HARECHAPE のすべての投稿

地の塩、世の光

2025年3月2日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
塩気を保つクリスチャンライフ:

塩気を保ったクリスチャンライフは、みことばに立った生活を送るということです。聖書の中心である福音をしっかり押さえて生活することです。それはイエス様の十字架と復活をしっかり信じているということにかかっています。聖書の中心メッセージは、神は御子イエス・キリストによりあなたや私を罪と死と悪魔から救ってくださったということです。私たち人間は自らの罪のゆえに、死と滅びに定められています。神は、人が滅びるのを惜しんで、そのすべて人の罪を神の独り子キリストに背負わせて、身代わりとして十字架刑で死に至らせたのです。そこに神の愛があらわされています。そればかりでなく死んで3日目に復活しました。それを信じる者はに永遠の命を与えてくださいます。クリスチャンが塩気を保つことは難しいことではありません。まず、イエス・キリストを信じる信仰によって生きることです。そして、あなたが塩気を保つ 生活をするためには聖書のみことばに立って生活することです。そのために、聖書を読み、聖書に親しみ、みことばを蓄えなければなりません。

世の光として輝くクリスチャンライフ:

クリスチャンは地の塩ですが、塩の塩気は味わってみなければわかりません。しかし、光は外に向けて放たれ周りの人々に届いていきます。そこには積極的に生きる証のクリスチャンライフがあります。失敗を恐れず、前向きに生きることです。それぞれが遣わされている三つの職域、教会、家庭、職場あるいは学校、それぞれのところで最善を尽くすことです。神を愛し、人を愛する生涯です。あなた方の光をマスの下においてはいけない、隠れていてはいけない、世に出て行きなさい。光は闇を吹き払うのです。光は、目に見えるものです。ある時はそれは灯台となり、迷った人を正しく導くでしょう。世の光として輝くために、私たちは何に努力しなければならないかです。努力するべきことは、信仰に励むことです。行いではないのです。すなわち、神との関係に生きることです。具体的には、神を恐れ、愛し、信頼することです。神との関係が正されると、行いは自然と出てきます。あなたの光は輝きます。塩は塩気を取り戻し、あなたは世の中に良い影響を及ぼします。火があるところには必ず光が生じます。そのように信仰がある人は必ずよい影響を周りに及ぼしていくのです。

<聖書>マタイの福音書5章13~16節
【新改訳2017】
5:13 あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。
5:14 あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
5:15 また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

ブドウ園のたとえ

2025年2月23日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
神に不満を抱く人の姿:

私たちは生まれながらの罪の性質により、自分が認められたい自分が評価されたいという思いが強くあります。他の人と比べてこれだけやったので自分はそれ相当の報酬を受けたいと考えます。人に対してはそれで良いかもしれません。しかしこと神に関してはそうではありませんね。イエス様は私たち信者に、「自分を捨てて自分の十字架を背負って私についてきなさい」とおっしゃっています。それはどういうことでしょうか?何度も言っているように私たちは礼拝の民です。礼拝をするということは、ヘブル語の言語では、ひれ伏す、と意味です。神の前にひれ伏す生活とはどういうものでしょうか。それは私たちの生活を神中心に整えなさいということです。週一回の主日礼拝を大切にし、日日みことばと祈りの生活をすることです。それは自分のことより神が喜ばれることを選んでいく人生です。神に栄光をお返しする人生です。神のなさることは最善であること信じつぶやかず疑わず神を信頼して行くことです。そうすれば神へのつぶやきは消え、感謝と喜びがついてきます。神に栄光を帰す人を、神はおもちいになります。自分が褒められるのではなく、神がほめたたえられるのです。すなわち、神を愛する人生です。言い換えればあなたによってあなたの隣人が祝福される人生です。そこにこそ本当の喜びがあるのです

値をつけることができない犠牲:

