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献金は信頼と献身の表れ

2025年10月5日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
最高権威者、圧倒的勝利者キリスト:

イエス様は十字架により私たちを罪と死と悪魔から解放して、完全にお救いになります。圧倒的な勝利者として今も、神の右の座につかれ、世の終わりにもう一度来られて、すべての悪を滅ぼし、信じる者を死と滅びと悪魔から救い出してくださるのです。キリストはダビデの家系の中に組み込まれダビデの子孫としてお生まれになりました。しかし、イエス様の証言から、イエス様は真の神でした。そして、神が処女マリヤが聖霊により身ごもり誕生したのが、イエス・キリストです。そのことからイエス様は罪のない神の独り子と呼ばれます。ですから、私たちはイエス様に全き信頼を置いて、すべてを委ねて安心して歩んでいいのです。今の困難や苦難はやがてキリストにより圧倒的な勝利にのまれます。この方に信頼して、安心していきましょう。私たちに必要なのは、もうしばらくの忍耐です。

外面を繕う律法学者と貧しいやもめ:

イエス様は献金箱に献金を投げ入れる一人の貧しいやもめをご覧になり、神に信頼し、全てを委ねるその貧しいやもめを神は大変喜びお褒めになりました。自分の身体もいのちもすべてを神が支えてくださるという信頼に基づいた行動です。ここではっきりわかることは、献金は額でないということです。しかし、神の求めるものは、献金で表される献身と神への信頼です。神は、私たちの罪を赦し私たちを永遠の滅びから救い出してくださいました。この大きな恩恵に対して、溢れるばかりの感謝を捧げることです。献金は神の恵みに対する感謝の応答です。大切なのは、「いやいやながらでなく、強いられてでもなく」喜んで感謝して捧げることです。アブラハム以来、イスラエルの民は持っているものの十分の一を祭壇のいけにえとしてささげるようになりました。また、それらは、祭司やレビ人の収入となりました。十一献金には大きな恵が伴います。人は献金することで、神への信頼が深まり、神の大きな愛とあわれみと助けを体験するのです。律法学者は、自分を正しく見せることをに注力しました。自分の弱さを隠し、傲慢になり、他の人を見下すような生き方です。それに対してやもめは自分の貧しさ、弱さを知り、謙遜でした。先のことがわからなくても神をどこまでも信頼していきます。不安定な現代社会で平安と感謝と希望に生きていくためには、人に頼る生き方ではなく、目には見えませんが、生きて働かれる神に頼って生きることです。

<聖書>マルコによる福音書12章35~44節
【新改訳2017】
12:35 イエスは宮で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、キリストをダビデの子だと言うのですか。
12:36 ダビデ自身が、聖霊によって、こう言っています。『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」』
12:37 ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」大勢の群衆が、イエスの言われることを喜んで聞いていた。
12:38 イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちに気をつけなさい。彼らが願うのは、長い衣を着て歩き回ること、広場であいさつされること、
12:39 会堂で上席に、宴会で上座に座ることです。
12:40 また、やもめたちの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ります。こういう人たちは、より厳しい罰を受けます。」
12:41 それから、イエスは献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。
12:42 そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
12:43 イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。
12:44 皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」


永遠のいのちを得るために

2025年9月28日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ルカによる福音書10章25~37節
【新改訳2017】
10:25 さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
10:27 すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
10:29 しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」
10:30 イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。
10:34 そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」

<要約>
永遠のいのちを失っている人間:

この律法学者の隣人理解では、異邦人は含まれず、罪人と言われていた取税人、遊女なども隣人には含まれませんでした。イエス様の説く隣人はユダヤ人ばかりでなく異邦人も含まれます。また、同胞ばかりでなく敵をも含んでいるのです。イエス様は良きサマリヤ人の例話を示されました。イエス様は、隣人とは、だれかをお示しになりました。自分と同様に隣人を愛しなさい、これは隣人愛の実践ということがいえるでしょう。しかし、その前に、「全身全霊を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」との勧めがあります。いのちの源である神を全身全霊を尽くして、愛しなさいということです。永遠のいのちを失っている人間と題してお話しています。あなたを造りあなたにいのちを与えておられる神のいのちとつながっていないならば、霊や魂のいのちは死んでいるといえます。すなわち神のいのちとつながっていないならば、わたしたちのいのちはこの肉体のいのちだけで永遠のいのちはありません。最初の人間は神を知り、神を愛していました。ですから神のいのちとつながり永遠のいのちに生きる者でした。しかし、すべての人は、神の戒めを破り、神と向き合うことをやめ、自ら神のいのちから離れました。死ぬものとなったのです。

