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闇から光の中へ

2021年7月18日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>Ⅰヨハネ1章1~10節
1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。
1:2 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。
1:3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。
1:5 私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。
1:6 もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。
1:7 もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。
1:8 もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。
1:9 もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
1:10 もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。

<要約>

罪により闇の中を歩む人間

私たちの心の奥にそっと置いていた罪があるときふと思い出されて、罪責感にさいなまれます。「あんなことしなければ良かった。」「あんなこと言わなければよかった。」「あんなこと思ったのは間違いだった。」など。このように罪が人生に、そして人間社会に闇を与えます。人の罪は、三つの関係の中で発生しています。第一は、神との関係、第二は自分との関係、第三は人との関係の中にです。第一は、全世界をお創りになり、私たちに命を与えて愛してくださる神、天の父と呼んでいますが、その父との関係が壊されていることです。天の父を存在しないかの如く心から締め出しているのが第一の罪です。第二は、自分との関係における罪です。自分を愛せない、自分の命を粗末に扱うこと、暴飲暴食もそうです。また、自分が家族にとって大切な存在であることを認めないこともです。第三は人との関係においてです。人を傷つける言葉や行い、怒りや憎しみ、有害な飲酒や遊戯に誘うことも魂に対する殺人です。人の名誉を傷つける噂話も罪です。罪は人間を苦しめ悩ませ不幸にします。そして、この罪が、私たち人間を永遠の滅びへと誘っているのです。

光の中に招いてくださる神

神は、罪を犯して闇の中を歩み滅びに向かっていく人類全ての人々を哀れんでおられます。神の正義の怒りが十字架でキリストの上に下ったのです。神はキリストの十字架によって私たちの罪を赦し、すべての悪からきよめてくださいます。神は無条件で私たちをキリストの光の中に招いておられます。それは、私たちの努力や功績は全く関係ないのです。必要なことはただ、その赦しと祝福を、ただ心で信じて受けとればよいのです。神との関係、自分との関係、そして、人との関係の回復が与えられます。罪が赦されているので、闇の力から解放されて光の中を歩むことができます。あなたの債務証書は無効にされました。すべての罪が赦されているのです。ただ、その罪の赦しを受け取ればよいのです。イエス様はあなたを光の中に招いておられます。闇から光に移してくださいます。そのことを信じて、その招きに応えていただきたいと思います。神の約束は、今から後、決してしぼむことのない希望である永遠のいのちです。

人間に隠された神の知恵

2021年7月11日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>Ⅰコリント1章1~14節
2:1 兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。
2:2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。
2:3 あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。
2:4 そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。
2:5 それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。
2:6 しかし私たちは、成熟した人たちの間では知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でも、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。
2:7 私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。
2:8 この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
2:9 しかし、このことは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と書いてあるとおりでした。
2:10 それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。
2:11 人間のことは、その人のうちにある人間の霊のほかに、いったいだれが知っているでしょう。同じように、神のことは、神の霊のほかにはだれも知りません。
2:12 しかし私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。
2:13 それについて語るのに、私たちは人間の知恵によって教えられたことばではなく、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばによって御霊のことを説明するのです。
2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。

<要約>

人間の知恵に頼る生き方:

最初の人アダムの罪によって、死が入り、そしてすべての人が罪を犯したので、私たちは罪人です。生まれたばかりの赤ちゃんでも、神の知恵で養われない限り、そのままでは、やがて神を認めない人生を歩んでいきます。それが、全ての人が持つ原罪です。このように、私たち人間は、信仰によって生まれ変わらない限り、神に属することを理解できません。受け入れません。そして、神があなたを愛していると、言われるのに、あなたがそっぽを向いているなら、それは、あなたが神に敵対して歩んでいると言えます。イエス・キリストがあなたのために十字架で苦難を負って死んでくださった、というのに、そんなのわたしに関係ない、とあなたが言うならば、それは、あなたは十字架に敵対して歩んでいると言えます。神が、人を愛し、御子キリストを人として世に送り、彼を人の罪の身代わりとして十字架で断罪しました。そして、そのことを信じる者は罪赦され救われる、というのが十字架のメッセージです。もし、あなたが人間の智恵にとどまり続けるならば、それは、神に敵対して歩み続けるということです。ですから私たちは、罪を悔い改めて、神を仰がなければなりません。