主人の招きに応じてブドウ園に来た人々に主人は、同じ1デナリをお与えになったのと同じように、イエス様の招きに応じて、イエスのもとに来たすべての人に「義」のプレゼントをくださるということです。そして、神から義とされた人は、罪赦されて永遠のいのちを持ちます。私たちのどんな罪も、神の義に覆われて消えてしまします。ちょうど、どんなに汚れた罪の服を着ていても、神の義の衣を羽織ると罪はおおわれて見えなくなるのと同じです。早くから、イエス様を信じて、ずっと教会で奉仕してきた人も、人生の後半に主を信じてクリスチャンになった人も、等しく、神の義が与えられます。永遠のいのちが与えられます。牧師や聖職者とよばれる人も、無名の信徒も、同じ神の恵みに浴するのです。それが、信じるすべての人に与えられる神の義です。イエス様の十字架と罪の赦しは、父なる神が、御子の命に代えてくださった値段をつけることのできない恵です。

<聖書>マタイの福音書20章1~16節
【新改訳2017】
20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。
20:2 彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。
20:3 彼はまた、九時ごろ出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。
20:4 そこで、その人たちに言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。』
20:5 彼らは出かけて行った。主人はまた十二時ごろと三時ごろにも出て行って同じようにした。
20:6 また、五時ごろ出て行き、別の人たちが立っているのを見つけた。そこで、彼らに言った。『なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。』
20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』主人は言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。』
20:8 夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』
20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。
20:10 最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。
20:11 彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。
20:12 『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』
20:13 しかし、主人はその一人に答えた。『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。
20:14 あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。
20:15 自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』
20:16 このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」

神の恵みを無にしない生き方

2025年2月16日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ガラテヤ人への手紙2章15~21節
【新改訳2017】
2:15 私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、「異邦人のような罪人」ではありません。
2:16 しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。
2:17 しかし、もし、私たちがキリストにあって義と認められようとすることで、私たち自身も「罪人」であることになるのなら、キリストは罪に仕える者なのですか。決してそんなことはありません。
2:18 もし自分が打ち壊したものを再び建てるなら、私は自分が違反者であると証明することになるのです。
2:19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。
2:20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。
2:21 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。

<要約>
信仰義認とは?:

信仰義認、それは、行いではなく、信仰によって神の前で正しいと認められることです。割礼や律法の規定を守らなければ救われないというユダヤ人クリスチャンの主張は、外面と整え、行いを立てていく生き方です。しかし、聖書によると、律法の行いや割礼、善行、施しなど、救われるためには要りません。ただ、信じるだけで救われるというのが、信仰義認です。信仰義認の教えは、私たち人間にはなじみが薄く、すぐに、行いによる義に走っていきがちです。律法を行うことで、神の前でも人の前でも正しい人間であると自らを主張しようとする性質が私たち人間にはあるのです。それに対して聖書が私たちに勧めている教えは以下のようです。罪のない神の独り子イエス様が、すべての人、そしてあなたの罪を赦すために、死を身代わりとなって十字架で味わってくださった。そのことをあなたは、ただ信じて受け止めることであなたの罪は赦され、代わりに永遠のいのちが与えられるのです。ただへりくだって神の恵みを空の両手でいただけばよいのです。そうすれば、過去現在未来までもすべての罪が赦され、神の子とされ、永遠の御国の世継ぎとされるのです。それが信仰義認の教理です。

神に生きるとは?: パウロは、「神に生きる」ために律法によって律法に死にました。私はキリスト共に十字架につけられました。そして、パウロが、この肉体にあって生きているのは、自分を愛し、自分のためにご自身を与えてくださった神の御子を信じる信仰によるのだと告白しています。それが「神に生きる」また「生きることはキリスト」の意味です。そこまでいかなくても、現在の私たちクリスチャンは具体的にどのように生きて行けばよいのでしょうか。私たちは洗礼により古い自分は死にました。十字架でイエス・キリストと共に死んだのです。そして、キリストが死んでよみがえったように、私たちもよみがえりの命をいただいています。永遠に続く祝福と喜びと希望の命です。やがて新天新地で生きる命です。それは、神に生きる、イエス様と一緒に生きる、自分の十字架を背負ってイエス様の後に従う人生です。クリスチャンライフは困難苦難の連続です。しかし勝利のゴールがある人生です。前向きに与えられた賜物を積極的に用いる生き方です。そこにこそ、神に生きる、生きることはキリストと言える、信仰の奥義があるのです。