信仰を通して受ける永遠のいのち

イエスさまは、そのように本来の姿を失い、死と滅びに定められている私たち人間に向き合って下さるのです。生まれながら私たちは神から遠く離れていて、神の命を失っているものたちです。創造主である神をみとめないこと自体、罪です。そしてその罪のために本当の命を失って人間は滅びに向かっていると聖書は主張しています。私たち人間がそのままでは自らの罪によって滅んでしまうのを惜しみ、罪のない神の独り子であるイエス・キリストを私たちの身代わりに十字架で断罪したのです。その起こりえないことを父なる神は、してくださったのです。キリストがすべての人の罪を贖ってくださったのです。その神が、ここにおられる皆さん一人一人と向き合ってくださいます。私たちのすべての罪を十字架の上で赦し信じる者に永遠のいのちをお与えくださいます。あなたは信仰によってそれを受け取り自分のものとするのです。神が無代価、無料で提供してくださっている永遠のいのちをぜひ自分のものとして受け取ってください。

天国はイエス様の祝宴

2025年9月21日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
神との関係を無視する人間:

神は最初にイスラエルを選ばれました。イスラエル民族を通して、すべての民族を祝福し、人類を罪から救おうとしました。それに対して、民の指導者たちは神を拒絶し続けました。そのことがこのたとえ話です。これは一見イスラエル民族だけの問題のようですが、私たちすべての人間の問題でもあります。私たちは目先のことに心を奪われて、心で見えるはずの神を見ることができなくなっています。そして、神の存在を心で否定しています。今日の個所では、神が選んで聖なる国民としたイスラエル、ユダヤ民族について、歴史の中で、彼らが、真の神を無視し、捨てたことをイエス様は怒られました。その間、真の神に立ち返るように何度も預言者を送りましたが、彼らは無視し、殺してしまいました。そして、最後に神の御子、王国の王子であるイエス・キリストをお送りになりましが、十字架で殺してしまったのです。しかし、そのようなイスラエルに対して、神は最初の約束を忘れることはありません。これは、神のあわれみと約束によりメシヤ、キリストによる十字架の贖いがなされること。それにより、イスラエルの罪を消し去ってくださることの預言です。あなたに関心をもって心配しておられる神を無視することはやめましょう。

礼服(キリスト)を着て御国に入る:

神の救いに与る条件は、良い人間、悪い人間など、その人の人格は関係ありません。ただ、神が提供してくださった礼服であるイエス・キリストを着るということだけでよいのです。これは、イエス・キリストを救い主として信じることでよいのです。これが神の恵みです。想像するに、招かれた人々は大通にいた人々です。ですから、礼服の下は普段着で汚れていたでしょう。内側はどんなに汚れていても礼服を着ていたのでそれでオーケーということです。私たちも自分の内側を見ると、罪、けがれでいっぱい、王子の祝宴にふさわしくないと感じる人もいるかもしれません。しかし、キリストを着ていればそれでオーケーということです。それは、キリストを信じて心の内にお迎えすることです。すべての人にイエス・キリストの救いが提供されています。しかし、洗礼を受けてキリストを着る、すなわち救われる人は少ないと言えます。あなたの神がお与えくださる祝福を味わい、また、それを知らない人々に伝えていきましょう。

<聖書>マタイによる福音書22章1~14節
【新改訳2017】
22:1 イエスは彼らに対し、再びたとえをもって話された。
22:2 「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。
22:3 王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった。
22:4 それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」と。』
22:5 ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、
22:6 残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。
22:7 王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った。
22:8 それから王はしもべたちに言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。
22:9 だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。』
22:10 しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。
22:11 王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。
22:12 王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。
22:13 そこで、王は召使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』
22:14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」

