干したのです。人類の罪の贖いを完遂し復活によって死と悪魔に勝利したのです。つまり、信じる者には、死はその力を失い、復活の命、永遠の命に生きるのです。

イエスを告白するならば

2021年2月14日(日)礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>Ⅰヨハネ4章1~12節
4:1 愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。
4:2 神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。
4:3 イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです。
4:4 子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。
4:5 彼らはこの世の者です。ですから、世のことを話し、世も彼らの言うことを聞きます。
4:6 私たちは神から出た者です。神を知っている者は私たちの言うことを聞き、神から出ていない者は私たちの言うことを聞きません。それによって私たちは、真理の霊と偽りの霊を見分けます。
4:7 愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。
4:8 愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。
4:12 いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

<要約>

イエスを告白するならば世に勝利する:

使徒信条に書かれているイエス・キリストについての信仰告白は、イエス様の生涯に起こった事実とこれから起こる事を述べています。イエス様は処女降誕でした。聖霊によって身ごもったとありますように、神が人となって来られたのです。ポンテオ・ピラトの下で苦しみを受け、とありますが、それは、罪のない神の独り子イエス様が罪人である人間のすべての罪を背負って身代わりとなって十字架で苦しみ、死んでくださるためでした。神は無罪のイエス様に罪を着せて十字架で断罪したのです。イエス様は、その理不尽と思われる神の願いを受けてくださり、父である神に完全に従いました。贖いの業が成されたのです。神は、そのようなイエス様を復活させ、彼に、天においても地においても、すべての権威をお与えになりました。天に上られたイエス様は、今度は世を裁くためにもう一度来られます。これは、あなたや私を、罪と死と滅びから救うために、神がご計画し実行なさったことです。私たちは信仰により、キリストの勝利に与るのです。キリストを告白し、世に勝利する人生を、皆さん一緒に歩みましょう。

イエスを告白するならば神を体験する:

ヨハネは、神の本質は愛であると断言します。神は私たちを愛さずにはおられないのです。私たちがどのようであれ、どんなに罪深くても、私たちを愛してくださるのです。そして私たちの罪のために、宥めの捧げものとなり、十字架で身代わりに裁かれてくださったのです。ここに愛があるのです。 それは、無条件の、無償の愛です。「私たちもまた互いに愛し合うべきです」とヨハネは言います。神が私たち一人ひとりを愛しておられると言うことに目を向けず、すなわち神の愛を無視して、自己愛の中に生きているのが、私たち人間の姿であります。私は神から愛されて、神と親しくさせてもらっていることを感謝しています。あなたも、神に愛されていることを素直に認め、イエス・キリストを告白するならば、あなたは神を体験します。神がおられることがわかります。神が愛しておられることがわかります。

厳かな命令

2021年2月7日(日)礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>Ⅱテモテ4章1~8節
4:1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます。
4:2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
4:3 というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、
4:4 真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。
4:5 けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。
4:6 私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。
4:7 私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
4:8 あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。

<要約>
クリスチャンの最大の使命とは?

パウロが福音宣教を厳かに命じる理由はなんでしょうか。厳かという字を辞書で調べると、「重々しくいかめしい様」とあります。すべての人は、死を迎えます。死はそれぞれにとって重大な事件と言えます。なぜなら、死んですべてが無になるのではないからです。人には霊があるからです。ある人は、自らの罪のために永遠の滅びに落ちます。神の愛から完全に断絶された暗黒の世界で孤独に永遠を過ごすのです。また、別の人は、罪赦されて永遠のいのちをいただき、永遠の安息、永遠の祝福に入るのです。福音宣教は、人々に永遠のいのちに至らせるキリストの救いを伝えることです。これは、決して軽々しく扱うことのできない重大な働きであることをパウロは心に刻み込もうとしているのです。福音宣教を最優先課題として、どんな困難や抵抗があっても遂行しなさいと言っているのです。

死と滅びからあなたを救う福音:

他人事でない、自分の死と言うものを直視したときに、誰でもが持っているこの痛みを「霊的な痛み」といっております。「自分はどこから来てどこへ行くのか分からない。」という実存の悩みです。しかし、信者はキリストこそが唯一の救いへの希望である事を知っています。罪からくる報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにある永遠の命です。あなたが認めようと認めまいと世界には罪と死とのろいの原理があります。聖書は語っています。罪を犯したことのない人は誰もいない。すべての人が迷い出て無益なものになった、と。悔い改めで神に帰らない限りそのままでは人は罪により死と呪いに定められています。その人を救うためにキリストは来てくださったのです。もしあなたが、まだ、あなたの死に対する準備ができていないならば、今すぐに、悔い改めて、イエスキリストをあなたの罪の贖い主、救い主として信じましょう。