不正の富で友をつくりなさいとは

2025年2月2日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
永遠の住まいに入る賢い行動:

この不正の管理人は主人の富を不正を働いてでも抜け目なく用いました。光の子である私たちに主人が託している財産とは何でしょうか。それは、十字架の罪の赦し永遠のいのち、それは救いの福音です。永遠の住まいに入る賢い行動、と題してお話しています。私たちは、不正の富を用いて、自分のために友を造りなさい、と勧められています。それは、この不正の管理人のように、自分の救いを貪欲に求めることです。それが永遠の住まいに入るために賢い行動であるということです。私たちは、裸で生まれ裸で世を去らなければなりません。もともと、私たちのすべては神のものです。私たちはそれを管理するように任されています。自分のものとしてはいけないのです。救いは神の一方的な賜物です。それを自分の内のとどめてはいけません。それらは、神から委託されたものです。ですから、神の恵みの賜物を用いて、友をつくる、すなわち宣教することです。

イエスを信じ神の国に入る:

イエス様が来られたのは、世界の歴史の分岐点でした。その前の時代を紀元前、BC、ビフォークライストと言います。旧約の時代は、イスラエルの民は救い主の到来を待ち望んでいました。預言者たちによって、救い主がやがて来ることが預言されていた時代です。旧約の時代はバプテスマのヨハネの時までです。救い主イエス・キリストが来られて、新しい時代に入りました。神の国に入る条件は、イエス・キリストをあなたの救い主と信じるだけでよいのです。もう少しいうと、あなたが、罪を悔いて、イエス・キリストがあなたの救い主であることを口で告白してバプテスマを受ければ救われるというのです。これほど簡単な救いの方法はありません。イエス・キリストの救いは、私たちのすべての罪を十字架で身代わりとなってその罪の負債を取り除いてくださった事によります。その結果、罪赦されて永遠のいのちが与えられるのです。救いは、罪と死からの救いと言えます。そして、イエス・キリストによる救いの福音は、今日、全世界に宣伝えられて、すべての人々に届けられようとしています。そして、「だれもかれも、無理にでもこれに入ろうとする」時代となったのです。

<聖書>ルカによる福音書16章1~16節
【新改訳2017】
16:1 イエスは弟子たちに対しても、次のように語られた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この管理人が主人の財産を無駄遣いしている、という訴えが主人にあった。
16:2 主人は彼を呼んで言った。『おまえについて聞いたこの話は何なのか。会計の報告を出しなさい。もうおまえに、管理を任せておくわけにはいかない。』
16:3 管理人は心の中で考えた。『どうしよう。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力はないし、物乞いをするのは恥ずかしい。
16:4 分かった、こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、人々が私を家に迎えてくれるようにすればよいのだ。』
16:5 そこで彼は、主人の債務者たちを一人ひとり呼んで、最初の人に、『私の主人に、いくら借りがありますか』と言った。
16:6 その人は『油百バテ』と答えた。すると彼は、『あなたの証文を受け取り、座ってすぐに五十と書きなさい』と言った。
16:7 それから別の人に、『あなたは、いくら借りがありますか』と言うと、その人は『小麦百コル』と答えた。彼は、『あなたの証文を受け取り、八十と書きなさい』と言った。
16:8 主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた。この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである。
16:9 わたしはあなたがたに言います。不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。
16:10 最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。
16:11 ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなければ、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょうか。
16:12 また、他人のものに忠実でなければ、だれがあなたがたに、あなたがた自身のものを持たせるでしょうか。
16:13 どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。」
16:14 金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、イエスをあざ笑っていた。
16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。
16:16 律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音が宣べ伝えられ、だれもが力ずくで、そこに入ろうとしています。