プリムの祭り

2025年9月7日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>エステル記4章1~17節
【新改訳2017】
4:1 モルデカイは、なされたすべてのことを知った。モルデカイは衣を引き裂き、粗布をまとい、灰をかぶり、大声で激しくわめき叫びながら都の真ん中に出て行った。
4:2 そして王の門の前のところまで来た。王の門の中には、粗布をまとったままでは入ることができなかったのである。
4:3 王の命令とその法令が届いたどの州においても、ユダヤ人の間には大きな悲しみがあり、断食と泣き声と嘆きが起こり、多くの人たちは粗布をまとって灰の上に座った。
4:4 エステルの侍女たちとその宦官たちが入って来て、彼女にこのことを告げたので、王妃は非常に痛み苦しんだ。彼女はモルデカイに衣服を送り、それを着せて、粗布を脱がせようとしたが、彼はそれを受け取らなかった。
4:5 エステルは、王の宦官の一人で、王が彼女に仕えさせるために任命していたハタクを呼び寄せ、モルデカイのところへ行って、これはどういうわけか、また何のためかと聞いて来るように命じた。
4:6 ハタクは王の門の前の、町の広場にいるモルデカイのところに出て行った。
4:7 モルデカイは自分の身に起こったことをすべて彼に告げ、ハマンがユダヤ人を滅ぼすために王の宝物庫に納めると約束した、正確な金額も告げた。
4:8 また、ユダヤ人を根絶やしにするためにスサで発布された法令の文書の写しを彼に渡した。それは、エステルに見せて事情を知らせ、そして彼女が王のところに行って、自分の民族のために王からのあわれみを乞い求めるように、彼女に命じるためであった。
4:9 ハタクは帰って来て、モルデカイの伝言をエステルに告げた。
4:10 エステルはハタクに命じて、モルデカイにこう伝えた。
4:11 「王の家臣たちも王の諸州の民も、だれでも知っているように、召されないのに奥の中庭に入って王のところに行く者は、男でも女でも死刑に処せられるという法令があります。ただし、王がその人に金の笏を差し伸ばせば、その人は生きながらえます。私はこの三十日間、まだ王のところへ行くようにと召されていません。」
4:12 彼がエステルのことばをモルデカイに告げると、
4:13 モルデカイはエステルに返事を送って言った。「あなたは、すべてのユダヤ人から離れて王宮にいるので助かるだろう、と考えてはいけない。
4:14 もし、あなたがこのようなときに沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。しかし、あなたも、あなたの父の家も滅びるだろう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない。」
4:15 エステルはモルデカイに返事を送って言った。
4:16 「行って、スサにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食してください。三日三晩、食べたり飲んだりしないようにしてください。私も私の侍女たちも、同じように断食します。そのようにしたうえで、法令に背くことですが、私は王のところへ参ります。私は、死ななければならないのでしたら死にます。」
4:17 モルデカイは出て行って、エステルが彼に頼んだとおりにした。

<要約>
悩み不安を通して神に近づく:

エステルには、召されていないのに王の前に出るのはとても不安なことだったでしょう。エステルの決心は、次のみことばに現れています。「たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」信仰の決断は、先がわかってするものではありません。先は見えないが、神は最善をなしてくださる。だから、エステルも死ななければならなくても自分に与えられた最善の決断をしたのです。私たちが、不安になるのは、実は、みこころです。なぜなら、その時に、神に叫び求めるからです。そうして、もう一度、神の約束を再確認して生きていくのです。これがクリスチャンライフです。そして、み言葉の約束を確認します。そして脱出の道が備えられます。復活の希望をいただいて、永遠の御国を目指して進んでいくのです。このようにして、信仰者は神に近づき、神と親しくなります。

マイナスをプラスに代えてくださるキリスト:

その日の宴会の席上でも王はエステルに尋ねます。「あなたは何を願っているのか。それを授けてやろう。何を望んでいるのか。王国の半分でも、それをかなえてやろう。」エステルは丁重に応えます。もう一度明日に宴会においでください。王は、その夜はなかなか眠れませんでした。そして、過去の記録である年代記を読ませて、モルデカイの功績に気付くのです。モルデカイが以前、王の暗殺計画を未然に察知して王をその危機から救ったことに対して、王はモルデカイにまだ、報いを与えていなかったのです。その日の夕に二晩目のエステルの宴会があり、ハマンはせかされて宴席に出ました。そこではじめて、エステルは、民族の救いを願い、ハマンの策略を王に述べるのです。ハマンはモルデカイを木にかけて処刑するために準備したその木に自らかけられて殺されてしまいました。その日は、ユダヤ人にとって、悲しみが喜びに変わった日、喪が祝いの日に変わった月として、祝宴と喜びを祝う日となりました。過去を見ると苦しく大変だったことであるかもしれませんが、その時も神は動けなくなったあなたを背負い運んでくださり、また、ともにいて助けてくださったのです。神はあわれみ深く素晴らしい、と賛美せずにはいられないのではないでしょうか。信じて歩むなら、神は、マイナスと思えることもプラスに代えてくださるのです。

