2024年11月3日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明
<聖書>ヨハネによる福音書10章7~17節
【新改訳2017】
10:7 そこで、再びイエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。
10:8 わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした。
10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。
10:10 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。
10:11 わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。
10:12 牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。
10:13 彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。
10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。
10:15 ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。
10:16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。
10:17 わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
<要約>
背後で働く悪魔と救い主;
狼に例えられる敵は何でしょうか。狼は羊の命を奪いにやって来ます。それは サタンあるいは悪魔と言うこともできるでしょう。当時のローマ帝国下のクリスチャンにとっては悪魔はローマ皇帝であったかもしれません。なぜなら当時のローマ皇帝はクリスチャンを捕まえて円形競技場で飼育している猛獣の餌にしたからです。そればかりではなく、歴史を通して信者には常に敵があることを心しておかなければなりません。私たちの戦いは、目に見える血肉に対する戦いではない、背後にいる悪魔や悪霊に対する戦いであるとエペソ書に書いています。私たちは、聖霊とみ言葉によって武装していなければなりません。悪魔は、私たち人間の全人格に働きかけます。知性、感情、意志をコントロールします。それとは反対に、わたしは良い牧者は、牧者は救い主です。私たちを罪と死と悪魔から救ってくださいます。イエス様は、羊のためにいのちを捨てる、つまり、すべての人の罪を取り除くために、身代わりとなって十字架でいのちを捨ててくださったのです。「世の罪を取り除く神の子羊」となって、すべての人の審判を受け、自ら進んで死ぬのです。主は言われました。「わたしはまたこの囲いに属さないほかの羊たちがいます、それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちは私の声に聞き従います。そして一つの群れ、一つの牧者となるのです」。イエス・キリストはイスラエルだけでなく全民族を一つにする救い主であることをご自身が自ら宣言しておられるのです。一人の人が滅びてしまうのを惜しんでいます。その動機は、あなたへの愛です。
いのちに至る門;
イエス様は、「わたしは羊の門です」と言われました。わたしは門です。誰でもわたしを通って入るなら救われます、と書いています。そして、牧草を見つけます。イエス様のところへ行き、イエス様の囲いにいれば、牧草を見つけます。これは、いのちが救われ、敵から守られると言ことです。また、イエス様は、「わたしを通してでなければ、だれひとりすくわれない」と言います。これは、イエス様ご自身が神であることの宣言でもあります。イエス様は、羊の門、救いの門です。聖書は、人は教えでは救われないことを明言しています。人は行いによっては救われないと明言しています。聖書は、人は教えである律法、十戒を守っても、救いに至らないことを何度も言っています。人は良い行いによってはよい人間にはなれません。かえって、高慢になってしまうのです。良い人間が良い行いをするのです。自分でよい人間になることはできません。三位一体の神である聖霊によって、良い人間に作り変えていただくのです。門であるイエス様を通して入るというのは、イエス様をあなたの救い主と信じることです。