神の知恵に生きる人生

この知恵は目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に浮かんだことがないものでした。すなわち、決して人間には見たり聞いたりすることが出来ないもの、心で想像することさえできないもの、私たち人間の理性や思考を超えた素晴らしいものを神は用意してくださったのです。それは、神の下さった救いです。キリストはその十字架と復活により、罪を取り除き、罪の結果である死を滅ぼし、永遠のいのちをお与えくださいます。それが福音です。ですから、私たちは神の知恵に耳を傾けることが必要です。人間がおごり高ぶった自分の知恵では、神に近づくことができない、神を見出すことができない、ようにされたのです。本当にへりくだって、自分を神の下に置くことができる人でしか神を見出すことができないのです。神は自分を隠される神なのです。神の知恵に生きる人生をどのようにしたら自分のものにできるでしょうか。それは、「思いを変える」ことです。自分の知識に立つのをやめて、神のみことばに立つのです。そこに本来の人としての祝福の人生があるのです。

神のことばは止められない

2021年7月4日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>
12:1 そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人たちを苦しめようとしてその手を伸ばし、
12:2 ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。
12:3 それがユダヤ人に喜ばれたのを見て、さらにペテロも捕らえにかかった。それは、種なしパンの祭りの時期であった。
12:4 ヘロデはペテロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越の祭りの後に、彼を民衆の前に引き出すつもりでいたのである。
12:5 こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。
12:6 ヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれて、二人の兵士の間で眠っていた。戸口では番兵たちが牢を監視していた。
12:7 すると見よ。主の使いがそばに立ち、牢の中を光が照らした。御使いはペテロの脇腹を突いて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。
12:8 御使いは彼に言った。「帯を締めて、履き物をはきなさい。」ペテロがそのとおりにすると、御使いはまた言った。「上着を着て、私について来なさい。」
12:9 そこでペテロは外に出て、御使いについて行った。彼には御使いがしていることが現実とは思えず、幻を見ているのだと思っていた。
12:10 彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。彼らは外に出て、一つの通りを進んで行った。すると、すぐに御使いは彼から離れた。
12:11 そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、本当のことが分かった。主が御使いを遣わして、ヘロデの手から、またユダヤの民のすべてのもくろみから、私を救い出してくださったのだ。」
12:12 それが分かったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリアの家に行った。そこには多くの人々が集まって、祈っていた。
12:13 彼が門の戸をたたくと、ロデという名の召使いが応対に出て来た。
12:14 そして、ペテロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもせずに奥に駆け込み、ペテロが門の前に立っていることを知らせた。
12:15 人々は彼女に「あなたは気が変になっている」と言ったが、彼女は本当だと言い張った。それで彼らは「それはペテロの御使いだ」と言った。
12:16 だが、ペテロは門をたたき続けていた。彼らが開けると、そこにペテロがいたので非常に驚いた。
12:17 ペテロは静かにするように手で彼らを制してから、主がどのようにして自分を牢から救い出してくださったかを彼らに説明し、「このことをヤコブと兄弟たちに知らせてください」と言った。そして、そこを出て、ほかの場所へ行った。

<要約>

宣教のみことば止められない

今日に至るまでには多くの聖徒たちは殉教しました。捕えられて縛られ処刑されました。しかし、悪魔も人間も、宣教のみことばを止めることはできません。現代も、広がり続けています。救いの福音は歴史を通して、人から人へと伝達されてきました。そして、私どもにも届いたのです。私たちも受けたもの、救いの福音を他に伝える使命があります。それは聖霊の御業です。窮地に陥れられたとき、すべきただ一つのことは祈りです。どんな所でもどんな状況でも私たちは祈りに向かうべきです。熱心な祈りは神を動かすのです。また祈りに期待しなければ、結果を見ることができません。ある牧師先生が、どんなに困難や苦難に直面してもその時私たちが祈りに導かれるならばそれらの苦難や困難は良いことだと言いました。苦難があると神を求めます。結果的に、私たちは神様と更に近しくなるのです。私たちが、なすすべがない、何にもできない、と言うときも、祈りはできます。人生には絶対起こりえないと思うことが起こるのです。神さまの奇跡を見るのです。最大の奇跡は、救われるはずがないと思っていた人が悔い改めて信じて救われたということではないでしょうか。