ヨブの苦難から学ぶ

2025年8月31日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>ヨブ記19章7~27節
【新改訳2017】
19:7 見よ。私が「暴虐だ」と叫んでも、答えはなく、叫び求めても、さばきは行われない。
19:8 神は私の道をふさいで通らせず、私の通り道に闇を置かれた。
19:9 神は私から栄光をはぎ取り、頭から冠を取り去られた。
19:10 神は四方から私を打ち倒し、私は消え去る。神は私の望みを木のように根こそぎにされる。
19:11 神は私に向かって怒りを燃やし、私をご自分の敵のように見なされる。
19:12 その軍勢は一つとなって進んで来て、私に向かって傾斜路を築き上げ、私の天幕の周りに陣を敷く。
19:13 神は私の兄弟たちを私から遠ざけ、知人たちはすっかり私から離れて行った。
19:14 親族は見放し、親しい友も私を忘れた。
19:15 私の家に身を寄せる者や召使いの女たちも、私をよそ者のように見なし、私は彼らの目に他人となった。
19:16 私がしもべを呼んでも、彼は返事もしない。私は自分の口で彼に懇願しなければならない。
19:17 私の息は妻にいやがられ、身内の者たちに嫌われる。
19:18 若輩までが私を蔑み、私が立ち上がると、私に言い逆らう。
19:19 親しい仲間はみな私を忌み嫌い、私が愛した人たちも私に背を向けた。
19:20 私は、骨が皮と肉にくっつき、かろうじて生き延びている。
19:21 あなたがた、私の友よ。あわれんでくれ。私をあわれんでくれ。神の御手が私を打ったからだ。
19:22 なぜ、神のように私を追いつめるのか。なぜ、私の肉で満足しないのか。
19:23 ああ今、できることなら、私のことばが書かれ、書物に記されればよいのに。
19:24 鉄の筆と鉛によって、いつまでも岩に刻みつけられればよいのに。
19:25 私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。
19:26 私の皮がこのように?ぎ取られた後に、私は私の肉から神を見る。
19:27 この方を私は自分自身で見る。私自身の目がこの方を見る。ほかの者ではない。私の思いは胸の内で絶え入るばかりだ。

<要約>
苦難の意味と神の愛:

ヨブは、ついに、苦悩の中にいる自分を贖ってくださるお方、つまり代価を払って買い取ってくださるお方、その方は、土のちりの上に立っておられることを、見るのです。ヨブ自身と同じ土俵に立ち、ヨブと同じ姿となりヨブの弱さと苦悩を担って立っておられるお方です。ヨブは霊の目で見ています。それはまさしく、ヨブの苦難を共に背負い立っておられる救い主イエス・キリストです。神はヨブの信仰を試すために、ヨブがサタンの手にかかることをお許しになりました。そのことでヨブは苦難の中に陥れられるのですが、このことを通して神ご自身がいかなる方かをお示しになりました。神は私たちに無条件で御前にひれ伏すことを求めておられるのです。先が見えない、今の状況がどうなるか分からない、しかし、神に信頼していく、これがまことの信仰であります。この試練を通してヨブは神に近づくことができました。私たちは、順境の中でも逆境の中でも、神を信頼し続けることです。なぜなら、神はあなたを御子キリストをくださる程に、愛しいておられるからです。

苦難を通して成長し神の栄光を見る:

三浦綾子さんは語られました。「苦難と不幸は全く違う」ということ。脊椎カリエスで8年間もギブスベッドであおむけに横たわり寝がえりもできない生活を送られたのに、そのことで、自分は不幸だ、とはひとことも言っていません。その苦難を通して、キリストに出会い、救いの喜びに生きていたことが彼女の著書の中で証されています。私たち信仰者は苦難を通して成長してついには神の栄光を見るのです。福音の中にその力があります。罪のない神の御子キリストが、私たち人間の一切の罪とそれに伴う苦難や永遠の裁きを身代わりとなって担って十字架で死んでくださいました。キリストの十字架とそれに続く復活により、私たちの罪は赦され、裁きの代わりに永遠のいのちが与えられているのです。信じる者は無条件で神の恵みと祝福にあずかれるからです。神は苦労に対して必ず報いを用意してくださっています。死からも完全にお救いになることがおできになるお方は私たちのどんな状況の中からも救ってくださいます。クリスチャンになれば苦しいことも病気もなくなるというわけではありませんが、どんな状況の中でもこの揺るがない平安と満足が保証されているのです。

自由なしもべとして生きる

2025年8月24日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マルコによる福音書10章32~45節
【新改訳2017】
10:32 さて、一行はエルサレムに上る途上にあった。イエスは弟子たちの先に立って行かれた。弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二人をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを話し始められた。
10:33 「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。
10:34 異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」
10:35 ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」
10:36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」
10:37 彼らは言った。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」
10:38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」
10:39 彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。
10:40 しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」
10:41 ほかの十人はこれを聞いて、ヤコブとヨハネに腹を立て始めた。
10:42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
10:44 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
10:45 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」

<要約>
先頭に立ちたい人間:

彼らには、大きな誤解がありました。弟子たちは、イエス様がイスラエルの王となって、かつてのダビデ、ソロモンが打ち建てた王国を再建して、大国の圧政から民を解放するために、今、エルサレムに向かうものと考えていたようです。そこで、イエス様は「あなた方は何を求めているかわかっていない」と言われました。人は、人々の中にあって栄誉を得たい、より上に立ちたいと思います。歴史は、人間同士の争いの歴史です。すなわち、権力を求めて争うのです。それは人の上に立って、人を思うように動かしたい、という人間の性質のためです。人間は神のために造られました。しかし、ある時、「あなたは神のようになれる」とサタンにそそのかされました。そして、神を押しのけ、神の立場に自分を置いたのです。それ以来、人類は人間中心主義です。そのように、背きの罪により、人間は神から離れて、自分中心に生きるようになりました。それが受け継がれた罪です。自分を優先していきたい、自分を先に立てたいという思いはそこから来ています。私たち人間の本質は自分が尊ばれて、持ち上げられたいのです。

しもべとなられた神:

万物をその御手の中に治めている神が、しもべとなり、仕えるものとなり、十字架でいのちを差し出してくださいました。それは、人間をあなたを死と滅びから救い出して真の人間として生きるためです。その動機は神の愛です。イエス様はしもべとして生きることの模範を示してくださいました。しもべは主人に束縛されて自由がありません。しかし、パウロは、クリスチャンは自由であると言っています。ルターは、キリスト者の自由という本の中で、以下のようにクリスチャンを定義しています。「キリスト者は、すべての者の上に立つ自由の王であって誰にも服従しない。同時に、キリスト者はすべての者に仕えるしもべであって誰にでも服従する。」と。クリスチャンは、キリストを信じる信仰により、すべての罪が赦されて、罪の呪いから自由になっています。死からも自由にされています。この肉体は滅んでも永遠の命があります。それはまさしく自由の王だということです。ですから、その自由をもって、すべての人に仕えるしもべになることができるのです。何者にも強制されないその自由な意思をもって、神を愛し、人を愛するのです。

イエスの服に触れる女

2025年8月17日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>マルコの福音書5章24~34節
【新改訳2017】
5:24 そこで、イエスはヤイロと一緒に行かれた。すると大勢の群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
5:25 そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。
5:26 彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。
5:27 彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。
5:28 「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。
5:29 すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。
5:30 イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」
5:31 すると弟子たちはイエスに言った。「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っています。それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」
5:32 しかし、イエスは周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた。
5:33 彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。
5:34 イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」

<要約>
罪により不確実となった人生:

私たちの生きている世界は不確実な世界ということができます。何が起こるかわからない、事故や戦争で突然の惨事に見舞われる人々のニュースを見て、明日は我が身かもしれない。なぜ、そのような惨事が起きるのでしょうか。もとをただせば、アダムの罪によるのです。アダムの罪によって、病気と死が人類に入りました。この女性にも、12年前に想定外のことが彼女の身に起こったのです。聖書は、希望の時の訪れがあることを示唆しています。その希望はどこから来ているのでしょうか。確かなものがあるからです。何でしょうか。それは、「神はあなたを愛している」ということです。神の子イエス・キリストを通して、神ご自身の愛を示してくださいました。それは最も確かなことです。キリストは、罪のために不条理、不確実の中に陥れられた人間を救うために十字架で死んでくださったのです。私たちは、その神が提供した罪の赦しを受け取り、永遠の命を自分のものとすることができます。私たちの人生においても予期しないことが度々起こり先が見えなくなり不安になります。しかし、キリストの救いが与えられています。主を信じるものは個人の人生においても、やがて来る世の終わりの時も、神の絶対的な主権の中で、すべてが喜びと希望と感謝に変えられるのです。

信じてイエス様に近づき救われる:

彼女は失望に失望を重ねてきた女性でしたが、イエス様なら自分の病を治すことができる、お着物にさわるだけでも、きっと治ると信じたのです。わたしたちは、この女性の必死に神を求める信仰の姿勢を学ぶ必要があります。彼女の心はイエス様で満たされていたのです。「あなたの信仰があなたを救った」とありますが、これは、単に病気が治ることばかりでなく、全人的な救いをお与えになったことを意味します。彼女は信仰によって病ばかりでなく、罪の赦しと永遠の命をいただいたのです。これがイエス様のお与えになる救いです。罪の赦しと永遠の命です。この後、イエス様が、十字架にかかり人類の罪を贖ってくださったことによるのです。聖書にははっきりと書かれています。私たちが救われるにはこのイエス・キリストしかいないということです。罪と死と滅びからの完全な救いです。永遠のいのちと消して失望に終わらない希望です。「この方しかいない」の信仰にもう一度立ちましょう。