イエスの弟子であるとは

2025年1月26日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカによる福音書14章25~35節
【新改訳2017】
14:25 さて、大勢の群衆がイエスと一緒に歩いていたが、イエスは振り向いて彼らに言われた。
14:26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。
14:27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。
14:28 あなたがたのうちに、塔を建てようとするとき、まず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、費用を計算しない人がいるでしょうか。
14:29 計算しないと、土台を据えただけで完成できず、見ていた人たちはみなその人を嘲って、
14:30 『この人は建て始めたのに、完成できなかった』と言うでしょう。
14:31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようと出て行くときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうか、まず座ってよく考えないでしょうか。
14:32 もしできないと思えば、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和の条件を尋ねるでしょう。
14:33 そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません。
14:34 塩は良いものです。しかし、もし塩が塩気をなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。
14:35 土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられます。聞く耳のある者は聞きなさい。」

<要約>
自分を捨てて本当の自由を得る:

イエス様の弟子となるための条件は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってついてきなさいというものです。そして、イエス様のために命を投げ出しなさいということです。救いは神の一方的な恵みです。無条件の救いです。私たちの側の努力はいらないのです。しかし、神は私たちが方向転換をすること、今までのように自分中心の思いでなく、思いを変えて神に従っていくことを要求なさるのです。先に述べましたが、自分中心から神中心に生き方を変える時にあなたの人生は本当に幸せで豊かになるからなのです。この「財産をすべて捨てる」というのは、自分の持ち物に対する権利を放棄するということです。もともと、私たちは裸で生まれ裸で死んでいかなければなりません。この地上におけるすべての富も財産ももともとすべて神の物です。私たちはそれらを管理するように任されているのです。自分を捨てて本当の自由を得る、と題してお話してきました。私たちは、自分の持ち物や自分の才能、自分自身にしがみついて、手放すことができないために本当の自由を失うのです。むしろ、神のために自分の権利を放棄して、神中心の生活をするときに、神はあなたのすべてをお用いになり、本当の自由といのちを自分のものとすることができるのです。

イエスの弟子に与えられるいのちと平安:

あなたは、ありのままのあなたで、イエス様のところへ行きましょう。イエス様はあなたを休ませてくださいます。そして、あなたには平安が与えられます。なぜでしょうか。それは、イエス様があなたの重荷となっている様々なことを代りに担ってくださるからです。あなたの重荷、それは、家族であるかもしれません。財産であるかもしれません。また、自分自身であるかもしれません。人間関係であるかもしれません。仕事であるかもしれません。それらはあなたを疲れさすでしょう。ですからそれらを手放して、イエス様にお委ねしなさいというのです。皆さん、「いのちが一番大切」と思って、自分のいのちにしがみついていませんか。だから苦しいし、疲れるのではないでしょうか。いのちより大切なもの、私にとって、それはイエス様の愛です。イエス様によって与えられるいのちの平安と喜びがあります。 イエス様の弟子であることは決して難しい生き方ではありません。イエス様を信じて、イエス様を愛して、イエス様と一緒に歩むとこから始まるのです。それがイエス様の弟子に与えられるいのちと平安です。

狭い門から入りなさい

2025年1月19日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカの福音書13章22~30節
13:22 イエスは町や村を通りながら教え、エルサレムへの旅を続けておられた。
13:23 すると、ある人が言った。「主よ、救われる人は少ないのですか。」イエスは人々に言われた。
13:24 「狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。
13:25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってから、あなたがたが外に立って戸をたたき始め、『ご主人様、開けてください』と言っても、主人は、『おまえたちがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。
13:26 すると、あなたがたはこう言い始めるでしょう。『私たちは、あなたの面前で食べたり飲んだりいたしました。また、あなたは私たちの大通りでお教えくださいました。』
13:27 しかし、主人はあなたがたに言います。『おまえたちがどこの者か、私は知らない。不義を行う者たち、みな私から離れて行け。』
13:28 あなたがたは、アブラハムやイサクやヤコブ、またすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分たちは外に放り出されているのを知って、そこで泣いて歯ぎしりするのです。
13:29 人々が東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。
13:30 いいですか、後にいる者が先になり、先にいる者が後になるのです。」

<要約>
救いの道は狭い門から入る:

「狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。」民族の救い主を待ち望んでいた当時の宗教指導者たちは、ユダヤ人は神に選ばれた特別な民であり、ユダヤ人たちは自動的に救われ、天の御国には入れると考えていたようです。ところが、イエス様は、「そうではない。あなたがた律法を与えられて、神から特別に選ばれた民であっても、悔い改めないなら皆同じように滅ぶ」と言ったのです。そこである人の質問があります。これは自動的に救われ天国に行けるという問題ではなくて悔い改めるということがなければ、みな滅びるということであれば、救われる人は少ないのですかという質問になったのです。イエス様が提供される救いは、もっと人間の根源的な救いです。それはすべての人が抱えている問題です。罪と死の問題です。多くの人は、宗教は恐ろしいと思っています。また、無神論で、天に至る救いなんてあるものか、と思っています。また、楽観的に誰でもこの世の命が終われば、天国に入ると思っている方々もいるかもしれません。しかし、聖書は救いの道は狭いと書いています。ほとんどの人が天の御国に入れずして、死と滅びに至る、と聖書は述べています。

救われるためになすべきこととは:

救われるために努力しなさいというのです。誤解していただきたくないのは善行を積んだり人に施しをしたりすることが救いの条件ではありません。神を恐れ、愛し、信頼することです。それは行いではなく、心の姿勢です。油断せず、常に心の内で神を恐れ、愛し、信頼していくこと。神を中心とした人生を築き上げていくことです。すなわち信仰です。信仰によって救われるのです。私たちは信仰を持ち続けるために、どうすればいいでしょうか。難しくないです。日々の生活の中の努力です。毎日、神の心を向けます。すなわち、思いを変えて、つまり悔い改めて、祈り、聖書読みます。そして礼拝を守ること、聖餐式を守ることです。それらは行いです。それらの行いをしていくとき、信仰が伴います。行いをとおして働く信仰です。日々の生活の中での行い、それが信仰をつくるのです。イエス様は共にいてくださいます。ここにあるおひとりの人には最後まで落ちることなく救われることを望んでおります。お祈りしましょう

新しい天と新しい地

2025年1月5日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨハネの黙示録21章1~8節
【新改訳2017】
21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
21:3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
21:4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」
21:5 すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」
21:6 また私に言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。
21:7 勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
21:8 しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。」

<要約>
人の罪ゆえに滅びに定められた現代の天と地:

創世記によると、神が全世界をつくられて、人をおつくりになったとき、「世界は非常に良かった」と書いています。しかし、アダムの堕落以来、人類に罪が入り、罪と死と滅びがすべての人に及びました。その罪ゆえに人は神から遠く離れてしまいました。ですから、生まれながらの人は、罪人で、神を認めることができません。信じることができません。罪ゆえに人には死が入りました。そして人は滅ぶべき存在となったのです。しかし、神は、人と最初の麗しい信頼と愛の関係を取り戻し、幸せな関係を取り戻したいと願っておられる愛と憐みの神です。キリストは世を救うために来られました。そして、すべての人の罪を贖うために2千年前に十字架で身代わりの死を遂げました。それは、「あなたがあなたの罪ゆえに滅ぼされることのないためです。キリストはあなたが受けるべき罪の罰を代わりに受けてくださったことによります。」

新しい天と地に招かれた者に約束された勝利の人生:

やがて、キリストが再び来られて、最後の審判と新しい創造による新天新地ができます。それは、私たちにとって、神と共に生きるという新しい命の始まりなのです。ここに、キリストの十字架により、罪赦された人々の集まりである教会の姿が描かれてあります。それでは新しい人新しい天に招かれた者として相応しい生き方とは何でしょう。先ほども言いましたが、私たちは生まれながらの罪びとです。そして同時に、罪許された罪びとです。罪の責めの一切はイエス様が十字架で追ってくださいました。ですから、赦された罪人は、罪に支配されません。では、新天心地に招かれた罪人のふさわしい生き方とは何でしょうか。それは、これからは、自分の弱さや罪に翻弄されることなく赦された罪びとして前向きに生きることです。失敗を恐れず神を愛し人を愛する生き方に注力していることです。神を愛し、人を愛する生き方とは具体的には何でしょうか。勝利を得るものとは何でしょうか?それは、日々、最も小さな、最も弱い姿で私たちの前に現れてくださる小さなイエス様に心を向ける生き方です。そして、そのようなイエス様を見上げる時に、キリストはあなたを新しく作り替えてくださるのです。すなわち、弱さを覚えて、キリストを見上げる者をキリストは新しく作り変えてくださるのです。ですから勝利を得るものはこれらのものを相続するのです。