祝福のみことばは止められない:

神は御使いを用いて、ペテロを牢獄から救出しました。出口のないトンネルはない、明けない夜はない、同じように、試練や困難にも脱出の道はあるのです。信仰生活は苦難や困難がつきものです。しかし、苦しみの中にも祝福のみことばは流れています。神の祝福のみことばは止めることのできません。福音は英語ではグットニュースです。よい知らせです。福音を受け取った人は、罪と死と悪魔からも解放されます。そして、真のいのちに生きることができるのです。福音の内容は「無代価で与えられる主イエス・キリストによる罪の赦しと永遠のいのち」です。福音のことば、祝福のことばは聖書に中にあります。ペテロもヤコブも他の聖徒たちも、ともに神から祝福された人生を歩みました。私たちも、信仰によって等しく神から祝福された者たちです。神の子ども、天の国民、御国の世継ぎなのです。聖書の言葉に従って生きるなら、神の祝福はあなたのものです。

ステパノの殉教と聖霊

2021年6月27日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き6:14、15、7:45~8:1
6:14 『あのナザレ人イエスは、この聖なる所を壊し、モーセが私たちに伝えた慣習を変える』と彼が言うのを、私たちは聞きました。」
6:15 最高法院で席に着いていた人々が、みなステパノに目を注ぐと、彼の顔は御使いの顔のように見えた。
7:45 私たちの先祖たちは、この幕屋を受け継いで、神が自分たちの前から追い払ってくださった異邦の民の所有地に、ヨシュアとともにそれを運び入れ、ダビデの時代に至りました。
7:46 ダビデは神の前に恵みをいただき、ヤコブの家のために、幕屋のとどまるところを求めました。
7:47 そして、ソロモンが神のために家を建てました。
7:48 しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。
7:49 『天はわたしの王座、地はわたしの足台。あなたがたは、わたしのためにどのような家を建てようとするのか。──主のことば──わたしの安息の場は、いったいどこにあるのか。
7:50 これらすべては、わたしの手が造ったものではないか。』
7:51 うなじを固くする、心と耳に割礼を受けていない人たち。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖たちが逆らったように、あなたがたもそうしているのです。
7:52 あなたがたの先祖たちが迫害しなかった預言者が、だれかいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって告げた人たちを殺しましたが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。
7:53 あなたがたは御使いたちを通して律法を受けたのに、それを守らなかったのです。」
7:54 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりしていた。
7:55 しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、
7:56 「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」と言った。
7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、一斉にステパノに向かって殺到した。
7:58 そして彼を町の外に追い出して、石を投げつけた。証人たちは、自分たちの上着をサウロという青年の足もとに置いた。
7:59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで言った。「主イエスよ、私の霊をお受けください。」
7:60 そして、ひざまずいて大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、彼は眠りについた。
8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた。

<要約>
聖霊に逆らって生きる結末

聖霊に逆らって生きる結末は、 頑固になって神のみことばを聞こうとせず、まして受け入れることもない心の態度からきています。私たちは当時のユダヤ人を反面教師として学ぶ必要があります。私たち信者は、外面をつくろい、内実のない信仰生活をしていないでしょうか。聖霊はみことばを通して今も語っておられます。すべての人は罪を犯したので神の栄光を受けることができない、と。また、罪の報酬は死です、と書いています。どんな人も、神に対して、人に対して、犯したすべての罪は、やがて、神の前で清算しなければなりません。もし、その罪の債務証書が、キリストの十字架の贖いによって「支払済」となっていなければ、あなたは、その罪により、永遠の死におとされるのです。これは、とても言いにくいことですが、聖書が示す真理です。聖霊は聖書の言葉、みことばを通して、語りかけておられます。聖霊に心を開き、聖書の言葉に素直になって耳を傾けることが大切です。