むなしい生き方からの解放

2,025年7月27日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>Ⅰ列王記18章19~40節
新改訳2017
18:19 今、人を遣わして、カルメル山の私のところに、全イスラエル、ならびにイゼベルの食卓に着く、四百五十人のバアルの預言者と四百人のアシェラの預言者を集めなさい。」
18:20 そこで、アハブはイスラエルのすべての人々に使者を遣わして、預言者たちをカルメル山に集めた。
18:21 エリヤは皆の前に進み出て言った。「おまえたちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか。もし【主】が神であれば、主に従い、もしバアルが神であれば、バアルに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。
18:22 そこで、エリヤは民に向かって言った。「私一人が【主】の預言者として残っている。バアルの預言者は四百五十人だ。
18:23 私たちのために、彼らに二頭の雄牛を用意させよ。彼らに、自分たちで一頭の雄牛を選び、それを切り裂いて薪の上に載せるようにさせよ。火をつけてはならない。私は、もう一頭の雄牛を同じようにし、薪の上に載せて、火をつけずにおく。
18:24 おまえたちは自分たちの神の名を呼べ。私は【主】の名を呼ぶ。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」民はみな答えて、「それがよい」と言った。
18:25 エリヤはバアルの預言者たちに言った。「おまえたちで一頭の雄牛を選び、おまえたちのほうから、まず始めよ。人数が多いのだから。おまえたちの神の名を呼べ。ただし、火をつけてはならない。」
18:26 そこで彼らは、与えられた雄牛を取って、それを整え、朝から真昼までバアルの名を呼んだ。「バアルよ、私たちに答えてください。」しかし何の声もなく、答える者もなかった。そこで彼らは、自分たちが造った祭壇のあたりで踊り回った。
18:27 真昼になると、エリヤは彼らを嘲って言った。「もっと大声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席を外しているか、旅に出ているのだろう。もしかすると寝ているのかもしれないから、起こしたらよいだろう。」
18:28 彼らはますます大声で叫び、彼らの慣わしによって、剣や槍で、血を流すまで自分たちの身を傷つけた。
18:29 このようにして、昼も過ぎ、ささげ物を献げる時まで騒ぎ立てたが、何の声もなく、答える者もなく、注目する者もなかった。
18:30 エリヤが民全体に「私のそばに近寄りなさい」と言ったので、民はみな彼に近寄って来た。彼は、壊れていた【主】の祭壇を築き直した。
18:31 エリヤは、【主】がかつて「あなたの名はイスラエルとなる」と言われたヤコブの子たちの部族の数にしたがって、十二の石を取った。
18:32 その石で、彼は【主】の御名によって一つの祭壇を築き、その祭壇の周りに、二セアの種が入るほどの溝を掘った。
18:33 それから彼は薪を並べ、一頭の雄牛を切り裂いて薪の上に載せ、
18:34 「四つのかめに水を満たし、この全焼のささげ物と薪の上に注げ」と命じた。それから「もう一度それをせよ」と言ったので、彼らはもう一度そうした。さらに、彼が「三度目をせよ」と言ったので、彼らは三度目をした。
18:35 水は祭壇の周りに流れ出した。彼は溝にも水を満たした。
18:36 ささげ物を献げるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、【主】よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのおことばによって私がこれらすべてのことを行ったということが、今日、明らかになりますように。
18:37 私に答えてください。【主】よ、私に答えてください。そうすればこの民は、【主】よ、あなたこそ神であり、あなたが彼らの心を翻してくださったことを知るでしょう。」
18:38 すると、【主】の火が降り、全焼のささげ物と薪と石と土を焼き尽くし、溝の水もなめ尽くした。
18:39 民はみな、これを見てひれ伏し、「【主】こそ神です。【主】こそ神です」と言った。
18:40 そこでエリヤは彼らに命じた。「バアルの預言者たちを捕らえよ。一人も逃すな。」彼らがバアルの預言者たちを捕らえると、エリヤは彼らをキション川に連れて下り、そこで彼らを殺した。

<要約>
偶像との戦い:

エリヤは、アハブに対決を挑みます。アハブは、全イスラエルの代表たちと、イゼベルの食卓に着いているバアル神の預言者四百五十人と、アシェラの預言者四百人とを招集しました。エリヤはイスラエルの全家に向かって話します。「いつまで、どっちつかずでよろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従え。もし、バアルが神であるならそれに従え」と。民は、真の神を全く捨ててしまったわけではなく、時には真の神に、ある時は偶像へと、不徹底な信仰だったのです。不徹底な信仰により神の恵はブロックされます。私たちクリスチャンも不徹底な信仰ではいけません。時には偶像と対決しなければなりません。一番、試されるのは、冠婚葬祭です。偶像はいっぱいあります。お葬式に出席することは良いと思います。しかし、焼香は礼拝行為ですから、辞退します。なぜなら、聖書によるとこれは姦淫だからです。現代のクリスチャンにとって、偶像とは、刻んだ像ばかりではありません。神以上に私たちの心を占領しているものです。神をいつも選び取っていく戦があります。神の国と神の義を第一としていく、戦いであると言えます。神を第一として、神中心の信仰にあゆみましょう。

キリストによる勝利:

エリヤは、いよいよ主の戦いに入る前に、まず祭壇を整えました。祈りの前にエリヤが整えた祭壇とは、現在では何を指すのでしょうか。悔い改めと言えます。エリヤはこの戦いは主の戦いであると知っていました。エリヤは、主が戦いに勝利してくださると確信していました。現在でも、イエス・キリストは勝利者です。聖書にある通りを信じましょう。私たちはイエス様にある限り圧倒的な勝利者だ、とロマ書に書いています。それでは、キリストの勝利にあずかり続けるためにはどうすればよいのでしょうか。そのためには、福音を繰り返し聞くことです。福音は、「目が見たことのないもの耳が聴いたことのないものそして人の心に思い浮かんだことのないもの」です。福音を繰り返し聞く必要があるのです。毎週説教で、皆さんが福音を思い起こして、もう一度、救いの恵みを得ていただきたいからです。あなたの罪が赦されていることイエス様があなたの代わりに十字架で死んで復活されたこと、そして、あなたは神の子とされ、永遠の命に与っていることです。


謙遜と信仰を喜ぶ神

2025年7月20日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<要約>
たましいの値打ちをはかられる神:

小教理に「私たちは何にも増して、神を恐れ、愛し、信頼しなければならない」とあります。神を本当に恐れているならば、罪から離れます。愛しているなら、神に従います。信頼しているなら、つぶやかないでいつも感謝します。サウル王は、神を本当に恐れていたでしょうか。否、神よりも自分を愛していたので、神に自分を明け渡し、神の命令に耳を傾けることがなかったのです。彼は神のことよりも自分の欲望を満たすために自分の記念碑を立てました。サウルの生き様は、神から離れた人生が糸の切れた凧のように混乱したものになることを表しています。サウルと比べて、ダビデはどうだったでしょうか。ダビデの人生にも失敗と罪がありました。しかし、神を恐れていました。また、何よりも彼は神を愛していました。ですから、どんな時も素直に神に従っていました。また、何よりも神を信頼していました。いつも、心から神に祈り、訴えていました。最善をなしてくださる神を信頼していました。たましいの値打ちというのは、自分の罪を認める謙遜さと信仰と言えます。私たちはダビデのように神の前で素直になり、へりくだりたいと思います。

恵みの王国の王キリスト:

イエス様ご自身を見ても人としては、貧しい幼子として最もへりくだって低くなられて地上に来られました。神の子がどうしてそこまで低くならなければならなかったのでしょうか。そして、極悪人が受ける十字架刑で殺されなければならなかったのでしょうか。それは、罪に沈むどんな人でも救うためです。罪のない神が十字架であなたが受けるべき罪の罰を完全に受けました。死んで墓に葬られましたが、復活して天に昇り父なる神の右の座に着かれました。今は、御国の王として君臨されています。その後聖霊降臨があり、最初の教会がエルサレムにできました。今から二千年前のことです。その時以来、主イエスを王とした恵みの王国は全世界に広がり続けています。その王国は教会であると言えます。この地上における神の国です。救われた罪人の集まりの中に、主イエスは王として立っておられるのです。この国は、この世の国の権威が全く及ばない国です。どんな人でも招かれています。なぜなら、主イエスはあなたの罪の代わりに十字架で死なれ、あなたが永遠のいのちを得るために復活されたからです。

<聖書>Ⅰサムエル記15章1~16、22~24節
【新改訳2017】
15:11 「わたしはサウルを王に任じたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ。」それでサムエルは怒り、夜通し【主】に向かって叫んだ。
15:12 翌朝、サムエルはサウルに会いに行こうとして早く起きた。すると、サムエルに、「サウルはカルメルに来て、もう自分のために記念碑を立てました。そして向きを変えて進んで行き、ギルガルに下りました」という知らせがあった。
15:13 サムエルはサウルのところに来た。サウルは彼に言った。「あなたが【主】に祝福されますように。私は【主】のことばを守りました。」
15:14 サムエルは言った。「では、私の耳に入るこの羊の声、私に聞こえる牛の声は、いったい何ですか。」
15:15 サウルは答えた。「アマレク人のところから連れて来ました。兵たちは、あなたの神、【主】に、いけにえを献げるために、羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。しかし、残りの物は聖絶しました。」
15:16 サムエルはサウルに言った。「やめなさい。昨夜、【主】が私に言われたことをあなたに知らせます。」サウルは彼に言った。「お話しください。」