古い人を脱ぎ捨て新し人を着る

2024年12月29日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
神なき人生のむなしさ(17~22節)

クリスチャンになるということは、単にキリスト教に入信することではありません。クリスチャンになることは、新生、新しく生まれることです。人は神に似せてつくられ、神のように正義を愛し、悪を憎んでいました。神は、人に曲げることのできない自由意思をお与えになりました。その自由意思をもって、人は神を愛し信頼する交わりの中で真の自由を得ていたのです。しかし、人は神に反駁して、自分を神の上に置いたのです。その罪により、すべての人は生まれながらの罪人です。そして、神を心の中心から追い出してしまいました。それ以来すべての人は、神なき人生を歩んでいます。すべての人は、腐敗した古い人を脱ぎ捨てて、新しい人に生まれ変わらなければなりません。それが、バプテスマによる洗いと新生です。私たちは、罪を悲しみ、悔い改めて、イエス・キリストを信じなければなりません。そして、キリストの聖さ、正しさ、愛、真実を身につけようと努力するのです。

キリストにある新しい人生(23~32節)

クリスチャン生活の実践には、対神関係のもの、対人関係のもの、対自関係のものがあります。対神関係と対人関係はコインの表裏です。神を愛していますが、人は愛しません。ということはありえないのです。神は目に見えない方ですので、神を愛するということは、人を愛するということを通して表されるからです。神を愛すると言う事は人を愛することです。逆に人を愛するということは神を愛するということです。キリストにある新しい人生と題してお話してきました。パウロは私たちの中の腐敗していく古い人を脱ぎ捨てなさいと言っています。その古い人は、生まれながらの罪びとで死ぬべき古い人です。神を認めない、神を信じない、自分中心の人です。古い人を脱ぎ捨てるというのは、パウロは別の言い方をしています。「キリストとともに十字架につけられた」と言っています。つまり、罪に支配された古い人を殺して、あるいは脱ぎ捨てて、新しい人に生きことです。それは、神を信じてパプテスマを受けることで私たちの内に起こることです。キリストにある新しい人生とは、古い自分を脱ぎ捨てて、キリストを着る生き方です。新しい人生です。神を愛し、人を愛する人生です。失敗を恐れずに、前向きに生きる生き方です。

<聖書>エペソ人への手紙4章17~32節
【新改訳2017】
4:17 ですから私は言います。主にあって厳かに勧めます。あなたがたはもはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。
4:18 彼らは知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、頑なな心のゆえに、神のいのちから遠く離れています。
4:19 無感覚になった彼らは、好色に身を任せて、あらゆる不潔な行いを貪るようになっています。
4:20 しかしあなたがたは、キリストをそのように学んだのではありません。
4:21 ただし、本当にあなたがたがキリストについて聞き、キリストにあって教えられているとすれば、です。真理はイエスにあるのですから。
4:22 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、
4:23 また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、
4:24 真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。
4:25 ですから、あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。
4:26 怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。
4:27 悪魔に機会を与えないようにしなさい。
4:28 盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。
4:29 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。
4:30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。
4:31 無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。
4:32 互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。

クリスマスは気づきの時

2024年12月22日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

ルカの福音書2章11~14節
【新改訳2017】
い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」
2:13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
2:14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」

<要約>
私たちは、周りに当たり前にあると思っていて、大切なことに気づいていないことがあるのではないでしょうか。私たちの体や生活に必要なすべてのものが備えられて与えられていることを。例えば、食べ物や衣服、住居や家庭、家族や職場の交わり、など。神があなたの近くにおられてあなたのすべての必要を満たそうと、あなたを愛しておられる神がおられるのに気付かないのです。いずれにせよ、私たちの心は暗く、光を当てられなければ、何も見えないのです。近くにいてくださる神に気付かないことから隣人の必要にも気づかない、私たちの内にはそういう、自分中心の人間の姿があるのです。クリスマスは、もとから世におられる神が人となられてこられたことです。神は天の御座を捨てて、へりくだって、私たちに現れてくださいました。私たちは共におられる神ご自身に気づくのです。そして、自分に気づくのです。普段私たちの目が見なかったこと、思いも浮かばなかったこと、に気づくのです。クリスマスは気づきの時です。神は共にいてくださった。私の過去から現在までともに歩んでくださった。私のためにすべての良いものを備えてくださった。あらゆる危険から守ってくださり、これからも守ってくださることを。