聖霊に満たされて生きるために

聖霊に満たされる生き方とは何でしょう。ステパノは、じっと天を見つめて、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見ていました。ここから、まず、天を仰ぎ、キリストから目を離さない生き方であると言えます。また、迫害をも受け入れ、神を恐れ、愛し、信頼する生き方ということができるでしょう。神を愛しているのなら、神に喜ばれることを模索して実行しようとします。また、神を恐れているのならば、神が嫌われること、罪から離れます。さらに、神に信頼いているのならば、目に映る様々なことがらに対しても疑いまどうことなく、神はすべてを働かせて益としてくださることを信じ続けます。聖霊は聖書のみことばを用いて働かれ、私たちをキリストの救いへと導いてくださいます。そして、聖霊があなたの中に入り、あなたに真のいのちを与えます。洗礼を受けて心に聖霊を受けた人は新しいいのちに生きます。それは神のいのちですから、永遠のいのちです。神はキリストの十字架と復活によって、私たちを罪と死と滅びから救ってくださいました。今日、あなたにも聖霊は語りかけています。悔い改めて、イエス・キリストを信じて救われなさいと。

最善の人生はどこにあるか?

2021年6月13日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル牧師 森田友明

<聖書>マタイの福音書11章2~11節
11:2 さて、牢獄でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、自分の弟子たちを通じて
11:3 イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」
11:4 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。
11:5 目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。
11:6 だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」
11:7 この人たちが行ってしまうと、イエスはヨハネについて群衆に話し始められた。「あなたがたは何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。
11:8 そうでなければ、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。柔らかな衣を着た人なら王の宮殿にいます。
11:9 そうでなければ、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そうです。わたしはあなたがたに言います。預言者よりもすぐれた者を見に行ったのです。
11:10 この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。
11:11 まことに、あなたがたに言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。
11:12 バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
11:13 すべての預言者たちと律法が預言したのは、ヨハネの時まででした。

<要約>

人が人生に疑念を持つとき

ヨハネはイエス・キリストに会って、そのとき確信を持って言いました。「見よ。世の罪を取り除く神の子羊」と。その後、ヨハネはヘロデ・アンティパスの行状を批判し、ヘロデの恨みを買い投獄されたのです。しかし、獄中で彼は、イエス様がメシアであるということに関して疑問を抱いたようです。なぜならば、イエス様のお姿は彼の抱いていたメシア像とは違っていたからです。イエスさまは「世を裁く方、義の王」として来られるとヨハネは考えていたようです。しかし、現実には制裁や裁きと思われるようなことは何も起こっていなかったのです。ヨハネほどの人物が、確信を失ったのです。ある意味では、ヨハネはとんでもない疑念をいだいたと言えます。しかし、ヨハネはそれを自分のうちにしまいこんで、悩み苦しむばかりでなく、はっきりと、イエス様にその疑問をお尋ねになったのです。そうです。私たちは時として、信仰に躓き、疑問を持つことはあっても良いのです。でもその時に、イエス様の所にもう一度出て、自分の悩みや疑問をはっきりと申し上げることが大切であることを覚えたいと思います。

人間の考えに勝る神の最善

ヨハネの弟子たちに、イエス様は言われました。現実に起こっているキリストの御業に目をとめなさいと。イエス様は、なぜヨハネを救出しなかったのでしょうか。人間の考えに勝る神の御思いがあるのです。私たち信者は周りで起こる様々な事象について、明白な回答を得ることは難しいと言えるでしょう。すべてのことは、神の主権の下で起こっています。天変地異も災害も神のみ許しの下で起こっています。時に、神に対して文句を言いたいということもあるかもしれません。しかし、神の私たちにお示しになった神の愛は、歴史の中ではっきりと示されました。それは十字架です。神は、その独り子をお与えくださるほどに、あなたや私、そしてすべての人を愛してくださっているということです。それは、神がご自身のいのちを捨てて、あなたを滅びの呪いから救い出し、永遠の祝福に招いてくださっているのです。私たちには十字架で十分なのです。最善の、人生はどこにあるのか?それは、神のみ旨にあると思います。そのような神の愛を信じる時に、神に対する絶対的な信頼が生まれてきます。ヨハネはイエス様がメシヤであることを再確認し、牢獄にあっても最後は感謝と喜びで生き抜いたのです。

すべての権威を与えられたキリスト

2021年6月6日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル牧師 森田友明

<聖書>マタイによる福音書28章5~8,16~20節
28:5 御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。
28:6 ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。
28:7 そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。」
28:8 彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。

28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。
28:17 そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。
28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。
28:19 ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
28:20 わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