15:22 サムエルは言った。「【主】は、全焼のささげ物やいけにえを、【主】の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
15:23 従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。あなたが【主】のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」
15:24 サウルはサムエルに言った。「私は罪を犯しました。兵たちを恐れて、彼らの声に聞き従い、【主】の命令と、あなたのことばに背いたからです。

家族危機と回復

2025年7月6日(日)主日礼拝説教ハレルヤチャペル滝沢牧師森田友明

<聖書>創世記37章1~11節
【新改訳2017】
37:1 さて、ヤコブは父の寄留の地、カナンの地に住んでいた。
37:2 これはヤコブの歴史である。ヨセフは十七歳のとき、兄たちとともに羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らとともにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを彼らの父に告げた。
37:3 イスラエルは、息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。ヨセフが年寄り子だったからである。それで彼はヨセフに、あや織りの長服を作ってやっていた。
37:4 ヨセフの兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、穏やかに話すことができなかった。
37:5 さて、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。
37:6 ヨセフは彼らに言った。「私が見たこの夢について聞いてください。
37:7 見ると、私たちは畑で束を作っていました。すると突然、私の束が起き上がり、まっすぐに立ちました。そしてなんと、兄さんたちの束が周りに来て、私の束を伏し拝んだのです。」
37:8 兄たちは彼に言った。「おまえが私たちを治める王になるというのか。私たちを支配するというのか。」彼らは、夢や彼のことばのことで、ますます彼を憎むようになった。
37:9 再びヨセフは別の夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また夢を見ました。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいました」と言った。
37:10 ヨセフが父や兄たちに話すと、父は彼を叱って言った。「いったい何なのだ、おまえの見た夢は。私や、おまえの母さん、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むというのか。」
37:11 兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心にとどめていた。

<要約>
差別、ねたみ、憎しみ、殺意:

ヨセフの夢を聞いて、兄弟たちのヨセフに対する憎しみは尋常でないレベルに上がりました。そして、「見ろ。あの夢見る者がやってくる。さあ、今こそ彼を殺しどこかの穴に投げ込んで悪い獣が食い殺したと言おう。」と言いました。そのとき長男のルベンが殺害を思いとどまらせました。そして結果的にはヨセフはエジプトへ向かう商人の一行に売り飛ばされたのです。イスラエル民族は神に選ばれた民です。しかし、アブラハム、イサク、ヤコブのそれぞれの家庭を見ると、それぞれの兄弟たちの間でいさかい、もめ事がありました。このように、家族間の争いというのは、アダムの堕落依頼、全人類を覆っています。現在、国家間も民族間も争いが絶えません。もとをただせば、兄弟同士の争いです。世界はますます、憎しみと復讐の連鎖に陥っています。昨今の世界情勢が物語っています。人間の内側にある罪に力は強く、同時に悪の力が強く働いて、世界が破壊と無秩序に向かわせられているように感じます。神の民とされたイスラエルの最初の家庭は問題がありました。それは、家族間の偏愛による差別、ねたみ、憎しみ、殺意でありました。これは、すべての人間関係の問題で、全世界に広がり個人ばかりでなく、民族、国家に及んでいます。それが私たち人間の根底にある罪です。

愛、赦し、和解、救い:

この後、ヨセフはエジプトでパロの廷臣で侍従長のポティファルに売られて、そこで、奴隷として主人に仕えるのですが、ポティファルの妻により無実なのに罪を着せられて牢獄につながれました。しかし、神が彼と共にいたので、そのような状況でも彼は祝福されて、周りの人から信用されました。ある時、パロのみた夢を解き明かして、これから世界に起ころうとしている飢饉を見事に言い当てました。それがもとで、エジプトは救われたのです。ヨセフは、エジプトの最良の土地ゴシェンの地に家族を呼んで兄たちと和解をしてイスラエルを救ったのです。ヨセフはイエス・キリストのひな型であるとされています。罪は世界に増大しています。現代社会、そして私たち一人ひとりが内に持つ罪の力による差別、ねたみ、憎しみ、殺意という悪の循環から、神はキリストにより愛、赦し、和解、救い、の循環に移してくださいます。神は、人が持つ憎しみ、殺意、に代えて、キリストにより愛と赦しと和解の福音を提供しておられるからです。