  (クリスマスストーリー):クリスマスに実際にあったお話です。自分が愛されて、大切にされていることに気付いたお話です。

御子キリストは、神の私たちすべての人へのプレゼントです。キリストの十字架と復活による罪の赦しと永遠のいのちは、無償で提供された神のプレゼントです。私たちは、それはをただ、空の両手を差し出して、受けとるだけなのです。私たちは、生まれながらの罪びとですが、イエス様の十字架と復活により、罪赦された罪人となりました。これからは、赦された人として、神を愛し、人を愛する、人となりましょう。罪赦され、永遠のいのちが与えられ、希望と喜びの人生に入るのです。クリスマスは気付きの時です。もう一度、私たちはどんなに愛されており、愛されて現在に至っているかを確認するのです。それは、ベツレヘムの家畜小屋で御子イエス・キリストを通して示された神の愛です。

クリスマスの衝撃

2024年12月15日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
闇にとどまる人間社会;

多くのユダヤ人は、救い主がユダヤ人の王として来られ、社会が不安定になるのを恐れていました。現状にあまんじ、変化を恐れていたのです。そこに当時のユダヤ人を含めて人間の罪の姿があります。教会やキリスト教に深入りしたくない、私にはキリストは必要がないという声を聞くのです。結果的に、私たちの罪を取り除いてくださるキリストを拒むのです。正しいことを実行し、正しいことを信じる力がない人間の姿があるのです。闇にとどまる人間社会と題して話しました。多くの人々は、闇にとどまることを良しとして、その罪ゆえに、死と滅びに定められている、と聖書は警告しています。しかし、神は憐れみの神です。人が滅びに向かっていくことを惜しんで悲しんでおられます。そのために、罪のない神の独り子イエス様は十字架で私たちのすべての罪を背負い身代わりとなって死んでくださったのです。そればかりでなく、3日目に復活し死を打ち破り復活のいのちを与えてくださいました。もう死の苦しみは過ぎ去りました。死はいのちに至る門となり、永遠に続く希望と喜びの人生が待っています。

クリスマスはこの上もない良い知らせ:

キリストはご自分の民に拒絶されました。しかし、異邦人に歓迎されました。彼らは、この幼子を人類の救い主、神の子、キリストとして認識したのです。そのお姿は、最も低くなってこられたキリストです。私たちを支配するのではなく、人々に仕えるものの姿で来られました。軍隊に守られた王ではなく、貧しい無防備な幼子でした。それは、力を持って力のある人々を救うのではなく、貧しいものとなって心の貧しい人々を救うために来られたのです。それとは反対に、ご自身を拒絶する人々、「救いはいらない」、「私にはキリストは必要がない」、と言う人々に対しても、忍耐を持って待っておられるのです。それは、ご自身を害するもののために祈られたことからもわかります。キリストは私たちを赦し生かすために来られました。最も貧しい姿で、しかも、私たちの罪を背負って十字架に付けられるために来て下さったのです。東方の博士たちは、幼子イエスに会って、この上も無く非常に激しく喜んだのです。私たちもキリストをこのように歓迎しているでしょうか。私たちもキリストの証人として使命をいただいて自分の使わされている場所で主を証いたしましょう。

<聖書>マタイによる福音書2章1~12節
【新改訳2017】
2:1 イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」
2:3 これを聞いてヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった。
2:4 王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
2:5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。
2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」
2:7 そこでヘロデは博士たちをひそかに呼んで、彼らから、星が現れた時期について詳しく聞いた。
2:8 そして、「行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言って、彼らをベツレヘムに送り出した。
2:9 博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。
2:10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
2:11 それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2:12 彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。