<要約>

キリストの権威は罪を赦すために

人の生き死にもキリストの手の中にあります、世界がいつ終わるかも彼の手にあります。一国の盛衰も彼の手の中にあるのです。また、あなたや私の一個人が何をするべきか、あるいは何をするべきでないかについてもキリストが権威をもっています。一般に、人間が高い権威、権力を持つとよいことは起こりません。それは歴史が証明しています。それとは反対に 神のみ子イエス様は愛とあわれみに富んでおられるかたです。イエス様はあなたを生かし、あなたに何物にも奪われることのない本当の自由をお与えくださいます。ではなぜイエス様は世の権威者と違ってイエス様を信じる者に自由と喜びを与えることができるのでしょうか。イエス様は、ご自身の権威、あるいは権力をこの世の人間のようにはお用いになりません。イエス様は、その権威を、「地上で人の罪をゆるすためにお使いになりました。」言い方を変えて、キリストはあなたや私の罪を完全に赦し、罪と死と悪魔から救い出してくださったのです。

キリストの権威による宣教

心を取り締まる法律はないと言われますが、神の律法は心の思いを裁かれます。神の前で罪なしと判定される人は誰もいないのです。その罪により、人間には死が入りました。それは、肉体の死ばかりでなく、永遠の死、永遠の滅びです。そんな罪を赦すことができる権威を持っておられるのはイエス・キリスト以外にありません。なぜでしょうか。それは、イエス・キリストがあなたの罪の身代わりとなって、十字架で裁かれ死んでくださったからです。そのことによりあなたの罪は取り除かれました。全人類の罪も取り除かれました。信じてバプテスマを受けた者はイエス様の弟子となります。弟子は、師の教えを守り、教会に連なります。さらに弟子を作り、弟子が弟子を作って増殖していくのです。教会は全世界に広がっています。それがイエス様の宣教です。教会はキリストの権威が満ち溢れているといえます。キリストの権威による宣教は教会の技であると言うことができるでしょう。一切のものの上に立つ最高権威者であるキリストが世の終わりまで守ってくださいます。いつもあなたとそして教会と共にいると約束しておられるのです。

神を動かす祈りとは?

2021年5月30日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル牧師 森田友明

<聖書>Ⅱ列王記19章1~20節
19:1 ヒゼキヤ王はこれを聞くと衣を引き裂き、粗布を身にまとって【主】の宮に入った。
19:2 彼は、宮廷長官エルヤキム、書記シェブナ、年長の祭司たちに粗布を身にまとわせて、アモツの子、預言者イザヤのところに遣わした。
19:3 彼らはイザヤに言った。「ヒゼキヤはこう言っております。『今日は、苦難と懲らしめと屈辱の日です。子どもが生まれようとしているのに、それを産み出す力がないからです。
19:4 おそらく、あなたの神、【主】は、ラブ・シャケのすべてのことばを聞かれたことでしょう。彼の主君、アッシリアの王が、生ける神をそしるために彼を遣わしたのです。あなたの神、【主】は、お聞きになったそのことばをとがめられます。あなたは、まだいる残りの者のために祈りの声をあげてください。』」
19:5 ヒゼキヤ王の家来たちがイザヤのもとに来たとき、
19:6 イザヤは彼らに言った。「あなたがたの主君にこう言いなさい。『【主】はこう言われる。あなたが聞いたあのことば、アッシリアの王の若い者たちがわたしをののしった、あのことばを恐れるな。
19:7 今、わたしは彼のうちに霊を置く。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしはその国で彼を剣で倒す。』」
19:8 ラブ・シャケは退いて、リブナを攻めていたアッシリアの王と落ち合った。王がラキシュから移動したことを聞いていたからである。
19:9 王は、クシュの王ティルハカについて、「今、彼はあなたと戦うために出て来ている」との知らせを聞くと、再び使者たちをヒゼキヤに遣わして言った。
19:10 「ユダの王ヒゼキヤにこう伝えよ。『おまえが信頼するおまえの神にだまされてはいけない。エルサレムはアッシリアの王の手に渡されないと言っているが。
19:11 おまえは、アッシリアの王たちがすべての国々にしたこと、それらを絶滅させたことを確かに聞いている。それでも、おまえだけは救い出されるというのか。
19:12 私の先祖は、ゴザン、ハラン、レツェフ、またテラサルにいたエデンの人々を滅ぼしたが、その国々の神々は彼らを救い出したか。
19:13 ハマテの王、アルパデの王、セファルワイムの町の王、ヘナやイワの王はどこにいるか。』」
19:14 ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取って読み、【主】の宮に上って行き、それを【主】の前に広げた。
19:15 ヒゼキヤは【主】の前で祈った。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、【主】よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。
19:16 【主】よ。御耳を傾けて聞いてください。【主】よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセンナケリブのことばを聞いてください。
19:17 【主】よ。アッシリアの王たちが、国々とその国土を廃墟としたのは事実です。
19:18 彼らはその神々を火に投げ込みました。それらが神ではなく、人の手のわざ、木や石にすぎなかったので、彼らはこれを滅ぼすことができたのです。
19:19 私たちの神、【主】よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、【主】よ、あなただけが神であることを知るでしょう。」
19:20 アモツの子イザヤはヒゼキヤのところに人を送って言った。「イスラエルの神、【主】はこう言われる。『あなたがアッシリアの王センナケリブについて、わたしに祈ったことを、わたしは聞いた。』

<要約>

天地を造られた全能の神に祈る

ヒゼキヤは何を怒ったのでしょうか。それは、アッシリヤの王が生ける神をそしったからです。アッシリヤの王は、諸外国の神々はみなアッシリヤ王に勝つことはできなかった。だから、イスラエルの神も同じだというのです。世の人々はどの宗教も信仰は皆同じだと言います。人間は、人間を超えた霊的な存在を神として崇めるのです。しかし、その神が誰だかわからないのです。そこで、人間は自分勝手に太陽や山を神と決めたり、木や石で作ったりしているのです。これらは私たち人間が信じる対象にはならないものたちです。なぜならそれらは造られたもの、被造物だからです。私たちが信じ、祈る神は、私たち人間をつくり、全宇宙万物をおつくりになり、治めておられる恐るべき神です。ヒゼキヤは祈ります。神が自分たちを救ってくださいと、そうすれば、あなたこそ真の神であることがすべての王国は知るでしょうと。この後、預言者イザヤは、ヒゼキヤの祈りが聞かれたことを告げます。アッシリヤの王セナケリブは高慢のゆえに、自分の子どもの謀反により剣に倒れます。そして、主の使いにより、アッシリヤの兵隊18万5千人が一夜のうちに死体と化したのです。 このように天地を造られた全能の神に祈るならば、神は聞いて動いてくださるのです。

神に届く祈りのポイント

ヒゼキヤの祈りをもう一度見ましょう。彼の祈りのポイントは、信仰告白の祈りです。自分が信じている神がどのような方であるか、確認しています。確認するとそれが確信に変わります。確信の祈りは信仰の祈りです。神に届く祈りです。神に届く祈りの一番目は、信仰告白の祈り、信仰告白しながら祈ることです。次に、神に届く祈りのポイントは、「神の主権を認めて祈る」ことです。すなわち神の言うことは必ずなる。なぜなら、森羅万象は神の主権の下で神の許しの中で起こっているからです。神のなされることは最善であることを信じることです。信じれば聖霊の助けが来ます。三つ目の神に届く祈りのポイントは、神おひとりに栄光を帰する祈りです。彼は神のみ名が崇められ、すべての人民が主こそ神であることを知るようになることを願ったのです。

聖霊をいただくとどうなる?

2021年5月23日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き2章32~42節
2:32 このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
2:33 ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。
2:34 ダビデが天に上ったのではありません。彼自身こう言っています。『主は、私の主に言われた。あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。
2:35 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。』
2:36 ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
2:38 そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
2:39 この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」
2:40 ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って、彼らに勧めた。
2:41 彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。
2:42 彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。

<要約>

イエス様を十字架に付けたのはあなたです

聖霊は、すべての聴衆に対して「あなたがキリストを十字架につけたのです」と言っています。2000年後の私がどうしてイエス・キリストを十字架につけたというのだろうかと疑問に思う方々もいると思います。キリストが全人類の罪のために十字架にかかったということは、すなわち私たちに原因があるということです。ここに居られるお一人お一人に原因があるということです。私の罪のためにキリストは十字架にかからなければならなかったと言うことは、すなわち、私がイエス・キリストを十字架にかけたのです。私たちがイエス・キリストを十字架につけたと思うことがなければ私たちとイエス・キリストの関係は何もなくなってしまいます。ペテロの告発を聞いた聴衆は、心刺されました。彼らは自分たちが神の民であるという意識を持っておりました。ところが神の御子を十字架につけ殺して神の敵になっているということを気づいたのです。

洗礼を受けると聖霊をいただけます

自分たちの罪の深さに気付いた人々は口々に「兄弟たち。私たちはどうしたらよいのでしょうか」と問いました。この時の彼らは自分たちの現状知りこのままでいけないと思ったのです。救いはすでに目の前に置かれていたのです。そうです。「悔い改めてそれぞれの罪を赦していただくためにバプテスマ、洗礼を受けなさい。」というものでした。聖霊がペテロを通して語ったことは、キリストは生きておられる、すべての人は罪を持っていて罪によって滅んでいく、罪を赦していただくためにイエス・キリストを信じなさい、そうすれば賜物として、聖霊が与えられるということです。主は、私たちをキリストにより世と罪と悪魔からそして死から救い出してくださいます。救いは一方的に神様が提供してくださる恵みなのです。ここに私たちの条件は何も書いていません。ただ罪を悔い改めて神を信じることです。すると信じる者に賜物として、聖霊が与えられるのです。信じた者たちには、聖霊の持っているすべての良い物を受けるということです。聖霊は良い果実を実らします。人を変え、人を幸福にします。ものの見方が変わります。ネガティブがポジティブに変えられるのです。聖霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。

聖書は幸せな人生のガイドライン

2021年5月16日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル牧師 森田友明

<聖書>詩篇119篇105~117節
119:105 あなたのみことばは私の足のともしび私の道の光です。
119:106 私は誓いまたそれを果たします。あなたの義の定めを守ることを。
119:107 私はひどく苦しんでいます。【主】よみことばのとおりに私を生かしてください。
119:108 どうか私の口から出る進んで献げるものを受け入れてください。【主】よ。あなたのさばきを私に教えてください。
119:109 私はいつもいのちがけです。それでもあなたのみおしえを忘れません。
119:11 私はあなたのみことばを心に蓄えます。あなたの前に罪ある者とならないために。
119:110 悪者どもは私に対して罠を設けました。それでも私はあなたの戒めから迷い出ません。
119:111 私はあなたのさとしを永遠に受け継ぎました。これこそ私の心の喜びです。
119:112 私はあなたのおきてを行うことに心を傾けます。いつまでも終わりまでも。
119:113 私は二心のある人たちを憎みあなたのみおしえを愛します。
119:114 あなたは私の隠れ場私の盾。私はあなたのみことばを待ち望みます。
119:115 悪を行う者どもよ私から遠ざかれ。この私は私の神の仰せを守る。
119:116 あなたのみことばのとおりに私を支え生かしてください。私の望みのことで私を辱めないようにしてください。
119:117 私を支えてください。そうすれば私は救われ絶えずあなたのおきてを見つめることができます。

<要約>

神は二つのお姿であなたを幸せに導く

聖書には、律法と福音という二つの内容が書かれています。律法は神のあなたに対する要求です。福音は、神はあなたを命がけで愛しておられるということです。律法の中心は十戒で、人が幸せに生きるためのルールです。人として生きるための最も基本的なルール、道徳律と言えます。他方、律法である十戒は厳しい戒めとも言えます。守れないものを罪に定めます。律法に対してもう一つは福音です。この福音こそが聖書のもっとも大切な事柄です。それは、神があなたを愛しているということです。簡単に言えば、律法は厳しさです。福音は優しさです。この律法と福音で、読者を導き、律法の厳しさである死と滅びから、福音のやさしさの極みである罪の赦しと永遠のいのちに導いてくださるのです。別の見方をすると、聖書には神の二つのお姿が表わされています。聖書に表わされている神のお姿は、一つには律法であります。厳格な裁判官の姿です。神のもう一つのお姿は、福音であり愛のお姿です。そのように神はこの二つのお姿、律法と福音により、私たちを導き成長させてくださるのです。そして、ついには、幸せにしてくださるのです。

イエス様を待ち望む喜び

この時の詩篇の記者は、苦しみ悩みで限界状況にあったと思われます。そのような中で、「みおしえを愛する」、「みことばを待ち望む」、「神の仰せを守る」、「神の掟を見つめる」など、彼が熱心に神を求め待ち望んでいたと思います。現在は、終末の時代といえます。そして、世の終わりには、イエス様が再び来られます。現在は、私たち信者はイエス様が来られるのを待ち望んでいる時代に生きていると言えます。私たちは、私達を取り巻く世界が、困難や苦難の中にあるからこそ、私たちはイエス様を強く待ち望むのです。私は、1981年、アメリカのミシシッピィ大学で研究のために働いていました。一年くらいたったある日に、吐き気とむくみがでて、ネフローゼと言う腎臓病にかかってしまったのです。3歳と2歳と0歳の子どもを抱えて異国の地で病気になってしまい、大変がっかりしました。しかし、感謝しました。私はその時、病気や困難があるからこそ、イエス様を待ち望む喜びがあるのだと確信しました。今も、私達をとり囲む状況は厳しいですが、だからこそ、私たちは、イエス様を待ち望むのです。

主イエスの恵みによって救われる

2021年5月9日主日礼拝説教 ハレルヤチャペル滝沢牧師 森田友明

<聖書>使徒の働き15章1~11節
15:1 さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに「モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。
15:2 それで、パウロやバルナバと彼らの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバ、そのほかの何人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。
15:3 こうして彼らは教会の人々に送り出され、フェニキアとサマリアを通って行った。道々、異邦人の回心について詳しく伝えたので、すべての兄弟たちに大きな喜びをもたらした。
15:4 エルサレムに着くと、彼らは教会の人々と使徒たちと長老たちに迎えられた。それで、神が彼らとともにいて行われたことをすべて報告した。
15:5 ところが、パリサイ派の者で信者になった人たちが立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべきである」と言った。
15:6 そこで使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。
15:7 多くの論争があった後、ペテロが立って彼らに言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は以前にあなたがたの中から私をお選びになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされました。
15:8 そして、人の心をご存じである神は、私たちに与えられたのと同じように、異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために証しをされました。
15:9 私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。
15:10 そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか。
15:11 私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」

<要約>

割礼とモーセの律法:

割礼は、最初にアブラハムに与えられた契約のしるしです。神はアブラハムを選び、アブラハムの子孫を通して、救いをすべての民に広げようと計画されました。その選びと約束のしるしとして「割礼を施しなさい」と命じたのです。私たちがイエス様を信じたときに、キリストの割礼として、心の割礼を受けました。イエス様を救い主と信じて、バプテスマを受けることにより、古い自分に死んで新しく生まれ変わりました。聖霊があなたの内に住まわれ、キリストに結び付けられたのです。もう一つのユダヤ人クリスチャンの問題提起は、十戒を守ることです。十戒は、行いとしては、守ることができるかもしれません。しかし、心をご覧になる神の前では、誰一人十戒を守り切ることはできないのです。そのことで反って責められるのです。すなわち、律法の役目は、あなたの内側に語りかけ、あなたに罪を気づかせ、指摘し、あなたが、それを悲しんで悔い改めるように促すのです。そして、あなたを救い主イエスのところへ連れて行くのです。

行いではなく信仰によって救われる:

よく、もう少しまじめな人間になってから、もう少し、良い人間になってから、教会に来ますという人がいます。それは間違いです。パウロはローマ人への手紙や他のたくさんの手紙の中で、ただ信じるだけで、恵みにより救われるという、信仰義認を何度も解いております。人間の力や、よい行いによっては救われない、つまり、十戒によっては救われない、ただ思いを変えて、自分の罪を悔い改め、イエス・キリストの十字架のあがないを信じることによってのみ救われるのです。また、どんな過去に罪や過ちがあっても、すべての罪が赦されるのです。キリストの十字架の贖い、罪の赦しは神がなしてくださった一方的なみわざです。すなわち恵みです。行いによっては救われない、行いは救いの条件ではないといいました。では、行いはいらないのでしょうか。否、ヤコブ書には「行いのない信仰は死んだものだ」言っています。キリストを信じている人は、感謝と喜びから、主のために何かをしたい、自分にできることをしたいと思うのです。その行いを神は喜んで評価してくださいます。愛は行動で、行いによって表れるのです。